00017/00023 NBA01033 樋口正博 転載:「戦災」
(11) 97/11/04 00:31

 この作品は、 釣りのフォーラムである FFISHT MES5 【えんぴつ】「釣り
 エッセイ・小説」会議室に登録された、清石さんのエッセイです。

 先の戦争終結間際の東京大空襲の翌日から、清石さんの苦渋の文章は始ま
 ります。
 火の手を逃れて東京を離れて千葉へ。 家族との別れ、そして終戦 20日前
 に届いた入営通知。軍隊生活。除隊。苦しい終戦後の生活。

 そんななかでも、淡い恋をはじめとする清石さんの青春時代が爆発します。
 なかなか自分の苦しい時代を発表できないなかにあって、清石さんが必死に
 生きた時代が鮮やかによみがえって来ます。

 ぜひ読んでいただいて、感想をお寄せください。つぎのアーティクルから3
 つの発言に分けて紹介します。

「戦災」の転載を許可していただいた作者の清石さんと、FFISH のフォーラム・
 マネージャーのJUNさんに感謝いたします。ありがとうございます。

             樋口正博

      <<<<<<<<<<<<<*****>>>>>>>>>>>

  久しぶりでFSENZEN会議室を開いてみたら何かの拍子で「えんぴつ」に載せた
  拙文「戦災」が圧縮されていましたので虫干しがてらに拾い読みしてみまし
  た。 今になると、なぜこれを書いたのか意図不明ですが文の構成もいい加
  減。 虫干しついでに少し手直ししてみました。 お読み流し頂ければ幸甚
  です。          2000年9月 清 石 75歳の誕生日

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00018/00023 NBA01033 「戦災」(1)
(11) 97/11/04 00:31

情けないことですが、昭和何年のことだったのか覚えていません。
私の家が焼けたのは三月十日の東京大空襲の翌日の朝です。
記録すべき年を何故覚えていないかというと、私はこの日のことを忘れたい
 と思ったからです。

戦争で戦った私より年上の人が、戦争を語らないのも、その人達は心の隅で
 は忘れたいと思っているのではないのでしょうか。
それがこの度不幸にも「神戸」の大震災が起きたとき、その人々の対処のし
 かたが、 どこかあの当時の私達とは違うように思うのす。

 これはその時代の背景の違いで仕方がないことなのでしょうが、私達のとき
 はこうだったという記録があれば又対処の仕方も、気の持ちようも変わって
 きて素早く立ち直ることが出来たのではないかと考えます。 

神戸で震災に会われた方は「不幸な出来事」です。 私達が戦災にあった
 ことも不幸でした。 しかしそれを口にしませんでしたし、考える暇も有
 りませんでした。

爆撃で姉と、その子供を亡くし、戦災に二度あって、それでも私は悲しむ
 こと無く生きています。 この文を読んで頂くことを期待してはいません。
私はこれを書いたということで積年の胸の遣えから解放されたいのです。
 文中、年代の矛盾があっても御容認下さい。 一度忘れたことですから。

1.空襲警報

第一回の空襲は中学の低学年のときでした。 正しくは中学ではなく実業
学校で、御徒町オカチマチ(上野の隣)の家から省線で池袋乗り換え、東上線
中板橋下車。 ここで下校するときに空襲警報のサイレンを聞きました。

このときは爆撃ではなく偵察の目的で来たと聞いていますが爆弾が投下さ
 れた、という噂もあとで聞きました。

それでも交通は完全にストップ。 学校から家の近くまで高学年の先輩に
送られて歩いて帰宅しました。

厳しい軍事教練を受けていましたので、誰も嫌がりません。 6〜7人で
同方向の分隊を作り、靖国神社を通り神田あたりで別れました。
このあたりは私の熟知のところで、紀元2,600年のときに提灯行列で通った
 ことも 思い出します。

その頃、靖国神社へはどこかが陥落する度に、旗行列をしたものですが、
この空襲以後は旗行列も少なくなりました。 この頃から戦況は敗戦に向かって
 進み はじめていたからです。

2.鮒釣り

学年も進むにつれて養父から教えられた私の釣りの病も進行し、遠くでは潮来
 あたりまで鮒釣りに、近いところでは 金町の小合溜や葛西水郷へ度々でかけ
 るようになりました。 本物の戦争をしていた時代でも受験戦争と言えるほど
 ではありませんが入学試験はありました。

ある日曜日 金町で電車を降りて小合溜へ急ぎます。 バスもあるのですが
お金がない頃ですから、歩きます。 近道を歩いていると銃剣を付けた兵士
に呼び止められました。

「何しに行くかとか」「この非常時に学生が釣りをしてても良いのか」とい
 うようなことを、ひどい訛りのある難解な言葉で詰問するのです。
「非常線を突破したものは射殺しても良いことになっている」と言います。

 私が困っていると、やがて巡回に来た将校がその兵士に 「貴様民間人の、
 しかも学生を捕まえて何をしてるか」と一喝して、無事に釈放されたことが
 あります。

あとで思うに、下級の兵士は一般の人と話す機会は無かったのでしょう。
「一銭五厘の葉書一枚でお国に御奉公しているのは何の為か」と言う言葉が
 いつまでも私の耳に残っていました。

この金町の駅から見える工場は通称「モスリンの池」と呼ばれ、藻が多く、
 手長蝦が釣れます。 小合溜を釣った帰りに空襲警報が鳴り、爆弾が落とされ
 ました。この紡績工場(確か鐘ケ淵紡績・今のカネボウ)を軍需工場と間違
 えたのでしょう。工場には当たらずに、手前の畑に大きな穴があきました。

その後暫くはてから時々B29(爆撃機)が来るようになりました。
来るのははじめのうちは夜が多く単独か3機位が多かったように思います。
空襲警報が鳴って間もなく爆音が響きます。 ゴゥゴゥゴゥとリズムのある
 重い爆音と金属的な回転音が爆撃機で、日本の音程のみが高い航空機とは容
 易に区別がつきます。

これが聞こえると屋根に上がって空を見上げます。 夜の空襲は爆音が近ず
 くと一斉にいくつもの探照灯が空を照らし、探し出すまでは光の筋が、空を
 右に左に綾取りのように動き、美しいと思ったことさえありました。

それがX字になったところに敵機が白く浮かび出ます。 そして激しい高射
 砲の音の連続です。 探照灯と高射砲は連動していて、照らし出されれば当
 たるものと聞いていましたが実際に当たったところは見たことがありません。

