第四章 セカンドチャンス質疑応答
つぎに、死後のセカンドチャンスに関してよく出される質問の幾つかに答えておきましょう。
質問1 伝道に障害?
「死後にも回心の機会があると言うと、人々は『死んでから回心すればいいじゃないか。生きている間は好きに暮らそう』と考えてしまいませんか。それは伝道の上で障害となりませんか」
いいえ、死後のことを正しく説くところに、そのようなことは起こり得ません。
なぜなら、あなたがキリストの福音を聞いて、自分の生きている間にそれを信じたとしましょう。そうすれば、あなたはこの地上において神の子として祝福の中を生き、また死んだ後は幸福な天国へと迎え入れられますね。
ところが、あなたが生存中に福音を信じなければ、あなたは罪と滅びへの生活を歩み、死後は陰府に下り、生存中に自分が行なったことをそこで苦しみのうちに刈り取るようになります。それは地上における人生よりも、はるかに長く続くでしょう。
あの大洪水前の死者も、自分たちが死んでから二五〇〇年以上たってから、ようやくキリストの陰府降りの際に回心のチャンスを与えられたのです(第一ペテ三・一八〜二〇。ノアの大洪水は紀元前二五〇〇年頃、キリストの陰府降りは西暦三〇年)。
つまり、たとえ陰府で回心の機会が与えられても、それは死の直後ではありません。あなたは自分の人生の何倍にもわたる時間、陰府での苦しみの生活を味わうことになるのです。あなたは、どちらの生活のほうがいいですか。私なら、迷わず前者の生き方を選びます。
私は以前、私の牧する教会で、「死後にも回心の機会はある」と話した上で、
「あなたは死んでから回心すればいい、なんて思いますか」
と皆に聞いたことがあります。すると誰もが首を振って、
「とんでもありません。私たちはキリストに生きることの素晴らしさを知りました。生きているうちに福音を聞いたら、生きているうちに回心するのが当然です」
と答えました。この答えが本当ではありませんか。死後について正しく説くなら、死んでから回心すればいいなどという考えは、決して生まれてこないのです。
福音の素晴らしさを知るなら、誰もが「生きているときに信じて当たり前」と思うものです。それは自明の真理でしょう。福音は、単に死後天国に行くためだけにあるのではありません。この地上の人生のためにもあるのです。
そうなら、早いうちに信じたほうがずっといいはずです。福音の素晴らしさを知っているなら、なぜそんなに「伝道上の不都合」を思うのでしょうか。
あなたはなぜ神様を信じましたか。単に死後天国に行くだけのために信じたのですか。いや、むしろ、それに加えてこの地上で神の祝福と導きを受け、人生に平安、愛、幸福を得るためにも信じたのではありませんか。
あなたは、この地上では好き勝手に暮らして、むなしい人生を送り、そののち死んでから陰府の苦しみの中で回心すればいい、なんて思いますか。本当に思いますか。
もし、万一そんなことを思う人がいたなら、その人はキリストの福音の何たるかがわかっていないのです。死後に関する健全な理解を説いていくとき、「死後に回心すればいい」なんて誰も思いません。そのような懸念は愚かだと思います。
私自身、以前、どうしてこんな自明の真理に長く気づかなかったのだろうと、悔やんだことがあります。不思議なもので、私たちは陰府と地獄の混同の中に長くいたからでしょうか、「死後の回心を言うのは伝道に障害」「それを説いてはいけない」という間違った固定観念が染みついてしまっています。
一種のマインドコントロール状態です。それは条件反射のように、心の中にわいてくる。しかしいったん、福音が単に死後のためでなくこの地上のためでもあること、また福音の素晴らしさがわかると、そのような固定観念が全く愚かなものであることがわかってくるのです。
私たちは伝道の上で、陰府と地獄の違いを明確にしながら、未信者はいま陰府にいることを語り、なおかつ死者にセカンドチャンスが与えられる条件や時期を、明確に説いていくことが大切です。そうした聖書的、かつ理にかなった死後観念を広めるなら、人々は、
「いま生きている間にこそ私は回心しなければならない」
とはっきり自覚していくのです。死後のセカンドチャンスは、伝道上の障害となるどころか、かえって日本のリバイバルを推し進める力となります。
質問2 地獄を強調したほうがいい?
