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夢窓疎石は、室町時代における禅宗発展の基礎を
築いた人物であるが、それ
だけではなく、またその作庭によっても広くその名を知られている。
「苔寺」の愛称で知られる西芳寺庭園、「天心秋を浸す曹源池」と『太平記』に記される天龍寺庭園、岐阜県多治見市の永保寺庭園、鎌倉の瑞泉寺庭園、
山梨市の恵林寺庭園など、いずれも夢窓作庭の由緒をもつ名園として
人々に親しまれている。
しかし、夢窓のように、僧侶として一時代を代表するような人物が、同時に庭園作者として名を成す、ということは、歴史上例のないことである。そしてそれは大変意味深いことであろう。なぜなら、そのような場合には必然的に、思想と作庭とが、きわめて緊密に結びつけられることになるであろうからである。夢窓の作庭は、実際、禅の思想と作庭とがきわめて緊密に結びつけられた稀有な作品となった。われわれはその典型を、西芳寺庭園のうちに見出すことができるであろう。この庭園において、夢窓は「禅の公案の形象化」という前代未聞の原理に従って、作庭を行ったのであった。
しかし、庭園における禅の公案の形象化というものが、池や島や建物などを禅の公案に出てくる名前によって名づけ、そうして禅の師祖たちのエピソードを身近なものにする、というだけのことならば、そうした作庭は、単に禅的に見立てられた環境を作る、ということに過ぎないであろう。西芳寺の庭園においても、下方の平坦地に築かれた「黄金池」をめぐる廻遊式の泉池庭園は、多分にそうした環境作成的なものである。それは以前からあった浄土式庭園の構えをおおむね生かし、そしてその随所に、『碧巌録』第十八則にちなんだ建物などを配し、雰囲気を引き締め、廻遊式の、散策にふさわしい庭園としたものである。鶴島・亀島などの神仙思想的な景物や、松尾明神の影向石なども
違和感無く置かれ、多分に折衷的であり、また多分に社交性を備えながらも、遊興性に流れることはなく、庭園という場そのものはしっかりと禅の公案が展開される空間になっている。
しかしながら、夢窓がおそらくは全力を傾けて、みずからの生と
思想の形象として造形したのは、本堂裏手の山腹に築かれた、いわゆる「洪隠山枯滝石組」である。この枯滝石組を柳田聖山氏は夢窓の
「寿塔」として読み取るが、それはおそらくきわめて的確な
解釈である。この枯滝石組は、元からあった遺構を改造した
ものではなく、夢窓が一から設計して制作したものである。われわれは後に、この石組の中に入ってゆくつもりであるが、自分自身の、「悟り」に至る苦難の歩みと、その「悟り」そのものをも造形したと思えるこの石の庭は、まさにその悟りと歩みを表現しているゆえに、庭園についての、そしてまた庭園に用いられる石というものについての、それ以前の考え方を、つまり浄土
庭園的な考え方を、きっぱりと断ち切っているように見えるのである。そしてここで禅的な「悟り」によって断ち切られるのは、石についての、庭についての考え方だけではない。それと共に、この時代に急速に浮上してくる、古代的な、物事の「なまな様相」に関わる、呪性的な感受性や、バサラ的な、明日の生活についての顧慮を捨てた、金剛石のように強固な、一種の思想の狂気もまた、断ち切られるのである。この石組は、夢窓自身の思考の記念碑であるとともに、また、夢窓国師の多大な影響のもとに、古代的な感受性を捨て去る道を選択した日本中世の、今日なおも生き続ける記念碑でもあるのである。
われわれは、夢窓の西芳寺枯滝石組みについて論する前に、ここでまず、夢窓以前に存在していた、庭園や石についての考え方を探ってみることにしよう。
作庭は、その仕事の本性からして、土に関わり、水に関わり、樹木に関わり、石に関わる。そして、これらのものとの関わりにおいて、作庭は、古代的・民俗的・呪術宗教的な感受性と、深く結びついている。
土も水も樹木も石も、いずれも呪術的な力を帯びうるものであるが、作庭においてはとりわけ石の呪術性が最大の問題となる。院政期に著されたとされる
『作庭記』は「石をたつるにハ、おほくの禁忌あり。ひとつもこれを犯つれバ、あるじ常ニ病ありて、つひに命をうしなひ、所の荒廃して必鬼神のすみかとなるべし」と、避けるべき、石に関する数多くの禁忌を挙げている。とりわけ次のような禁忌が興味深い
。
ここで丑寅の方向を避けよ、という禁忌は陰陽五行の思想によって説明されるであろうが、「高さ四尺五尺に」なった大石が、霊石になったり、悪霊の
依代になったりする、という観念の方は、陰陽五行とは別の
系譜に属する、おそらくは、より古代的で、より民俗的な観念である。石には霊がつくのである。そしてその霊は、「悪念」と感じられる場合もあり、また「神聖」と感じられる場合もあるであろう。
たとえば、悪念をもつ霊石としては、那須野の殺生石が
有名である。この石は謡曲『殺生石』では、「玉藻の前と申しし人の、
執心の石」と成ったものだとされる。玉藻の前という女性は鳥羽院の寵愛を受けていたが、ある時狐の化生であるというその本性を暴かれ、宮廷を追われ、那須野に逃げ、そこに隠れ住む。しかしそこにも、「化生のものを退治せよ」との勅令がせまり、関東の武士数万騎に囲まれ、
ついに矢で射止められる。しかしその後にも執心が残り、殺生石となり、その石は時を経て「苔に朽ちた」後にも、それにさわる人間や鳥類畜類のいのちを取っていた、ということである。この謡曲の中には「石に精あり」とか「石魂」とかいう表現が見られ、石には「心」、あるいは「いのち」はないにしても、「精」、ないしは「魂」はあると見なされているのである。
ところでこの謡曲では、この殺生石は、さらに源翁という僧によって
成仏させられることになっている。この思想は興味深い。つまり、化生のものは王法によって、この国土において抹殺させられるが、王法によってはそのものの執心までは滅ぼすことができない。それを滅ぼしうるのはただ仏法だけだ、というのである。ここでは仏法の優位性が語られ、王法の力の限界が明確に語られている。こういうことは平安期の説話には見られないことである。そしてこのことと平行して、「苔」の意味も、大いに変化しているように
見える。先述したように「往来の人に、あたを今なす野のはらに立石の、苔に朽ちにし跡(=後)までも、執心をのこしきて…」と、ここでは石の呪性は、そこに苔がむした後にも、少しも減少しないことになっているのである。「苔」がむしても減少しない石の呪性とは、『作庭記』が思いも懸けていなかったことであった。『作庭記』は、「さて年をへて色もかはりこけもおひぬるハ、(中略)またくはゞかりあるべからず云々」と、苔が生えることを、石の呪性が消失したことの指標と考えているのである。そしてこの『作庭記』の思想には、『古今集』賀歌、
