プロセス哲学の
有機体論


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1.科学と人間

 現代の自然科学において、全体論(holism)は原子論(atomism )と対立するという
意味で新しいパラダイムである。システム論が登場する以前は、原子論こそが科学的探
求の代名詞であった。デカルト以来の要素還元主義・分析主義に依拠する科学は、実在
の究極の単位を求めることで世界の諸現象を説明できると考えたのである。そこでは主
体である人間が客体である自然から独立していると考えられた。言い換えれば、人間は
自然を対象として知り得る立場にあり、その知識に従って自然を制御できる立場にある
と信じられたのである。
 確かにこのような信念は技術と結び付いて人間の活動を拡大した。しかし、現代では
この信念を動揺させる事態が次々に起こっている。まずマクロな面を見れば、自然環境
の破壊や巨大システム技術の限界が例に挙げられよう。例えば、食料増産のための灌漑
を考えてみると、当初は砂漠を灌漑し大農園を作ることによって土地は緑化されると考
えられた。しかし、無理な耕地拡大が土壌の流失と塩類の集積を招き、その結果乾燥は
より進んで緑化の努力は逆に砂漠化をもたらした。このような予期せざる環境破壊は先
進国、発展途上国の別なく進行している。(注1)また、原子力発電のように改良の速
度が早く巨大なシステムでは、技術者はいつも未知の課題を与えられている。前述した
ように「制御」の前提には「知り得る」ことが必要である。従って、有限回の計算によ
って原子炉に生じるあらゆる運転条件とその結果が予測できるとする「理論主義」(注
2)は、想定した条件(知り得る条件)を僅かでも超える事態に際して当然ながら破綻
する。あらゆる予測を超えた事態が起こり得るという、原発の事故の深刻な原因がそこ
にある。次にミクロな面を見れば、臓器移植における免疫機構の抑制の困難を例に挙げ
ることができよう。疾病が特定の原因から生じると考える「特定病因説」は要素還元主
義の医学的表現である。この立場に立つと、移植された臓器の定着率を向上させるため
には、他人の臓器を攻撃する「原因」である患者の免疫力を抑制しなければならないこ
とになる。しかし免疫抑制剤を投与された患者は感染に対する抵抗力を失い、「細菌感
染→抗菌剤投与→抵抗力低下→他の細菌に感染」という悪循環をたどって最悪の場合に
は全臓器不全に陥る。しかもこの場合には、抗菌剤の多用から生まれた耐性菌による感
染や通常なら無害な菌が免疫力の低下した患者には致命的となる「日和見感染」など、
予期し得なかった要因が介入してくるのである。
 これらの例はいずれも現代の科学技術によっては自然が制御可能でないことを示すば
かりか、「科学的な知」自体の限界を示しているのではないだろうか。それは、言い換
えれば、認識する主体である人間の主観によって自然界の秩序が与えられると考える「
主観主義」の限界である。主体・客体の構図を超える「全体」の在り方がそこでは求め
られている。

2.社会と個人

 全体論が模索されている第二の場面として「社会と個人の関わり」を考えよう。「個
人」なる概念自体が科学と同様近代合理主義の産物であるが、「個人」もまた主観主義
では解決できない困難に直面している。近代と共に、「主体」としての個人は、他者か
ら独立した自立的な存在として、威厳をもって登場した。しかし、個人の独立・自由と
相互の対立を許しながら、同時に一つの全体としての調和を維持するという近代の社会
理念は、変更を余儀なくされつつある。一方ではイデオロギーによる方向づけを持った
大きな政府が無力化し、統一よりも多様性が優先されている。また他方では個人の生活
に社会システムが介入し、社会的行為の主観的意味付けまでが侵食されている。(注3)
社会は失われた統一の可能性を個人の無限の多様性の中に探し(無限の多様性とは『エ
ントロピーの無限の増大=無秩序』の謂ではなかったか)、個人は失われた主体性をカ
タログの中に求めている。両者の活力はその死と裏腹である。これをボードリャールは
「ちょうど国家が遅延された社会を、革命政党が遅延された革命を食って生きるように。
あれもこれも死を食って生きている。(注4)」と表現した。