「死後に救いの機会があることは隠して、地獄の滅びを強調したほうが、伝道が進むのではありませんか」
いいえ、逆です。地獄を強調する説教者につまずいて、キリスト教に入れなかった人々のほうが多いのです。たとえば、コナン・ドイルという人をご存知ですか。
イギリスの小説家で、「シャーロック・ホームズ」の探偵小説を生み出した人です。彼はカトリック教徒の家に生まれ、幼少の時から、その教義を教え込まれて育ちました。しかしやがて、
「カトリック教徒でない者はみな、死後(死の直後)、地獄へ墜ちるだろう」
と公言する神父に対し、深い反発心を持つようになります。キリスト教に対する深い疑念を持った彼は、ついにキリスト教信仰に入ることなく、やがて心霊主義に傾いていってしまいました。
コナン・ドイルは決して、最高の神の存在を否定したのではありません。しかし、
「神を信じないで死んだ者は、即、地獄」
と説く既成のキリスト教、また地獄の恐怖心に訴えて改宗させようとする伝道者らに、深い疑念と反発を覚えたのです。彼はついにキリスト教信仰に入ることがありませんでした。
またキリスト教の異端の一つ「ものみの塔」(エホバの証人)の創始者、アメリカのチャールズ・ラッセルも、そうでした。彼はなぜ、そうした異端の教えに走ってしまったのでしょうか。彼もまた既成のキリスト教にふれて育ちましたが、やはり、
「キリスト教を信じないで死んだ人はみな、いま地獄へ行っている」
と説くアメリカのキリスト教会に深い反発を覚えたのです。そして、
「人間の魂は、肉体の死と共に消滅する。地獄はない」
とする、ものみの塔の教義を作り出しました。これは聖書から外れた教えですが、なぜこのような教義を作り出したかといえば、もともとは誤った地獄観念への反発からであったのです。
このように欧米でさえも、「未信者は死の直後に地獄へ行っている」という観念に対し、深い反発を覚えている人は少なくありません。それは多くの人に、キリスト教へのつまずきを起こしてきたのです。
私のもとにも、あるカナダ人がeメールをくれたことがあります。彼もまた、小さい頃キリスト教の「地獄の業火」の説教を聞いて反発を覚え、無神論者になったと告白しました。
その後彼は、キリスト教信仰に入ったものの、正統なキリスト教信仰ではなく、輪廻を信じたり、エドガー・ケーシーの予言を信じたりで、なかなか聖書的キリスト教になっていないのです。
地獄は確かに聖書の教えではあります。しかし、その恐怖心に訴えれば人は悔い改めるか、伝道は進むかというと、そういうものでもありません。
もっとも、欧米のような個人主義の強い社会では、こうした恐怖心に訴える伝道が、ある程度、効果をあげている場合もあります。しかし、日本では決して通用しないでしょう。たとえ数人を勝ち得ることはあっても、日本の伝道の主流とはなり得ません。
以前、ある牧師夫人がこんなことを私に語ってくれたことがあります。
「先日、アメリカで造られた伝道映画の試写会があって、見てきました。その映画の中では、キリストを信じないまま死んだ人々は今『地獄』にいて永遠に苦しんでいる、という教えが生々しく描かれていました。その映画をみて、アメリカ人はたくさん回心するのでしょうけれども、これって、聖書の教えじゃないわけでしょう。それに日本人だったら、あの映画をみても反発するだけで、回心しないでしょうね」。
私も同感なのです。日本人は、個人主義の強い欧米人とは違い、求道中に必ず、
「私の父や、母、また先祖は、キリストを知らないで死にました。彼らは今どこにいますか」
という問いを持ちます。そのときの答えが、「いま彼らは地獄の苦しみの中にあり、決して救われません」なら、日本人の反応はこうでしょう。
「ならば、私だけが天国に行くことはできません」。
「そんな不合理な教えのキリスト教を信じる理由はありません」。
そうではありませんか。地獄に対する誤った観念は、人を神に連れていくよりも、むしろ、つまずかせて神から遠ざけているのです。教理は間違ってはいけません。それは、「キリスト教はばかげた宗教だ」という観念を強めるだけです。
私はかつて、ある教会の礼拝で陰府と地獄の違いをはっきりと説き、「死んだ未信者は今地獄にいるのではなく、陰府にいるのです」と語りました。すると、あとでその教会の老牧師が私に近寄って両手で私の手をとり、深く感謝してこう言ってくださったことがあります。
「ああ、よく語ってくださった。陰府と地獄の違いを明らかにすることは、本当に重要です。教会はこれに目覚めないといけませんね」。
質問3 神様におまかせすればいい?
