多摩づくりレポート

「注文の多い郷土料理店」

 多摩地域を考えるまえに、”自分の住むまち”を知る事が大切です。これは、”たまでっかい”の基本コンセプトでもあります。 しかし、そのあとどのように考え料理するかはもっと大切です。有志各位が郷土料理にトライしてみました。あなたも、自分のまちの料理を!

 本レポートでは、郷土を料理する事を郷土料理といいます。・・・定義
        (Why? ヒントは宮沢賢治の童話にあり)


  ・わがまちのアイデンティティは?・・・
    ・過去から受信
     ・磨いて、つないで
      ・未来に発信!

”住めば都”と言えり。
はて、わがまちは、我が都なりや?
いったい”都”とは?
心底、心のよりどころとなるような、自分をリフレッシュし、活力を与えてくれる何かが有るか。

あきる野市の料理 : by シェフ福井


”あきる野市”

第一回(8月):先ず、自分の家の周りで手頃な料理の材料探しから

          −半径500mの中から見つけられればベスト
          −図書館の郷土資料をあたるのも手です

第二回(9月):集めた材料を良く眺めて栄養内容を分析します

          −何をどのくらい見つけられるかがカギ
          −ヒト、モノ、文物、くらし、知恵の五大栄養素のチェック

第三回(2月):材料の吟味

          −構想力&創造力をフル動員

第四回(5月):材料の吟味−その2

          −歴史的な背景に迫ります

第五回(6月):おもむろに、調理の開始

          −焼く、煮る、蒸す、そして発酵が決め手

第六回(7月):自ら試食

          −風味、味付け、は? 生煮えは少し手直し

第七回(8月):いよいよ、本論へ

             (目出度く、出店完了!といきますやら)

     多摩の問題
     多摩の再興
     多摩の役割
     多摩の使命
         が見えてくれば大成功。

キャッチフレーズ:多摩にタマしいを!!


第一/二回:料理の材料探しと栄養分析( 8月、9月):2月見直し済み

1.前田耕地遺跡

昭和51年(1976)から6年間かけて発掘調査が行われた。先土器時代(縄文草創期)の住居跡、一万年前の尖頭器の製作跡を始めとして縄文中後期、弥生後期、平安後期の住居あと等多数の遺構遺跡が発見された。
先土器時代の住居跡は、平地の遺跡としては当時初めての発見で新聞記事にもなった。(s57.10.27:朝日・読売・東京)
      *住宅都市整備公団の団地建設に伴う事前発掘調査
このように、歴史上継続して遺構が発見されていると言うことは、この土地が人間の生活に適した所であったことを示唆している。

@現在私が住んでいる場所は正にここであり、綿々とその歴史が私の生活につながっているわけで、思わず辺りを見渡してしまう。
ここで発掘された遺物は、現在二宮神社境内の二宮考古館に保存されている。

2.大塚古墳(あきる野市雨間232番地)

都の跡地(大正15年:1926年5月指定)
塚の周りに狐の穴が多かったので、稲荷様を作った、別名王塚古墳:高さ8メートル、周囲130メートル
古墳時代後期のものと言われ、現在円墳の形をしているが、建造当時は方墳であったと推察されている。
同じ時代のものとして瀬戸岡古墳群や草花台地古墳があるが、大塚古墳はそれらと比較にならないほど大きな規模と言われる。 また周囲が畑で台地に築造されたものとして重要なもの。
秋留台地のほぼ中央に位置している。
ただし、古墳である事をはっきり証明するような遺物が発見されていないことから古墳ではないと言う説もあり、物見台、狼煙台ではないかととも言われる。
この台地は奈良時代末期には官牧(馬)で「小川牧)」と呼ばれ、10世紀中頃に可着した武蔵七党はこれと関係が深くその活躍の基礎としていたと言われている。

@現在は大塚公園としてかろうじて荒廃から逃れているが、周囲は民家が取りまき周囲の道路kらは認知困難である。

3.二宮神社(あきる野市二宮2252)