3.心と身体

 「全体」を考える第三の場面は心身問題である。我々はこれを主体・客体の構図その
ものに関わる問題と呼んでもよいだろう。現代の哲学的な心身問題は分析哲学の「心的
な出来事と身体的な(物理的な)出来事は同一か」という議論に収斂している観がある。
しかし切実な問題はそれ以前の極めて「近代的」なパラダイムに支配された分野から生
じてきた。例えば、医学においては痛みと神経の興奮が同一であるということは、既に
前提となっている。だが、脳死判定の問題はこの前提について改めて論争を引き起こし
たのである。脳死をヒトの死とする場合には、少なくとも次の前提を承認しなければな
らない。
@「脳=精神が身体を支配する」(=「人間の生の本質は脳に局在する」)
A「心的活動は物理的原因に還元できる」
B「医師が脳の死を観察によって判定できる」(=「身体的な物理現象は客観的に観測
  可能である」)
 @は主観主義を推し進めれば当然行き着く結論である。しかし、身体から精神への働
きかけが精神による身体の支配と同様に基本的なものであることが、身体の柔軟な可能
性を探る人々の手で明らかにされつつある。(注5)
 Aは医学では「記憶の原因物質を発見する試み」などに端的に現われている立場であ
る。これは精神を複合的作用の生み出すものと見る立場と対立するが、仮にAの立場を
認めたとしてもBとAの間には飛躍がある。それは患者と医師の間に「観察」が介入す
ることである。少なくとも自分に関しては「確かに知り得る(注6)」という西欧近代
合理主義の信念は、裏返せば「他の主体に関しては根本的には十全に知り得ない」とい
うことでもあった。厳しい条件に制約された観測を過大に信頼することで、この立場は
自らが基盤とする主体・客体の構図と矛盾を起こしているのではないだろうか。

4.ホワイトヘッド哲学の基本概念

 前述した三つの場面は、いずれも「部分に注意すれば全体を知り得るし、全体の安定
が可能である」という近代合理主義の信念が揺らいでいる現場である。「知り得る」こ
とに対する謙虚さという点で言えば、既にハイゼンベルグが次のように述べていた。
 「自然科学はもはや観察者として自然に立ち向かうのではなく、人間と自然の相互作
用の一部であることを認める。分離説明そして整理という科学的方法は、方法が対象を
つかむことによって対象を変化させ、変形するということ、それゆえ方法はもはや対象
から離れえないということによって課せられるその限界を知るに至る。したがって自然
科学的世界像は真に自然科学的なものではなくなるのである。」(注7)
 しかし、ハイゼンベルグと同時代の科学的前提から出発しながら、科学のパラダイム
を超える思想を構築したところにホワイトヘッド哲学の意義がある。ホワイトヘッドは
自身の哲学を「有機体の哲学」と呼び、更に後世の研究者は彼の思想を「プロセス思想」
と呼んでいる。(注8)以下、「全体観の回復」がホワイトヘッドにおいて如何に試み
られているか、簡単に述べよう。もっとも「簡単に述べる」とは言っても、ホワイトヘ
ッドの思想は簡単ではない。そこで、彼の形而上学体系は概観するに留め、彼の思想的
影響に重点を置いて話を進めたい。
 ホワイトヘッドの哲学が難解なのは、何といっても独自の用語のためである。主な用
語をまず説明しなければならない。
・現実的実質(actual entity): ホワイトヘッド哲学の中心概念。“the final real
 things of which the world is made up” と位置付けられている。(注9)世界の全
 ての存在の根拠は現実的実質である。物質も、我々の意識も現実的実質から成っている。
 現実的実質は相互依存的であり、他の現実的実質との間で互いを反映し合い、互いを
 含み合っている。
・抱握(prehension):一つの現実的実質が生まれ、確定する上で、その現実的実質に
とっての所与(感じ=feeling )を統一体へと統合する活動性。一つの現実的実質を成
り立たせ、更にそれが次の現実的実質へと受け継がれる媒体となる。
・永遠的客体(eternal object):純粋な潜勢態であり、現実的実質の限定性は、この
永遠的客体が現実的実質に実現され、例示されたものである。
・過程(process ):次の二つが「過程」と呼ばれる。
@合生(concrescense):主体がその目的(subjective aim)に向かって個々の所与(
感じ=feeling )を一つの統一体へ統合していく過程。
A移行(transition):ある現実的実質が後続する現実的実質に取って替わられる過程
。「客体化(objectification )の過程」とも呼ばれる。
 これらの基本概念を用いてホワイトヘッドの哲学が語られるのだが、全体論との関係
からまず注目しなければならないのは、主体と客体の相対性である。一つの現実的実質
は主体として所与の諸「感じ=feeling 」を取り込むが、それらが統合され、合生の過
程が終わって現実的実質が完結すると、直ちにその現実的実質は他の現実的実質の所与
として客体化される。新しく生まれた現実的実質は過去の現実的実質の自己超越体(
superject )である。現実的実質はこうした移行を経て数珠つなぎになった生成消滅の
歴史を持つのである。このようにして、物質も我々の意識も、世界を構成するものは全
て決して完結していないものとして自らを超え出ていく。「生成(becoming)」に基づく、
主観主義とは異なった原理がそこにある。
 勿論、ホワイトヘッドも「主体・客体」という用語を使用する時には、これを経験の
基本的な構造を形成するものとして捉えている。しかし、その場合の「主体・客体」は、
近代合理主義の「認識するもの・認識されるもの」を意味しているのではない。なぜなら、
ホワイトヘッドの思想では、経験は我々の知が捉え得る領域よりもはるかに大きな広が
りをもっているからである。
 「我々は、我々が分析できる以上に経験している。…というのは、我々は宇宙(the
 universe)を経験するが、その細部の微小な部分を選んで我々の意識の中で分析するか
らである。」(注10)
 このように、ホワイトヘッドの考える経験は、宇宙の中で様々な存在が相互に持つ有
機的諸関係に基づいている。我々の認識は意識的な経験であり、高度に抽象化されたも
のである。ホワイトヘッドは意識的な経験と無意識的な経験を区別して「経験の契機」
としての現実的実質を考え、現実的実質のレベルでの経験に相対的な主体・客体の構造
を導入したのである。(注11)