雲でもあれば光は途切れます。
こんなときに「火の玉」を見ました。 東から西へと長く尾を引きながら、
ゆっくりと流れるように飛び、やがて消えてしまいました。

自然現象でしょう。 私の目の前2〜30mの所で高さは二階の屋根より7
 〜10mも高いところでしょうか。 通りの向こうの屋根に上がっていた人
はこちらを向いてやはりその「火の玉」を見ていました。 青白い光の玉が
飛ぶのは綺麗で、すがすがしいものです。

−=続 く=− 〜清 石ー>゚、〜~<

00019/00023 NBA01033 「戦災」(2)
(11) 97/11/04 00:31

 4.爆撃

度々空襲警報があるとそのたびに空を見上げることもしなくなり、爆音を
聞き分けて近いとか遠いとか、何機の編隊かとかが大体わかります。
特に気になったのは敵機が頭上を通過するときで、このときだけは何をして
 いても止めて爆音の通り過ぎるのを待ちます。

夜でしたが空襲警報のサイレンが鳴ると同時に頭上に爆音がして、ヒューツ
 という風を切る音が聞こえたかと思うとすぐにゴーツという音に変わって
きます。 それが又いつまでも続き空が落ちるのではないかと思うほど圧迫
するのです。 そのとき私と母は二階の居間でラジオを聞いていました。
 
長い鉄橋を列車が渡るのをレールに耳を付けて聞いている音だと思えば間違
 いありません。
非常に長く感じます。 地響きがして一瞬静かになったときが命イノチがあった
ときです。 静かになったのがわかったからです。

あたりを見回しても真っ暗。焼夷弾ショウイダンではないようなのでホッとします
どこか明るければ火災の心配があるからです。
やがて表通りで何か叫ぶ声が聞こえるので、外に出てみると、少し先の横町
 を曲がったところで数人の人が慌ただしく動き回るのが見えます。

私の家の一つ先の通りに有った古本屋から火が見え、その先は土埃ツチホコリで分
 かりません。 すでに町内の人が列を作り防火用水や水道からの水でバケツ
リレーで消火をしています。この頃は用心のためにコンクリートの防火用水
が数軒おきにありました。

焼夷弾ではなくて小型の爆弾なので大きな火事にはならずに消しとめられま
 したが、本屋から先二軒と後ろの家が破壊されました。
勿論死傷者もありましたが、どなたが亡くなったのかはわかりません。
それにしてもあの轟音と圧迫感はまったく嫌なものでした。

それから数日後、根津(今の文京区)に住んでいた私の姉とその子供が、
 やはり小型爆弾で亡くなりました。 その知らせがはいったのは爆撃に会っ
 て一週間も経ってからで、家は吹き飛び、姉は 地面に明いた穴の底から
 子供を抱えたままの姿で掘り出されたということでした。

 5.焼けだされ

学校を卒業してある大学の実験室にはいりました。 ここへ入り研究の
手伝いをしながら学べば専門学校卒業と同等の資格がとれるというのが魅力
 でした。 実際は研究員が不足していたのではないかと思われます。

実業学校の冶金科を出ていたので簡単に試験は通りました。教授・助教授の
 研究を手伝うのが仕事です。 当時は電車で西千葉まで通っていました。
父の工場の方は精密電気製品の製造組立でしたが、御徒町のから工場 を荒川
 区の尾久に移して生産していました。

従って御徒町の家は二階の住まいと下の事務所だけになったのです。
機械を移動したあとに地下壕を掘り、一時の避難場所と身の回りの品を確保
する倉庫の代わりにしました。

三月十日の東京大空襲は焼夷弾が下町の人家が密集するところに雨のように
降り注ぎ、あちらからもこちらからも火の手と黒い煙が立ち登り、空が暗く
なりました。 私の家は直撃こそ受けませんでしたが、翌日早朝に上野方面
から来た火の手が覆い被さるように大きく立ち、モーゼの海が二つに割れて、
その中をさまようのに似た私達です。

幸いすぐ近くに昭和通りがあり、向こうの竹町側には火が移っていません。
母は布団と風呂敷包みを私にもって逃げろと言います。
落ち合う場所は御徒町小学校。

逃げるときに自分の部屋を見渡して、考えました。 あとで買えると思うも
 のは焼けても良いが買えない物をと、咄嗟に持ったのはアコーディオンとへら
 竿でした。へら竿というのはその頃は関東には作者が居ないので竿師に注文
して造ってもらったばかりのものです。

アコーディオンはケースの皮紐を肩から掛けて風呂敷包みと釣り竿、それに
布団(寝具)の包みを両手に下げ、引きづるように昭和通りの向こう側に行
 きました。 電車通りには近くの消防署の消防車が真ん中においてあり、家
 の脇の道の下に大きな貯水壕が埋めてあるはずなのに役にたっていません。

竹町側を布団を引きずりながら歩いていましたが、飛んで来る火の粉が移り
 中の綿が燃えています。 これは容易には消えません、火はどんどん奥へ侵
 入してしまいます。 やむを得ず道路の真ん中に布団を放り出して逃げ、
 小学校のグランドまでやっと辿りつきました。

すでに父と母が来ていて七輪の火で餅を焼いていました。 私の持っていた
 風呂敷包みからパイナップルの缶詰を取り出し、これと餅とが朝飯です。
七輪と中の豆炭は隣の人から借りたそうです。 ここには大勢の人が避難し
 ていました。 それにしても逃げるのに七輪を持って来た人も居たのだ。

父母は電車が通ったら尾久の工場へ行く、というので私は千葉の学校へ行く
ことにして、別れました。 まず両国へ向かいます。 秋葉原から両国へ向
 かう電車の高架線の下を歩き浅草橋駅の階段を上がります。 途中米屋が焼
 けて玄米が沢山こぼれていましたが拾う者はいません。 米が無い時代なのに

電車は何時動くのか駅員にもわかりません。 人々は線路の上を歩いて隅田
川を渡ります。両国からは汽車も電車も出ませんでした。 駅の階段を降り
 て千葉へ向かって歩きます。 あたり一面焼け野原。煙の出て居るところも
ありますし、焚き火の残り火のようにチロチロと炎の見えるところもありま
 す。

 両脇にあった街路樹も焼けて、電車(市電)通りは広くなりました。
ここの歩道と車道の間に銅像が転がっています。等身大の男の裸像で黒光り
しています。 先へ進むと今度は女の裸像が転がっていました。

