本レポートでは、郷土を料理する事を郷土料理といいます。・・・定義
(Why? ヒントは宮沢賢治の童話にあり)
”住めば都”と言えり。
はて、わがまちは、我が都なりや?
いったい”都”とは?
心底、心のよりどころとなるような、自分をリフレッシュし、活力を与えてくれる何かが有るか。
ちなみに、「神道集」に書かれている武蔵六社宮とは、
発掘後復元住居が作られて保存されていたが、戦時中に荒廃滅失してしまったと言う。
現在の敷石跡は昭和43年に国の補助金により改修されたものである。
材料の美味しそうなところを見つけるために(但し、あればの話)もう少し縦から
横から見直してみました。
一/二回目で選んだ「食材」について更に吟味を加え、また今の状況を私の感じたところで触れてみました。
さて、”料理”の構想を練るに当たって、この食材がいったいどのように使えるのかを調べるために、
今まで調べた内容を元にいくつかの視点から切ってみることが必要です。
その視点として次の6つの物差しを考えました。
この物差しに照らしてみると、ここに取り上げた材料は1. 2. 3.あたりまでは何とか及第点を与えられそうですが、4. 5. 6.になるとだんだん心細くなってきます。
それは何故なのか、どうすれば未来に向けて地域のアイデンティティーとすることができるのか。
どうやら、このあたりが目指す多摩料理の核になりそうです。
武士に着目したのは、前回までのところで、神社、仏閣をはじめその他様々な歴史上の
「食材」は時の権力としっかり結び付いてその影響の下にあり、特に近世は武士社会の盛衰と切り
離せないものでることが分かったからです。
2.この地(秋留台地一帯)が肥沃で、農業や牧畜に適しておりこれが近世の主たる産業であったこと。
3.その裏返しとして、商業が根付かず従って有力な商家が育たない環境にあり、地域文化発展の核が
できなかったこと。
4.近年の人口増加は主に他地域からの転入によるので、地域への帰属意識が希薄で新たな文化的活力に
なり得ていないこと。
5.市制後も政策者に本物の文化的マインドが乏しく一点豪華主義的投資しか行ってこなかったこと。
の5点が要因として挙げられます。
江戸時代ここは(秋留台地)は天領であり、旗本の所領となっていたことです。
しかもただ旗本の所領であっただけではなく、ひとつの地域がモザイク的に分割されて領地と
なっていたことです。
そのため、隣同士の農民が別々の領主に年貢を治めるといったことになり、農民同士の
連帯意識は喪失してしまったわけです。
それでなくとも旗本は領地に居を構えないので領地への愛着が無いに等しく、その土地の
発展には何の顧慮も払わなかったものが、小分割されたことがそれに輪をかけ地域共同体
意識を窒息させたというわけです。
翻って、中世から戦国時代までのこの地は、武蔵七党の西党一族が住み着いており農耕牧畜を行いながら
地域を発展させてきました。今日「食材」として残っているものはほとんどその当時に創られ、
地域文化の核としてその役割を果たしてきたものです。
大石氏、野辺氏、二宮氏が従っていた北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされたのを最後に、この土地に残された
文化遺産を受け継ぐ者は無く、以後前述の理由によって衰退の一途となり、そのかけらがわずかに
今日まで生き残ったということです。
2.農耕専門の土地であったため、−−−
全て農民であり、封建性において収奪の主たる対象であったため一般に経済的に貧しく、
かつ農事に一日の時間をとられるため、わずかに春秋の農閑期にささやかな祭を敢行して
きたに過ぎず、とても文化の継承・発展を担えない存在であったということです。
3.有力な商家が育たなかったので、−−−
封建社会で唯一経済的に独立でき、時間的にも自由度の高い身分であった商人は、特に
江戸時代には社会の経済文化の担い手としてその意識と市民的モラルが高く、地域文化の
継承発展に大きな役割を果たしてきました。
その存在が無かったことも地域文化停滞の大きな要因と言わなければなりません。
4.転入者の増加が文化的活力になり得ていないのは、−−−
ベッドタウン化している地域では、共通の現象と思われますが、それでもなお、朱に交われば紅くなる
の喩えの通り、もしその土地に多少とも地域文化の匂いがあれば、新規参入者もしだいに
染まるものです。
新規参入者が核となって町輿しをするのは並み大抵のことでは無く、何等かのインフラ
が必要であり、その点でも300年近く封建性の弊害を受けたこの土地の不運は影響が大き
いということになります。
5.市制後も改善の足跡がみられないのは、−−−
様々な困難さがあるとは言え、地道な施策はされてこなかったことがはっきりしています。
申し訳程度のスペースしかない二宮考古館があるのみで、キララホールのような一点豪華
(しかしながらこれも中途半端なサイズなため、スケールメリットに失しとても地域の核とし
ては活用できていない)なことは行っても、史跡は年々荒んでいくありさまです。
つい最近でも、あきる野市役所の目の前にある大塚古墳のとなりの土地に商業ビルらしきものが
建設中で、既にある同様のビルとに挟まれ大塚古墳は見る陰も無いありさまとなっています。
本来、その周辺は風致地区並みの取扱いによって景観を保存しなければならないものを、
いとも簡単に、というよりは何のこだわりも無く史跡を放棄しているわけです。
市役所の目の前ですらこの有様ですから、その他の場所については推して知るべしであります。
これらを踏まえ、「多摩郷土料理」のレシピを考えねばなりませんが、これには相当工夫が必要のようです。
しかしながら、このような状況にある地域は、恐らく全国と言わず関東には数々あるのでは思われ、
その活性化処方の切り口のそのまたヒントにでもなるものができれば合格点のつもりでトライします。