「親族や先祖がどこにいるかと聞かれても、『神様におまかせしましょう』という答えをすればいいのではありませんか」
たしかに、死者のことは神様におまかせすることが大切です。しかし、ほとんどの人はその答えだけでは満足しないでしょう。たとえば、ある女性が私に電話をくれて、こんな質問をしてきたことがあります。
「私は以前、ある男性と婚約していました。私はクリスチャンです。婚約者の彼は、キリスト教には興味を持っていましたが、結婚式の予定日の前に、交通事故で亡くなってしまいました。亡くなる直前に信仰告白を聞くことはできませんでした。友だちは、
『もしかしたら、彼はキリスト教のことに興味を持っていたから、事故で瀕死の状態にあったときに、神様の名前を呼んだかもしれないわ』
とは言ってくれます。しかしその確証はありません。また、
『彼はいまどこにいるのですか』
と牧師に聞いたのですが、
『神様におまかせすることだよ』
としか言ってくれません。それ以上のことになると、口をつぐんでしまうのです……」
電話の向こうで彼女は涙ぐんでいました。「神様におまかせすることだよ」だけでは、彼女には慰めにならなかったのです。それで私は彼女に言いました。
「結婚を前にしてそのようなことがあって、本当に悲しいことでしたね。聖書は、クリスチャンは死んだら天国に行き、一方、未信者は、死んだら陰府に行くと教えています。私も彼は天国に行ったと思いたい。でも万一、信仰を持つことなく死んだのだとしても、望みがないわけではありません。彼はいま地獄にいるのではなくて、陰府にいて、そこに留め置かれています。陰府と地獄は違う場所なのです」。
私は彼女にそのことを説明し、さらに言いました。
「たとえば『ラザロと金持ち』の話の中で、金持ちは自分が地上にいたときの兄弟たちのことを思い起こしていますね。陰府の人には、地上にいたときの記憶があるのです。
つまり婚約者の彼が万一、陰府に行ったとしても、彼はそこで、かつてあなたが教えてくれたキリストの福音を思い起こすでしょう。しばらく彼が陰府に留め置かれなければならないとしても、そうやって思い起こされた福音は、彼の内で大きく育っていくに違いありません。陰府は死後の最終的な場所ではないのです。それは一時的な場所です。
また聖書には、
『わたし(神)を愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで及ぼす』(出エ二〇・六)
と記されています。この『千代』は、単に子孫だけではなく、過去の先祖や親戚も含んでいるとわたしは考えています。つまり、あなたが神を愛し、キリストの教えに学んで歩んでいくなら、その恵みはあなただけにとどまらず、あなたの親戚・縁者にまで広く及んでいくのです。
ましてや彼はあなたの婚約者でした。婚約していたということは、配偶者になる予定だったということです。まだ式はあげていなかったにしても、心の中ではそう決めていた、また神様の前にそう決心していたのですから、すでに心を一つにしていて夫婦同然です。聖書に、
『信者でない夫は、(信者である)妻によって聖められており、また信者でない夫も、信者の夫によって聖められている』(Tコリ七・一四)
と書かれています。ですから、あなたが信仰することによって、神の恵みは単にあなただけでなく、婚約者だった彼にも非常に強く注がれるのです。こうして、
『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます』
という聖句が成就します。
やがて世の終わりに『最後の審判』という神の裁判の法廷が開かれます。裁判というのは、有罪無罪をはっきりさせるためにあるものです。そのとき彼が、神様によしと認められて、そののちあなたと友に新天新地(神の国)に迎え入れられることも充分あり得るでしょう。
