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01129/01144 PXU03005 清 石 瞽女(ごぜ)さん
( 5) 00/04/29 10:24 コメント数:1
瞽女さん
やぁ・・お久しぶりですね。 遠い所を良くいらっしゃいました。
私・・・本当はね。 今でこそこんな商売していますがヤマメや岩魚を釣る
漁師にでもなって余生を送るつもりでいたのですよ。
長い人生には時には間違いもあるもんですが、こんな商売をしようなんて夢
にも思っていませんでした。 イヤこの骨董屋という商売が嫌いなわけでは
ないのですが・・・、これと言うのも魚釣りで食べられるようなご時世では
無くなってしまったのですね。 何しろ人間の智恵というものは恐ろしいも
のが有りますよ。 あんな臆病で気難しい山の魚が人間の手で養殖されてし
まうのですからね。
山の漁師で食べて行こう、なんてとんでもない誤算でした。 あっ、私のつ
まらない愚痴をお聞かせしてしまってごめんなさい。
先日は「山窩」の話でしたね。 今日は旅芸人のお話でもしましょうか。
私が子供の頃は正月も三か日過ぎるとすぐに来るのが三河漫才の二人連れと
か獅子舞いです。 お正月気分の抜けた頃にくるのが「毒消しは要らんかね」
の毒消し売りと薬の入った抽出の環をわざとカタカタさせながら歩く定丹売
り。 熊の胃売りは熊の仔を肩に背負って来ましたが、これは正月のご馳走
で胃が疲れた頃だからでしょう。
烏帽子を被って和服の上に派手な色の半纏を羽織り、スボンのようなたっっ
け袴。 三番叟を踊る格好をして棒に刺した飴を沢山並べた浅い桶を頭の上
に乗せ、団扇太鼓を鳴らして唄いながら踊る「よかよか飴や」という
のも来ましたよ。 「毒消しゃ要らんかね」の毒消し売りや富山の薬売り。
夜になると三味線を弾きながら花柳界を流して歩く、「エーお二階さんえ」
の新内流しは鶴八・鶴次郎の世界。
昼間から御厨子を背負っての巡礼風の門付け(かどづけ)は潮来出島の渡し
船が似合います。
ですがこれらの旅芸人のような流しの商売は戦争が始まると、何処へ行った
のか いつの間にか姿を見せなくなりました。
そんな中で戦前・戦中にも見かけたのが、職業と言ったら語弊があるかもし
れませんが、瞽女(ゴゼ)さんというのがあります。
以前、「最後の山窩」で「箕作り」を生業とする山住まいの人の話を書きま
したが、瞽女(ゴゼ)さんと云うのも最近は殆ど見かけなくなりましたが眼
の御不自由な女性の職業なのです。
関西・中部の方はご存じないかも知れません。 それでも伊豆あたりでは見
かけることもありまして、華やかな慰安旅行などのお座敷に呼ばれるのは「
伊豆の踊り子」のように旅芸人で、寂れた旅籠とか商店の軒に立ち御報謝を
乞う女性が瞽女さんです。 地味な着物の藁草履、三味線抱えたかどづけ姿。
伊豆でも昔、静かな保養地でした長岡あたりとかには瞽女さんに親しまれた
宿もあったとか。
瞽女さんの多くは東北の日本海側でそれは目の不自由な女性に歌舞・音曲を
教える家がありました。 芸者街ならさしずめ置屋に等しい所でしょう。
ここで彼女らは簡単な歌舞音曲を教え込まれ、年期が入ると二人か三人で太
鼓とか三味線を鳴らしながら家々の軒先に立つようになります。
良く言えば地方の芸能人。 当時の流行り唄やお座敷藝に属する唄を唄った
り民話を語ったり、或いは偉いお坊さんやお釈迦様などの為になる法話を判
り易く、面白く語ったりする旅芸人でもありました。
瞽女の語源は昔は鼓を打ちながら軒に立ち、蘇我物語等を聞かせたり神仏の
霊験椴談を語って幾ばくかの礼を戴くからで、乞銭(コゼ)の転化という人
もあります。
女性に限られた職業で、 男性の盲人は江戸時代になると、検校・勾当・座
頭という公認の階級もあり按摩という技術や琵琶などの音曲、歴史物語や説
法など語る職業として認められています。
一方女性のそれは旅芸人扱いでした。
昔、と言っても昭和初期頃迄ですが、眼病に罹る人は多く、それは今程手を
洗ったり石鹸を使うことも少なく、衛生面にはに気を使わなかったのと、今
のように薬にお金を使うことをしなかったからでしょう。
最近まで越後に瞽女を教育したという所が残っており、私の知るところで
は糸魚川(イトイガワ)に、二軒の瞽女の宿舎がありました。 ゴゼさんにも大
きく分けて山地を渡り歩く山瞽女と里の海岸線の街道に沿って流して歩く
「浜瞽女」とがあります。
此の人たちが二人、又は三人で三味線や太鼓を馴らしながら民家を歩き浄財
を戴くのです。 彼女達が軒に立つ姿を写した写真は割に多く残されています。
寛永年間に瞽女の取り締まりがあり、其の記録によると越前では二十三名・
文化年間五十七名・明治三十四年には八十五人・大正では四十四名・昭和二
十八年にも四十四名と記録に残っています。 これは高田の記録ですが、太
平洋戦争が終わって復興したときの記録には長岡瞽女の約八十名というのが
あります。 これは食糧事情や衛生面に関係があると私は推定しています。