その股間には見たことがない小さなヒラヒラが左右に付いていて、やはり
 黒光りしたリアルな良く出来た銅像でした。
錦糸町あたりにくると、あっちにもこっちにも裸像があります。 中には焦
 げた着衣の中に像が。 これ等は皆焼死体だったのです。

亀戸のガード下には折り重なって……。 後にここを通るたびに思い出して
ガード下のコンクリートを見ますが、いつまでも黒く人型に油が浮かび出て
いました。

電車が通るようになって錦糸町駅から下の壊れたビルを見ると、四角く囲ま
 れたビルの枠の中に数百と思われる人間の死体が山と積まれていました。
一週間たたないうちにかたずけられましたが、今でもここを通るとその光景
が目に浮かびます。
= 続 く = 〜清 石ー>゚、〜~<

00020/00023 NBA01033 「戦災」(3)
(11) 97/11/04 00:32

 6 希望への道

小松川橋を渡ると戦災の跡は無く、平井を過ぎると田畑が目立ちます。
 新小岩のあたり百姓屋が見えはじめる所で路上に机を置き、その上に飯台
を乗せて握り飯や湯茶の接待をしてくれる人々がいました。 このサービス
 は何よりも嬉しかった、普段でも米の飯はなかなかお目にかかれません。

ぬるま湯にほう酸を溶かし、目を洗うように勧めてくれる人もいました。
ゾロゾロとあるく避難の人はススケた顔で目を真っ赤にしています。
立ち止まってゆっくり握り飯を食べる人は居ませんでした。

これから先、どこまで行けばよいのか、何時間歩けばよいのか全く見当が
付かないからです。 それでも人の暖かい心に触れて、足の疲れも忘れ
 元気をとりもどし一歩一歩と歩きました。
不服を言う者も、愚痴をこぼす者もいません。

 この中には親兄弟と離れ離れになった人もいるでしょう。 子供の手を引
 いた母の姿もありました。 みんな疲れ切った顔をしていますが、ただ黙々
 と歩きます。 決して死の行進ではなかったことだけは言えます。
 人を恨んだり、自棄ヤケになったりする人もいません。

 軍人は二言フタコトめには「お国の為に」 と言いますが、誰もそんなことは
 思ったことも考えたこともありません。 強シいて言えばみんな自分の為に
 歩いているのです。 絶望を乗り越えて来た人々に残されたものは「希望」
があるのみです。 今は気がつかなくても先にささやかな希望があると思い
たいのです。

市川駅。 ここから千葉行きの電車が出ました。 これも嬉しかった。
 始めは車内の通路に座り込む人もいました。 しかし発車時間が近かずいて
 混み始めると座っていた人も皆立って一人でも多くの人を乗せようとします。
誰も不服をいいません。 みんな疲れているはずなのに。
〜清 石ー>゚、〜~<

後記 これから先終戦に至るまで書きたかったが蛇足になりそうなので
ここで止めておきます。 この文で何かを感じていただければ
これに過ぎる幸いはありません。
あとで読み直して小学生の書いた作文よりも拙い文章で気遅れして
います。 でも、もう書き直したくない。 このまま載せます。
清 石

このたび、戦争中のことを記録に残したいとかいうお誘いを請けて、
    ここに再びキーボードに向かって終戦前後のことを書き残すことに
    なりました。
    それもまた悪くはないか、と開き直って「終戦」をアップします。


00021/00023 NBA01033 「終戦」(1)
(11) 97/11/04 00:32

1.爆 撃

東京下谷の御徒町・荒川の尾久と二度の戦災で焼け出された両親は従業員
の中で希望する者を連れて長野県上水内(ミノチ)郡の新町に新たに工場を立て
 るので疎開しました。 一応日本無線という長野市にある大会社の下請け
 という形で軍事関係の補助があったのです。

父の会社は小規模で特殊な電気測定器を作っていました。 疎開先は其の昔
 はこのあたりの庄屋ではないかと思うのですが、その二階に父母と、他に従
 業員の中で同行を希望する何人かが生活出来るほどの大きな家です。

少し離れた所に倉庫のような納屋があって天井の梁(ハリ)には昔の乗り物に使
 う駕篭が下がっています。 その一棟を工場にする計画だと聞きました。
しかし製作用の機械や材料の不足でついに終戦を迎えるまで何も手は付けら
 れなかったのです。

私は当時西千葉の学校の研究所にいて分析や実験の手伝いをしていました。
稲毛の駅近くに下宿屋があり、ここから研究所に通っていたのです。
日曜には歩いて十分程の海岸へ行って潮干狩りや海に潜って青柳(バカ貝)
 等を採ったり、ついでにゴカイも掘ってハゼやセイゴを釣りました。

 釣った魚や掘った貝は下宿屋の親父さんが米に替えてくれましたし、研究所
 の広い敷地内では畑にする土地も貸して貰えましたので、ここでは食べるも
 のには困りません。

稲毛から西千葉まで国鉄の総武線で通うのですが、このは頃男手不足でキッ
 プの発売や改札は女性の駅員さんでした。 稲毛の改札はチョツト靨(エクボ)
 のある可愛い女の子でしたが奥手の私には話かけることも出来ず、そのくせ
 一日置きに出勤する其の子に定期を見せるときは何か胸がときめきます。

千葉にも敵機が度々来るようになりP51等はキーンという金属音のする爆
 音を響かせながら超低空飛行でやってきます。 低空飛行では高射砲も機関
 銃も利かず、迎撃機もスピードが違い手がつけられません。

敵機が機関銃を撃ったときは、キューンキューンと耳をつんざく音がします
 同時にバリバリバリと披弾して近くの学生寮の壁に横一列の穴があいたこと
 もあります。 兵舎と間違えたのではないかということです。

夜の空襲は綺麗です。ウオーン ウオーンとB29の爆音が響くと探照灯
 (サーチライト)が一斉に夜空を照らし何条もの白線がクロスしたり離れた
 りして闇夜に右往左往するのは、恐いとか恐ろしいとか云う感覚は全く無く
ショウを見るように美しく、飽きずに終わるまで眺めていました。

ときどきライトの中に銀色に輝く爆撃機が入っても、滅多に高射砲が命中す
 ることはありません。 パン パンと弾が炸裂して白い小さな雲が出来ても
 かなり離れているらしく敵の爆撃機は悠々と通過して行きます。

