追憶・山窩
覚えておいででしょうか、「最後の山窩」と云う拙文を。 あれは秩父
の長瀞界隈の話しでしたね。 当時は私も二十歳(ハタチ)に手の届かない
少年でした。 あれからもう五十数年が過ぎてしまいました。
常識的には老境に入らなければいけない年なのに、パソコン通信のおかげ
で若い人たちと渓流釣りを通じてのお友達が沢山出来て、何か自分も同じ
年頃になったような気になって、気ままに釣りを続けています。
その通信の友達に「安さん」という方がいらっしゃいます。 秩父山中の
小さな学校で少ない生徒を相手に教鞭を奮っていらっしゃって、近いうち
にその学校は廃校になることが決定しているようです。
こういう学校が有ってこそ日本の文化が保てるのだと思うのですが、それ
はさておいて、「安」さんがホームグランドにしている秩父・荒川の支流
の入川谷で釣れたイワナが、下流域のそれとは違ったもので、どちらが
秩父に昔から棲む岩魚であろうか、と云うのです。
多くの河川でダム・堰堤が出来て異種の岩魚が無差別に放流され、どの種
類が従来から棲む魚であるか判別しにくくなっていて、祖先からの遺産と
言える岩魚は駆逐されています。
蛇足になるかも知れませんが、ご存じで無い型の為に、簡単に説明をしま
すと、一口にヤマメといっても、例外もありますが本州の太平洋側を例に
しますと富士川以西に棲むのがアマゴと言って、体側に朱色の斑点がありま
す。 富士川を離れて関東以北のものがヤマメで朱斑がありません。
一方一般に岩魚と呼ぶもので、内地の物は大ざっぱに分けるとアメマスイ
ワナ・ニッコウイワナ・ヤマトイワナとあり、大体背中あたりにある白い
斑点の大きさと腹側にちりばめられた黄色や橙色斑の有無で見分けられま
す。
現在迄、養殖で放流されるものは以上の三種でしたが、最近では水温の温
度差や餌付けの簡単なこと、それに病気に強いということでアメマスイワ
ナが最も多く養殖され、各河川に放流もされているようです。
秩父荒川の源流帯で釣れたのは在来種の岩魚。 当然これを保護し、増や
そうという運動が、この周辺に棲む釣り仲間で行われつつあります。
その名称は「秩父岩魚保存会」と言います。
所がここに困ったことがあります。 それは此の源流帯の二つの川に棲む
魚種が一見同様にも見えるのですが、良く調べると入川岩魚が秩父に居る
筈の無い朱に近い橙斑で背中の白斑の微細なヤマトイワナらしいのです。
大体、源流帯に棲むイワナの多くは、大きな滝のあるところでは自力で遡
上することは不可能で、地震とか山が荒れて滝が低くなったとか、釣り人
・山里の人・樵人・炭焼き・マタギ等が遊漁や蛋白源の補給の為に下流から
上流へ、上流から更に源流へと魚を移したものです。
それでどちらが本当の秩父岩魚だろうか。 ということになりました。
いずれにしてもヤマトイワナは富士川水系に居る魚。 山を一つ越した
笛吹川か千曲川上流か、ということになります。
千曲川と云う川は信濃川の上流で本来ならばヤマメとニッコウ系の岩魚で
あるはずなのですが、大正年間に発電ダムを造ったとき以降にアマゴが放
流されたようで、今は千曲一体アマゴになっています。
アマゴが居るということは、それと同一河川に棲むヤマトイワナが放流
されていても不思議でなくなる。 善意か故意か或いは放流のときに紛れ
込むこともあり得るし、私達釣り人にしても最近まではイワナの種類がど
うのこうのとは申しませんでした。
秩父の場合、どちらにしても滝の多い川ですから、人間が上流へ移植した
もの、それに余所の河川から移植したもの、どちらも今では貴重な秩父岩
魚であることには間違いありません。
さてここで発見者や我々釣り人仲間で話題になったのは、それではヤマト
系の岩魚が何処からきたのか、という事です。
多分笛吹川であろうということなのですが、ところが笛吹川上流で岩魚
を釣ったという記録がありません。 私が聞いた漁協の人の話しでは鉱毒
があるので岩魚は棲まない、中流域でアマゴもわずかに残る程度という話
しがありました。
此の秩父イワナの話しが出て急遽調べたところに寄ると確かに鉱毒の出る
所もあるが昔、相次ぐ台風で上流部は大荒れに荒れて徹底的なダメージを
受け、僅かに支流にそれも稀に岩魚を見かける程度。 釣り場としては対
象外、ということになっています。
この荒川源流のイワナを釣った「安さん」の二枚の写真からだけでは推測
出来ない。 と言うので、春になったらもう一度その周辺の沢も含めて探
釣することになりました。
「岩魚は誰が」
この年は近年に無く降雪の多い年で、三月に入っても雪の降る日があり
荒川の里に山吹の咲くのは遅かったのです。 雪代は僅かの間に消え、斑
雪も姿を消して、ほぼ平水に近くなった頃、問題の秩父岩魚の棲む川へ私