わが君は千世にやちよに
さゞれ石の巌となりて苔のむすまで
の「苔むす巌」の思想と、共通したところがあるように見える。苔むした石が、なおも悪念をもち、往来する人々のいのちを奪おうとしている、というようなことは、平安期の歌人や院政期の作庭家たちには想像しがたいことであったであろう。苔に覆われてもなおも熄むことのない悪念、執心、呪い、------
石にそれほどの霊性があるとされていることは、石の呪性に対する感受性の、一つの中世的な形態である、と言うことができるであろう。
しかし、このような、王権の霊的な力を超えかねないほどの石の
呪性というものは、中世になってはじめて現れてきたものではなく、むしろそれは古代的な石の呪性の再登場であるように見える。こうした石の呪性は、奈良時代にも未だ感じられていたようである。たとえば正史『続日本紀』
には、宝亀元年(770)二月の条に、石の祟りの事が記されている。
それは西大寺東塔の心礎に据えるべく、東大寺東の飯盛山から運んできた
縦横一丈(約三メートル)以上、厚さ九尺(約二・七メートル)の大石である。その石を削ったり刻んだりして、礎に据える作業が終わった時、巫覡
が「この石は祟るかも知れないよ」と言うので、結局、柴を積み重ねて焼き、酒を潅いで、片々に砕き、道路に捨てた、ということである。しかしその数日後には、天皇(称徳天皇)が胸苦しさを覚えるようになる。そこで占いをすると、「割れた石が祟りをなしているのだ」ということであった。そこでその割れ石を拾って境内に置き直し、人や馬が踏まないようにした、ということである。砕かれて片々になってもなおも祟り続ける石。この祟りの理由として、幾つかのことが推測される。飯盛山と西大寺とでは土地の親縁性が乏しいこと、多数の人夫を動員してむりやり運んだこと、石を削刻したこと、石を破却したこと、道路に打ち捨てたこと、これらのことはどれも石に対する一種の暴行であり、然るべき儀礼を欠いてそれらがなされるならば、それは当然祟りを招くであろう。そしておそらくはそれらの事すべてが、飯盛山の神性に対する、西大寺、及び称徳天皇の、畏敬の欠如を意味していたであろう。引かれて運ばれてゆくとき、この石は「鳴った」そうである(時復或鳴)。「鳴る」とは音に出してその存在を示すことである。引かれてゆく時にすでに、この石はおのれの不快の情を示していたのである。それに対して採られた措置が人夫の増員という権力主義的な措置だったのである。
この飯盛山の石の祟りについての『続日本紀』の記述はきわめて簡潔なものであるが、実際にはそれは一大事件として感じられたであろう。鎮められたとはいえこの祟りの事件は、山川草木国土のすべてが
王権の支配に服するようになったわけではない、ということを意味しているであろう。
石には、また神聖なものが多い。そしてこの神聖で畏れ多い石の
方こそが、古代からの霊石であったように見える。文献の上にも、ある娘が神の子を石として産み、その後その石を神として丁重に斎いた、という話が見られる(『日本霊異記』下巻三十一)。この話は美濃の国の方縣の郡水野の郷の楠見という村のことあるが、それによれば、そこのある豪族の娘が、嫁がず、未通のまま懐妊する。そして延暦元年の春に、二つの
四角い石を産む。一方は青と白の斑、他方は青一色で、大きさは十五センチぐらい(五寸)。毎年大きくなったということである。隣の淳見という郡には伊奈婆という大神があるが、ある時その神が巫女に取りついて「その産まれた二つの石は自分の子だ」と言う。そこで女は家の中に忌籬を立てて斎いた
ということである。
『霊異記』はこの話を、「是れも亦我が聖朝の奇異しき事なり」と、桓武天皇の時代の神聖さが、神の子を産むという奇しくも神
聖なできごとを誘ったのだ、と解釈するが、この話の内容そのものは、特に聖代とは結びつけずに、神の子の石を産んだ、という石の聖性を示す話として、理解することができるであろう。
この二つの神の子石の話は、『直幹申文絵詞』(十三世紀)第一段
に描かれた、大きさ十五センチぐらいの方形の石のことを思い起こさせる。
小さな祠の棚の上におかれたその石を、やや年配の女性が斎くように
拝しているのである。
また、『西行物語絵巻』(大原家本、十三世紀、第四段)
にも二つの小さめの丸石が描かれている。
それは紀伊の国八上社の、桧皮葺の小さな祠の扉の前の棚上で、そこに、供
えるように、あるいは斎かれるべきもののように、大きさ十五
センチぐらいの二つの丸石が置かれている。
これらの描かれた石は、『霊異記』の説話と重ね合わせてみるとき、い
ずれも神の子の小石神なのかもしれない、と思わせられれるのである。さらに推測を進めれば、『直幹申文絵詞』の参拝する巫女は、あるいはこの
石の母親なのかも知れない。いずれにせよ、「神聖な石」のカテゴリーの一つとして、このような「小石神」というカテゴリーが設けられるように思えるのである。
「小石神」は毎年大きくなる、という『霊異記』に記された感覚を、『西行絵巻』などの丸い小石に当てはめてみると、山梨県などで祭祀の
対象となっているいわゆる「丸石神」が、小石神とその成長したものとして理解されるようになる。山梨では、十五センチ位のものから、中には一メートルを超える大きさのものまで、丸石が、たいていは基壇の上に置き祀られて、
人々の身近な崇敬の対象になっている(中沢厚『石にやどるもの』平凡社)。そのような石にはやはり霊がこもっていると感じられているのであろう。そして丸石の場合、霊は、折口信夫が『霊魂の話』の中で語っているように、
石の中にじっと籠って、成長を待ち、割れて飛び出す時期を待っているのであろう。丸石は一種の卵であり、その卵は、割れて飛び出す時をひそかに待ちながら、人間ならば「物忌」にあたる、「籠り」の時を、恐ろしく
永い間、続けているのであろう。時期の到来を待って、人間には信じがたいほどの「悠久の」時の間を、じっと籠りに耐えている姿、そこにこそ
丸石の神聖さがあり、丸石が一種の「神」であり、崇敬されるべきものであるゆえんがあるのであろう。
この、石の霊は、成長して、割れて出てくるべき時を待っているのだ、という折口の説は、石の神聖さについての一つの古代的な感じ方を的確に示しているように見える。この説を背景にすれば、先述の「殺生石」も、
僧源翁によって引導を渡されることを、おのれ自身待っていた、と
考えることができる。謡曲ではその石は、源翁の法力によって二つに割られ、そしてそこから狐の「石魂」が現れ出てくるのである。そして、それによって初めて、この狐の魂は成仏することができるのである。ひそかに成仏できる日を待っていた悪霊石。そこでも霊は、石を割って飛び出す時を、邪気を発しながらも、じっと待っていたことになるであろう。
