木曽・冷川の想い出

         「開田高原・冷川」

  木曽の開田高原には沢山の想い出が詰まっています。 私の釣りが開田村
 に到るまでには延べ一月以上も木曽川支流を釣り歩いていました。
 此の飛騨高山に抜ける道も黒川で泊まり、髭沢で泊まり、開田村柳沢の民宿
 「やざわ」に基地を定めるまでには多くの日数を費やしています。

 当時、民宿も少なく開田村には殆どそれらしき宿は有りませんでした。
 ある日、日暮れ間近に柳又に来て、今日の塒(ネグラ)を求めて、此処でただ
 一軒の商店に飛び込み、泊めてくれそうないえはないか尋ねて紹介されたの
 が今の「民宿・やざわ」です。

 実は「やざわ」には未だ民宿の許可は降りていませんでした。
 此の商店の知り合いと云うことにして泊めて頂いたのです。 此処には初老
 の夫婦二人が寝泊まりしていて、この方々は此処の開拓民でした。

 開拓者は岐阜や名古屋方面から来た人が多く、開拓した土地の多くは其の者
 の所有権になる、という事のようでした。
 
 此の「やざわ」には将来囲炉裏焼きをメインにして宿泊客を呼ぶ準備をして
 いました。 裏の川に生け簀の箱があり、その中から岩魚とアマゴを捕り出
 して囲炉裏焼きにして、キノコや山菜の漬け物と共に食膳に添えてくれま
 した。 それから、此処との永い付き合いが始まったのです。
 
 これを改めて書いて見る気になったのは、過日パソ通の友人と十数年ぶりで
 木曽の開田高原に、ある調査の為行って来たのですが、道路も川もすっかり
 変わって見違えてしまい、訪ねる家もアッと言う間に通り過ぎてしまう始末。 

 でも木曽の山も其処に棲む人々の人情も変わらない。 楽しい一日になりま
 した。 そんなこんなで昔の想い出を綴ります。
 これから載せる文は始めの一文は旧作に加筆。 二作目は未発表のものです。

 これは二作ともフイクションではありません。 

「冷川の最源流」

  ハタハタハタと鳥の羽ばたく音が止んで少しの間があり、姿を確かめる迄
 もなく冴えた声が高原を渡った。  カッコー  カッコー
 葉の少ない大きな木の枝に鳩ほどの大きさの烏が、遠い仲間を呼ぶ仕草をし
 て カッコー。

 開けた低木の裾野の彼方に濃緑の巨大な牛が水平線を覆い隠すように横たわ
 っているのが「御嶽山」である。 朝の開田高原は冷えた風さえ頬に当たら
 なければ空気の無い宇宙のように冴え渡る。

 透き通った高原はカッコーの鳴き声さえコダマになって帰ってこない。
 やがて玄関を開ける音がして「おはよー」という声がした。 都会に居ては
 聞こえない距離があるのにすぐ後ろから聞こえてくるのは空気に濁りがない
 からであろう。

 続けて「シュッ」と云う音がしたのは、マッチを摺ってタバコに火を付けた
 のである。 「おはよー・カッコーってあれかい、声で想像するより汚い鳥
 だね」 それには答えずに「民宿やざわ」のおじさんは庭に植えてある紫陽
 花に似た葉を三枚ほど摘んで家へ入ってしまった。 年で少し耳が遠いい。

 摘んだ葉は夕べテンプラにしてくれて、私が旨い旨いと云って食べたコンフ
 リーである。
 朝食の味噌汁の実はわずかに粘りけのある「うるい」で、おかずに岩魚の煮
 たものに山椒の一ヒト葉を乗せ昨日褒めたコンフリーの揚げ物を添えてくれた。

 「今日は何処へ行きなさる」 「つべた川(冷川)の上を見て昼までに帰っ
 て来るから弁当は要りません」 
 冷川はこの民宿の裏手の、ここのおじさんが作っている玉蜀黍畑を突っ切っ
 て行くと西野川出会い上へ出られ、流れは大きな岩壁に突き当たって狭くな
 り急流となって西野川の「せめの滝」下に注ぐ。

 この冷川の流れを遮る出会い上の岩壁には見事な褶曲が見られ、御嶽山の地
 質を知るのに良い資料になるが、これを知る人は少ない。
 そこから渓へ降りて遡サカノボれば約一キロで街道に架かる冷川橋に至る。

 この間を釣るのに半日弱。 当時(1970年前後)は餌にカワゲラを使って岩魚・
 カゲロウの幼虫でタナビラ(アマゴ)がツを抜く程度に釣れた。
 橋上からは完全な岩魚場で小沢も入るが本流そのものも名前の通り水温が低
 く、支沢は凍るので魚影は秋口になるまで少ない。

