日本近代史

中国の「正しい歴史認識」
の正体

日中戦争はなぜ起こったか。
日本は中国に「迷惑」をかけたか。
今こそ自虐史観を克服し、本当の歴史を知ろう。


蘆溝橋の上の日本兵たち。ここで共産兵
が放った銃弾が日中戦争の始まりだった


 かつて日本は、第二次世界大戦時に、「大東亜戦争」(アメリカはこれを太平洋戦争と呼ぶ)を戦いました。東亜とは東アジアのことです。日本は東アジアを舞台に、中国、アメリカ、イギリス、その他西欧諸国の連合軍と戦いました。
 しかし、なぜ日本はこの戦争をしなければならなかったのでしょうか。好きこのんで戦争をしたのでしょうか。いいえ、そうではありません。日本はやむなく、この戦争を戦わざるを得なかったのです。
 大東亜戦争の発端はと言えば、中国です。日本と中国は「日中戦争」(支那事変)を交えました。
 さらに日本は、アメリカとも「日米戦争」を交えます。しかし日米戦争は、中国をめぐる日米対立が原因でしたから、日米戦争は日中戦争から始まったものです。また日本が、そののちイギリスその他の西欧諸国と戦ったのも、もとはといえば中国での戦争が発端でした。
 ですから、もし日中戦争がなかったら、日米戦争も、日英戦争もなかったでしょう。そして大東亜戦争自体が、なかったに違いないのです。
 このように大東亜戦争の発端は、中国でした。すべてはそこが開始点です。なぜ日本は、中国で戦争に巻き込まれたのでしょうか。日本は、中国大陸をわがものにしようと出ていったのでしょうか。
 そうではありません。日本はむしろ、中国の「内戦のわな」に、はまっていったのです。


史上最悪の内戦国家だった中国

 「日本は中国を侵略した」ということがよく言われてきました。中国人がそう叫び、日本国内にいる反日的日本人もそう叫んできました。それが「正しい歴史認識だ」と。しかし史実をみるなら、決してそうではありません。
 日本が中国に進出したのは、もともと中国の内戦に巻き込まれた、というのが実情です。しかし日本は、それでも中国に足を踏み入れた以上、中国の内戦を止め、中国を救おうと奔走しました。中国が共産主義国家になるのを防ごうとし、また欧米の侵略や搾取にあわない自立した民主的国家がそこに誕生するのを手助けしようとしたのです。
 
それは中国に安定と秩序をもたらすための人道的、道義的介入でした。
 人々の中には、日本があたかも「平和な中国」に乗り込んでいって戦争を仕掛けたかのように、思っている人もいます。しかし、当時の中国はひどい混迷と分裂の状態にあり、内乱と騒乱にあけくれる史上最悪の内戦国家でした。
 各軍閥(ぐんばつ)は血で血を争う抗争を続け、その犠牲となっているのは一般民衆でした。民間の犠牲者は、ときに数百万人、また数千万人にも達していました。そのうえ、頻繁に起こる飢饉により、百万人単位の民衆が餓死するといった事態も、何度も起きていました。
 このような状態は、お隣りに住む日本としても、決して座視できないものだったのです。
 たとえて言うなら、長屋に住んでいる人がいて、そのお隣りに、たくさんの子どもをかかえた夫婦が住んでいるとしましょう。夫婦は毎日ケンカをしていて、物が飛び交い、しばしば窓ガラスを破って物が飛んできます。また、彼らは働かないために収入がなく、やがて子どもたちの中に飢え死にする者まで現われました。
 こうした場合、お隣りに住む者としても、決して座視はしていられないでしょう。何とかしてあげたいと思うものです。
 それに加え、この隣人である中国の悲惨な状態を日本が座視していられない、もう一つの理由がありました。それは当時盛んになっていた西欧列強諸国とソ連(ロシア)による、アジアへの侵略です。
 西欧列強は当時、次々とアジア諸国に手を伸ばし、植民地化を進めていました。アジアの国々から搾取して、自国を富ませるやり方です。主人は白人で、黄色人種は召使いとなるという構図がアジアをおおっていました。
 一八三九年に起こった「アヘン戦争」は、その西欧のやり方を端的に示すものでした。これは、イギリスが清国(中国)に対して仕掛けた卑劣な戦争です。イギリスは大量のアヘン(麻薬)を清国に売りつけようとし、それを清国が拒むと、圧倒的な軍事力をもって清国を叩いたのです。このようにして中国は、西欧の植民地主義によって蹂躙(じゅうりん)されつつありました。
 一方、ソ連も、アジアに対し膨張主義をとっていました。共産主義革命を経たソ連は、さらに「世界革命」を目指し、全世界を「赤化」(共産主義化)しようと、南下政策すなわち侵略を続けていたのです。彼らは中国も手に入れようと、虎視眈々(こしたんたん)と機会をねらっていました。
 このように、もしこの混乱する中国に西欧列強またはソ連の勢力がいすわってしまえば、次はお隣りの日本が危険にさらされる番なのは目にみえています。
 したがって日本が望んだことは、この中国が、外国の勢力に侵されることのない近代化された強力な国家となり、やがて日本とも共に手をたずさえて、西欧の植民地主義やソ連の侵略に対抗してくれることだったのです。