こうして見ると、石の形状次第ではあろうが、いったん石にこもった霊は、なかなかその石から外に出られないようである。霊の出にくい形状の石としては、丸石、卵形の石、楕円形の石、繭形の石など、表面全体が滑らかで角
の立っていない石、縫い目のない石がそうである、
ということになろう。こうして見ると、天狗を閉じ込めたなどの伝承をもつ
「櫃石」と呼ばれる石が、おおむね荒々しい陵角をもたない、比較的滑らかなタイプの石である理由が
飲み込めてくる。例えば兵庫県剣尾山山頂の櫃石、群馬県赤城山山腹の櫃石などが挙げられる。前者は『槻峰寺建立縁起絵巻』(1495年)に、山の天狗を閉じ込めた石として描かれているものである。
巨石ではあるが、表面のつややかな石である。角が立たず、表面のなめらかな石が、霊が外に出にくい石なのであろう。そのような石の場合には、霊が石に籠り、その石自体が霊力・呪力を発揮する霊石になるのである。
しかし、他方には、霊が「籠もる」という仕方によってではなく、別の仕方でそこについてくる石、とうものもあるであろう。先に『作庭記』が、「魔縁入来のたよりとなる」と記していたタイプの石は、そこに霊が
「籠もる」ようになる石ではなく、むしろ霊が寄りつき、宿り、泊り所とし、そして棲みついたりする石であると考えられる。こうした石は、出入りのしやすい石で、また目印になるようなものであろう。このように霊が依り所、泊り所、棲み所とする石もまた、特殊な石であろう。『作庭記』においては石の呪性が、「悪」という方向でだけ解釈されているが、古代的な感受性にとっては、石の呪性は、神の神聖性と一つのものと受け取られていたことであろう。それゆえ、霊の依り来る石は、もともとは神聖な石であり、畏れかつ
敬うべき石であったであろう。その典型が、「磐座」と呼ばれる石である。磐座は、たいてい山中に露出した一つの大きな自然石であるが、
そこに神霊が依り来たり、腰を
掛け、あるいは棲み留まるとされ、崇拝の
対象となるものである。われわれは、「小石神」、「丸石神」の他に、古代的な感受性が「神聖な石」と感じたと思われる石のもう一つのカテゴリーをここに認める。「磐座」もまた「神聖な石」の一カテゴリーであり、その霊力・呪力の強さという点では、抜きん出て強力な類の石であったと考えるのである。
「磐座」としては三輪山のものが有名でもあり、また
典型的でもある。しかし日本中のほとんど各地に、磐座と呼ばれる石、あるいはそう呼ばれて然るべき石が存在している。ちなみに、「磐座」の字義的な意味は、神のすわるしっかりとした堅い座席、ということであり、その用例はすでに『日本書紀』に見出
せる。ここではこうした「磐座」と呼ばれて然るべき石の例として、青森県津軽地方の霊山岩木山にある石を取り上げてみよう。
それは岩木山九合目の肩の所にある、御倉石(大倉石)と呼ばれる石である。この石は祖霊のおさまる場所だと言われている(小館衷三『岩木山信仰史』北方新社)。しかし、この石の感じさせることははるかにそれ以上のことである。それは、むしろ磐座というものの起源を感じさせる石、巌である。
この石がいつ頃から祭祀の対象となっているのか、ということを
私は詳らかにしないが、あるいは比較的新しいものなのかも知れない。いずれにせよそれは、今日、大変厚い崇拝の対象になっているように見える。例えば、その前には何体かの地蔵菩薩が置かれ、賽の
河原の積み石がなされ、また供養塔が立てら
れている。こうした崇拝は、死霊封じを思わせるものであるが、この石の場合には、さらになぜここに死者の霊が寄ってくるのか、ということの源泉を推察させる力があるのである。それは何よりも、この石、この巌が神聖だからなのである。そしてその神聖さは、「磐座」の神聖さと同じもの、あるいはむしろその源泉を感じさせるものなのである。死者の霊は、神聖なものの近みに寄り集って来たがるように見えるのである。問題はこの石の神聖さの質であろう。
まず言えることは、この石の「力」は、それが地から湧き
出してきたものである、ということから生じているように見えるということである。地の力との、非常に強い結びつきを、この石は保ち続けているように見える。つまりこの石は、地の大変に巨怪な力が、ある時ひと騒ぎを起こし、そしてその跡に遺していった痕跡、遺品、あるいは土産物、であるように見えるのである。力の「なまなましさ」があるのである。つまり、この巨大な石を産み出していった、さらに巨大な、「巨怪な」と言ってよいほどの、力が、この石にはつきまとっていると感じられるのである。それは地の力であり、地の湧き立つ力、地の、形成的、生産的な力であり、それが何とも途方もなく大きな力なのである。そしてそれは多分非常にコントロールのしにくい力なのである。この石はその力が実際に働いた「なまなましい場面」を思い起こさせるのである。そのことは、現に何らかの形態を備えて存在しているものは、その形態を生み出した一つの出来事と切り離すことができず、その形態を生み出したある力と切り離すことができない、ということを啓示することになる。つまり、存在しているものは生まれたもの、産み出されたものだ、ということをそれは教え、そしてまた、その産み出されつつある「なまなましい場面」を思い起こさせるのである。石もまた産み出されるものなのである。
この御倉石の場合には、それはマグマの上昇、噴火、
熔岩流、というような場面である。別の「磐座」の場合には、また別の場面が見えてくるであろう。しかしいずれの場合にも、磐座を崇敬のまなざしで
見るならば、その磐座の石その
ものを産み出した形成的な力が、その「なまな形」において見えてくるであろう。「なまな形」とは、まさにその形成作業を行っている場面のことである。清水の噴き出す場面、熔岩の流れ出す場面、じっくりと土が圧縮されて行く場面、などである。そしてこうした場面に、その形成作業を行っている力こそが、神聖な力であり、神であるはずなのだ。
こうしてわれわれはこの御倉石の神聖さの源に思い至る。
この石は地の力、山の力の溢れ出た形、であり、この石の神聖さの源泉は、地の生産的な力の途方もない大きさと、そのなまなましい働きとを、ありありと感じさせるところにあるように感じられるのである。このような神聖さは、石の神聖さの、最も古い形態ではないかと思われるのである。それは多分、一般に「磐座」と呼ばれる石よりも、もっと古い形式の神聖さであろう。一般の磐座は、神がどこかから降りてくるところ、降りてくるべき石、と感じられているように見える。そのとき神は多分、天上か、あるいは山上にいるのである。磐座は人々が地上にあって、神の降臨を待つべき場所と感じられているように見えるのである。