 以前此の橋より下流数十メートル下、左岸に砂礫の断層の見える少し下に大
 きな岩が二つあり、その岩の合わさった所の深い溝下から尺タナビラを二枚
 上げた事がある。 五月頃であったろうか。 その魚体は総体がネズミ色で
 一瞬これがアマゴとは思えなかった。

 魚篭に納めて宿迄戻り、「変な魚 釣っちゃった」と篭から取り出した所、
 綺麗なアマゴになっていて驚いたことがある。
 あとで考えるに秋口に下流へ落ちずに、低水温で冬場を越してしまった魚が
 低温に対処する為に表皮に冷水に対抗する保護膜が出来たものと思う。

 これは鮒なども潮入の湖沼(霞ヶ浦など)や川で、乳白色の皮膜に覆われて
 いるのを見るのと同様(これは塩水の浸透圧に対処するものと思う)で巧妙
 な自然の摂理であろう。

 この上流数キロの所に尾ノ島の滝という見事な滝があって、周囲がキャンプ
 場になっている。 ここへ行くには橋から道を西野と逆方向に戻って、右折
 して御嶽山に向かうとこのキャンプ場へ出られる。

 それを見過ごし、更に上がると関西電力の広場で道が別れ右に行くとゲート
 がある。 これを過ぎた所に冷川にかかる旧林鉄と並行して渡る橋があり、
 その手前で右へ折れ小道を下ると尾島の滝キャンプ場寄り来る遊歩道に出る。

 前記の橋と林鉄名残の橋桁の間を下へ降りると、欧穴のような格好の良い苔
 の覆った落ち込みが幾つか連続し、好ポイントを形成してる。
 時により此の水深のある小さな壺に大イワナの潜むことがあった。

 ここを過ぎると落差はなくなり平坦な狭い平瀬を過ぎて両岸立木に覆われた
 石の大きめの渓流になる。 遡行距離僅かにして始めに左岸から幅広の川が
 入るがこれは遡行すればすぐに高い滝になるが通常は一筋の流れが落ちるの
 みで釣る魅力は無い。

 滝越しに遙か上の林道が見られ、これは先ほどの橋を進んだ道である。
 この分流へ入らずに直進すると右岸より一見本流のような幅広い流れがあり
 好釣り場のように見えるが魚は極端に少ない。 何故なら渇水期に流れは伏
 流になるからである。

 直進の稍狭い川が本流でそれなりに魚影も濃いが、すぐに流れは幅狭くなっ
 て曲折しながら山に上がる。 然し幾重かに狭い階段状に折れ曲がる流れの
 直下の小さな落ち込みに万遍なく魚が居た。

 これを上がり切ると片方岩崖の平坦な、ひとまたぎの細流になり、すぐに山
 に突き当たる。
 その山の裾に明いた直径30cm足らずの穴から出る流れが冷川のもう一つの水
 源なのである。

 ここに尺を越えるイワナが数尾往来するのが見られて、釣りをするのを忘れ
 て遊んでしまう。 この水は御嶽山・三の池から流れて来ると言われていて、
 冷川の水温の低さも頷ける。

「隠し沢」

 さてここを戻って先ほどの橋を渡り、林道を行かずに右手の道へ降り、左の
 草むらを分け入れば、尾ノ瀬の滝上のもう一つの分流へ出る。
 此の方が川幅も水量も橋下の渓より勝り、良渓を成す。

 但し幾つも釣らぬ内に巾のある三米の滝に突き当たる。 右手には水量も落
 差も多いが狭隘の小沢があるが、これはすぐに岩穴からの湧き水と分かる。
 あるとき私はこの正面の方の滝上へ上ってみた。 

 滝上は木で覆われるが川そのものは深い穴状の落ち込みの連続で大岩が遡行
 を阻みながら後ろの緑の山林に消えて行く。 水量は多くはないが岩に着く
 苔跡から見て渇水期でも流れの切れることはなさそうだ。 たとえ切れたと
しても一つ一つの落ち込みは深い。 地下水もある筈だ。

 冬場でも底まで凍結するとは考えにくい。 流れは透明度が高く深い底も見
 通せる。 そして目を凝らせばチョロ虫(かげろう)が無数に後から後からと
 ゾロゾロ上って行くのが見られた。

 そして兼ねてからの計画の実行にかかったのである。 計画というほどでも
 ないが下で釣った魚を滝上に上げて隠し沢にすることである。
 要するに自分だけの知る釣り場を作ってしまう。