清国から日本に続々やって来た留学生たち

 それで日本は、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、清国(中国)からの留学生を毎年喜んで受け入れました。日本は清国から学びに来る彼らに、知識を与え、独立心を育てていきました。
 その中国人留学生の数は、ピーク時の一九〇六年には、二、三万人にものぼったといいます。
 中国人留学生が日本の港に到着して、まず驚いたことは、小さな学童たちがみな学校へ通う姿でした。それは当時の中国では、考えられない光景だったからです。中国では、学校というのはごく一部の人々のためでした。大多数の人は文盲であり、字が読めなかったのです。
 しかし、向学心に燃えた中国人たちが、競って日本に学んでやって来るようになりました。のちに中国に、親日また反共(反共産主義)の南京国民政府を樹立した汪兆銘も、法政大学で学んだ人物です。日本は彼らを喜んで受け入れ、中国の未来のために官民をあげて支援していったのです。
 当時、日本人の口によくのぼった言葉に、「中国の覚醒」というのがあります。中国人自身が目覚め、彼らが自分たちで近代化された中国をつくってくれることを、日本人は心から願いました。
 日本はいずれ中国と共に、東亜世界における共同防衛体制を構築したいと考えていたのです。西欧列強にもソ連にも侵されることのない共同防衛体制です。それが日本の安全保障だからというだけでなく、中国と東アジア全体の繁栄のために不可欠と考えたからでした。
 日本が中国に求めたのは、あくまでも日中の共存共栄だったのです。
 この「中国人による中国人のための近代的な中国」を造るという日本の望みと支援は、ある程度まで実を結んでいきます。
 日本に留学した中国人らは、その後の中国近代化のために知識や技術、文化をもたらしていきました。それが中国社会に与えた文明開化の衝撃は、かつて日本が遣隋使や遣唐使を通して文明開化を経験したときに匹敵するものだったのです。
 清朝末期の中国では、学問といえば「四書五経」くらいしかありませんでした。そこに日本留学経験者たちを通して、はじめて近代的な自然科学が紹介されました。また産業、司法制度、文学、近代音楽、自由民権思想、義務教育、近代的警察組織、その他近代国家の要素が紹介されていきました。
 その影響の大きさは、たとえば今日も中国語に残っている「日本語から来た外来語」の多さにもみることができます。現代中国語にある外来語のうち約三六%は、もと日本語のものなのです。
 今も中国語として使われている次の言葉は、どれも「中国語となった日本語」です。「人民」「共和国」「社会」「主義」「改革」「開放」「革命」「進歩」「民主」「思想」「理論」「広場」「石油」「現金」「国際」「学校」「学生」「保健」「出版」「電波」「警察」「栄養」「建築」「工業」「体操」「展覧会」「農作物」「図書館」「生産手段」「新聞記者」……。
 近代中国の基礎は、日本の影響のもとに造られたといって決して過言ではありません。
 日本留学ブーム、日本政府による中国近代改革の援助、日本人による革命支援などにより、清朝末期における日中両国は、蜜月ともいえる良い関係となっていました。当時の中国人にただよっていたムードは、「反日」ではなく、むしろ「慕日」であったのです。


