生と死の連続性と科学
― 脳死をめぐって ―


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            LIFE-DEATH CONTINUITY AND SCIENCE
               ― ON BRAIN DEATH ―


◎要旨

 現在の「脳死論議」は科学・法律・宗教などの立場を切り離し、死と生の意味自体を
問わないところに最大の欠点がある。特に科学は脳死の問題を生み出した分野として〈
還元論〉(reductionism)から踏み出そうとはしない。しかし、科学の内部に〈全体論〉
( holism)への方向付けを導入することは可能である。分析哲学(analytic philoso
phie)のイベント論(event-theory)は原子的イベント(atomic event)と複合的イベ
ント( composite  event)によって、全体の統一と部分の独立を共にもつようなイベ
ントの分析が可能となることを示唆している。さらに、イベント間に成立する事象交差
的性質(  trans-event  quality)を考えることで、個体(individual)と個体との
間に「死の意味付け」がより高次の複合的イベントとして生まれることも説明できる。
このように、脳細胞・個体・社会の連続性を主張するイベント論は、科学に生と死の連
続性を導入する〈全体論〉である。こうした理論的努力が、臨床(clinical)の場で「
生と死の意味を問うこと」自体の意義を考え、宗教や哲学の果たしてきた全体論的な死
の捉え方を再評価する契機となるであろう。


1.本稿の目的

 近年臓器移植に関連して脳死を人の死と認める方向で議論がなされてきた。それと共
に医療に関わる倫理的な問題を見直してより「科学的な」解釈を進める傾向が見られる
。しかし、「死」(あるいはその対立概念としての「生」)を定義そのものから見直す
場合、科学が対象とする「死」の定義と、科学以外の分野における「死」の定義には大
きな懸隔がある。具体的に言えば、科学的な「死」の定義は、精神が局在するとされる
脳の、さらにその一部の死をヒト全体の死とする方向に拡張されつつある。それに対し
て、社会的な「死」は人間一人の個体的な死に留まらず、「人と人との関わり」を変様
させる出来事であり、また宗教的・哲学的な「死」は、生の意味を逆に問う契機となる
出来事である。この懸隔を埋め、死と生のつながりに豊かな意味を回復させる道を考え
てみたい。その際、分析哲学のイベント論を発展させることによって、生と死の関連を
論理的に分析し、科学理論の内部にも生と死の連続性という発想を導入し得る可能性を
示そうと考える。