われわれはこのような神と磐座の感じ方を、充分に理解することができるように思うが、そのとき神が天上に思い描かれているとすれば、その神は、地に生じる異変のなまなましさ、まさにそのなまなましい場面の中に働く荒々しい力とは、すでに切り離されているように思われるのである。「天上の神」とはすでに祀り上げられた神であり、みずからの力を、発揮することも、
抑制することもできるはずだ、と考えられた神なのである。「自由意志」をもった神である。他方、御倉石に依る神は、地の荒々しい生産力と片時も切り離されない仕方で感じ取られるものである。
一般の「神のすわる座石」としての磐座は、一つの時代と切り離せないように見える。それは石(磐根)が語り、樹立や草の片葉が「語」
をかたることが、直ちに「荒ぶる神々」の悪しき所業とみなされ、
そうした所業を行う神は「神はらひに掃」われるべきだ、と考えられるようになった時代である(『大祓祝詞』参照)。そのとき石(磐根)は、おのれを生んだ地の荒々しい力との密な結びつきを、秘さねばならなくなるのである。こうして石(磐根)は、おのれの存在の意味を、ある天上の神との関係において表明せざるを得なくなるのである。このような石が、一般の「磐座」であろう。
しかし、こうした時代の刻印を受けているとはいえ、「磐座」はもともとの荒々しい力とのつながりを失うわけではなく、相変わらず霊性を帯びた石である。多くの場合巨石であり、そうでない場合にも多くの霊的なニュアンスのある襞を纒った石である「磐座」は、今日に至るまで、原初的な神性との結びつきを失わず、荒ぶる神、暴威を振るう神とのひそかなつながりを決して
喪失してはいないように見えるのである。そしてこのような霊性、呪性は、室町時代においては、一般に今日われわれが感じうるよりも、より強く感じられていたと思われるのである。先述した「丸石神」は、夢窓が少年時代を
過ごした地であり、また仏国国師高峯顕日の法を嗣いで後、
最初の隠棲の地とした甲斐の地に、当時から祀られていた、と推定されるものである。ちなみに、彼の開創した恵林寺(1320年)からほど遠からぬ
山梨市七日市場の道祖神場には、この
地方でも最大級の丸石神があり、また一時彼が隠棲の地とした龍山庵は、当時から丸石神祭祀がきわめて盛んであっっと推定される笛吹川の
流域沿いにあるのである。夢窓自身、われわれが一般に想っているよりはずっと、民俗的な感受性に親しんでいたであろう。そして、後に夢窓が自分の独自の庭園を作るとき、その背景には、こうした民俗的感受性というものが、一般に考えられるよりはるかに強く彼の内で働いていた、とわれわれには思えるのである。私の仮説を端的に述べるならば、夢窓の枯山水庭園は、一方では浄土式庭園の思想の否定であるが、しかし他方でそれはとりわけ「磐座」の否定、「磐座」の神聖性の否定であるように思われる、ということである。次にわれわれは、夢窓の作庭の思想が最も明確に表現されていると考えられる、西芳寺洪隠山枯滝石組見て、そうした仮説を検討してみることにしよう。
西芳寺本堂の裏手の山に「指東庵」と名づけられた坐禅堂がある。ここは夢窓疎石にとってきわめて神聖な坐禅の場所であった。その神聖さは、「指東庵」という名称そのものからも察せられるものである。
「指東庵」の名は、宋代に編纂された
禅門のエピソード集、『大慧普覚禅師宗門武庫』に出てくる、西山亮座主の
話から採られている。その編纂者は、夢窓が敬愛し、みずから終生、思索の師とした宋代の禅僧大慧宗杲(1089−1163)の弟子、道謙であった。
亮座主の名はまた『景徳伝灯録』第八巻に見え、彼は馬祖道一(709−788)の法を嗣いでいる。『大慧武庫』の亮座主の話は、『伝灯録』の記事を下敷きにしている。『伝灯録』は亮座主が馬祖をたずね、そこで大悟し、その後洪州西山に隠れ、消息を断った、という話を次のように伝えている。
亮座主は経論を講義する専門学者であり、すでに寺に多くの弟子をかかえていた。しかし、おそらくは、経論を講義すること自体に疑問を感ずるところがあって、ある日馬祖のところを訪れる。馬祖は亮座主に、
「何を講じているのか」と尋ねる。亮座主は「心について講じています」と答える。馬祖は「心とは巧みな主演俳優のようなものだ。
意(=思惟の働き)とはそれに和して演技する助演者のようなものだ。どうしたら経を講ずることができるということが分かるだろうか」(心如工伎兒、意如和伎者、争解講得経)と言う。亮座主はそれに反発して「心がすでに講じようとしても講ずることができないのだから、虚空(=実体のないもの)が講ずることができるということはないではないか」(心既講不得、虚空莫講得麼)と言う。それに対し馬祖は「かえってこの虚空なものこそが講ずることができるのだ」(却是虚空講得)と言う。亮座主はこれに納得することができず、立ち去ろうとする。そこですかさず馬祖は座主を呼び止める。亮は振り返る。馬祖は言う、「この振り返ったものは何なのだ?」(是什麼)と。こう言われて亮座主は豁然と大悟する。寺に戻った亮座主は弟子たちに、馬祖に質問されて、日頃わだかまっていた疑問がすっかり解けた、と告げて、西山に入り、そのまま消息を断った。亮座主は馬祖に呼び止められ、この「心」でも「意」でもない、虚空としての私が、まさしく振り返るという行為をなしている、ということをはっきりと思い知らされたのである。
『大慧武庫』に載る話はその後日談にあたる。時は政和年間(1111--17)、馬祖の時代の三百数十年後である。熊秀才という@1陽(はよう)の人が洪州の西山に遊んでいて、翠巌寺のかたわらを通り過ぎようと
する。そこで同郷の思文という長老に会い、一緒にかごに乗って浄相に向かう。その途中、林壑の陰にたまたま一人の僧を見つける。その
顔は老いているが、精神の清さが感じられる。眉毛は白く長く、頭髪も雪の箒のように長く垂れている。服は草を編んで衣としたものだ。
盤石の上に坐っていて、その姿はよく壁に描かれている仏図澄のようだ。
熊秀才は自問する。今時こんな僧はいない。むかし亮座主が西山に隠れた、という話を聞いたことがあるが、その亮座主が今も生きているのだろうか? かごを降りて、小またでちぢこまって歩き、その僧の前に進み出て、「あなたは亮座主ではありませんか」と尋ねる。その僧は手を挙げて東の方向を指す(僧以手向東指)。熊はその手の指す方向に目をやる。再び振り返って僧の方を見ると、僧は消えていて、どこにいるのか分からない。その時小雨が
丁度やむ。そこで熊は石の上に登って、僧の坐っていた処を見ると、そこだけ乾いている。四方を見回して何処にもいないことを確かめる。ため息をつく。「縁が薄かったのだ。出会ったのだが、やはり出会えなかったのだ」と。