清朝の滅亡と中華民国の誕生

 さて、やがて清朝の終わりに中国で革命が起こり、中国の多くの省が独立して、彼らは南京に「中華民国」臨時政府を樹立しました(一九一一年)。これはアジア初の共和制国家であり、その臨時大総統に、革命家の孫文(そんぶん)が就任します。


孫文。「中華民国」
臨時政府を樹立したが……

 孫文は、日本と連携して、近代的な独立国家の中国をつくろうとした人でした。もしこの新政府が順調に成長したならば、今日のような共産主義の中国は生まれなかったでしょう。
 しかし、当時の中国は非常に未熟な社会であり、誕生したこの新政府も、日本の明治維新のようにはスムーズにいきませんでした。というのは、新政府の人間の多くは信念よりも利害で動く人々であり、利害次第ですぐ寝返る人々だったのです。
 また新政府といっても名ばかりで、充分な資金も国をまとめる力もなく、まったく無力でした。清朝の皇帝もまだ皇帝の座にあり、内乱が収束したわけではありません。そうした中、孫文のところに近づいてきた人物がいました。
 清朝の軍人、袁世凱(えんせいがい)です。彼は結局、陰謀により、この新政府を乗っ取ってしまいます。


袁世凱(えんせいがい)。陰謀により、
新政府を乗っ取ってしまう。

 中国の歴史は、李登輝・台湾元総統の言葉を借りれば、常に「だます者と、だまされる者」の歴史です。中国に『六韜』(ろくとう)と呼ばれる歴史書がありますが、これは一言でいえば、「いかにして人をだますか」ということが書いてある書物です。
 中国の歴史を語るうえで、裏切りと、陰謀を抜きに語ることは不可能なのです。袁世凱は、その裏切りの達人だったといってよいでしょう。もともと彼は、数々の陰謀と裏切りによって、清国軍の最高司令官の座にのぼりつめた人でした。
 袁世凱は、崩壊寸前の清朝から、孫文を討つために遣わされて来たのです。ところが、袁世凱はこともなげに清朝を裏切り、今度は新政府の乗っ取りを謀ります。彼は言葉巧みに孫文に近寄り、幾つかの交換条件とともに、
 「私が清の皇帝を退位させるから、私を中華民国の大総統にしてくれ」
 と孫文に持ちかけます。新政府の弱体さに悩んでいた孫文は、やむなく袁世凱に大総統の地位をゆずってしまいます。
 このとき、大きな失望を味わったのが、それまで孫文を支援してきた日本人志士たちでした。
 そもそも日本人志士たちが孫文を支援してきたのは、列強の侵略になすすべを持たない腐敗堕落した清国政府を倒し、新政権を打ち立て、日本と共にアジアの富強をはかろうという、孫文の主張に共鳴したからでした。一方で、彼らの目には、袁世凱はとてもそのような理念を解せる人物には映りませんでした。
 日本人志士のひとり、内田良平は、孫文がいとも簡単に政権を袁世凱に譲り渡したことを知って、激怒して言いました。
 「敵と内通するとは、支那古来の易姓革命と変わらない。アジアの解放という崇高な人道的使命を分担させられるかのような期待を、孫文に抱き続けたことは誤りだった」
 かつて日本の明治維新の推進者たちは、私利私欲では決して動かず、大局を観て、国家の未来だけを思う人々でした。しかし中国では、残念なことに、利害次第でどうにでも動く人々が大勢を占めていたのです。
 あの関東軍の石原莞爾も、孫文の中華民国政府が誕生したとき、心から喜んだ一人でした。けれども、孫文の袁世凱への政権委譲を聞いて落胆し、
 「漢民族に近代国家を建設するのは不可能だ
 と言いました。大局を観ずに、場当たり的な行動をする孫文に深く失望したのです。このとき、中国での維新を目指し、「中国人による中国人のための近代的中国」をつくろうとしてきた日本の試みは、実質的に挫折したと言ってよいでしょう。
 案の定、袁世凱はその後まもなく、孫文らを裏切ります。すべては国家を私物化するための袁世凱の策略だったのです。袁世凱は、孫文らがつくった民主的な新法も廃止し、彼らを追い出し、宋教仁をも暗殺して、独裁政治を始めました。
 こうして、単に独裁者が入れ替わっただけの革命となり、中国近代化の道は遠のいたのです。孫文らは抵抗しますが、もはやあとの祭りで、彼らは敗北し、またもや中国は混乱の泥沼に入り込んでいきました。