数十機が通過して当たるのは一機くらいなもの、それもすぐには落ちずに白
 い蒸気のような尾を引いて高度も下げずに飛び去ります。
 爆撃機ばかりでなく戦闘機も夜間に飛来するようになりました。

機関銃を撃ってくると弾着を知るための赤い曳光弾が見えて狙っている方向
がわかります。 ある時千葉の方向で銃撃戦があり、曳光弾が高い所で消え
ました。 明くる日の情報でそれが猪端(イノハナ)山の監視哨に命中して犠牲者
が出たということでした。

そのうち戦争も激しくなり度々爆撃機も飛来しますが、一番不気味で寝られ
 ないのが時限爆弾です。夜のことでどこへ落ちたのかわからない。 敵機が
去って暫くして忘れたころに、あちこちから爆弾の炸裂する音が聞こえるの
です。

稲毛の少し先に加藤製作所というブルトーザーのようなキャタビラの付いた
トラクターを制作しているところがあります。 ここの夜間の空襲は近かっ
 たので手にとるように見えました。 雨のように焼夷弾が降ってきます。

屋根を突き抜けて工場の中で燃えるのもあり、まるで巨人が大勢で線香花火
 を楽しんでいるようです。 何発か下宿のそばにも落ちたのですが家に当た
 らなければ平気で見ていられます。 もう空襲にもすっかり馴れてしまいま
 した。

そのうちの一発がすぐ近くの家に落ちました。 幸い火の手は上がらず、
 「焼夷弾落下」の叫び声でそれを知った位でした。 時限爆弾かも知れない
 と周囲の家に立ち退き命令が出ました。

翌日研究所に行くとき改札の娘(コ)が「昨日の爆撃ひどかったわね、大丈夫
 だった?」 これがその娘と口を利いた最初です。 それからは往復の度に
 人の居ない時に、或いはわざわざ人の列の最後から出たのでしょうが、二言
 三言話を交わすようになりました。

昨日の時限爆弾は軍隊が掘り起こしてみたら、親子焼夷弾の一番先に付いて
 いる弾頭で、ただの真鍮の固まりだったということでした。 独楽を大きく
 した形で、屋根を突き抜け風呂場の湯船の底を抜き、地下数米から掘り起こ
 されたということです。

2.送別

私に入営通知が来たのは終戦二十日(ハツカ)前の日です。 研究所では日の丸
の旗に寄せ書きをしてくれたり、千人針をくれたりして見送ってくれました
千人針というのは白晒しの生地に千人の女性が赤い糸を通した針で縫い差し
 して結び目を付ける。

 白地に赤い結び目が点々と順序よく並んだ「千人の赤心を縫い込めた」とい
 う縁起物で寅年の人は年の数だけ縫うことができました。
所々に穴の明いた五銭玉が付いているのは四銭(シセン)(死線)を越える、と言
 う意味だそうです。

 入営先は岐阜市。私の養父の本籍が愛知県だからでしょう。
そのころ遠距離の汽車のキップは申請書だとか証明書だとかうるさいことを
云ってなかなかすぐには買えませんでしたが、軍関係は最優先です。

下宿へ帰るときにキップを買ったのですが、あの娘は私の手にした千人針を
 見て入営を知り、「私にも縫わせて」と言って持っていってしまいました。
下宿に帰り荷物の整理をして駅からチッキ(キップを見せれば大きな荷物は
 別便で送ってくれる。 チッキというのはチケットの事ではないかと思う)
で出します。

改札口を通るときに「ハイこれ」といって千人針を渡してくれました。
一旦父母の居る信州新町へ寄ります。 途中下車で長野で降り荷物を受け
 取って駅裏へ回りました。 新町行きのバスは一日二往復、それよりも
駅裏の貨物扱い所でトラックを捜したほうが早いのです。 新町を通る
 トラックは駅員に聞けばすぐ見つかります。

トラックの運ちゃんもお礼にバス代より少し余計に包んでやれば気持ちよく
 便乗させてくれます。  家へ帰ると、その日は歓送会。 ウサギや山羊の
 肉のスキヤキはここでは上等のご馳走です。

送別会も終わりに近かずいた頃、私はアコーディオンを持って犀川の橋に腰
 掛け一人静かに弾きました。 「先生何故戦争をするの・なぜ軍隊に行かな
 ければいけないのですか」 私の好きだった教官に聞いたことがあります。

この教官、軍事教練を教えるのですが、実戦に出て片足を負傷した帰還兵で、
それだけの理由で教練を教えている機械科の先生。 ときどき「戦地へ行っ
 ても死ぬなよ、俺だって戦争へ行ってみて何のために戦うのだろう、と考え
 たことがあるよ」などと死なない要領などを話してくれました。

なぜ軍隊に……。の答えは「仕方がないんだ」の一言。 仕方がないのです。


3・入 営
夜行列車で岐阜に向かいます。満員の車内へ入らずに扉のない車両のデッキ
に座ります。 流れる暗い田畑にはホタルが飛び、足下にも青白い光の糸が
 いつまでも流れています。ときどき汽車の煙突から出る赤い火花も流れます

駆け出したら飛び乗れる程の速度で汽車は岐阜へ向かいました。

岐阜駅を着いたのは夜明け近く。ここでも夜の名残りの市電の線路にホタル
 が大きな明かりを灯して、地面すれすれに飛び交っていました。 岐阜市内
 は焼け野原。 二三日前に空襲があったらしいのです。

停留所でもないのに市電が止まっていました。 線路伝いに歩きます。夜が
明けて焼け跡の無いところへ来ました。 入隊すべき68(ロッパチ)歩兵隊を
訪ねると、本日の入隊者は明日○○小学校の前集合と大きく書いてあります

理由はわかりません。 誰もききません。 仕方がないのです。 すべて理屈
抜きなのです。 その日一日ただブラブラと過ごしました。 寝る所もない。
夕方、明日集合の学校へ行ってみることにしました。確認をしておかないと

万一遅刻したら逃亡者と呼ばれても仕方がないのです。 一軒の家で学校の
 ある所を聞きました。 「すぐ近くだけど明日の集合なら今日は家へ泊まっ
 てゆきなさい、十分もあれば行けるから」 その言葉に甘えて、その日は泊め
 ていただきました。