西山で亮座主は「盤石」の上に坐っていた。上面の平らな岩
、ということである。すでに石に化し、石の精のようなものになっていたのであろう。亮はみずからが石に化することを望んでいたであろう。石に化し、隠れ切ることを。つまりむずからが徹して虚空になることを。馬祖が言った「虚空こそが講ずることができるのだ」という思想の真理を実践しなければならない。この盤石こそが、虚空そのものであった。徹底して跡を消すことが必要である。知られぬことが必要であり、出会われないことが必要であった。なぜなら人は虚空になった人を知ることが出来ず、また虚空の人に出会うことが出来ないからである。このような隠棲の思想がある。
西芳寺本堂裏手の洪隠山という山の名も、この亮座主の逸話から採られている。洪州の亮座主が隠れた山、というわけである。
そしてその山の中腹、「指東庵」の右手すぐのところに、「枯滝石組」と呼ばれる石組がある。この石組の場こそ、夢窓がその思索のすべてを傾けて造形したものである。(私は、「枯滝石組」という呼称より、「楞伽窟石組」という呼称の方が、より適切であると考えるが、ここでは一般に使われることの多い「枯滝石組」という名称を用いておくことにする。伊藤ていじ『枯山水』淡交社、参照。)
この石組は、下手の方から見ると、ほとんど石組だけしか
見えないのだが、実際には二段の組石段があり、それぞれの段の上にはそれぞれ然るべき広さの平地が開けているのである。空き地である。そこを「開け」と呼ぶことにしよう。二つの段の内、最初の段、つまり下の方の段には、階段が設けられている。幅一メートルほど、一段の高さ二十センチほどの石、数段からなる階段である。この石段は、「招待」を意味しているであろう。つまり、それは人々に、あらゆる人々に、この石段を、一歩一歩進んで、「開け」に、厳しい石組の囲いの中にある、開けた場所に、至り、その空間の「開け」を味わうように、と呼び掛けているのである。この「開け」は、禅の「開け」である。つまり「禅」が約束している「開け」である。禅が人々に約束し、その修業の道に従うかぎり、つまり人がこの石段を一歩一歩登るかぎり、すべての人に提供される、と禅が約束する「開け」、禅による精神の「開け」である。そこには、開かれた広さが与える空間の味わい深い豊かさがあり、しかも一段高い場所のもつ香りとゆとりがある。------このようなものが、第一の「開け」の意味、その一箇所に石段をもつ石組の造形、その石組によって護られた
「空き地」の造形、の意味であろう。
しかし、第二の組石段には通路が設けられていない。
険しい石組が第二の空き地、第二の「開け」を取り囲んでいる。第一の「開け」の中に立てば、第二の組石段の向こうに何があるか、ということはおおよそ見える。そこにも空き地、「開け」があり、そして坐禅石があるようだ、
ということは分かる。そしてその第二の「開け」が、この第一の「開け」に立った人のさらに進むべき場所だ、ということは明白に了解される。しかしそこへ至る通路が無いのである。そこへ「歩んで」行けるような道、階段は無く、その中へ入るためには、この峻厳な石組を、「飛び越して」行かなければならない。どうやって「飛び越す」のか? 「一挙に越える」ことが必要である。回り道を探したり、登攀を試みたりすることは、可能でもあり、また必要でもあろう。しかし、抜け道が見つかるわけでもなく、登攀によって登り越えられるわけでもない。道の探索や、登攀の訓練を積み重ねているうちに、あるきっかけが訪れて、一挙に、そして一気に、越えることができるようになっているのである。その経緯を示している
と思われる、夢窓の詩(頌)を挙げよう。
『夢窓国師年譜』によれば、この詩は、夢窓が常陸の臼庭の庵にあった、嘉元三年(1305)五月末の或る夜のものである。その時夢窓は
、納涼しながら庭前で坐禅をしていた。
夜も深くなるまで時を忘れていた。気づいて、庵に入ろうとするが、身体が思うように動かない。壁の無いところに壁があると思って(無牆壁處誤認牆壁)、身を寄せ掛けたところ、ひっくり返ってしまった。夢窓はこの不覚を失笑するが、その時忽然として悟るところがあった。その時の境地を表したのがこの詩である。
ここにおいても「牆壁」が問題になっているが、壁のように立ち塞いで見える「牆壁」は、それを一挙に越える観点を得た後には、「無牆壁」であり、存在しないものなのだ。そして、それを越えるためには、つまり「虚空の骨」を折り、打ち砕き、粉砕するためには、実際には、たとえば石を抛り上げるような、実に簡単なことだけで充分なのだ。この年の十月に、夢窓は鎌倉の浄智寺に高峯顕日を訪い、問答の後、印可される。これは嘉元元年に一山一寧から固く拒絶され、また高峯からも痛棒を浴びせられて後、「悟りを得るまでは戻らない」という不退転の覚悟のもとに鎌倉を離れ、陸奥、常陸の地で過ごした、足掛け三年の孤独な修業の後の、出来事であった。
洪隠山枯滝石組の第二の組石段は、このような壁として聳える牆壁、
下方からではどのようにしても乗り越え方の見えてこない牆壁、を表している。
ここで高峯と、三年の修業の後に浄智寺に彼を訪ねた夢窓との、問答の一部を紹介しておこう。これは、導入的な二三の問答の後の部分である。
問答は夢窓の力を誤りなく確認するために、まだしばらく続くが、その
趨勢は上記引用中の第一の問答ですでに明らかであろう。夢窓はパラドクスの罠にまったく引っ掛からないのである。さらに上記の第二の問答では、夢窓は二分法による思考という罠をも覆している。そしてこの問答の翌日、
高峯は再び夢窓を呼んで、「昨日私が起立問訊した時に、何で私を推し
倒さなかったのか?」と問う。問訊とは合掌して礼をすることである。
これに対して夢窓は、「和尚は自分でお倒れになっていたではありませんか」、と答える。このやりとりでは、いわゆる「殺仏殺祖」の思想の、象徴的実践が問題になっているであろう。ここで夢窓は、師に対する「崇拝」から、
崇拝による拘束から、自由になっていることを示したのである。夢窓がこの最後の試問をクリアーするのを、大笑いによって確認し、高峯は夢窓を印可する。
このように、暗やみの中、煉瓦のかけらを抛り上げた
夢窓は、そのかけらがたまたま「虚空の骨」に当たり、ために一気に牆壁を越えてしまった。そこから夢窓には、別の、新しい「開け」が、わがものとなってきたのである。
ここ、洪隠山石組の第二の「開け」は夢窓の至聖の場所である。この地に立つとき、人は、ここに至るまでに積み重ねてきた精神の格闘から、ようやく解き放たれ、その精神が初めて癒される気がするであろう。
実際ここには慰安があり、大きな慰藉がある。この慰藉には登山の慰めに