夷をもって夷を制す

 中華民国の新しい大総統になったこの袁世凱が、そのとき自らの保身のために考えたことは一体何だったでしょう。それは、
 「夷(い)をもって夷を制す」
 ということでした。「夷」とは外国のこと。つまり外国勢力同士を対立させ、戦わせて力をそぎ、自己の延命をはかることでした。またこれは、単に外国勢力同士だけでなく、自分以外の複数の勢力間にトラブルを起こし、彼らを戦わせて、自分だけが生き残ろうとする「生き残りの哲学」でもありました。
 「夷をもって夷を制す」は、中国人の伝統的な思考法です。これは一見、利口なやり方に見えるかもしれませんが、結局これが中国を亡国の道へと誘い込むことになります。これは中国を戦場化する元凶となったのです。
 袁世凱は「夷をもって夷を制す」の考えにより、まず西欧列強と日本の間に対立を生み出します。満州にもアメリカを引き入れて、日本とアメリカの利害が対立するよう仕向けました。
 また、中国民衆と日本の間にも対立を生もうと、様々なウソを流して、反日宣伝をし始めたのです。その反日宣伝は、相当な効果を生みました。その反日宣伝の一環に、たとえば有名な、
 「二一カ条の要求」
 があります。これは日本が袁世凱政府に提出したものですが、日本が中国の新政府のもとでも正常な経済活動等ができるように求めた要求、というよりは希望でした。なぜなら、交渉を通して幾度かの修正や削除が行なわれているからです。
 この「二一カ条の要求」は、日本の侵略的姿勢を表すものと言われていますが、そんなことはありません。たとえば孫文は当時、この二一ヶ条について、
 「日本政府の態度は東洋の平和を確保し、日中の親善を図る上で妥当なもの
だ」
 と理解を示しました。孫文はさらに、日本の外務省に日中盟約案を送っており、それは日本政府の「二一カ条の要求」とほとんど内容が符合するものでした。このように日本政府の「要求」は、当時としては決して理不尽なものではなかったのです。
 ところが袁世凱は、その内容をゆがめて内外に伝えます。日本側としては全く記憶にない「要求」まででっち上げて、「日本はこんなにひどいことを言う」と悪口を言いふらしました。それによって国外では、西欧列強と日本が対立するようになります。
 また国内では、排日運動が巻き起こりました。条約締結の日も、「国恥記念日」として民衆に反日感情があおられました。中国では民衆の不満は、政府にではなく外に向けさせることが、為政者の伝統なのです。つまり「悪いことはすべて他人のせいにする」――その戦法で、中国民衆に反日感情を生んでいきました。
 袁世凱はこうして、自分以外の複数の勢力を対立させ、彼らの対立を利用して自己の保身をはかるという、「夷をもって夷を制す」の考えで行動した人でした。この考えは、のちに見るように共産党の毛沢東も使ったものであり、中国の混乱をさらに激化させ、戦場としていく原因となりました。