ですから大切なのは、あなたがこの地上で神を愛し、キリストの教えに従った歩みをしていくことです。そうすれば、いずれあなたと彼とは、新天新地の神の国で再会できると思いますよ」
そう私が話すと、彼女は電話の向こうで泣きじゃくっていました。そして、
「ありがとうございました。胸につかえていたものがこのように取り去られて、晴れ晴れとした気持ちになれたのは、初めてです」
と言ったのです。死後に関する正しい健全な理解が、どんなに大切かということです。
陰府と地獄を混同し、「未信者はもう地獄に行ってしまっている」と誤解している人に、「神様におまかせすることだよ」と言っても、相手は決して納得しません。まず、未信者は陰府に行っていることを説明し、また陰府の死者は最終状態にはなく、まだ希望があることを伝えるべきなのです。
質問4 あなたは信じていきましょう
「親族や先祖がどこにいるかと聞かれても、『それは明確にはわかりません。しかしあなたは今すでに福音を聞きました。聞いた者には義務があります。あなたは信じていきましょう』との答えでいいのではありませんか」
確かに、そのように伝道して、信じる人もなかにはいるかもしれません。けれども、あまり多くはないでしょう。
個人主義の強い欧米では、それでも信じる人は比較的多くいます。しかし日本人の場合は、むしろ親族や先祖と別の場所に行くのは申し訳ないという気持ちが強いのです。たとえば、かつて私がレムナント誌に書いた記事に関し、読者が次のような手紙をくださったことがあります。
「レムナントの記事を本当にありがとうございました。
私にとって、未信者の死後がすぐに地獄という教理は、赤の他人の葬式を見るたびにストレスを感じさせただけでなく、実生活にとってもいろいろな弊害のあったことでした。
信仰の初歩のころ、やっと父に伝道するチャンスを得たときも、この点で完璧に決裂しました。私の父は尊敬に値する人物ですが、その父によると、亡き祖父はさらに優れた人物だったようで、父は祖父のことを大変尊敬していました。父は私の話を聞くと、
『その話(信じる者は誰でも天国に行けるが、信じない人は地獄という教え)だが、何も知らないあの祖父が地獄に行き、お前が天国に行くなら、お前の神様は間違っている。わしはお前と一緒にお前の言う天国に行くよりは、祖父と一緒に、お前の神様のいない地獄へ行きたい』
と言いました。祖父の話をよく聞かされていた私には、その気持ちがよくわかりました。話している自分も、なぜこんなひどいことをと主に問いつつ、父に何も答えることができませんでした。
確かに、間違っていたのでした。
しかし、それは神様が間違っていたのではなく、教理が間違っていたのです。この教理的に無知な歴史の中で、何人の人が私と同じような思いをしてきたのでしょうか。……しかし、レムナント誌によって、重要なポイントがすでに解決しました。
教理において、私の神の嫌疑が晴らされたことに感謝します。主はすべてを引き受けてくださったかたですから、キリスト教の無知と愚かさの歴史さえも含めて、すべてに時を備えて、私にも私の父にもきっとよい事をしてくださると信じています」。
このように、親族や先祖は「どこにいるかわかりません」あるいは「地獄です」、「でもあなたは信じましょう」といった言い方では、未信者への伝道はそこでストップしてしまうのです。
目の前にいる人に「信じてもらいたい」という気持ちがあっても、その親族や先祖に関する疑問を解決してあげる必要があります。日本人は親族や先祖と同じ場所へ行きたいという気持ちが強いからです。
ですから、そうした疑問を言ってきた人には、彼らが今どうなっているのか、また彼らにも救いのチャンスはあることを、ていねいに語る必要があります。