似たところがあり、それは、ただ労を積んで頂きに辿り着いた者にだけ与えられる慰めなのである。そしてそれはまた、ここに至り着いた者にだけ、そしてここにおいてだけ、与えられる安らぎであり、慰藉である。われわれは、この慰藉の性質を、より一層的確に捉えるように努めてみよう。
第一には、この場所が、特定の、非常に少数の者にだけ、開かれた場所であり、ごく限定された者にだけ大きな意味をもって立ち現れる場所である、ということが問題であるように見える。つまり人はここで「夢窓の自由」とでもいうべきものに出会うべきなのだ。あるいは、夢窓の「自由」によって「包まれ」、「抱かれ」、そしてそれを「味わう」用意が、ここに至ろうとする人には、まず何よりも必要となるであろう。ここは夢窓の「秘密」に参与するべき場所なのだ。
ここの「開け」は、第一の「開け」よりはるかに狭い。それは緊密な共感によって隅々まで昧読されるべき広さ、あるいは狭さ、である。そしてそこには坐禅石と思われる、上面の平らに切られた石が二つ置かれている。「盤石」である。一方の山側の盤石は、亮座主のものであり、谷側のものは、亮座主に問い掛ける者、そして亮座主に出会うべき者、亮座主に出会った者の場所である。夢窓はそこをおのれの場所とする。夢窓もまた、その石の中に消え、石に化すことを望み、そしてそこで石に化したのであろう。虚空としての夢窓は、この盤石となり、この坐禅石となる。「坐禅石」とは、その上で坐禅を行うべき石、というより、むしろ虚空としてのおのれ自身をそこに化すべき石であり、おのれ自身であり、おのれの墓であり、おのれの塔であるような石なのである。夢窓の後、禅宗庭園には坐禅石がしばしば置かれるようになる。座禅石としては、一般に明恵上人の高山寺「定心石」が著名であり、それが日本の座禅石の原形であると考えられるであろう。しかし夢窓の後に作られる座禅石に関しては、この西芳寺洪隠山のものが原形であり、それゆえ西山亮座主の盤石こそが、その源泉であると考えられるのである。
すると、石はここでも一種、霊の「出入り」するべきもので
あるが、しかしここにおいては、霊はすでに虚空になっており、虚空に化した霊のみが石と化し、西山の亮座主のように、石から浮かび立つことができるのである。「石」というものの禅宗的な把握は、「虚空」というメタフアーによって特徴づけられ、またそれは、そのメタフアーの有効性と相即した仕方で、有効性をもつであろう。虚空は能く古代的な呪性を消し去ることができるであろうか? ともあれ夢窓は、この「虚空」というメタフアーによって、他の一切のものと戦おうとするであろう。
ここの「開け」の地において与えられる慰藉の、真の源、と思えるものは、しかし、この坐禅石以上に、この石組の最も奥に位置する、相当に大きな
塊りの組石たちである。この場所でこの石たちに出会うこと、それがこの地で与えられる、最大の慰藉であるように見える。この石たちは、もとこの洪隠山の地一帯にあった古墳群の、玄室や羨道を形成していた石であろうと言われる。それはもと、死霊を密封しておくための石であったわけである。そうであれば、それらの石は、それを覆っていた土をすっかり取り除かれ、取り崩され、そうして取り出されるとき、まことに祟りをおこして然るべき石だったのではないだろうか? 人々は、それが死霊封じのための石であることを、充分にわきまえていたであろう。そして死霊に怨念のようなものがなおも
残っているならば、それは悪霊としてその石に付いてくると感じられたであろう。夢窓が自分の聖域を造形するために用いた石は、そのような石であった。そして今、私には、まさにその石が、最も滋味のゆたかな
慰藉を与えてくれるように見えるのである。
この慰藉は、たとえば神籬の中、磐座を前に神の降臨を期待する時の気分とは、はっきりと異なったものである。降臨の待望が、未知の
要素として天上的な神性を予感する必要があるのに対して、この石組の石においては、その石そのものから、すべての慰藉が滲み
出してくるのである。あからさまにここにある石それ自身が、慰藉を与えてくれる。この、石そのものが与えてくれる慰藉こそが、夢窓が見出した禅仏教ではなかったか? この石の背後には、もはや何物もなく、この石が(あるいは石でなくても良いのであろうが)、その存在において見えてくるとき、その時には、そのことから精神の究極の安らぎと、心のすべての解放が生じてくるのだ、という思想、夢窓の禅とは、そのような思想ではなかったであろうか? ここの石にはもはや怨念は存在せず、呪性的な霊気はすでに脱落し去られているように見える。おそらく夢窓は、ここで石の古代的な呪性、霊性と対決したのである。夢窓の武器は、虚空性しかない。勝機はただ、みずからの虚空性に徹することにしかないであろう。みずからが虚空に化し、そこで相手の石も虚空に引き入れること、これが夢窓の戦いである。私には、夢窓はそのような戦いを、古代の墳墓の玄室をなしていた石に対して、行ったように見える。虚空に引き入れるという戦いを、玄室の霊石たちを相手に、戦ったように見える。これこそが、一つの中世の精神、禅宗的な中世の精神を打ち立てる、夢窓の戦いではなかったか? もしそうであるならば、枯滝石組最奥の組石の塊は、夢窓の勝利の記念碑と見るべきものである。われわれに汲み尽きぬほどの慰藉を与えてくれるこの奥の組石の塊は、夢窓によって、禅宗的な仕方で、その呪性を取り除かれた古代の石であるにちがいない。夢窓によって、その徹した虚空の中に引き入れられ、いわば「虚空な形態」を与えられたこれらの石塊は、それによってみずからの呪性を脱し、その存在の真性において現れ出るようになった石であるに違いない。禅仏教による霊的古代の超克は、まさにここから始まるのである。そのことをわれわれは、この洪隠山奥の石組の前に立ち、その組石の塊を、眼にしっかりと捉え、そこから深い感銘を受け取るとき、はっきりと了解するのである。それはまさに、背後の、それ自身以外のすべてを脱落させた石、そのものとして、存在している。
ところで、夢窓が西芳寺洪隠山奥の石組の構成において、古代の石の呪性を克服したとすれば、その時、石の呪性は、「祓い・清める」という仕方とは違ったやり方で克服されたことになる。「祓い・清め」とは、呪性を別の何物かに付かせ、その物と共に呪性を別のどこかに捨てて遠ざけるのである。しかしこのやり方では呪性は決して消滅させられない。呪性は単に別の処に移されるだけである。呪性はしばしば「海の底」に最終的に移され、そこで管理されていると考えられる。しかしそうだとしても、その「海の底」の容量が無限であるとは必ずしも考えがたく、またその管理が充分になされている、とも言いがたいようである。このやり方には原理的な問題がないわけではないようである。しかしこうしたやり方も、宇宙が周期的に、たとえば年ごとに、ゼロから更新されると信じられる世界においてなら、充分に有効な方式であろう。その場合には、「海の底」もまっさらなまま創り直されるからである。しかし一旦そのような宇宙観が信じられなくなると、このやり方はたちまちその原理的な不充分さに直面するであろう。