5.有機体論

 現実的実質は集まって有機体(organism)を組織する。現実的実質の集まりを結合体
(nexus )と呼ぶが、有機体は秩序を伴う結合体である「社会(society )」によって
成り立っている。現実的実質が客体化の連鎖によって数珠つなぎになる場合、その連鎖
を通じて継承されてゆく複合的な永遠的客体がある。この永遠的客体は社会にとっての
限定的性格(defining characteristic )であり、これによって秩序づけられた結合体
が「社会」なのである。更に、有機体は「構造化された社会(structured society)」
である。構造化された社会は「生きている社会(living society)」とも呼ばれる。構
造化された社会は従属する下位的な社会を構成要素として持ち、その全体は下位的な社
会との間に内的構造関係を持つ。このような社会では全体と部分が統一され、しかも全
体を部分に還元することもできなければ、部分を全体に解消することもできない。これ
に対して「特殊化されている社会(specialized society )」がある。「特殊化されて
いる社会」は、その安定性を支えている環境の性格が重大な変更を起こすと、存続でき
なくなる社会である。
 以上の定義から考えると、生物は全て高度の有機体である。そればかりではなく、全
体と部分が相互に還元不可能でありながら、全体としての統一が保たれているような自
然のシステムは、全て有機体である。ここにはシステム哲学で扱われる概念との構造的
類似性も認められる。「全体・秩序・非還元性」の根拠は現実的実質に、「自己安定性
・自己組織性」は抱握に、「重箱型階層性」は結合体の社会に、それぞれ対応すると見
ることができる。(注12)そこから、ホワイトヘッドの有機体論に基づいた社会シス
テム論的な目標も見出されるであろう。それは即ち、我々は「高度の複合性をもって構
造化されていると同時に特殊化されていない社会」(注13)を求めなければならない
ということである。つまり、人間を下位システムとする協働システムのあるべき姿を、
「生きている社会」のシステムに即して理解することができるわけである。(注14)
かくして、システムの巨大化に伴う人間と科学の間の軋轢・技術社会と個人の間の軋轢は、
有機体論を方法論として取り入れる方向に向かうであろう。また、ホワイトヘッドの有
機体論の論理的な構造に着目すれば、出来事(event )としての心身問題を扱う分析哲
学の議論にも新しい視点を導入することができる。例えば有機体の死を出来事とプロセ
スの両面から検討することで、生命倫理に寄与することも考えられよう。(注15)