この家の息子さんも一週間前に入隊して部屋が明いていたのです。 夕食も
朝食もご馳走になり、教えて頂いたとうり歩いて学校に着きました。

学校に居た兵士に入営の葉書を見せ、確認して呼ばれた番号で斑を造り、隊
 列を組んで歩いて人里離れた神社の境内へ着きます。 ここで身体検査。
素っ裸です。 まさにチン列。

五六十人の身体検査で一人だけ返されたのがいました。 往復ビンタを幾つ
 も喰って。 性病です。 先をしごかれたとき膿が出たのです。
私達は検査が終わると服を着て、歩かせられました。 囚人になったような
 気になります。 とらわれの身なのです。 

兵舎へは向かわずに汽車の線路の見える小学校に連れてゆかれました。
ここでは古年兵が歓迎してくれます。 豚汁とお新香と白い飯。お変わり
自由といいますがアルミのお皿に山盛りのご飯。 私には食べ切れません。

毛布か配給になり、寝方や起きたときの畳み方を教わりました。 実は私は
学校の軍事教練で東富士の演習に参加しているので、このあたりは聞かなく
 ても要領を良く覚えていました。 机をかたずけた教室が私達の兵舎です。

翌日起床、校庭へ整列し点呼などが終わって兵舎に戻ったときに、畳んで積
 み重ねた毛布が、すべてひっくり返されていました。 ただ一カ所私の畳ん
 だものだけが残こされています。 畳んで重ねてから手で食い違いの無いよ
 うに整え角張らせて、きちんとなっているように見せかけるのがコツです。

その後何度か同年兵の噂で耳にしたのに「江戸っ子は恐いな」という言葉が
 あります。 東京弁を江戸っ子というらしい。 私にとっては、このあたり
 の言葉の方が恐い。 「ねぶれ」「天晴れ」「わーややなあ」大体の関西の
 言葉はみみに易しいのですが悪口憎言の類は東京の言葉よりねばりがあり汚
 いように感じました。

00022/00023 NBA01033 「終戦」(2)
(11) 97/11/04 00:33

3.終戦

終戦の声を聞くまでは快適とまではは行きませんが、軍隊生活も特に苦には
なりませんでした。 運良く、と言って良いのかどうか判りませんが、赤痢
患者が数人出て、要領良くその看護あたりに回ってしまうと訓練に参加しな
 くても済みます。

この赤痢患者は出身地が同じところで在るところから、同地域の飲み水に赤
 痢菌があったと断定されました。 一週間後にその兵士は入院することにな
 り、 大八車に載せて軍の病院まで運びました。

 軍隊には使役(シエキ)と言う仕事があります。 日常勤務以外の特定又は不特定
 の仕事を指し例えば病院へ患者を運んだり、将校の使いをしたりすることで
 古年兵の班長から名指しで言いつけられるときもありますし、希望者を募る
 ときもあります。

私は重労働以外の使役なら何でも引き受けました。 それに班長も要領を心
 得ている私のような者は、使役に出してしまったほうが気を使わなくても良
 かったのでしょう。

米搗(ツ)きの使役というのは楽で愉しかった。 上官の先導で大八車に玄米を
 山積みにして村はずれの精米所まで運びます。 白米にして貰うのですが時
 間がかかる。 その間裏の川で水遊び。 一時間も遊ぶと精米所の親父が呼
 びにきて、「支度ができたよ」

二階に通されるとそこにはテンプラと白い飯があって腹いっぱい食べてよい
 のです。
玄米を白米にすると当然糠がでます。 その分搗きべりといって米の量が減
ります。 それが何割か決まっているらしく少し多めに見て搗き賃の代わり
 にするのが公認になっているらしいのです。

米は目方で計って受け取るわけではないので余分に取って貰ってその中から
オカズ代と手間にして貰うらしい。 私以外の人は良くたべました。
軍隊というところでは、初日に多くて食べきれなかった食事も三日目になる
 と足りなくなる。 それほど運動が激しいのです。

しかし私は訓練をせず楽な使役をやっていたので、皆のように食べられませ
 んでした。 隊へ帰ってからの夕食も私だけは食べましたが一緒に行った他
 のものは残したり手をつけなかったりしていました。

追々服装も整って、所属の隊や中隊長・小隊長も配属され「迫撃砲隊」とい
 うことになったのです。この頃もう国外への派兵はできなくなっていました
舟もなく沖縄で「大和」も沈み、やがて広島・長崎のピカドン(原爆)です。

昼寝を起こされて廊下へ整列し、何だかわからない陛下の言葉を聞き、又昼
 寝の続きです。 今度起こされたとき始めて敗戦を聞かされました。
さっきの何だか判らなかった「御言葉」終戦の詔勅だったのです。

このときは何の感動もなく、過ごしましたが日を追うにつれ、全員捕虜説
 や「下士官から上が捕虜になる」説とか、将官以上説あたりが話題になり
 ました。 近くに各務ケ原(カガミガハラ)の飛行隊があり脱走兵が出て、「全
 員復帰すれば罪みは問わない」というようなビラも撒かれた、という話も
 耳に入りました。

神様と云われる上等兵あたりは、これから新兵をシゴクというところだった
腹いせでしょう。 我々の教育をはじめました。 長い竹竿にボロ布を結ん
だものをリヤカーを引いて走り回る下に突っ込む訓練もありました。
布団爆雷というやつで、リヤカーは戦車の代用です。 これが本物なら爆弾
 と共に爆死は間違いありません

休憩時間になるとアッチコッチでコックリさんが始まります。
紙に「東西南北」や「いろは」「数字」「鳥居」などを書いたものの上を三
本の割り箸の一端を結び二本の端を二人で目を瞑って持つ。
 四本の箸を使い三人でやるのもあります。 狐狗狸でコックリです。

「コックリさん・コックリさん・羽黒の山のコックリさん・稲葉の山のコッ
 クリさん…」と唱(トナ)えると無意識のうちに箸を持つ手が動いて願いごとの
返事を残った一本の箸が数字や文字を辿って知らせてくれるというものです

しかしこれは全く当たりませんでした。 明日とか三日後とかいう返事で、
 終いには皆がそれに飽きて、もう誰れもやらなくなって忘れてしまったころ
 に帰還命令が出ました。

4.帰省

岐阜の駅に立ったのは終戦後半月もたってからでした。
航空隊のお余りの、米や砂糖それに乾燥タマゴとかチョコレートまで背負い
 袋に詰め込んで。
後まで残る士官・下士官はもっとたくさんのお土産があったのでしょうが、
それより一日も早く帰りたいというのが本心です。