排外運動に翻弄された日本

 さらに、反日感情のもう一つの源泉は、「中華思想」でした。これは、中国文明が世界の中心であり、そこから離れた遠い国ほど野蛮で、劣った国だという思想です。
 つまり唯我独尊、独善的な思想なのですが、これにより民衆の中に、「日本や西欧諸国は中国より劣った野蛮な国だから、排斥すべきだ」という「排外運動」が起きるようになります。西洋人に対するテロや、焼き討ち、虐殺といった事件が多数起きました。
 しかし、中国人のそうした排外運動は、やがて西洋人よりも、とくに日本人に対して向けられるようになります。どうしてでしょうか。それは、西洋が排外運動を強圧的に封じ込めたのに対し、日本はそれをしなかったからです。
 たとえば、一九二六年に「万県事件」というのがありました。長江一帯で、反英運動が広まるなか、イギリスの商船が中国側に拿捕されたのです。そのときイギリスは、砲艦二隻を派遣し、砲撃の末、町を徹底的に破壊しました。
 これにより、中国人はすっかり縮み上がってしまいました。その結果、反英運動もなくなったのです。これについて台湾の歴史家、黄文雄氏は、
 「自分のかなわない相手とみるや、とことん従順になるのが中国人の特性である
 と語っています。中国人は、暴君として臨んだ西欧列強を、自分が勝てない相手とみるや従順になったのです。ところが以来、この民衆の排外エネルギーは、イギリスのような苛酷な措置をとらない日本にしぼられるようになります。
 日本人も、イギリス人と同様、排外主義のターゲットにされ、テロをされたり、攻撃されたりしていました。しかし日本は、極力自重して、反撃をしませんでした。日本人は、何とか中国と友好関係を築こうと、忍耐強く平和的解決を努力したのです。「幣原(しではら)外交」(幣原喜重郎外相)として知られる平和主義などです。
 ところが、中国人は暴君には慣れていましたが、平和主義には慣れておらず、それを理解しませんでした。中国人は、そんな弱腰な友好的態度をとろうとする日本は、何か弱みを持っているからだろうと考えたのです。西洋は強いが、日本は弱いと。
 また、日本の中国での行動は、暴虐な西洋諸国に比べると、あまりに誠実でした。たとえば北清事件の際、西欧列強の軍隊が占領した地域では住民への略奪、暴行、殺人が繰り返されていました。しかし日本軍の占領地域では、ほぼ完璧なまでに治安が維持され、住民の救済も周到に行なわれていました。
 日中戦争中も、飢饉や戦闘に巻き込まれて傷ついた中国の民間人を、日本軍は多数救済しています。救済された住民は日本に感謝しました。ところが、周囲の他の中国人は、そのような日本人の行動を理解せず、弱者にもやさしい日本人を侮り始めたのです。
 これには中国人の特質が関係しています。日本には、「弱きを助け、強きをくじく」という伝統的美徳があります。ところが中国にはそういった観念はありません。中国では、強者はつねに弱者を虐げる者なのです。強者は弱者を助ける、という観念はありません
 中国ではいつも暴君が上に立ち、民衆はそれに支配され、搾取されてきました。民衆は五〇〇〇年間、抑圧されて生きることしか知りません。ですから中国人は、弱者を助ける日本人や、暴力を受けてもなかなか反撃しない日本人をみたとき、その行動を理解せず、それは日本人に「弱み」があるからだと考えたのです。
 中国の文豪・魯迅(一八八一〜一九三六年)は、中国人は、相手が弱いとみるや、その弱みにつけこむ民族だと嘆いています。たとえば呉越の戦いの物語に象徴されるように、相手の弱みをみると、それにつけこまなければ天罰が下るとさえ考える民族が、中国人なのです。黄文雄氏もこう述べています。