6.学問の全体性

 ホワイトヘッドの哲学は確かに難解であるが、ホワイトヘッドの哲学を研究すること
の意味は難解な形而上学体系を理解することのみにあるのではない。むしろホワイトヘ
ッドの思想が持つ文化哲学的側面が浮かび上がることに現代的な意義があるだろう。
 例えば、『観念の冒険』の中で、ホワイトヘッドがベンサム・コントの思想を「形而
上学の放棄」と性格づけて論じている部分を検討してみよう。(注16)ホワイトヘッ
ドによると、ベンサムの「功利主義の原理」とコントの「実証主義」は理論としての力
よりも現実に働く原則として世界を支配した。そして彼らの思想の特質は「ストア的な
形而上学説の拒否」「ストア派の知的な壮大さの欠如」である。これは科学におけるニ
ュートンの業績と対応する。ニュートンは観測可能な経験的世界から神を追放し、その
結果科学者にとって観測された現象についての宗教的な意味づけを気にする必要はなく
なった。ホワイトヘッドはこれを「形而上学に対する科学の反逆」と呼ぶ。
 ベンサムとコントの思想は、ニュートンと同じ試みを道徳や政治の理論へ拡大するも
のだった。彼らは形而上学に頼らず、人類共通の道徳や政治の理念を構築しようとした。
しかし、ホワイトヘッドによればニュートンの場合の「運動法則」に当たるものを彼ら
は持たなかったのである。それは、社会を統一し、秩序づける原理が「情緒」だからで
ある。なぜなら、物理法則は対象と観察者との間で何回実験を行なっても変わらないも
のであるが、「情緒」を法則づけるために観察者が対象としての「人間」に接する場合、
「接する」という行為そのものによって観察者と相手との間には新しい関係が生じてし
まうからである。従って、「情緒」が元来、プラトン哲学的な「正義」や「節制」、ま
たキリスト教的な「愛」の形で一般化され、普遍的なものと教えられてきたことには、
「情緒」の法則化が困難であるという正当な理由があったと言える。ところが、ベンサ
ムとコントは哲学と宗教が伝統的にもっていた形而上学を否定してしまい、それと共に
「情緒の法則化」の根拠も失われた。
 では、近代合理主義という共通の土台の上で科学はいかなる役割を果たしたか。ホワ
イトヘッドによれば、ベンサムの「最大多数の最大幸福」というスローガンには、「幸福」
を数量化して考える特徴が現われている。まさにこの特徴によって様々な経済的・政治
的改革が実行可能になったと言えるが、同時に、まさにこの点で科学と人間的情緒とは
決定的に分裂しなければならなかったのである。科学の確実性が一度信念となると、「
進化論」が経済や政治でも力を得た。近代経済学もマルクス主義も、人間と人間社会の
「進化」を疑わなかった。しかし同時に、進化論は自然淘汰を経済・政治にも要求する。
それが「人類選別の崇拝」となり「劣等者の人道的絶滅」になる、とホワイトヘッドは
述べる。実際、自然淘汰のアナロジーである現代の「競争社会」では、優れたものが劣
ったものを支配するのは「科学的真理」であって、道徳的問題ではないと考えられる。
また、病気や障害は克服されるべきものとしての観点から捉えられ、遺伝子を操作して
「将来の子孫」を「健康」にしようとしたり、受精後間もない段階で胎児の遺伝子異常
を予測し、妊娠中絶によって「劣った生命」を抹殺することも現実の問題になっている。
こうした結果がベンサム・コントによる「根源的な宇宙論の原理(形而上学)の欠如」
から出てくるとホワイトヘッドは予言していると言えよう。現在の学問は、どの分野に
おいてもこうした問題と格闘しているのが現状である。(注17)「エコノミーからエ
コロジーへ」という「環境倫理」の模索などは、ホワイトヘッド的な発想の延長線上に
あるのである。
 以上のような批判からすると、ホワイトヘッドが形而上学を重視したのは、細分化さ
れてゆく学問に、共通の新しい原理を供給するためであると考えられる。その新しい原
理とは前述した通り「生成」を中心に置くということであった。科学と宗教は今日では
相容れないものとして考えられることが多いが、ホワイトヘッドの思想にはそれらを次
のように統一的に捉える幅の広さがある。
 「ホワイトヘッドの『科学と近代世界』は、相対性理論と量子論がポスト近代科学の
黎明を告げるものであることを示している。ホワイトヘッドの形而上学の基本的な考え
方のおおくのものが、この二つの領域からとられている事は注目に値する。たとえば、
相対性原理はホワイトヘッドの主著『過程と実在』の基本原理である。…要するに、古
典物理学の「物的実体」と不変の枠組としての時間と空間とを、生成する諸々の出来事
の相互関係の網目のなかに解体したあとで物理学の基本概念を再構成するときの基本原
理を、ホワイトヘッドは相対性原理と呼んだのである。これは、「生成」を「存在」の
現実態とするというかたちに形而上学的に一般化された。それゆえに、ホワイトヘッドは、
たとえば宗教について語る時でも、生成の過程にある宗教を第一義的なものとし、既成
宗教を派生的なものとして扱うことができたのである。」(注18)
 このような「生成」を第一義とする形而上学的一般化は、科学と宗教その他の人文諸
科学との間の断絶を埋めるだけではなく、キリスト教と仏教・東洋と西洋の文化的枠組
を超える交流の試み(言わば宗教を超えたエキュメニカル)を支える思想的基盤ともな
っている。