長野駅に着いたのは夕方でした。 もうバスもトラックもないので、ここで
泊まります。お金はたくさん持っています。入営するときは十円以上持って
きてはいけない。というお達しがありましたが、帰りはお給料を沢山貰って
 きましたので懐は暖かでした。

たった一月ですが軍隊では半期ごとの勘定で六ケ月分、の給料が支給されま
 した。 私の貰った給料には百円札があって、この時代馬が買えるという大
 金です。 食事を済ませてから宿捜し。

善光寺様の参道のはずれには宿が沢山あります。 「坊」という参拝者が泊
 まるところは安いのですがお金があるので旅館にしました。しかしこの旅館
何故か大勢泊まっていて、四人の相部屋で良ければというのです。

 寝る所さえ有ればここが軍隊でないだけ増し。
 先ずさきに風呂へはいります。 誰か先に入っていて脱衣所の篭に二つ着物
 が入っていました。「ごめんなさい」「はいどうぞ」女の人の声でした。

 湯船に親子が浸かっていてお母さんと娘でしょう。 私は背中を向けてざっ
 と流しましたが親子は上がりません。 そればかりか「どうぞ」と言って私
 が入れるほどに娘を引き寄せ脇を空けてくれます。

言われるままに遠慮がちに隅みに入りましたが顔は見ませんでした。
 やがて母親は前を隠して上がりましたが、後ろ姿のフックラとしたお尻は私
 の男に妙な反応を起こさせます。

 続いて女の子が上がる。 この方は滑らかな二つの小山を惜しげもなく私に
 向けます。目を閉じた私の脳裏には伊豆の踊り子が露天の共同浴場から二階
 の私に向かい生まれたままの姿で両手を振る、という光景が浮かんで離れま
 せん。

 宿の女将さんが案内してくれた座敷には布団が敷いてあり、薄暗い部屋なの
 で誰かがすでに三人寝ているというのは判りますが、その人達、若いのか年
 寄りなのかまではわかりません。 とにかく横になると隣に寝ている人は女。

長いこと男の中に暮らしていると髪の匂いですぐに、男女の区別がつくので
 す。 年寄りも匂いで判る。 寝ている人は年寄りではありません。
さっき風呂であった人ではないのはたしかです。 女の子の声は他の部屋で
聞こえました。

軍隊での習慣かそれとも列車の長道中で疲れたのか、夢も見ずにぐっすりと
寝てしまいました。 何しろ一月ぶりで毛布と違って柔らかい布団で寝たの
ですから。

翌日目が覚めたときは雨戸が空けられており寝ているのは私だけ。 他の三人
は早立ちか、布団もたたんであって姿は見えません。私の下腹部に妙に冷た
 いものを感じて手で越中を触って見ると、何故かヌルッとした手触りが…。

 5.米兵

新町の家へは例に依ってトラック便乗です。 突然帰った私に母は蕎麦ガキ
で迎えてくれました。 軍隊にいて当たり前のように食べていた米は、ここ
では貴重品でした。 砂糖なんて暫く見ていないという話です。

 でも、このソバガキは絶品でした。 蕎麦の匂いと味がして。 以前ここに
訪ねて来たとき、蕎麦を都会風に音を立ててすすり込むのを見て母は言った
ものです。 「お蕎麦はね、噛めば噛む程味があって、おいしいよ」

そうなんです。 そばをすする、というのは職人の江戸っ子が、簡単で安い
食べ物のソバを一時の腹ふさぎに、大急ぎで食べた。 その食べ方が現在も
 伝えられ、「ソバなんざぁ噛んで食うもんじゃねーや」とか言ってます。

でも本当の蕎麦の通(ツウ)なら良く噛んで味あわなくてはならないはずです。
信州の蕎麦が旨いというのは、食べるまで殻(カラ)を取らずに冷たい納屋に保
 管しておき、食べるときにその分だけ脱穀して挽くから旨いし香りも高いの
 です。

私は暫くここで過ごしました。 前の犀川でヤマベ(おいかわ)を釣ったり
篠ノ井へリンゴの買い出しをしたり、土地の若者とヤマメやイワナを釣りに
行ったりしていましたが。 あるとき凄い豪雨に見舞われ、この二階の家の
下全部、天井まで浸水したことがあります。

畳に座ったまま老婆が流れて来ました。 裏側の山では地滑りで三つの緑の
 山が目の前で緑が削り落ち、赤土の山に変りました。 あとで聞くと下のダ
 ムで水を止めてしまったとか。

そんなことがあって一週間ほど経ち、少し落ちついた頃私は千葉の研究所へ
戻ることにしました。 ここへはまだトラックも来ない、食料はもともと自
 給の町ですから、ここの住民は良いとしても私はよそ者です。

自転車で長野駅まで行くことにしました。 自転車は駅に預け、トラックが
 通るようになったら届けて貰へば良いのです。 トラックもバスも通らない
 筈。 道路が随所で陥没して土砂が川へはみ出しています。

 自転車を一度陥没している道の下へ降ろしてから自分が飛び降り、今度は自
 転車を上にあげ自分も這い上がるの繰り返し。 次の橋までそんなところが
 数カ所ありました。 この橋を過ぎたところで一番始め出会ったのはジープ
 に乗った米兵でした。 私を見て大声で何か言っています。

一瞬ドキッとしました。 私は日本兵。 でも良く聞くと、この道で篠ノ井
 へ行けるか。 ということらしい。 ノウノウと私は手真似で道路の陥没を
教えました。 センキュー(サンキュー)といって私にチューインガムをく
 れて引き返して行きましたが、始めて戦争に負けたというのを実感したの
 は、この米兵に会ったことと私の手の中の外国製ガムを見たときです。

長野駅の近くで青いリンゴを買いそれを土産に夜行列車に乗って東京へ向か
 いました。 そして西千葉へ。

6.復職

研究室では皆さんが暖かく迎えてくださいました。 用務員のおばさんは
貴重な餅米で赤飯まで炊いてくれ、寝るところが無いだろうから、と所長
に相談して研究室の一室を借りてくれました。

 もともとここは軍事に関係のあるような無いような研究で、気の長い実験
をやっているのですから終戦の影響はさしてありません。 中でも傑作な
のはアルコールを紅茶で色付けし、それを放射線にかけるとウイスキーに
なる。