       
建立年代は明らかではないが、社伝に日本武尊が東征の折り、現在祭神となっている「国常立尊」を祭ったとあり、また藤原秀郷が平将門追討のおり戦勝祈願したとある。
さらに、僧良弁が書いた「私案抄」に小河の大明神は当国六国随一の記載があり、安居院(あぐいん)の「神道集」に二宮をば小河大明神と申すとあって、 明治から戦前にかけてこの地域随一の社格の郷社と言われる。
「吾妻鏡」(1181年)の頃には多摩市一宮に始まる武蔵六所の宮が始まり、その二宮として現在の二宮神社が小河大明神としておかれた。
(武蔵の総社は大国魂神社/府中、例祭は9月9日(しょうが祭))

@さて、現在の状況と言えば神主は常駐せず、正月の初詣や例祭等の時にだけ氏子が集まって神社の体保っているに過ぎず、境内はあまり手入れ行き届かないとめとても 歴史上重要な役割を果たしてきた神社とは思われない。
この神社の立地を見ると、なるほど地域の然るべき地の利を考えていることが分かる。

この二宮地区は、秋川と平井川に挟まれた秋留台地の中で最も高く地形的に7段からなる河岸段丘面であること秋留原面の東端の秋川が多摩川に流れ込もうとする位置にある。
秋川は三頭山(みとうさん:1527m)を源流とする南秋川を中心にして、 月夜見山に発する北秋川、そして養沢川、盆堀川等が合流してできた多摩川の支流の中では 最も大きな支流であり、平井川は日の出山(902m)に源流を持ち多摩川に合流している。
そして、二宮神社はその東端の最も見晴らしの良い位置につくられていた、 なるほど他の神社に比べて軍事的に要衝の地に置かれていることが分かる。

 ちなみに、「神道集」に書かれている武蔵六社宮とは、

  • 府中六社宮=大国魂神社(武蔵国総社)   
  •   一の宮=小野大明神(多摩市一の宮)   
  •   二の宮=小河大明神(あきる野二の宮)   
  •   三の宮=氷川大明神(大宮市氷川神社)   
  •   四の宮=秩父大菩薩(秩父市秩父神社)   
  •   五の宮=金 大明神(児玉郡神川村二宮金神社)   
  •   六の宮=椙山大明神(横浜市港北区椙山神社)

 さて、この二宮神社がなぜ当時の面影を残さず貧相な境内なのか?

4.二宮城祉

「吾妻鏡」「太平記」(南北朝時代)に武蔵七党系図の内、西党の一族にこの二宮に土着した二宮氏の名前がある(二宮左衛門太郎)。
昭和57年教育委員会によって発掘調査され、柱穴の列や陶器片が発見され中世の居館跡が確認された現在の地名:大屋敷が二宮城祉と推定されているが、今は一般の家が建てられてしまっている。

5.西秋留石器時代住居跡(あきる野市牛沼265)

昭和7年(1932)発掘され、昭和8年に国の史跡に指定された。
秋川河岸段丘の崖際にあり、8個の住居跡が発見された。
敷石住居跡が数カ所に丸く敷き詰めてある例は当時関東地方には珍しく群居跡と考えられていた。
遺跡の様子が変化に富み昭和初期の日本考古学史に残る発掘の一つとされる。
炉跡と考えられる所から磨製石剣や土製の漁具用錘や土器が出土され、縄文中期後半の頃のものと思われている。

発掘後復元住居が作られて保存されていたが、戦時中に荒廃滅失してしまったと言う。
現在の敷石跡は昭和43年に国の補助金により改修されたものである。

@が、いま訪れてみると、案内板も古ぼけ、錆だらけの金網に囲まれている史跡はまるで火事になった家を取り除いた跡のようである。
いったい誰が管理しているのか、と声がでそうである。

6.舞知川(もうちがわ)

段丘崖の下にある沢山の湧水を集めた川。
普門寺付近から流れ出た藍染川と野辺の八雲神社から流れ出た細川が前田小学校付近で合流し、舞知川となって秋川に流れ込んでいる。
元は多摩川に流れ込んでいたものが、流路を変えられたという事である。

7.秋川の河岸段丘

段丘崖の下2、3メートルのところに沢山の湧水池をもたらしている。
そこから流れ出た水は現在も住宅の間を川となって流れ景観を作り出している。
また、伏流水は浅い井戸をもたらしていて水利が得やすい環境のため、古くから集落の発生を促している。
(大部分、地下5、6mより浅く、10mを越すものはほとんど無い)