彼は、中国人は相手が弱いとみるや、
その弱みにつけこむ民族だと嘆いた

 「弱者にまで友好的な態度を取るとなれば、それはよほど無力であり、弱みがあるからだろうと解釈し、つけこんでくるのだ。これは有史以来、戦乱、飢饉の絶え間ない弱肉強食の世界で生きてきた中国人の生存本能がなせるわざだろう」
 このように中国人は、西洋は強いので逆らっても勝てないが、日本は弱いから逆らえるとみたとき、西欧に対する排外主義を引っ込め、反日主義にしぼりました。つまり日本人の中国人への同情とやさしさが、かえって日本人への侮りと、反日運動を増長させる結果となったのです。
 これは、日本人には理解できないことかもしれません。しかし、それほどに中国人と日本人は違うのです。
 中国人のこの性向は、今日も同じです。たとえば中国にとって、アメリカは昔も今も大きな敵です。しかし中国で反米主義は燃え上がりません。それは、アメリカには逆立ちしても勝てないからです。
 けれども、日本には逆らえます。日本人は自虐的で、おどせば、すぐ謝るからです。ですから日本人が自虐的になればなるほど、中国は加虐的になってきます。こうして中国は、政府主導で反日主義を今も燃え上がらせるのです。そして国内の不満を外に向け、民衆の不満のガス抜きをしているわけです。
 
 
混乱と死の大地だった中国
 
 さて、日中戦争(一九三七〜四五年)が始まった頃の中国とはどんな国だったかを、少しみてみましょう。
 当時の中国は、飢饉と内乱で毎年数百万人、ときには数千万人の犠牲者を出す、世界史上まれにみる混乱と死の大地でした。
 飢饉は毎回、数十万人から数百万人の犠牲者を出し、一千万人を越えることもしばしばであったのです。飢えた民衆が各地で人の肉や、自分の子どもの肉を食べたという話が、当時の資料に多く見受けられます。
 また当時の中国は、中華民国政府が誕生したとはいえ、それが全土を統治していたわけではなく、実際は他に幾つもの自称「政府」が乱立していました。そしてその「政府」たちは、互いに他を「偽政府」とののしりあい、内戦を繰り返していたのです。
 つまり、中国とは言っても国家の体をなしていなかったのです。また、内戦によっても、多くの民衆が犠牲になっていました。数百万、また数千万人の犠牲者を出すこともありました。ですから中国の人口は常に大きく変動していたのです。
 当時、中国の市場には、なんと人肉が売られていたほどです。人肉は、獣肉よりも安値でした。それは獣肉より人肉のほうが豊富に手に入ったからです。また男の肉は女の肉よりも安値で売られていました。
 中国の人肉食文化は唐の時代から記録がありますが、それが二〇世紀前半まで続いていたのです。これは、当時の中国がいかに凄惨な混乱と死の大地であったかを、如実に示しています。
 大多数の民衆は、日々を生きていくのがやっとであり、毛沢東に言わせれば「貧しくて無学無知」の人々でした。そうしたなか、人々の中に、他人が早く死ぬことを望む性格や、人の弱みを見ればとことんつけこむ民族性などが形成されていったのです。
 さて、孫文のつくった中華革命党は、のちに改組して中国国民党と称しました。その孫文の亡きあと、国民党を継いだのが、蒋介石でした。しかし蒋介石の国民党も、ひどい内戦を繰り返し、分裂していきます。
 蒋介石から分かれた人物に、汪兆銘(おうちょうめい)がいます。国民党内では、汪兆銘のほうが蒋介石より人望がありました。汪兆銘は当初は反日家でしたが、のちに中国の未来を考えて親日政権を樹立します。日本は汪兆銘の政権を支援しました。
 汪兆銘は、孫文の「三民主義」を継承し、日本と中国の協力により東アジアに平和と安定と繁栄を築けると信じていました。汪兆銘と蒋介石を比べるなら、汪兆銘のほうがはるかに中国民衆のことを考え、明確な信念で行動していたと言っていいでしょう。
 一方、蒋介石の行動をみるなら、彼は民衆のために信念で行動していたというより、むしろ自分が権力をにぎるためには何でもしたという印象を受けます。しかしそれが結局、中国を巨大な戦場と化していってしまうのです。