昭和にはいってからは記憶も新しく、三人連れで来た魚沼郡の湯ノ谷村大湯
温泉で写した写真も誌面に載っていますし、其の唄や語りの芸術性も認めら
れ、盲目の旅芸人ということで文化庁より無形文化財として、昭和四十八年
にキクエさんが 黄綬褒章を戴きました。
この方は昭和五十八年八十六歳で他界しています。
私の渓流釣りの旅が信州から糸魚川へ出て、越前・越後と日本海沿岸を釣っ
ていたときに糸魚川に瞽女宿のあるのを知りました。 三面川近くまで来て
黒川村のクソウズ(臭い水)と呼ばれる石油の産出跡を見、此の村の村おこ
しの一旦に胎内川周辺の丘陵を利用して、スキー場やホテルを作り、一般の
其れよりも低料金で泊まれるようにして外来の客の誘致に懸命でした。
此の洋風のホテルを新設する以前には山裾の街道に近い所に国民宿舎と胎内
観音が作られて宿舎は低料金の評判を摂っていました。
黒川村を流れる胎内川は2,000m級の飯豊山を含む磐梯朝日国立公園の山々の
胎内を流れて日本海に注ぐ河川で険しい山間を縫って流れますが、其の急流
を嫌って幾つかのダムで仕切られ、核心部を釣るには脚力や体力を要求され
る峡谷でした。
近年に至り胎内川は落差による急流を幾つかのダムで抑制して釣り場として
は魅力に欠けて源流部に僅かに好釣り場が残るのみとなってしまいましたが
三面と其の周辺の渓流を釣るには基地として丁度 良い位置にあり、胎内観
音や黒川村の資料館が、このあたりの昔を知る参考になります。
此の資料館に「臭うず」や農具の他に「黒川瞽女」の写真や資料もあり、
テープで解説を流していました。
それは昔から産業の乏しい山村で盲目の女性が生活の糧を得るための手段で
村外からの収入を得る為に選んだ道でした。
実は此の瞽女さんに私は偶然岐阜に近い、富山の八尾の町で会っているのです。
季節には早かったのですが「おわら風の盆」の舞台となる坂道に並ぶ家並み
が見たくて岐阜の高原川からわざわざ廻って見てきました。
盆の踊りの季節には早かったのですが曲がりくねった坂道の一角に、チター
に似た小さな手弾きの琴を抱えた盲目の女性が、商家の軒先で何か物悲しく
かなでていました。
「かどづけ」でしょうか。 其の着物の羽織の裾をしっかり掴んでいる子供
も、坂道の風景に溶け込んで凄く印象的でした。
それは一昔前の未だ良い時代の名残があった頃の想い出となりました。
バブルの時代が治まって世の中が変わっても、官僚の政治は惰性に流れて一
度失った過去の文化は戻る術もなく、医学や衛生面も進んで目の不自由な人
も激減し、今は再び瞽女さんの時世が来る とも思えません。
好景気のあとに来るものは不況の時代。 これが又長いトンネルで物は余れ
ども一部の人を潤すに過ぎず、物余りで収入減の老人泣かせ。
平均寿命も伸びて、今まで蓄財のあるお年寄りは介護の恵みも受けられます
が、我々下積みの年取った庶民は行く末不安この上なし。 まして年金の無
い時代にせっせと働き、戦後何年かして年金制度の整った頃にはやっと独立。
親分無し、子分無しで稼いで少し楽になる頃は折角出来た少しの蓄財も、子
供の為に投げ出して、自分は細々と小商いをして余命を繋ぐ有様です。
私たちの時代は終わった感があります。
こんな年寄りが二三人集まって、たまに山の湯の保養がてらの渓流釣りを愉し
んでいるうちに一人二人とあの世の川へ釣りの旅。 さいごに残った私も身体
の部品が壊れかかって一人では長旅はできないようになってしまったのです。
あるとき私と同じような生き方をした友人と再会しました。
若いとき小さな会社を経営していたのですが、やがて最近の御時勢のように
小企業が次々と倒産しました。
彼の職業はスクリーン印刷。 昔の映画の立て看板などは皆これでした。
最近まで新規開店とか大売り出しとか此のスクリーン印刷を使ったものです。
これが都市の美観を損なうとか言って露天の夜店と共に条例で規制を受けて
仕事が激減。 住まいの一部を仕事場にしているので喰うだけの仕事があれ
ば何とか生き延びることができるが、若い者と違って転身出来ず先の見通し
はまるでありません。
この年をして他の仕事も出来ないし私同様年金も無い。 これから先、どう
なるか闇のなか。
どうなろうとも生きるだけ生きて、それでどうにもならなければ自殺するさ。
そんな話して別れたのですが、それから暫くして出会ったときに昔二人で
釣った釣り場の話から黒川瞽女の話になりました。
黒川の瞽女さんは「世間がどんなに不景気になっても平気だ。 おらぁ
虫になっても生きてやる・・・」と言ったそうです。
其の精神の逞しさは多少の戦火を知る私にも其処まで聞くと見習いようが
ありません。
私と友人は其の話しをどのように解釈すべきか、結論の出ぬまま別れました。
それから二年目。 黒川瞽女は地方の養護施設に入り、老後を共にする仲間
に唄を教えたり、話を聞かせたりして一躍人気者だそうです。
とうに九十才は過ぎているでしょうに。
私の知っている最後の瞽女「ちえさん」の〜佐渡は寝たかよ灯も消えた〜
の唄声が未だ耳に残っています。 終わり
〜清 石…≧゜ゝ〜<