その上で、今この地上で生きている私たちは神とキリストを信じて歩んでいきましょう、といいます。そうするとき、私たちに与えられる神の恵みが、彼ら陰府の人々にも豊かに注がれるからです(出エ二〇・六)。そして、いずれ天国で彼らと再会できるチャンスも生まれるのです。
質問5 万人救済説ですか
「陰府にいる人は、苦しみから逃れたいと思っているので、みなが信じるのではありませんか。そうだとすると、万人救済説(すべての人が救われる)になってしまいます」。
聖書は、万人救済説(ユニバーサリズム)を否定しています。最終的に、救われる人と滅びる人の双方がいます。信じる者は救われ、信じない者は滅びます(ピリ三・一九)。
陰府にいる人々にも、信仰と回心の機会が与えられます。しかし、みなが信仰に至るわけではありません。なぜなら、信仰とは神に従い、神と共に生きることです。単に神の存在を信じることではありません。聖書には、
「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが悪霊どももそう信じて、身震いしています」(ヤコ二・一九)
と記されています。また、悪霊たちはイエスが神の子であることを知っています(マタ八・二九)。しかし悪霊たちは、信仰を持っていません。信仰とは、神の存在を信じたり、イエスが神の子であると認めたりすること以上のものなのです。
信仰の本質は、服従にあります。悪霊にはこれがないのです。もし人間が、心砕かれて悔改め、神の救いに信頼し、神の御旨に聞き従う態度を見せるなら、そのときに初めて、「信仰」と認められます。
一方、たとえ苦しみの場所から逃れたいと思っても、真実な悔改めと、信頼と服従の信仰的態度が見られなければ、神はそれを「信仰」とはお認めになりません。そのような真実な信仰を、だれもが示せるわけではありません。
したがって、救われる人と滅びる人の双方がいます。
質問6 無名のキリスト者の考えについて
「ローマ・カトリックには『無名のキリスト者』の考え方がありますね。これはクリスチャンという名称では呼ばれなかったが、内実はクリスチャンと同じく神のみこころにかなって生きた人々がいる。キリスト教世界以外の所にもたくさんいた。彼らは救われるという考え方ですが、これについてはどう思いますか」。
カトリックでは、一般に陰府と地獄が同じものとみなされ、混同されているために、未信者の死後の行方について問題が生じました。カトリックは「煉獄」という考えを発明しましたが、これは中途半端なクリスチャンたちの行き先であって、キリストの福音を聞いたことのない人々の行き先ではありません。
そこで、福音を知らずに死んだ人々のために、この「無名のキリスト者」という考えが生まれてきたのです。
仏教徒や、イスラム教徒、神道信者、あるいはそれ以外の人々であっても、なかには天地宇宙の主なる神を信じていた人や、すばらしい生き方をした人たちがいる。聖書を持たない人もいたし、キリストを知らなかった人々もいる。
彼らは、クリスチャンという名称では呼ばれなかったが、内実は神のみこころにかなう生き方をしたので、救われるに違いないという考え方ですね。しかし、問題はこの考えにどれだけ聖書的根拠があるか、ということです。
私は、この考えに聖書的根拠を見つけるのは難しいだろうと思います。聖書は明確に、イエス・キリスト抜きに救いはないと述べています。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒四・一二)。
一方、私が本書で述べているセカンドチャンス論は、すべて聖書に基づいたものです。まず陰府と地獄の混同を排します。その上で、陰府に行っている未信者がイエス・キリストの福音を知って、救いの機会を得る可能性について述べているのです。
質問7 パラダイスとは?