2.脳死判定という観測行為

 そもそも「死の見直し」は医療技術の発達によって生まれた問題である。脳死には脳
のどの部分の機能が失われるかによって全脳機能喪失・大脳機能喪失・脳幹機能喪失の
三種があるが、日本では全脳(大脳・小脳・脳幹)の機能が不可逆的に停止した場合を
脳死(brain death )と呼んでいる(全脳死)。大脳機能喪失(大脳死)の場合、精神
的活動は停止するが呼吸や心臓の拍動は続く。これが「植物人間」の状態である。しか
し、全脳死や脳幹死の場合は、呼吸中枢の機能が失われて自力で呼吸することはできず、
その結果として人間は必ず死亡する。ところが、レスピレータ(人工呼吸器)の発達に
より、強制的に酸素を供給して心臓を動かし続けることができるようになったために、
全脳あるいは脳幹の機能喪失と心臓停止の間に時間的な差が生じることになった。脳死
はそこに成立する問題である。 脳死に含まれる問題は、第一に脳死状態の患者からレ
スピレータを取り外すことの是非の問題であり、第二に臓器移植を前提として脳死を人
の死と認めることの是非の問題である。社会的には、前者では過度の延命治療が家族に
心理的・経済的負担をかけることが主に問題とされるのに対し、後者では臓器摘出とい
う医師の行為の合法性が主な問題とされる。この二つの問題を切り離して考えるべきだ
との意見(註1)もあるが、ここではそれらに共通する論理的問題点を指摘したい。
 その論理的問題点とは、脳死が〈脳死判定〉という観測行為によって決定される出来
事だということである。確かに、脳死は脳の機能の不可逆的な停止であり、本質的には
「脳細胞の死」である。全脳機能喪失・大脳機能喪失・脳幹機能喪失のどれも、脳細胞
の死によってもたらされる点では変わりがない。言い換えれば、脳死は死を個体のさら
に分割された部分に限定する〈還元論〉(reductionism)であると言えよう。言うまで
もなく、これは現代科学の〈要素還元主義〉に基づく考え方である。しかし、医療の現
場で問題になるのは脳細胞の死という本質的な問題ではなく、それを脳死判定という行
為で観測することである。そこに「脳死と判定された人が脳の機能を回復する可能性は
ないか」という疑問が出てくるのである。事際、脳死が〈機能喪失〉という観点から定
義されているのは、脳細胞の死を指す〈器質死〉ではなく、脳の働きの停止を指す〈機
能死〉でなければ〈脳死判定〉の〈観測〉に不都合だからである。その理由をたどると
、結局、脳死の判定という新しい問題の解決が既存の方法に頼らざるを得ないという事
態に行き着く。例えば、1985年に厚生省の「脳死に関する研究班」がまとめた脳死
判定基準「竹内基準」によれば、「@深い昏睡状態A自発呼吸がないB瞳孔が固定C脳
幹反射がないD脳波が平坦E以上の検査結果が6時間の経過で変化しない」という6項
目が脳死判定の条件になっている。しかし、これらの項目は脳死判定が必要となる以前
から使われていた〈死の判定方法〉であって、脳自体に対する認識の深化が行われた結
果、これらの項目が新たに開発されたわけではない。そのため、脳細胞の死をより正確
に知ることができるとされる「脳血流検査」や、脳幹の死をより的確に判定できるとさ
れる「聴性脳幹反応」を独自の脳死判定基準に加えている大学も多い。
 だが、ここには一つの矛盾がある。脳細胞が確実に死んでいることを確認するために
は詳しい検査が必要になるが、外部からの表面的な観察にとどまらない検査は、瀕死の
状態にある患者自身の生命を逆に危険にさらす可能性があるからだ。〈観測によって対
象が変化してしまう困難〉、言い換えれば〈観測の限界〉は、量子力学や心理学だけで
なく、医療の現場にも存在するのである。それゆえ、緊急の判断を要求される臨床医ほ
ど、より実践的な手続きで脳死判定ができることを望むのであると言えよう。その根拠
を脳外科医の片山容一氏は「医療技術の三つの特徴」として次のようにまとめている。
(註2)「ひとつは、何かをしてあげたいという気持ちから発生したものであることで
ある。そして何かが行われるであろうという、患者や家庭あるいは仲間の期待に囲まれ
て行われるものであるということである。その結果、何かをしなければならないという
状況を生むのである。もうひとつは、あらかじめ決められている体系と原則によって行
われるときに、初めていきいきとして行われるということである。そして最後に、医療
技術は社会的な合意と要請によって促進されるということである。これらのすべてに共
通の問題は、どれも真実から正しいとは限らないということなのである。」ここに記さ
れている内容は、臨床の場に身を置く医師が、社会的な連関の中で〈観測〉をも含めた
医療行為を行なっている状況を示している。

3.死に関する〈個体論〉と〈全体論〉

 一方、法律家の多くは、脳死判定という観測の間接性を根拠に、脳死に対して慎重な
態度をとっている。臓器移植が法的に可能とする意見にしても、脳死状態の患者から臓
器を摘出するのは違法であるが、移植という医療行為のために違法性が阻却される、と
いう消極的な賛成論である。この見解は、医師からは当然の如く拒絶される。(註3)
さらに、ドナー本人が脳死状態以前に臓器提供の意志を明らかにしていない場合、家族
による臓器提供申し出の妥当性については否定的な見解が主流を占めている。これらは
個人の権利を尊重し、医療の場においても患者が医師または家族の決定に一方的に従属
することを防ごうとする態度である。これは死を「個人」の枠組に限定する〈個体論〉
(individualism)と言えるだろう。
 これに対し、生と死を連続的に捉える宗教の態度は〈全体論〉(holism)と呼ぶこと
ができる。宗教は現世における死の準備を促し、死の側から逆に照らし出す生の意味と
価値を探求してきた。そこで扱われる死は、単に個体あるいは「個体の部分」の死では
なく、個人にとっての意味と家族や社会にとっての意味を併せ持つ死である。例えば、
日本の社会には、「死者」に対して、「自分たち生者の間に成立している人間関係の中
に一定の位置づけを与えるという認識」(註4)が存在するのである。言い換えれば、
この認識は生者と死者の境界を明確には分けないことによって〈生と死の連続性〉を表
わしていると言ってもよい。これは人間が死の恐怖から逃れると同時に、生を豊かなも
のにしようとする努力から生み出された認識であろう。ところが、宗教と同じように「
生を豊かにする」はずの近代医学が生み出した生命維持装置が、皮肉なことに死の判定
をより早める原因となっているのである。別の側面から見れば「われわれを死から守っ
てくれると思っていた近代医学が、われわれの死を促進するのではないかという、新た
な恐怖を与えるようになった」(註5)と言えよう。宗教における死の位置付けと比較
すれば、死を個体または個体の部分に限定する議論は〈生と死の連続性〉を無視した議
論であると言わねばならない。
 しかし、生と死を科学的に分断しようとする医学の立場と、法律・宗教・哲学など、
その他の立場が全く相容れないわけではない。これらの立場の違いは、人間の生と死と
いう一つの問題を、異なった視野で眺めていることから生ずるものだからである。そこ
で、〈生と死の連続性〉を論理的に検討し、死に関する〈還元論〉〈個体論〉〈全体論〉
を哲学的に統一する試みが意味を持つことになる。