蒋介石の方向転換

 今も中国政府や、反日的日本人は、「日本の軍国主義が日中戦争を始めた」と言います。しかし日本には、もともと中国と戦争をする気など全くありませんでした。中国の蒋介石側もそうです。蒋介石も当初、日本と戦う気はありませんでした。
 では、なぜ日本と中国は戦争をしたのでしょうか。それは、日中戦争を待ち望んだ人々がいたからです。毛沢東の中国共産党です。
 彼ら共産軍は、蒋介石の国民党軍との内戦を戦っていましたが、追いつめられ、いまや風前の灯火となっていました。そこで起死回生の策として考え出されたのが、日本を中国の内戦に引き込み、日本と蒋介石の軍を戦わせることだったのです。
 先ほども述べたように、「夷をもって夷を制す」の考えは、中国人の伝統的な戦法なのです。共産党は「夷をもって夷を制す」の考えで、蒋介石の軍と日本軍を戦わせ、両者を消耗させることにより、自らの生き残りをはかったのです。
 それは次のように起きました。蒋介石は西安にいたとき、油断したのでしょう、不意をつかれたところを、ひそんでいた共産兵に捕らえられ、捕虜となってしまいます(西安事件)。
 蒋介石は、毛沢東の前に連れて来られます。毛沢東は蒋介石を目の前にして、殺してしまおうと思います。敵の大将がお縄になっているのですから、簡単に殺せたでしょう。ところが、そこにソ連のモスクワにある「コミンテルン」(国際共産主義運動)本部から、毛沢東に指令が来ます。
 「蒋介石を殺さず、蒋介石と日本軍を戦わせよ
 と。つまり蒋介石の国民党軍と、日本軍を戦わせることにより、両者の力をそぎ、その間に共産軍の力を回復せよとの指令です。また、そののち力をつけた共産軍が彼らを打ち負かして、中国全土を征服せよという計画です。毛沢東はこの指令に従います。
 まさに「夷をもって夷を制す」の考えです。毛沢東は蒋介石に、
命を助けてやるから、お前は日本軍と戦え」
 といいました。すると蒋介石は、「それならば、共産軍も国民党軍と一緒に日本と戦え」といいます。こうして、いわゆる「国共合作」が実現したのです。


蒋介石。彼の方向転換により、日本は日中戦争
を戦わなければならなくなった。彼の側近には共
産党から差し向けられた者たちが多数入り込み、
彼の行動を逐一監視していた。

 蒋介石は結局、こうして命拾いしたわけですが、彼は自分の命と引き替えに共産軍の拡大を許したのです。また蒋介石が日本と戦うようになった背景には、アメリカの手引きもありました。アメリカの物資援助がなければ、蒋介石の軍隊は一歩も立ちゆかなかったからです。
 蒋介石が戦う相手を共産軍から日本軍に変更したことは、彼の人生において最大の過ちといってよいでしょう。なぜならば、そのために彼はのちに共産軍に負け、中国大陸から逃げ出して、泣きながら台湾に渡らねばならないはめになったからです。
 また、これは単に彼の過ちだったというだけでなく、中国の歴史にとってきわめて不幸なことでした。国共合作といっても、実際は共産軍はほとんど何もせず、日本軍と戦ったのは蒋介石のほうでした。共産軍は、蒋介石の国民党軍を利用したのです。国民党軍が日本と戦っている間に、共産軍は力を回復し、やがて日本が中国大陸から去ったあとに、国民党軍を打ち負かすことになります。
 その結果、中国は近代的国家になるどころか、結局、全体主義的な共産主義国となってしまったのです。