7.結語

 ホワイトヘッドの哲学は以上に述べたような可能性を内に持つものでありながら、そ
の意義が広く理解されているとは言えない。市井三郎氏は「ホワイトヘッド思想の重要
性が西欧において充分に認識されてこなかった原因」として次の三点を挙げている。(
注19)
(1)ドイツ哲学の十九世紀的伝統を固執する哲学者たちが、カント哲学は理性主義と
経験論との綜合を達成した、という定説をいぜんとして受け容れ、イギリス経験論がす
でに克服されてしまったように独断する傾きがあること。
(2)一九三〇年代から次第にアングロ・サクソンの哲学界に勢力をもつにいたった論
理実証主義学派が、カント哲学の真の克服は、自分たちの立場において初めて達成され
たと信じていて、ホワイトヘッドの論理学的思想の一部にしか注意を向けていないこと。
(3)ホワイトヘッドの科学哲学的「三部作」において、「意味づけ」理論を中心とす
るいわば止揚された経験論が、整合にまとまった形で述べられていず、多少の矛盾まで
見せながら「三部作」の方々に散在している上に、その著作『象徴作用』が薄っぺらな
小冊子にすぎず、大著『過程と実在』に展開された彼の形而上学の方に、ひとびとの注
意力を引きつけてしまったこと。
 市井氏の見解に我々が哲学研究者として如何に答えるかは、ホワイトヘッドに関わり
を持たずとも、時代の状況の中で哲学する人間としてのそれぞれの課題となろう。しかし、
それでもなお、世界の全体像が見失われている今こそが、ホワイトヘッドの思想を正当
に評価すべき時であることは確かである。

【注】
〈略号〉
AI :A.N.Whitehead:Advectures of Ideas.The Free Press,1967.
MT :A.N.Whitehead:Modes of Thought.The Free Press,1968.
PR  :A.N.Whitehead:Process and Reality,corrected edition.The Free
       Press,1967.
注1:石弘之『地球環境報告』 岩波新書 P.116〜139
注2:田中三彦『原発はなぜ危険か』岩波新書 P.60〜72
注3:この問題は第十四回全国若手哲学研究者ゼミナールのシンポジウム「歴史と生活
世界」で論じられた。詳しくは『哲学の探求』1986年度版所収の二論文・豊泉周治
「現代社会の危機と生活世界」・加藤泰史「ハーバマスのコミュニケーション理論と現
代日本の『社会史』研究」を参照。
注4:ジャン・ボードリャール『象徴交換と死』今村仁司・塚原史訳 筑摩書房 P.
302
注5:障害児の身体の不当緊張を取り除く『動作法』によって精神面に改善が現われる
ことが例として挙げられる。この問題については筑波大学大学院OB有志のワークショ
ップから多大な示唆を受けた。参考文献:成瀬悟策編著『障害児のための動作法』東京
書籍など。
注6:例えばローティの用語で言えば“indubitably knowable”。 R.Rorty:Philosophy
 and the Mirror of Nature. Princeton University Press.1979 参照。
注7:ハイゼンベルグ『現代物理学の自然像』尾崎辰之助訳 みすず書房 P.23
注8:筆者が理事を引き受けている『日本ホワイトヘッド・プロセス学会』は設立13
年になるが、この学会の命名にもシステム論などの有機体論とプロセス神学など生成を
根本に据える考え方とが表現されている。
注9:PR.P.18
注10:MT.P.121
注11:AI.P.225〜226
注12:伊藤重行『出来事・有機体・現実的実質とシステム』−日本ホワイトヘッド・
プロセス学会誌『プロセス思想』1号 P.63
注13:PR.P.101
注14:村田晴夫『管理の哲学』文真堂 P.198
注15:分析哲学のイベント論では、事象の統一を諸事象の関係の最も大きな枠組で捉
える立場と事象を構成する要素に細分化して捉える立場がある。日常的な因果関係の枠
組の中で事象とその細かな構成要素の物理的諸条件までを一律に捉えることには無理が
ある。同時に、ある事象は、それより下位の要素に分けると性格の変わってしまう統一
であるとも言える。しかし、二つの立場をホワイトヘッドのイベント論の立場から統一
できる可能性がある。詳しくは拙稿『ホワイトヘッドのイベント論』(『哲学世界』1
4号所収)参照。
注16:AI.P.36〜
注17:システム論内部においても合理性とニヒリズムの両義牲が問題になる。詳しく
は鞠子英雄『システムと認識』海鳴社 P.122〜参照。
注18:田中裕『西田・ホワイトヘッド・ポスト近代科学』−『プロセス思想』2号 
P.78
注19:市井三郎『ホワイトヘッドの哲学』第三文明社 P.96〜97

〈『哲学の探求』1991年・シンポジウム報告〉


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