4−1.脳死のイベント論的批判

 現在の「脳死論議」は科学・法律・宗教などの立場を切り離し、生と死の意味自体を
問わないところに最大の欠点がある。特に科学は脳死の問題を生み出した分野として還
元論から踏み出そうとはしない。しかし、科学の内部に全体論への方向付けを導入する
ことは可能である。そのために、分析哲学の「イベント論 event-theory」に依拠し、
これまでの問題を考えてみよう。(註6)イベント論は、心身問題への論理学的アプロ
ーチや人工知能に関連して、最近とりわけ関心の高まっている分野である。その中心的
問題は「イベントを如何に確定すべきか」という議論であるが、主な立場を挙げれば、
イベントの統一を複数のイベントが関係する最も大きな枠組で捉える立場(統一論)、
イベントを構成する要素に細分化して捉える立場(分割論)、さらにこの両者を統一し
ようとする立場(原子論)に分けられる。(註7)

4−2.ディヴィドソンの統一論

 統一論の代表はデイヴィドソン(Davidson)である。(註8)デイヴィドソンは因果
関係に基づいてイベントの個別化を考える。つまり、一つのイベントは、ある原因とそ
れによって引き起こされた結果によって区切られる。言い換えれば、あるイベントを確
定しようとする場合、原因と結果が明確であれば、因果関係の枠組の中で「一つの」イ
ベントとして確定できる。(註9)例えば、「飲み水への毒の混入」が原因となって「
それを飲んだ者の死」という結果がもたらされたならば、ここに「殺害」というイベン
トが成立する。
 ただし、デイヴィドソンによると「殺害」がどの時点で起こっているのかを問うなら
ば、それは「飲み水への毒の混入」が終了した時点である。この説明は原因と結果が時
間的に近接している場合には自明のことと受け取れるが、原因と結果が時間的に離れて
いる場合は奇妙な結論をもたらす。例えば毒の混入の一ヶ月後に被害者が水を飲んで死
んだならば、「殺害」は被害者の死の一ヶ月も前に終了していることになるのである。
このような説明は記述の部分性から生ずるとデイヴィドソンは考える。即ち我々がイベ
ントについて論じる際には「原因と、原因を記述するためにわれわれが見出す特徴とを
明確に区別しなければならない」(註10)のであって、殺害を意図して飲み水に毒を
混入する行為が行なわれた時の様々な物理的条件や、その後の加害者にとって好都合で
あった状況などは、「見落とされている原因」ではなく「原因の記述から省かれている
」に過ぎないのである。従って、「殺害」が被害者の死の一ヶ月も前に終了していると
いう前述の例も、原因に関する記述を増やしてゆくことによって、より適切に感じられ
ると言える。脳死の場合には、これは死亡診断書に記す死亡時刻をどの時点にするか、
という問題となって現われる。竹内基準に示されている6項目はいずれも継続している
〈状態〉であって、心臓の停止のような〈変化〉ではない。従って、結果としての〈死
〉が起こった時刻については、判定が行なわれた時点、レスピレータが外された時点、
などの不確定性が生じる。しかし、死亡時刻が不確定であっても「殺害」は既に終了し
ているのである。
 この立場の問題点は、原因の記述が増えるほど因果的結合が弱くなる場合があること
である。デイヴィドソン自身も、原因と結果が時間的に離れるほど記述の誤りの可能性
が高くなると述べている。(註11)しかし、この問題の本質は時間的な間隔にあるの
ではなく、「全体的な原因の記述が困難なイベントがあり得る」点にあると考えるべき
である。そのようなイベントの例として、交通事故の被害者が脳死状態になり、以前に
希望していた臓器提供が行なわれた場合を考えよう。「事故が原因で全ての生命活動が
不可逆的に停止した」という記述は必ずしも加害者を納得させないであろう。なぜなら
、「事故」と「全ての生命活動の不可逆的停止(結果としての心臓死)」の間に、「脳
死判定」と「臓器摘出」が介入しているからである。「脳死判定」は「脳死」そのもの
ではなく「脳死の観測」である。もしこれが適切でないと受け取られるならば、結果に
より近い「死の原因」は「臓器摘出」であり、これがなければ被害者に回復の可能性が
あったかも知れない、と加害者は主張するだろう。そして実際、脳死判定に関する記述
を増やしていったとしても、脳細胞の死の観測には限界があり、このようなイベントは
本来「全体的な原因の記述」に近づくことを許さないのである。このような問題は「尊
厳死」にも関わってくる。全脳あるいは脳幹の細胞が死んでいる場合に医師が脳死者の
レスピレータを外す場合と、薬物を注射して末期患者を安楽死させる場合との差異は、
因果関係への介入者が主に原因と結果の間の時間間隔を変化させることにとどまるのか、
あるいは新たなイベントを成立させるのかの違いである。前者の医師には患者の死に対
する責任があるとは言えないが、後者の医師には明らかに責任がある。しかし、観測の
結果脳死状態であると判定された患者が、実は蘇生の可能性を持っていた場合には、前
者の医師にも責任が生じる。そして「臓器摘出」の場合と同じ問題が起こるのである。
これらの例から、統一論は〈還元論〉的な死や〈全体論〉的な死を説明するためには完
全でないことがわかる。