が調査の下見に出かけたのは里では桜が咲こうという季節でした。
道筋は「安さん」に書いて頂いたのを頼りに渓谷の美しい秩父往還の道を
秩父湖を左に見て、荒川源流の核心部に入りました。 川又集落の橋で左
折すれば其処が入川谷で渓流魚研究所の看板先で舗装はきれますが、走り
安い砂利道が続き清冽な流れが見通せます。
歌人の前田夕暮にちなんだ夕暮キャンブ場があり、このあたりで車を降り
ました。 この先に有料管理釣り場があり、スグにゲートがあって車は通
れません。 用意しておいたナップザックを背負い念のため仕舞い寸法尺
余の小継ぎ渓流竿もザックに入れました。
やがて矢竹沢を渡り渓と離れると、樵道は森林軌道後に変わって一時間
約五qも歩いて赤沢出会いの取水口、ここまでが放流されているイワナの
釣り場と聞きました。 軌道跡は白泰山・赤沢方向のようですが、本流と
思われる左手の真ノ沢方向に歩きました。
柳小屋を過ぎて十文字峠へ向かう道は真の沢に沿う道と股の沢に沿う道と
分かれますが、真の沢に沿った道を選びました。 安さんには教えて頂い
て居ない岨道です。
谷は此の辺りから険しくなり、道は時々瀬音も途切れるように離れますが
概ね左手に真の沢が流れていることがわかります。
途中で沢を渡る時は釣意が湧きますが、それを押さえて注意深く左右の谷
と山を見ながら歩くのみです。
可憐な紫に近い小さなカタクリの花や川辺のわずかに生えるネコヤナギが
枯れ草の間から此処にも春が来たのを告げていました。
遙か瀬音を下に聞いて左右の林を見上げ、見下ろしながら岨真道を行くと
下のほうに僅かではあるが竹の林が見えました。 もう一度少し道を戻っ
て注意深く林の間の草地を見ながらゆっくり進むと、下草が少し低く下の
竹林に向かっているようです。
馴れた釣り人なら見い出せることが出来る渓への下降点です。 と云って
もこれは春先なのでそれと判る程度の僅かな差でした。
草が延びてしまえば始めて来た私には見つからなかったかもしれません。
せせらぎが近ずくと見晴らし台のように山側が削れた平地があり、少し先
では又道と思える低い下草が渓に向かっています。
鉈で削られたように切り立った壁に生えている草ををみながら、少しずつ
視線を移動すると、有りました。
一本の竹が折れ曲がって斜め下にむかっています。 其の竹の先端は平ら
で人が切ったものです。 着き刺さっていた位置から見ると、そう、あの
ユサバリのテントの屋根に使ったのに相違ありません。
矢張り私が確信した通り、長瀞の上で会った山窩が隣りの千曲の沢から
あのイワナを持ってきたのに違いない。 山窩なら出来るはずです。
たけさんから聞いたことがあります。 ある種の草のクキを叩いて水と魚と
を入れれば魚を遠くまで生かして運ぶことが出来ると。
十文字峠の道は千曲川の源流東沢と真の沢を結ぶ最短距離です。
そして住むのに竹などを磨くに必要な木賊のある沢を選ぶ。
簡単な推理です。
延びた草に焚き火の後は無いかと捜しましたが何も見つかりませんでした。
それにしても棟にする竹の他、何も痕跡を残さないのは雪崩や落石で無か
ったと見て安心しました。 これが其処を去る時の彼等のやり方です。
折れた竹は何かの理由で抜けなかったか、抜かなかったのでしょう。
背中のナップザックを下ろして其処へ置き、川へ向かう草の低い所を目安
に降りてみました。 矢張り想像通り小さな河原がありました。
更に下流方面に少し歩けば其処は滝の上でした。 木賊(トクサ)沢と真の沢の
出会い近くです。
良く見れば、河原の石が直線的に盛り上がっているのは天幕を利用した
風呂の跡でしょう。 ユサバリは一つ。 夫婦者か一人身か。
夫婦者
なら竹も残しておかなかったでしょう。 これは非力な女性一人かも・。
そんなことを考えながらザックの置いて有る所に戻りました。
ザックの中にタオルで包んでおいたハーモニカを取り出し、静かに吹きま
しす。 「赤い花なら曼珠沙華・・・」
五十年前、お婆さんに聞かせた長崎物語。 「濡れて泣いてるシャガタラ
お春・・・」 其の先はもう吹けません。 瀬音も聞こえません。
遠くから川を渡る音が、何か女の人の声がそれに混じって・・・。
「きよしさ〜ん」と言ってるみたい。「あっ たけさんだ」 これは空耳、
けたたましい鳥の鳴き声に消されてしまいます。
もし、このユサバリがたけさんのものとすれば、私より年上だからあのお
婆さん位になっているかな。 然し私の中には姉のような優しい姿しか思
い浮かびません。 野性的なキビキビした目。 後ろで束ねて編んだ竹の
輪に通した黒髪。
手にしたハーモニカと戦災に会ったときも離さずに避難したウメガイを隅
に置き、一輪の名も知らぬ花を添えて、そこを去りました。
私の胸の中の山窩のたけさんは永久に此処に生きているのです。 完