なんていうこともやっていましたし、私は実験の合間にアブラと 苛性ソーダー
 をまぜ、水素で還元して石鹸を作って喜ばれたりしていたのです。でも戦時
 中は航研(航空研究所)で使うジュラルミンのアルミとマグネシュウムの研
 究らしきものも分担でやっていたこともありました。
今度は平和産業への切り替えです。

研究所の仲間で帰還していない人もいます。 沖縄県人の仲松徳仁君。 私
 がここを去るまでついに行方は判りませんでした。

ある日、私が東京へ実験材料を取りに行って夕方帰ってくると、用務員の
 おばさんが、窓から何か意味ありげに手招きします。 用務室に寄ると
あんたを訪ねて来た女の娘(コ)が一時間近く帰りを待っていた。 というの
 です。

私に女の子が? まったく心当たりがありません。 汽車の時間があるから
 といって名前も言わずに黙って帰ったそうです。 おばさんには変な目で見
 られましたが本当に心あたりがないのです。 「部屋へ行ってみな」という
 ので材料を届けてから部屋に戻りました。

そこには一束(ヒトタバ)の名も知らぬ野の花がビーカーに入れてありました。
その人が持ってきたのを、おばさんが花瓶かわりのビーカーに入れておいて
 くれたのでしょう。

その日の夜洗濯をしていて、ついでに背負い袋にはいっていた下着も洗いま
 した。 千人針の腹巻きも。 そして一番端に離れたところに縫いつけて
ある五銭玉。 あわててビーカーの中の花を取り出し、結んであったリボン
 代わりの青いハンカチを解くと一枚の切符がヒラリと落ちました。

拾いあげて見ると稲毛駅の入場券。 裏には「さようなら」とえんぴつで書
 いてありました。 最近はどの駅にも、もう女子の駅員はいません。

〜清 石ー>゚、〜<

00023/00023 NBA01033 「終戦」(3)
(11) 97/11/04 00:33

  ■解放

亥鼻山の公園ではダンスパーティのワルツの音が華やかにあふれていま
 した。
ここだけセンターのポールから放射状に吊るされた裸電球がまばゆい光を
放ち、遠くから見れば炎のない火事のように明るく燃えています。

人々は灯火を慕う虫のように、この明かりを便りに薄暗い小道の上の丘に集
 まります。 戦争が終わって平和が訪れ、ソーシァルダンスが流行(ハヤ)り、
少し大きな公園や戦火に会わずに焼け残った公会堂などでは毎夜どこかで

ダンスパーティが行われていました。 主食はコッペパンや芋でも若いエネ
ルギーは縛られた禁欲生活から解放され、暫しの快楽を求め明かりを慕って
 て集まるのです。

これは廃退的デカダンスではなく解放の象徴であったのです。 その一方で
 この亥鼻山の麓に流れる掘りのような寒川では一艘の小舟がダンパ(ダンス
 パーティ)の木の葉越しの明かりでウナギを釣っていました。

カーバイトランプは炎を落とし明かりが舟の外へ出ないように手元を照らす
だけで船端へ身を乗り出しながら、玉網を片手に降ろした数本の仕掛けを交
 互に上げるのは数珠ゴ釣りです。

 細い針金にゴカイを何匹も通し差しにし、房のようにして上に錘を付けて降
 ろすだけ。 ウナギはその房の中に頭を突っ込んで食べているのを静かに引き
上げて玉網を水中に入れ掬うのです。 これも商売になります。
 小ウナギでも串に差して丸焼きにして売るのです。

ダンスパーティとウナギ釣り。 対照的な風景ですが、それが違和感がない
時代でした。 

千葉市内では鹿島灘方向から東京・横浜を目指して来る、B29爆撃機の
 コースから外れるのか、それともそれ程重要な地点ではなかったのか、幸い
戦禍にあった所はわずかで、食料事情も逼迫はしていません。 しかし農家
でもなく漁師でもない私達は物価の上がる世の中で僅かな給料の暮らしでは
 決して楽ではありません。

 でも千葉や船橋に出れば口に入るものが買えます。 船橋では魚市場のセリ
 が終わった後、戸板の上でマグロの骨や頭を置いて匙で僅かに残る身を掻き
 落として売るおばさんがいます。

 その掻き落としの身を買って、赤いモロコシの混ざった飯に載せて食べれば
 赤飯の鉄火丼です。
 千葉まで出れば貝柱の大きな平ら貝やアサリが買えます。 これを買って
全部自分で食べるのではなく小岩あたりへ持っていって売れば何とかやって
ゆけます。

その頃ヤミ市とかブローカーとかがにわかに増えて政府の流通機構の不備を
 補って東京あたりの市民(まだ都にはなっていない)の命を支えていました
 が、私のはそれと違って自分一人が給料の不足を補う為の休日の、今で云う
 アルバイトでした。

戦時中のアルバイトという言葉は仕事、すなわち勤労奉仕のことに使われて
いて報酬にはかかわりがないのです。

■復興への道

色町も復活して参りました。 夜になるとその一角はピンクの明かりが灯り
 遠目にもそれとわかる別天地です。

多くを語れませんが初期のうちは店には写真だけが並べて飾ってあり、客は
写真で品定め。 店には若い衆かおばさんが応対して、客の好みが決まり、
「ひきつけ」という小さい部屋に通され茶菓がでて料金の相談をする。

これが決まると写真の女性が来て別の部屋へ案内してくれる。 こんなシス
 テムでした。 写真が無くなって女性が直接店に出るようになったのは、
 もっと後の事です。

私の務める研究所の同輩に千葉の穴川あたりの遊郭の息子が居りました。
中庭を囲んで同じ棟に店と住まいがあり、休日の昼間に訪ねたときは大勢
 のお姉さんが洗濯物を干したり、集まって話しをしていました。
彼の妹の部屋にはオルガンも置かれている極普通の住居です。

進駐軍と呼ばれた米兵達が来ると日本人の客が少なくなるのか、それとも行
 政の指導によるものか、不明ですがOFF LIMITSの白地に黒く書かれた看板が
 店の軒下や楼閣への入り口に掲げられたのは、それから間もなくのことです。

米兵達の相手をしていたのは街娼です。街角に立って客を引き、宿へ連れ込
 む これが「パンパン」と云われる人種です。 東京では銀座の服部時計店
 のあたりが有名です。 「楽町(ラクチョウ)のおとき」などはラジオの街頭録音で
 知られるようになったので、ご存じの方も多いでしょう。