8.法林寺(あきる野市小川899)

臨済宗南禅寺派神応山、本尊:正観世音菩薩
開山、開基派不明。912年(平安時代)に再興。更に1394年(室町時代)に大江道廣を開基として円融禅師によって開山、再興された。
本尊は聖観世音菩薩、寺格は廣園寺(八王子市山田)の末寺
寺の北側に総門と土塁、そして水堀の跡があり、南側は秋川に落ちる崖となっていることから、武士の居館(城)であったと推測されている。
寺というものの歴史的な性格の一面を窺い知ることができるように思われる。
門前の赤松は市の天然記念物に指定。
鎌倉八幡宮より遷座された木造達磨大師座像と木造円融禅師座像がある。

9.玉泉寺あきる野市二宮2265)

天台宗延暦寺派 鷲峰山不動院、本尊:阿弥陀如来
1641年(江戸時代:寛永18年) 上野寛永寺衆徒吉禅院が開基。
東秋留小学校の前身である二宮小学校として明治6年から24年まで開校。文字通り寺子屋だったわけで、これも寺の社会的一面を思わせる。
本尊の他に成田不動より遷座した木造不動明王座像がある。

 以上、私の”城”の周辺にある様々な「食材」の中から郷土料理に使えそうなものをピックアップしてみました。 次回、これを使ってどんな「郷土料理」を作るか考えていきます。お楽しみに!


第三回:材料の吟味(2月)

 今回は、何料理をつくるか、かくし味は、の吟味です。

材料の美味しそうなところを見つけるために(但し、あればの話)もう少し縦から 横から見直してみました。
 一/二回目で選んだ「食材」について更に吟味を加え、また今の状況を私の感じたところで触れてみました。
さて、”料理”の構想を練るに当たって、この食材がいったいどのように使えるのかを調べるために、 今まで調べた内容を元にいくつかの視点から切ってみることが必要です。
その視点として次の6つの物差しを考えました。

  1. 年輪度(単純に、古さの程度)
  2. 歴史力(歴史の中で及ぼした社会的影響力)
  3. 形成力(地域のシンボルとして、地縁的な環境づくりに力があったか)
  4. 現在力(今の実力はどうか、形成力を維持しているか)
  5. 保存性(手入れ良く保存され、磨かれて今も当時を語っているか)
  6. 未来力(未来に向けて、形成力を発揮することができるか)

 この物差しに照らしてみると、ここに取り上げた材料は1. 2. 3.あたりまでは何とか及第点を与えられそうですが、4. 5. 6.になるとだんだん心細くなってきます。

 それは何故なのか、どうすれば未来に向けて地域のアイデンティティーとすることができるのか。
どうやら、このあたりが目指す多摩料理の核になりそうです。

 これには、もう少し社会全体の歴史(日本史)を深く押さえないと答えがみつかりそうもないので、次回当初の予定とは少し違った方向をとりながら進めたいと思います。


第四回:材料の吟味−その2(5月)

 前回に問題提起した、料理の「食材」が何故、現在力が乏しく、かつ保存性が甚だ劣悪で、
従って未来に向けた自己形成力や文化的発信力を失っているのかについて、この三ヶ月間日本
の歴史を遡って考えてみました。

 公地公民制から荘園に始まり、武士の発生から封建体制が確立していく鎌倉、戦国、江戸を
一通り眺め、ついでに縄文時代に寄り道をしてこの十日程前に平成の世に帰って来ました。
 その中で、いくつか見えてきたことがあるので、今回は少し脇道にそれますがそこをレポート
します。

 武士に着目したのは、前回までのところで、神社、仏閣をはじめその他様々な歴史上の
「食材」は時の権力としっかり結び付いてその影響の下にあり、特に近世は武士社会の盛衰と切り
離せないものでることが分かったからです。