「聖書によると、キリストは十字架の死後、陰府に下られました(使徒二・三一)。しかしキリストは十字架刑の際に、回心した隣りの盗賊に、『あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる』と言われています(ルカ二三・四三 新共同訳)。これらの句の整合性をどう考えればよいのですか」
「楽園」は原語ではパラダイスです。パラダイスには二つの意味があります。
一つは、上にある天国です。そこは聖書で「パラダイス」と呼ばれています(黙示録二・七)。もう一つの意味は、キリストと共にいることです。聖書でキリストは、天国の「本体」(コロ二・一七)と呼ばれています。天国の愛、命、恵みの源泉はキリストにあります。
天国を幸福な天国たらしめているもの、その本体、実体はキリストにあります。だから、キリストと共にいることは、そのままパラダイス=楽園にいることなのです。
エルサレムのゴルゴタの丘には、三本の十字架が立てられ、真ん中はイエス・キリスト、両側は盗賊でした。はじめは二人ともキリストをののしっていましたが、やがて彼らのうちの一人がキリストの神々しい御姿にふれ、キリストを救い主と信じました。
十字架上で回心したこの盗賊は、キリストと同じく、死後は陰府に行ったのです。しかしキリストと共に行ったので、陰府でさえも彼にとってはパラダイスでした。そしてキリスト昇天の際には、彼はキリストと共に天国へ入ったのです(エペ四・八)
ある人々は、この「楽園」(パラダイス)を陰府の慰めの場所のことと考えますが、そうではありません。キリストが行かれたのは、陰府の慰めの場所だけではありませんでした。彼は陰府の苦しみの場所にも行かれたのです(第一ペトロ三・一九〜二〇)。
したがってこの「楽園」(パラダイス)は、キリストと共にいることと理解してよいでしょう。
質問8 金持ちの最終的な行き先
「新約聖書の『ラザロと金持ち』の話に出てくる金持ちは、最終的に新天新地へ行きますか、それとも地獄へ行きますか」。
「ラザロと金持ち」の金持ちにも、まだ救われる可能性は残されています。
ラザロは死後、陰府の慰めの場所へ、一方金持ちは、陰府の苦しみの場所へ行きました(ルカ一六・二五、二八)。金持ちは陰府の苦しみの場所で、次のようにアブラハムに言いました。
「お願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」。
この願いは、結局かないませんでしたが、重要なのはこのときの金持ちの心です。彼は自分でなくてよい、ラザロでいいから父の家に送ってください、と言っています。彼は、今も欲望のおもむくまま自己中心に暮らしている兄弟たちのことを心配して、そう言ったのです。
金持ちのこの言葉には、自分自身の悔改めの気持ちと、兄弟への愛の気持ちが表れています。彼はこう言うことによって、何か得をするわけではありません。それでもこう言っているのは、それが純粋に兄弟を思いやる気持ちから出たという証明でしょう。
こうした愛と、砕かれた態度が、神の憐れみを受けないと考える理由はありません。
聖書によると、世の終末が間近になったとき、エルサレムに「二人の預言者」(黙示一一・三)が現われます。彼らは、その頃世界に台頭するはずの独裁者「獣」に殺されるが、三日半の後に復活します。
その死んでいる三日半の間、彼らは陰府に下ると考えられます。かつてキリストが十字架の死後の三日間、陰府に下って福音宣教をされたように、この二人の預言者も、陰府で福音宣教をなすでしょう。
そのとき、あの金持ちも、きっと福音に接するに違いありません。彼の砕かれた魂が、そのときに回心することは充分にあり得ると言ってよいでしょう。
こうして、あの金持ちが陰府での長い苦しみの後に回心し、最後の審判の座で義と認められ、最終的に新天新地(神の国)に迎え入れられるとしても、決して不思議なことではありません。
「ラザロと金持ち」の話は、イエス・キリストご自身が語られたものです。これは、たとえ話ではなく、旧約時代における実話です。たとえ話なら、キリストは「ある人」と語られて、「アブラハム」「ラザロ」というような実名は言われなかったでしょう。
実名を語るとき、つねにそれは実話でした。この実話は、キリストご自身にとっても、非常に印象的なものでした。金持ちが無私の心で、陰府において示した兄弟への思いやりの心は、キリストのお心を強く打ったのです。
質問9 中絶された胎児の死後