 それは別にここが始めてではないが、今までの其れの多くは足繁く行く所で
 はなく多くは忘れようと心掛け、又実際にその釣り場近くへ行く迄は忘れて
 いることが多い。 滝や堰堤で遮断され魚影を見ない所へ幾つか放して置く。
 失敗もあったがそれはそれで良い。

 然し今度は邪心があった。 度々訪れる川での隠し沢である。
 結果が判る所である。 そして計画通り実行した。 滝からかなり歩いて林
 の中の流れへ放流した。

 少ない時でも5尾、多いときには20尾近く放流した。 それから毎年そこ
 に行くのが愉しみになつた。 3年目に水底を走る魚影やメダカと呼ぶ稚魚
 も見られた。

 4年目にして始めて毛鈎を落として20cm を越えるイワナが各落ち込みで釣れ
 たが持ち帰る気はしない。 折角育てた私の魚である。
 そしてその年御嶽山に異変が起きた。 

 時ならぬ噴火に土地の養魚場の人達はあわてて魚を他へ移したりして大変だ
 ったらしい。 降灰に依る酸欠を恐れたのである。
 翌年私の隠し沢へ行ってみた。 流れは潰れていないか。 降灰の影響を受
 けたのではあるまいか。

 滝を捲き上がって各落ち込みを見ながら進む。 放流したあたりまで来たが
 魚影は一つも見えなかった。 去年はここで鈎に掛かった筈だが、小魚の影
 すら見えない。

 念の為毛鈎を落として見たが流れは静まり返って、期待した魚の反転するの
 さえ見られなかった。 焦りと絶望感が交互に私の胸を痛めた。
 山が狭まり、あと数十メートル歩けば山水が湧き出る所へ出る。 其処まで来て
 私は立ちつくした。

 そこには無惨な光景が広がっていたのである。 そして後も振り返らず一目
 散に川を降った。
 湧水口手前にある僅かな河原には焚き火の跡が黒々と残され、魚の骨が散乱
 し、ビールの空き缶が転がっていた。

 もう私はここへ来ることは無い。       


冷川の想い出・2

           「霊に惹かれて」

 「民宿やざわ」に久しぶりに訪れたのは、私の釣り場が石川県に遷ってから
 暫くしてからのことである。 仕事の関係で家を出るのが遅くなり、木曽へ
 はいったのは午後四時頃であったろうか。 

 女房連れで急ぐ旅でもなし、そのまま開田高原に上がり、やざわさんを尋ね
 てみた。 玄関を開けるとお婆さんが出てきた。 始めて訪ねた時は初老に
 見えたが、あれから数十年、お互いに年をとったものである。

 「まあ、お久しぶり、上がって上がって」
 家の中はひっそりしている。 「アレッ今日はお休みなの?」
 「いいえね、指先に怪我をして休みにしているの」
 「そんな大怪我?」
 「大したことはないんだけれど、食べ物商売だから、もしお客さんが中毒
  でもしたら大変だから」

 なるほど、こういう商売も難しいものである。 それにしても妙にひっそり
 していて、仄かに御線香の匂いがする」
 「実はね、お爺さんは亡くなったのよ、今日は祥月命日なの」

 そういえば、小父さんには少し中風の気があった。
 取り敢えず仏壇に手を合わせ、それから積もる話しをして、「今日は泊まっ
 てくれるでしょ、知らない人ではないのだから」

 女房も此処は顔馴染み、好意に甘えて泊めて貰うことにした。 
 その代わり勝手の手伝いを引き受け、私は風呂番を引き受けた。
 
 其の夜は娘さんから御養子さんの話し迄聞いて、明日の朝は裏の川を朝飯
 前に見てくる、ということで先に寝かせて貰った。


 翌朝、仏壇に線香を上げて勝手知ったる裏手の道で冷川に降りた。
 此の道もお爺さんが山を拓いて付けた道で、畠を横切って冷川の最下流に
 出られる。 其の道も手を入れる人が亡くなって此処を知る人でなければ
 今では見当もつかない程、草が生い茂っていた。

 久ぶりに立つ渓だが、昔と何も変わってはいない。 此処から上にある
 橋まで丁度一キロ。 二時間も釣れば充分である。
 此処の下流域は梅雨に入るとアマゴが釣れるが冷水のため概ね岩魚の渓で
 ある。

 然しこの日は全く珍しい程、岩魚が出なかった。 その変わり、極辺地
 (ゴクベチ)のポイントで手のひら大のアマゴが飽きない程度に釣れてくれ、
 程良いスピードで釣り上がった。

 変わったところと言えば、対岸の林が無くなっていて平地のようである。
 軽くツを抜いた(十尾以上)。その時に見た対岸には公園にするのか、
 滑り台等が見えていた。 やがて其処に釣り堀の旗が見え、後ろの高い所
 を走る県道の下に食堂らしき家屋もあった。