共産軍の策略

 日中戦争、すなわち蒋介石の軍と日本軍の最初の交戦は、ある小さな出来事を通して始まりました。それは、共産兵が仕掛けた事件でした。
 当時、日本軍は中国の北京近郊や、満州に、今日でいう「平和維持軍」の形で駐留していました。もちろん、こうした駐兵は、平時においてはすべて国際条約に基づいた合法的なものです。決して「土足であがりこんだ」というようなものではありません。北京近郊での駐留も、北京議定書という法的根拠に基づいていました。
 今日もイラクや、アフガニスタンには、列強諸国の軍隊が平和維持軍として駐留していますが、それと同様の形です。当時の中国は、外国の平和維持軍の存在なしには治安を守れなかったのです。
 しかし、その駐留していた日本軍を中国の内戦に巻き込もうと、共産軍はある策略をめぐらしました。それが「蘆溝橋(ろこうきょう)事件」です(一九三七年)。蘆溝橋(北京市南西郊外)の北で夜間演習中の日本軍に、中国側からと思われる数発の銃弾が撃ち込まれたのです。しかし当時、日本は中国との紛争を避ける方針でしたから、それに応戦しませんでした。
 けれども、翌朝、再三にわたる銃撃を受けたため、ようやく付近にいる中国の国民党軍を攻撃しました。これが蘆溝橋事件のあらましですが、事件の引き金となった銃弾は共産兵が撃ち放ったもの、というのが今日の定説です。
 中国政府は「日本軍の攻撃」としていますが、そうではありません。事実、かつて共産党の劉少奇は、この事件を自分の工作実績の自慢話として語っていました。また共産軍は、事件の翌日、日本との開戦を主張する激烈な声明を出しています。そして蒋介石に対日開戦を強く迫りました。また事件直後に、コミンテルンは中国共産党へ、
局地解決を避け、日中全面戦争に導け」「局地解決を行なう要人は抹殺しろ
 との指令を出しています。それで共産軍は、現地の停戦協定が成立し、戦争が終わりそうになると、各地で日本人に対するテロを繰り返し、戦争を挑発しました。日本人二〇〇名以上が虐殺された事件も、そのときに起きています。
 しかしそれでも、日本は忍耐の限りを尽くしました。戦争の挑発になかなか乗らず、たとえば一九三八年から一九四一年の間に、一二回もの和平提案を行なっています。しかも、その条件は中国側に有利なものでした。中国に対する領土的要求も含まれていませんでした。
 けれども、やがて共産軍の陰謀は成功します。日本は蒋介石の国民党軍と全面的な戦争状態に入っていきました。日本はこうして「内戦のわな」に、はまっていったのです。
 日本軍と国民党軍との戦いは、実際にはほとんどの場合、日本軍が攻撃すると国民党軍が逃げるという形で進みました。国民党軍は、やがてどんどん弱体化し、重慶のあたりまで引き下がらざるを得ませんでした。一方、そのあいだに共産軍はどんどん力を回復し、日本軍の後方に広がることができたのです。
 やがて一九四五年、日本がポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏すると、日本は中国大陸から引き上げていきました。しかしその直後、共産軍と国民党軍の内戦が再び勃発しました。共産軍はまたたく間に国民党軍を破り、全土を制覇しました。
 こうして共産主義の中国が誕生したのです。つまり、日本軍を巧みに中国内戦に巻き込むことによって、共産軍は生き返り、自分たちの目的を果たしたのでした。
 この共産党の策略について如実に語っている出来事があります。一九六四年に、佐々木更三委員長を団長とする日本社会党訪中団が、毛沢東と会談し、「日本軍国主義の中国侵略」について「謝罪」しました。
 社会党というのは、「日本は中国で悪いことばかりしてきた」という歴史観を教え込まれた人々です。彼らが謝罪すると、毛沢東は言ったのです。
 「何も申し訳なく思うことはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれた。皇軍(日本軍)なしには、我々が権力を奪取することは不可能だった」
 そう言って「日本に感謝した」話は有名です。もちろん、これは本当の意味での「感謝」ではありません。共産党の謀略にまんまとひっかかった日本に対する一種の嘲笑の言葉なのです。
 毛沢東にしてみれば、日本軍が国民党軍を叩いてくれたからこそ、その間に共産軍が息を吹きかえし、全土を征服することができたからです。彼こそ、史上最悪の中国内戦によって「漁夫の利」(両者の争いに乗じて苦労せずに利益を横取りする)を得た者でした。
 このように、中国共産党を相手に「謝罪」することがいかに愚かなことか、もっと多くの日本人が知るべきでしょう。「日本は中国に迷惑をかけた」どころか、迷惑を受けたのは日本のほうなのです。

→次項「日中戦争の真実」へ続く

久保有政

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