一般に日本において仏教は、この更新的な宇宙観に対する不信を背景にしており、そこで「成仏」とはそのような呪性そのものが消滅することを意味しているように見える。成仏させること、それは物に取り憑いている怨念そのものを消し去らせることであろう。先に見た殺生石の成仏、それはまさに石の呪性そのものを脱落させ、それを消し去ることであった。そしてこの殺生石を成仏させた禅僧玄翁玄妙は、それによって大いに名を上げたことが知られている(『日本洞上聯灯録』参照)。それは至徳二年(1385)、将軍足利義満の時代のことであるが、この事蹟もまた夢窓が開いた中世の中に位置づけられるべきことであろう。玄翁もまた、石に付いた呪性を、何処かに「遣る」のではなく、脱落させ、消し去ることを試みたのであった。
われわれはこうした宇宙観と呪性的な感受性との関係を簡単に論ずるわけにはいかないが、こと問題を庭園における石の呪性の問題に限るならば、
夢窓以降、禅宗庭園は石についての呪術的な恐怖感を、はっきりと克服してしまったように見える。この後、室町時代の主流となる枯山水庭園は、いわば「成仏した石」を組むことを核とする庭園となる。このことは『作庭記』の
思想を、三通りの仕方で克服することになるであろう。つまり、『作庭記』は、呪性的な「霊石」に対処する仕方を三通り記すが、それらは、石を成仏させて組むという夢窓的なやり方と較べてみると、ずっと臆病なやり方に見えるのである。『作庭記』はまず第一に、霊石は、用いることなく、捨ててしまうのが良い(「如此石をバ不可立、可捨之」)と指図する。これは呪性から、逃げることによって避けようとする思想である。第二には、陰陽五行の思想に基づいて、「をのづからたゝりをなす石」があれば、その石を尅するとされる
色をした石を交えて立てることによって、祟りをなくさせるというやり方を指図する。そして第三には、仏教というものそのものの力に頼って、「三尊仏の立石」を、霊石に遠くから対面させる、というやり方を指図する。第一の方式は、呪性を遠ざけることによって、その祟りを避ける、という、基本的には「祓い・清め」と同じ方式のものである。これに対して禅宗の方式は、成仏させることによって祟りを源から断ち切る、というやり方だと
考えられるであろう。また第三の方式は、三尊仏の仏格を問わない、きわめて曖昧な仕方での仏教への依存であるが、これに対し禅宗の方式は、三尊仏への依拠をも断ち切った処で成立する石の成仏化を行うものだと言いうるであろう。
そして第二の方式であるが、これは陰陽五行の思想に基づき、石の五色と
相尅の思想とを重ね合わせることによって成立するやり方である。つまり、色の五色とは青=木、黄=土、黒=水、赤=火、白=金、と五色を五行に対応させることであり、それを木尅土、土尅水、水尅火、火尅金、金尅木、という相尅の思想と重ね合わせて、青尅黄、黄尅黒、黒尅赤、赤尅白、白尅青、と考えることである。したがって、たとえば祟りをなしそうな石が青色をしていた場合、青色を剋する白色の石を一緒に交じえて立てることによって、青色の霊石の呪性を抑止しようとするわけである。このような五色相尅の思想に対し、夢窓以降の禅宗庭園は、おおむね、石からその色の五行的意味を捨象して、石を組むようになった、と言いうるであろう。そして、石色の五行的意味を捨象した石組の指標となるのも、やはり西芳寺庭園、とりわけその洪隠山枯滝石組である、と言いうるであろう。一般に中世は、多くの点で古代的なものからの解放を果たした、と考えられるが、禅宗庭園における「石色の捨象」は、おおむね寝殿造庭園と浄土式庭園の作庭原理となっていた『作庭記』的な思想と、仁和寺の石立僧が作庭の拠り所としていたとみなされる『山水并野形図』的な思想の、いずれもが相変わらずに囚われていた、陰陽五行思想的古代からの解放を、禅仏教が、一定の範囲においてではあっても、はっきりと為しとげたことを示す、一つの指標であるとみなして良いであろう。このような思想的解放は、後には山水河原者と呼ばれる者たちによって引き継がれてゆくであろう。たとえば後の東山時代、延徳元年(1489)のこと、
当時有力な作庭者であった河原者又四郎は相国寺の景徐周麟を相手に、「四神相応」の思想に基づく、水は東北から南西へと流すべきである、という
『作庭記』においても『山水并野形図』においても重視されている規則は、禅宗寺院や門跡寺院においては、「仏教東漸之義」に基づいて無視しても差し支えなく、従ってそこでは西から東へ水を流しても一向に差し支えないのだ、というきわめて新しい解釈を披露しているのである(『鹿苑日録』、延徳元年六月五日の条)。
ところで、『西芳寺縁起』(1400年)は、
西芳寺庭園の作庭者に関わる次のような伝承を伝えている。「この庭は地蔵菩薩の作であると世にいい伝えられている。それはこういうわけである。国師(=夢窓)が作庭をしていた時にどこからともなく毎日一人の異僧がやって来て、手づから大きな岩をささげ、また大なる樹木をうつし植えた。庭の修造がすでに完成した時、その異僧は、私は国師の徳に感じてやって来たのだ、と言う。後のしるしに、と錫杖を国師に贈り、また自分は夢窓の袈裟を貰い受けて帰った。その後四条染殿の地蔵尊は御手に持っておられた錫杖はなくて、その代わりに掛羅をかけて立っておられたと言う。」私にはこの伝承は、この庭の制作に直接携わった人々について、何事かのことを伝えているものであるように見える。当然のことであるが、庭造りの実際の作業には、多くの人の手を必要とする。夢窓の場合、弟子筋の禅僧たちが、ある程度は手を貸してくれたであろうが、門弟に作庭の実務に通じた者がそう多くいるとは考えがたい。というのも、当時作庭に携わっていた石立僧と呼ばれる者は、仁和寺の密教系の(中級、下級の)僧であったからである。夢窓が密教にきわめて寛容であったにしても、彼らが作庭に協力したとは、とりわけこの時期(1344年)には、真言宗の僧、杲宝が、夢窓のような高僧が作庭を行うことを、堕落として厳しく非難しているだけに、考えにくいのである。するとやはり、密教系の石立僧とは別の人々が、この作庭の実労に携わったと考えなけらばならないであろう。それはどういう人々であったのか? みずから大きな岩を持ち上げ、樹木を移し植える四条染殿の地蔵尊とは、まさにこのような、作庭の実際に携わった人々のことを暗示しているのではないであろうか?