4−3.キム・ゴールドマンの分割論

 次にイベントをその構成要素に分割して捉える立場を考えよう。キム(Kim )、ゴー
ルドマン(Goldman )らに代表される立場がそれである。キムはイベントを三項から成
る順序対として考える。例えばあるイベントは[x,P,t] で表わされる。(註12)こ
こでxはイベントの担い手である客体(object)または行為者(agent )であり、Pは
xが例示する性質(property)、tはイベントの生起した時間または時間間隔である。
ゴールドマンはこれを行為のトークン(act-token )と考え、さらに行為者によって例
示される性質は静的なものである必要はなく、「自動車を持っている」とか「自動車を
買う」なども性質として扱っている。(註13)
 この立場の問題点は、複数のイベントのつながりを考える場合、各イベントを区切る
ことになる〈性質〉自体の区別が曖昧なことである。ゴールドマンによれば、ある行為
者の例示する性質は一定時間持続し、変化して次の性質に移行する。この移行を彼は生
起( generation)と呼ぶが、生起には四つの区別がある。それらは因果的な生起(Cau
sal   generation)、規則を伴う生起(Conventional  generation)、単純な(言い換
えとしての)生起(Simple  generation)、副詞的な付加としての生起(Augmentation 
 generation)の四つである。例えば、「ドナルドによるアルビンの銃撃」と「ドナルド
によるアルビンの殺人」は因果的な生起によって説明できる関係をもつ。しかし、デイ
ヴィドソンの説について検討したように、「銃撃」や「殺人」はさらに細かい因果的要
素に分割して記述することができ、性質の区切りはそれと共に明示するのが困難になる。
その一方で、イベント間の関係を生起に還元することの正当性も問題になる。なぜなら
、因果的要素の更なる分類が可能であったように、生起のより詳細な分類も可能だから
である。例えば「脳死」と「ヒトの死」は因果的生起であると同時に単純な生起でもあ
る。