 朝鮮戦争が始まる頃になると軍需工場が駐留軍関係の工場に変わって、米軍
 将校がその管理にあたります。 工場関係ばかりではなく将校や日本に長く
 滞在が決まった軍の将校には「オンリーさん」と呼ばれる日本人妻が要求さ
 れました。 

 日本で云う「おめかけさん」です 家も宿舎外に建てて通うものも居ります
 今思えば「進駐軍」からこの「駐留軍」と呼び名が変わっていく、朝鮮戦争
 が日本の復興に大きな貢献があったのではないのでしょうか。

駐留軍の食堂から集めた食事の残飯(米は使いません・ダイガラとも言いま
す)を集めて選別し、大きなアルミ桶で煮て濃厚なシチュー状にしたものが
 新橋の屋台で売られていて、非常に人気がありました。 西洋料理など絶対
 に食べられない時代ですから。

タバコの吸殻が入っていたとか指輪を食べた、という話しも聞きましたが、
 それでも労働者やサラリーマンの貴重な栄養源です。

駐留軍に縁の少ない戦災地で、農家に親戚を持たない人々の食料は、少ない
 配給が頼りですが、それでは働く為の栄養もカロリーも足りません。
 その不足分をヤミ米・とかヤミの食料でまかなうのです。

疎開してあった荷物や命カラガラ逃げるときに持ち出した衣料などを地方の
農家へ持っていって米や野菜に交換して貰うのです。 或いは時計や衣類を
売ってヤミで買います。 政府の定めた価格を公定価格、(略して丸公)
と言い、それより高い価格で取引されるのがヤミ(闇)価格です。

  絶対数が不足しているのですからヤミ取引は当たり前でしたが、これを拒否
して栄養失調で亡くなった学者さんも居りました。 衣食住が足りて始めて正
 義は行われます。 何を正義というのかも問題ですが。

その頃つとめ先(と言ってもここに住み込んでいました)で自由に手に入る
 食料に「澱粉餅」がありました。 餅と呼んではいますが甘藷・馬鈴薯から
 澱粉を採った滓(カス)をなまこ餅のような形状に固めたもので、異様な臭気が
 します。

栄養などあろうはずも有りませんが、それでも腹の減ったときには焼いて食
 べました。 芋粉という、甘藷を乾燥して粉にした、一見そば粉に見えるも
 のならまだ良いほうで、これは水で練って茹でてスイトンにして食べます。

簡単に手に入る野菜として野蒜(ノビル)がありました。 これは虫がいるとい
 けないと云って焼いてたべます。 東京の親戚に行くときは澱粉餅を沢山
 持って行くと喜ばれます。 秋葉原あたりで立ち売りすると飛ぶように売れ
 たそうです。

一時はこれで生計を立てていたということを、後で聞きました。 この叔父
は今は亡き数に入る方ですが、死の間際に当時の事を語り私に宜しく伝へて
 くれ、と言い残したそうです。 私は小学生の頃この叔父さんからカメラや
 撮影を教えて頂きました。 それが今役立っています。

 当時のカメラに箱にレンズを付けた東郷カメラというのがありましたが、其
 の次に叔父からいただいたのがベスト(版)単玉の蛇腹、いわゆるベスタン
 カメラでした。 戦後暫くして私が手にしたのはコンタックスでこれは宝物
 でした。 でもフイルムの入手が大変。
 
当時誰が作ったのか最高発明品に、長く四角い木の枠を造り、その内側長手
 の左右に鉄板をあてます。 下に板 を敷いて上にその枠を載せ、芋粉または
 小麦粉に重曹と塩を少々混ぜたものを練って枠に流し込み左右の鉄板にAC
 100Vの電流を流すとパンが出来ます。 出来上がれば自動的に電気は切れ
 ます。 どこの家庭でも使っていました。

進駐軍や駐留軍からチョコレートやタバコ・ガムを買うのも良い小使い稼ぎ
 になりました。簡単な片言の英語で用がたります。 たとえば ハブ ユー
 チョコレート でよいのです。 あとはハウマッチ サンキューですみます。

小岩あたりで買い、そして売ります。 話す勇気があれば誰でも出来る簡単
な商売です。 兵隊はPXから買ってきて売る。 売った金でパンパンを買
 う。 持ちつ持たれつです。 このパンパンがいたので、国内の子女は暴行
されずに済んだのです。(パンパンというのは売春婦でパンパンと手を叩け
 ば寄ってくるのでこの名があるとか・・・。

新橋のヤミ市が無くなった頃には、焼け跡から拾って来た材木やトタンで各々
 が建てた仮設住宅紛いの家も少なくなり、復興に目覚ましいものがありました

再 会 ?
職場にも労働組合が出来、食料だけは満足とはゆきませんが、精神的に余裕
 が持てるようになったのでしょう。 歌謡曲やポピュラーミュージック・俳
 句にダンス。 こんな娯楽で苦しい生活を忘れ且つエンジョイしていたよう
 です。

私も青春真っ盛り、俳句やダンスを習い、日曜は釣り。 仕事が終わってか
らは、お金が足りないときは、たまに小岩で一仕事。 懐が暖かければ千葉
あたりの臨時ダンスホールで踊ったりしていました。
 当時の曲目はラ・クンパルシーター ピーナッツベンダ・ボレロなどでした。
 
千葉市内では米兵は少なく街娼は見かけませんでしたが将校と一緒に歩く、
オンリーさんはたまに見ることがあります。 オンリーさんとは日本国内での
 仮りの妻で、うまく行けば国際結婚の夢も無くはありません。


ある日の夕方 亥鼻山の公園でダンスの大会があるというので出かけました。
向こうから小太りの将校の腕にぶら下がるようにしてオンリーサンが愉しそ
 うに話しながら歩いてきました。 街娼との違いは服装でわかります。
街娼は派手目の服装ですが、どこか薄汚れています。

 オンリーさんは派手でも本物を身に付けていて心のゆとりか周囲を気にした
 りしない。 ハイヤーとタクシーの違いと言えば判ってもらえるでしょう。
 たとえ期間はみじかくても奥様というプライドがそうさせるのでしょう。
実際に結婚した人もいます。

その人、片靨(エクボ)の可愛い顔をしています。 すれ違ってハッと気がつき
 ました。 違うかも知れないが、もしかしたら。 あの娘(コ)かな。 稲毛の。
振り向くと、向こうでも振り向いて………。
   〜清 石ー>゚、〜<