ここに言われる、四条染殿の地蔵尊とは、現在も四条通りに面した寺町と
新京極の間の地(四条京極)にある地蔵尊のことであると思われるが、
それは弘法大師の作と伝えられるものである。そしてこの裸形の地蔵は、文徳天皇の皇后、染殿の后が厚く帰依したことから、この名がついたものであると言われている。またそこには釈迦如来も祀られ、四条京極の釈迦堂とも呼ばれていた。このような由来は、この地蔵と真言宗との強い結びつきを感じさせるものである。しかしこの染殿の地(=釈迦堂)は、後に弘安七年(1284)、東国の遊行を終えて入洛した一遍が最初に止宿し、賦算(=おふだくばり)をする所となる。その時四条通りはお札を求める貴賤上下の群衆で、人が振り向けないほど、車が通れないほどであったと言う。それ以来この四条京極の地は時衆との強い縁ができたようである。延慶二年(1309)浄阿真観はこの地の祇陀林寺に入り教えを広め、応長元年(1311)後伏見上皇の皇后、河端女院広義門院藤原寧子の難産に際してお札を与えたところ、霊験あって、寧子は無事、後の光厳天皇を出産する。この効験により浄阿は八月、上人号を与えられ、祇陀林寺は道場、錦綾山太平興国金蓮寺へと改められることになる。
夢窓の西芳寺作庭時代、染殿地蔵尊と時衆四条道場金蓮寺との関係がどうなっていたか、正確なところは分からない。佐々木道誉がその四条京極の広大な地を金蓮寺に寄進するのは、延文元年(1356)八月のことであり、それ以後、釈迦堂・染殿地蔵が金蓮寺の寺域内になったことは確実である(道誉もまた「最後の十念」受けるために、時衆の陣僧を連れていたのであろうか?)。もともと時衆は真言念仏系の考え方を持っており、また染殿・釈迦堂が一遍入洛以来の時衆の聖地であるとすれば、夢窓の時代、染殿地蔵が既に相当に時衆的なシンボルとみなされていたと考えても、差し支えはないように思える。ともあれ釈迦堂が正式に金蓮寺に寄進されるのは
嘉慶二年(1388)のことである。現在それは、時宗染殿院と称され、安産に験のある地蔵尊とされている。この地蔵尊の安産の「験」には、また、広義門院の光厳天皇出産の際の効験が、染殿の后の清和天皇出産の効験と併せて、人々に想われているのではないであろうか?
そして当時、南北朝・室町期に、時衆は葬送儀礼に携、また非人と深い関係を持っていたことが知られている。石田善人氏によれば、「時衆は遁世者であるが故に、俗世間的な触穢をもいとわないでよいとされた」という(「室町
時代の時衆について 下」『仏教史学』十一−三・四)。おそらく当時、四条道場には、時衆に縁を求めて様々な種類の非人が寄り集まっていたであろう。そして後に山水河原者と呼ばれるようになるような河原者たちも、その中には居たことであろう。作庭に携わる河原者の史料における初見は
応永三十一年(1424)のことであるというが(伊藤ていじ、前掲書)、私には、この西芳寺庭園の修造の時にすでに、時衆と河原者たちが、作庭の実労にに関与していたように思えるのである。『縁起』に言うところの「異僧」とは、法体僧形の、いわゆる非人法師ではなかったか? 少なくとも、それは時衆に強い縁のある者たちであったと思われるのである。「四条染殿の地蔵」の名によって、この作庭の実労に携わった人々と、時宗との関わりを想定することは、充分可能なことであると思われる。また、西芳寺庭園修造に携わった人々に関して、村菴霊彦は『三体詩抄』において、「大飢饉ノ歳、只人ニ物ヲクハセ、ナンノナス事モナウテハ、其身ノタメモ悪イトテ、庭ヲサセテ、日役ニ物ヲ食テ、作ラレタ。サルホドニ…」と言っているが、大飢饉による窮民を救済するために日役として作庭の実労をさせた、というこの話も、とりわけ時衆の周辺の人々の窮乏の事として、時衆周辺に近づけて読み取ることもできるであろう。またさらに、夢窓は『西芳遺訓』において浴主、山水奉行、穢土寺塔主、の三職だけは特別職として、交替制ではなく、任期を限定せずに、もっぱらその器量に従って選ぶように定めているが、この三職は、禅門の人々だけではなく、広く時衆とその周辺の人々とも密接に係わる仕事ではなかったか、と推測されるのである。そして、この西芳寺修造に集まった人々の構成が、後の、禅宗にも近く、しかも時衆の阿弥号をもった同朋衆と、その配下の河原者、という組織の原形となったように見えるのである。ともあれ、いずれにせよ、この後、作庭は(山水)河原者の手がける仕事となってゆき、その中から、「山を築き水を引く。妙手比倫なし」(『蔭凉軒日録』文正元年(1466)四月十九日の条)と称賛された善阿弥などが育ってくるのである。
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