4−4.ロンバードの原子論

 統一論と分割論の問題点を解決する試みは様々な立場から行なわれているが、生と死
の問題を扱うためにロンバード(Lombard )の「原子論」を検討しよう。ロンバードは
原子的イベント(atomic event)をイベントの最小単位として考える。その際、彼が着
目するのはイベントの区切りとしての「性質の変化」であるが、それはイベントの担い
手の「質空間」(quality  space)における移動として考えられる。原子的イベントは、
@イベントの最小の担い手、あるいは原子的客体、A@の担い手・客体が質空間の中を
移動することによって変化する動的な性質、Bイベントの占める最小の時間間隔、以上
の三要素から定義される。原子的客体、原子的変化、原子的時間間隔を分割論で用いた
表現に従って組み合わせた[x,φ,t]が、原子的イベントである。(註14)この着想
の利点は、因果系列によらず、質の変化により複合的イベントの分析が可能となる点で
ある。ロンバードによるとあらゆるイベントは「原子的イベント」「同時的な原子的イ
ベントが複合したイベント(同時的・非原子的イベント)(synchronic non-atomic eve
nt )」「原子的イベントまたは同時的・非原子的イベントが時間的に継続したイベン
ト(継時的イベント)( diachronic event)」に分けられる。(註15)
 まず、デイヴィドソンの統一論的立場と比較してこの立場の優れた点を考えよう。デ
イヴィドソンは、「複合的イベント」としてイベントを統一する立場はとらず、その代
わりに時間的空間的に同じ位置を占める、複数のイベントが考えられるとしている。例
えば「一個の金属球が熱せられながら回転した」場合ならば、金属という対象の「熱く
なる」という変化と、物体という対象の「回転する」という変化がそれぞれ別のイベン
トを構成するということである。(註16)この問題についてデイヴィドソンは二つの
可能性を考えている。一つは、金属球を構成する微粒子のレベルで考えると、熱は運動
と同一である可能性があるということである。もう一つは「現実に」分離されていない
物質的対象も、分離「可能」であるかもしれないということであり、デイヴィドソンは
こちらをより妥当なものと考えている。しかし、どちらの場合も前述した「原因に関す
る記述」を増やすことに通じるのであるから、これによってイベント全体の統一的なイ
ベントとしての因果関係は弱くなると言わざるを得ない。しかも、前者の場合、現象を
物質の構成単位へ還元すればするほど、不確定性が強く介入するという新たな問題が生
じてくる。
 ゆえに、デイヴィドソン自身の理論的枠組から見ても、これらのイベントの担い手は
同一であり、同時的複合イベントとして二つのイベントは統一されるべきものである。
全体としての一つのイベント(複合的イベント)から見れば、これらのイベントは「質
の差異」によって区別される部分イベント(原子的イベント)である。これをロンバー
ドによる一つの質空間における変化と重ねてみると、一般的にある複合的イベントは(
原子的)部分イベントの次のような重なりとして考えられる。

            (x,q1,t)→(x,q',t')→(x,q",t")
            (x,q2,t)
              ↓
            (x,q3,t)

(ただし x:イベントの担い手 q:xが質空間の中を移動することによって、質か
ら質へと移行する動的な性質 t:イベントの占める時間間隔)

 デイヴィドソンの考える、時間・場所を共有する複数のイベントは、このように説明
することができるであろう。これは、有機体の基本的な在り方でもある。
 次に分割論的な立場と比較してみると、分割論の場合の「性質」をロンバードは「原
子的」な性質の変化に厳密に限定して考えていると言える。(註17)しかし、継時的
なイベントと同時的なイベントの差異は単に時間性によるのでなく、継時的なイベント
には因果的な結合が伴うことが多い。従って、継時的イベントと同時的イベントの分類
自体に、ゴールドマンが生起として捉えたイベントの関係がいかに組み込まれるのかと
いう問題がそこに出てくる。

5.イベント間に成り立つ性質

 これまで述べた三つの立場の内、最初の二つの立場では「イベントの担い手が変化し
た場合」のイベントの統一が説明されていなかった。脳死の問題を考える場合には、少
なくとも細胞・器官・個体という異なった客体が重なり、しかも同時にそれらが統一さ
れて「生」あるいは「死」が区切られる事態が説明されねばならない。さらに、生と死
の連続性を論じるならば、異なった個体(一方は死者)の間に統一的な「生と死の意味
づけ」が行なわれなければならない。
 他方、ロンバードの原子論ではイベントの担い手の変化までを視野に入れることがで
きるが、因果的なイベントとその他のイベントの関係を明らかにし、デイヴィドソンの
「原因の記述」にあたるイベントの分析を行なうことはできない。(原因を突き止めよ
うとすれば、我々は別のイベントに行き着くことになる。)
 そこで、これら三つの立場を統合して考えることができるように、イベント間に成立
する「事象交差的性質」(trans-event quality)を考えよう。下図においてX1〜X
3は異なった担い手をもつイベント、C1〜C3はある部分イベントの原因、E1〜E
3はある部分イベントの結果である。「C→E」はある部分イベントの「因果的関係に
基づく」性質の変化によるまとまりである。因果的に個別化されるイベントは、ある部
分イベントの結果が継時的に連鎖する別の担い手をもつ部分イベントの原因となって系
列を作る。その系列をまとめる「C1−C2−C3」は複合的なイベントの性質である
。すなわち、複合的イベントの統一は「性質の性質」によってなされていると言える。
これが事象交差的性質である。我々はこの「性質の性質」を捉えることによって、「C
1→E3」のように、ある主体の関わる原因が異なる主体の関わる結果に結びつく関係
を見出すのである。