 まず、まとめのポイントを私の偏見と仮説によって提起します。

1.今日のあきる野の「食材」がよれよれで、ザラザラなのは、江戸幕府の政策に起因していること。

2.この地(秋留台地一帯)が肥沃で、農業や牧畜に適しておりこれが近世の主たる産業であったこと。

3.その裏返しとして、商業が根付かず従って有力な商家が育たない環境にあり、地域文化発展の核が
  できなかったこと。

4.近年の人口増加は主に他地域からの転入によるので、地域への帰属意識が希薄で新たな文化的活力に
  なり得ていないこと。

5.市制後も政策者に本物の文化的マインドが乏しく一点豪華主義的投資しか行ってこなかったこと。

  の5点が要因として挙げられます。

  以下にその訳を説明します。

1.江戸幕府に起因しているというのは、−−−

   江戸時代ここは(秋留台地)は天領であり、旗本の所領となっていたことです。
  しかもただ旗本の所領であっただけではなく、ひとつの地域がモザイク的に分割されて領地と
  なっていたことです。
   そのため、隣同士の農民が別々の領主に年貢を治めるといったことになり、農民同士の
  連帯意識は喪失してしまったわけです。
   それでなくとも旗本は領地に居を構えないので領地への愛着が無いに等しく、その土地の
    発展には何の顧慮も払わなかったものが、小分割されたことがそれに輪をかけ地域共同体
  意識を窒息させたというわけです。

      翻って、中世から戦国時代までのこの地は、武蔵七党の西党一族が住み着いており農耕牧畜を行いながら
  地域を発展させてきました。今日「食材」として残っているものはほとんどその当時に創られ、
  地域文化の核としてその役割を果たしてきたものです。
   大石氏、野辺氏、二宮氏が従っていた北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされたのを最後に、この土地に残された
  文化遺産を受け継ぐ者は無く、以後前述の理由によって衰退の一途となり、そのかけらがわずかに
  今日まで生き残ったということです。

2.農耕専門の土地であったため、−−−

   全て農民であり、封建性において収奪の主たる対象であったため一般に経済的に貧しく、
    かつ農事に一日の時間をとられるため、わずかに春秋の農閑期にささやかな祭を敢行して
  きたに過ぎず、とても文化の継承・発展を担えない存在であったということです。

3.有力な商家が育たなかったので、−−−

   封建社会で唯一経済的に独立でき、時間的にも自由度の高い身分であった商人は、特に
  江戸時代には社会の経済文化の担い手としてその意識と市民的モラルが高く、地域文化の
  継承発展に大きな役割を果たしてきました。
   その存在が無かったことも地域文化停滞の大きな要因と言わなければなりません。

4.転入者の増加が文化的活力になり得ていないのは、−−−

   ベッドタウン化している地域では、共通の現象と思われますが、それでもなお、朱に交われば紅くなる
  の喩えの通り、もしその土地に多少とも地域文化の匂いがあれば、新規参入者もしだいに
  染まるものです。
   新規参入者が核となって町輿しをするのは並み大抵のことでは無く、何等かのインフラ
  が必要であり、その点でも300年近く封建性の弊害を受けたこの土地の不運は影響が大き
  いということになります。

5.市制後も改善の足跡がみられないのは、−−−

   様々な困難さがあるとは言え、地道な施策はされてこなかったことがはっきりしています。
  申し訳程度のスペースしかない二宮考古館があるのみで、キララホールのような一点豪華
  (しかしながらこれも中途半端なサイズなため、スケールメリットに失しとても地域の核とし
  ては活用できていない)なことは行っても、史跡は年々荒んでいくありさまです。
   つい最近でも、あきる野市役所の目の前にある大塚古墳のとなりの土地に商業ビルらしきものが
  建設中で、既にある同様のビルとに挟まれ大塚古墳は見る陰も無いありさまとなっています。

   本来、その周辺は風致地区並みの取扱いによって景観を保存しなければならないものを、
  いとも簡単に、というよりは何のこだわりも無く史跡を放棄しているわけです。
   市役所の目の前ですらこの有様ですから、その他の場所については推して知るべしであります。

 以上が、冒頭の問題提起に対してこれまで探ってみた範囲での簡単な答えです。

 これらを踏まえ、「多摩郷土料理」のレシピを考えねばなりませんが、これには相当工夫が必要のようです。
しかしながら、このような状況にある地域は、恐らく全国と言わず関東には数々あるのでは思われ、
その活性化処方の切り口のそのまたヒントにでもなるものができれば合格点のつもりでトライします。


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