「私は三年前に妊娠しましたが、育てきれないと思い、子どもをおろしてしまいました。あの子は今どこにいるのでしょうか」
堕胎された子、また流産の子は、今は天国にいます。それはイエス・キリストが次のように言われたからです。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ一八・三)。
「子供のようにならなければ……天の国に入ることはできない」は、言い換えれば、子どもの多くは一般的に天国に入れる者たちであるということです。とくに胎児や乳児のうちに死んだ魂は、神のあわれみにより、すぐさま天国に迎えられると考えてよいのです。
彼らは今、神のみもとで安息の中にあります。あなたのお子さんも、天国で神からの慰めを得ていることでしょう。
そうした霊は、決して「浮遊霊」や「不成仏霊」となっているわけではありません。あなたは「水子供養」などといって、高いお金を出して僧侶に供養してもらう必要は全くないのです。かえってそのようなことをすると、その偶像崇拝の罪が、天国にいる子どもを悲しませることになるでしょう。
しかし堕胎された子は、この世で過ごすはずであった時を奪われた人々です。やむを得なかった場合もあるでしょうが、もしあなたの安易な決断がそれを奪ったのであれば、あなたはそのことで神の御前に悔い改め、天国での子どもの幸せを神に願い求めなければなりません。
そして、子どもを天国に迎え入れてくださった神に感謝をささげ、ますます神に心を向けて人生を歩んでいくことです。あなたは死んだ子どもの分も含めて、この世の時をますます神のために生きるべきなのです。
これは中絶された子の母親だけでなく、父親についても、全く同様に言えることです。父親も、子どもを天国に迎えてくださった神に感謝をささげ、ますます神に心を向けて歩んでいくことです。
そうすることにより、たとえ中絶の際に親に罪があったとしても、子どもは天国で親を赦してくれるでしょう。もしあなたがそうしないなら、あなたは自分が死んだあと、子どもに会うことができません。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」のです。
あなたが、もし死後に天国に行けなかったら、あなたは愛する子に会えなくなってしまいます。あなたはこの地上で与えられた時を、子の分も含めて、しっかり神と人のために生きなければなりません。そうすることにより、あなたが死んだ時、あなたは自分の子に再会することができるのです。
あなたの子は、天国で神の愛によって深い慰めを得ているので、あなたとの再会を心から楽しみにしています。神は子どもの心の傷を、すでにいやして下さっています。何があったにせよ、子どもはあなたの子なのです。
あなたは、子どもに再会することを望むでしょう。もしそうなら、天国と神を見上げて歩んでいくことです。それによって、あなたはやがて天国で子に再会し、楽しく共に生きることができ、神もそれを喜んでくださるのです。
質問10 自殺者の死後
「自殺した人は地獄に行くのですか」
自殺した人は、地獄ではない、陰府に行きます。先に述べたように、地獄は死の直後の場所ではありません。世の終末以降のために用意された場所です。
人間の死後には、中間状態と最終状態があり、中間状態は天国と陰府、最終状態は新天新地と地獄です。自殺した人は、神によって与えられた生命と人生を放棄した人です。彼らは死後、陰府に行きます。
陰府において死者は、世の終末の最後の審判の時に向けて、自らの人生を振り返る時が与えられます(ルカ一六・一九〜三一)。そののち世の終わりになって、最後の審判の法廷において、最終的に神の判断が下され、最終状態が定まります。
自殺した人は、ほとんどの場合、それに至ったよほどの理由があるものです。自殺者は、生きることを放棄するという罪を犯したとはいえ、多くの場合、それに至るまでの同情すべき境遇があります。
なかには、あまりの不幸な境遇に耐えきれず、精神錯乱をきたして自殺してしまったケースもあります。このような場合、すでに理性は失われており、自己責任性はうすく、その自殺を「罪」と呼ぶのはあまりに酷であると思われます。
また生きることに目的を失い、厭世観にとらわれ、周囲にキリストの福音を語ってくれる人がいなかったために自殺してしまった人もいます。このような場合も、単に本人の罪責を追求するのではなく、そうなってしまった経緯がよく考慮されなければなりません。