           X1:C1→E1
             \↓
          X2:   C2→E2
                \↓
           X3:     C3→E3

 この事象交差的性質をεとすれば、ロンバードの複合的イベントは、因果的な関係に
まで分析できる原子的イベントの事象交差的複合[x,ε,t]として表わすことができる
。このようなアプローチによって、全体の統一と部分の独立を共にもつようなイベント
の分析が可能となるであろう。例えば、生物の個体が同一性を保ちながら同時に細胞の
死を経験しているような場合、また、死者が生者の社会と関係を持ち続けるような場合
である。冒頭で述べた「〈脳細胞の死〉と〈脳死の観測〉の区別」は、原子的イベント
と事象交差的な複合的イベントの区別であると言える。そして同時に、この二つのイベ
ントは脳細胞・個体・社会という異なったレベルを通じて連続していると言えるのであ
る。


6.「全体論」としてのイベント論

 以上のような考察から、生と死の問題を扱う場合にどのような示唆が可能になるだろ
うか。まず第一に、「全体論」としてのイベント論が、科学に〈生と死の連続性〉を導
入する契機になることが考えられる。宗教が伝統的に担ってきた「死の側から生を見る
」認識が、科学においても重要な問題となるだろう。それによって、科学の主張する客
観性が相対化されることも考えられる。科学者の立場から医師の主張する客観性は、因
果関係を一面化する傾向を持つ。病む者の苦しみ、宗教的な癒し、死の豊かさは客観的
な根拠を持たない「非科学的要素」ではなく、「イベント論で捉え得る」客観性を持っ
ている。それに気づくことで、医学と宗教や哲学との一見和解不可能な対立を解消する
道が拓けるだろう。
 次に、「参加する医療」の発展が考えられる。医師から患者への一方向的な「治療操
作」ではなく、患者−医師、患者−家族、医師−家族、病院−社会という有機的なつな
がりを重視する医療が、そこでは理論的主題となり得るだろう。それは医師という専門
的職業・病院という効率主義的な機関に「癒しの場」を限定しない〈臨床の場の拡大〉
であると言える。脳死が「人間的な死」として生とのつながりを認められるのは、科学
の側からもこうした努力がなされてからであろう。


【註】

1:水越治「脳死−医学より法学への期待」.『法学セミナー』Vol.37,No.9,p.35-36
  (1992) 
2:片山容一.『古代アンデスの謎』.廣済堂,1992.p.192
3:水越治,op.cit.,p.37
4:波平恵美子「生きている死者」1992年2月3日,朝日新聞文化欄
5:河合隼雄『宗教と科学の接点』.岩波書店,1989.p.77 
6:以下の議論は拙稿「イベント論における性質の持続について」.『日本デューイ学
    会紀要』Vol.33,p.48-52 (1992) に依拠している。
7:統一論と分割論はタールバーグ(I.Thalberg)の‘Unifier・Multiplier’の分類に
  従った。(Irving Thalberg:Singling Out Actions, Their Properties and 
  Components.Journal of Philosophy 68,1971)
8:ドナルド・デイヴィドソン『行為と出来事』服部裕幸・柴田正良訳 勁草書房,1990.
9:Ibid., p.255〜
10:Ibid., p.217
11:Ibid., p.253
12:J.Kim:"Events as Property Exemplifications" in "Action Theory" D.Reidel
   Publishing,1976.
13:A.I.Goldman:A Theory of Human Action.Prentice-Hall Inc.,1970.
14:L.B.Lombard:Events.Routledge & Kegan Paul,1986.p.173
15:Ibid., p.172
16:デイヴィドソン,op.cit., p.254〜255 
17:ロンバードの本質主義的な厳密さについては森田茂行「ロムバードの事象論」
     『現代の論理学』遠藤弘・白石光男編 南窓社,1990.参照。


〈『武蔵野美術大学研究紀要』第23号・1993年〉


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