機械論

  1. 感覚や意識は神経の興奮か

       「人間は機械だ」という考え方からすれば、「刺激」と「反応」は一対一で対応するはずです。

       しかし、どうも「意識」に捉えられる心的な内容は、単純な神経の刺激ではないようなのです。例えば、脳性マヒの人が体を動かそうとすると、うまく動きません。昔は、これを「脳内で神経伝達に障害があるため」と考えていたのです。

       しかし、「動作法」というテクニックでトレーニングすると、緊張が取れて、体が思うように動かせることがあります。この場合は、普段意識できない「体のあり方」に気づくことが、体の状態を変えたのです。つまり、感覚・意識に現れない部分と、現れる部分は、相互作用しながら人間活動を支えているのです。

  2. 脳死という概念

       脳死の問題はここに関わってきます。前の例をもう一度使うと、昔は脳性マヒで固まった腕を動かすために、腱を切断してしまうような「治療」があったそうです。「脳の障害で腕が固まっている」という理論と観察に基づいて、このような乱暴な手術をしたわけです。しかし、前述のように、それは「体の使い方を教える」ことで直せたかもしれないのです。

       脳死にも同じことが言えないでしょうか。医師たちは「脳の機能が失われて元に戻らない」ということを、観察と理論から結論づけます。そこでは「脳の神経細胞の死」と「運動反応の喪失」が対応づけられています。しかし、上に見たとおり、この二つはつながらないかもしれない。脳死とは、そういう危うさの上に立った概念なのです。