ここに食堂が出来、遊び場が有って釣り人が入り易くなり、イワナは釣り
 きられたのかも知れない。 後に聞いた話では、当時は村営だったが後に
 ある会社に譲ったと聞く。

 この辺で釣り終いにするかと橋のある上流を見ると、一人の釣り人が釣り
 下ってきた。 どうやらテンカラを振る人のようだ。
 このまま歩くと行き違い、彼の釣意を削ぐことになる。

 彼のポイントと私のそれとは違うし、釣る姿勢も違うから、未だ釣れるかも
 知れない。 それなら行き合わないほうが良いのではないか、と考え大きく
 右へ張り出した林の中へ私は入った。 林の中程に僅かな水跡を残す枯れ沢
 があり、山裾を廻りながら上の橋の方向へ曲がる。

 増水したときはここに林の島が出来る所である。 中程に進むにつれて暗く
 なり左の行く手が僅かに明るい。 林のトンネルである。中程まで来たとき
 に右手のほうに白い二本の棒が下がっていた。

 何だろう、と近くに歩み寄ると其の棒の下には何も無く、地下の水が僅かに
 浸み出ている。 近くに寄って上の方を見ると其処にあるのはネクタイの
 ような紐に支えられた白骨であった。

 暗さに馴れてきた目でもう一度見直すと、アバラの上に僅かな衣類を纏って
 白骨化した縊死死体である。 念の為もう一度上から下まで見たが間違いな
 い。 下の濡れている所に足骨と膝下の骨が落ちていて、それより上は宙に
 浮いている。 足下の水溜まりに黄色く見える蛆が蠢いていた。

 ここで先ず考えたのはカメラもフラッシュも持っていたので写すかどうか
 ということであった。 然し其の決断はすぐに着いた。 ここで写真を撮る
 のはニュースや証拠にはなるが、私は釣り人。 使者を冒涜することになる。

 元来た道を戻り本流へ出て、先の渡れる所から対岸の家まで行った。
 清流庵とかいう昔風の食堂で手打ち蕎麦や岩魚の塩焼きを食べさせる観光用
 の食堂だった。 其の前の広場に先ほど見えた旗があり、釣り堀になってい
 る。 

 そろそろ店を開く準備か若い女性二人と小父さんが立ち働いていた。
 其の小父さんに縊死死体の話しをして警察に電話を頼むと、店の女性に言っ
 てくれ、と釣り堀の方へ行ってしまった。

 改めて店の女性に話しをして赤電話から警察に掛けて貰った。
 警察は木曽の街道筋にあるので、ここまで来るのに時間がかかるだろう、と
 釣り堀の方へ行った、小父さんのところへ行き、死体のある所まで一緒に
 行って現場を確認してくれないか。 警察が来たときに教えて欲しいから。
 と頼んだが「おら 嫌だ」といって去ってしまった。

 女性二人に「矢沢」に泊まっていることを告げ、横の道から上の県道へ上が
 り橋を渡って宿迄戻った。

 「釣れた?」女房が聞くので、「釣れたよ、それより御飯は」
 先の状況を説明しながら食事を済ませ、魚の腸を取っているときに、警察の
 車が二台来た。
 一台はパトカー、もう一台は大きなバンである。

 巡査か刑事か分からないが中の若い一人が私の釣った魚を見て、「良く釣れ
 たねぇ」。 この人も相当な釣り好きらしい。 仕掛けとか場所とか細かく
 聞かれた。

 私の車で先導し、私が川から上がった場所から現場の位置を詳しく説明し
 食堂の中で発見に到るまでの状況を聴取された。
 再び「やざわ」に戻って、お爺さんの位牌に線香をあげてから石川に向かっ
 た。

 お爺さんの命日と此の事件と関係あるかないかはわからないし、あの時、
 川上に釣り人の姿を見なかったら暗い林は避けたかも知れない。
 釣れていなくても早く渓から離れて、発見しなかったであろう。

 又、釣れた魚がイワナだったら程々にして早く宿へ戻ったろうが、此処で
 久しぶりの綺麗なアマゴが私の釣趣を促して橋近くまで釣り上がった。
 すべて偶然の出来事なのか、それとも我々の計り知れない何かがあるのか
 全くの謎である。

 写真を撮らなかったことは今でも悔いはない。 その年の暮れに「やざわ」
 のお婆さんから一通のハガキが来て、冬は甲府に棲む娘夫婦の所で暮らす
 事になりました。あの自殺者は四国の人でした。という簡単な文面だった。
                        終わり
       清 石

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