神は全知のおかたです、そのような自殺者の境遇や、自殺に至ってしまった経緯をよくご存知です。だからそれをふまえた上で、陰府にいる自殺者の霊を、あわれみをもって取り扱ってくださるに違いありません。
そして世の終わりが間近になったとき、エルサレムで死んだ「二人の預言者」が、三日半のあいだ陰府に下って、そこで福音宣教をするでしょう。神を知らずに不幸な自殺を選んでしまった人々が、陰府で預言者の語る言葉に耳を傾け、希望を見いだすことは充分にあり得えます。
彼らの中には、回心し、続いてなされる最後の審判の座で神に受け入れられ、新天新地に入る者も少なからずいるでしょう。
質問11 福音を信じないで去った親族
「私はキリストを信じたいと思っています。でも私の祖父や祖母は、神とキリストを信じない人でした。その前の先祖にしてもそうです。彼らは今どこにいるのですか」
あなたの祖父や祖母、またキリストを知らずに世を去った人々は、今は陰府にいます。生きていたときの行ないに応じて、陰府の中のそれぞれの場所で、神からのお取り扱いを受けています。
しかし、陰府は人々の死後の最終状態ではありません。それは世の終末の最後の審判という裁判の法廷のときまでの、中間状態です。陰府においてどのような者となっていくかで、その人々の最終状態も変わってきます。聖書には、
「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト記二〇・六)
と記されています。つまりあなたが神を愛し、神の御教えを行なう生き方を選ぶならば、神はあなたに「恵みを千代にまで施す」と言われるのです。「千代」とは、単に未来だけでなく、過去にも及びます。それはあなたの子孫だけでなく、あなたの先祖にも及ぶのです。
信仰者への神の恵みは、その信仰者だけにとどまりません。一人の者が信仰することによって、神の恵みはその家族に、親族に、子孫に、そして祖父や祖母、また先祖にまで及ぶのです。
あなたの祖父、祖母や先祖は、いま陰府において生活しています。あなたが神を愛することによる祝福は、彼らにも及ぶでしょう。もちろん、祝福や恵みが臨めば、それで即救われて、すぐ天国に行けるということではありません。しかし、いずれ救われる可能性は非常に高まります。
たとえば、聖書にはソドムとゴモラという古代の悪徳の町が、神によって滅ぼされたときのことが記されています。その町には、アブラハムの甥のロト一家も住んでいました。アブラハムは神にとりなして祈りました。
すると神は、甥のロト一家に憐れみをかけ、滅びの中から彼らを救い出して下さったのです。これは一人の義人アブラハムに及んだ神の恵みが、彼だけにとどまらず、彼の親族にまで及んだという一つの例です。
ノア一家にしてもそうです。聖書には、ノアという人物は義人であったと書いてあります。しかし、彼の家族がどのような人間であったかは書いていません。しかし、義人ノアに対する神の恵みのゆえに、大洪水のときに彼の家族全員が救われたのです。
またアブラハムが祝福されると、その子イサクが祝福され、また孫のヤコブも祝福されました。そしてヤコブが祝福されると、彼の一二人の息子たち、および娘たちが祝福され、さらに彼の子孫であるイスラエル民族全体が祝福されたのです。
西洋のキリスト教では、残念なことに信仰は個人的なものと言われました。しかし聖書をみると、信仰と信仰者への神の恵みというものは、必ずしも単に個人的なものではないのです。むしろそれは多分に共同体的です。
ですからあなたが信仰することに対する神の恵みは、あなただけにはとどまりません。あなたの周辺にまで深く及んでいきます。あなたが神と共に歩むなら、あなたは自分の親族や先祖、また子孫の多くと、神の国で会うことができるでしょう。
質問12 まだ信じないうちに死んだ友人
「私はキリスト信者です。以前からある人にキリストの福音を熱心に伝道していましたが、その人はまだ信仰に入っていない矢先に、先日交通事故で突然死んでしまいました。彼は死後どうなるのでしょうか」
もしその人が交通事故で死ぬときに、まだ信仰に入っていなかったのであれば、彼は死後、陰府に行ったでしょう。しかし、陰府は人間の死後の最終状態ではなく、中間状態です。
その人は、あなたから伝道されたキリストの福音を、陰府で思い起こすに違いありません。地上で生きていたときの記憶は、陰府に行っても、魂のうちに思い出されるのです。あの「ラザロと金持ち」(ルカ一六章)の話の中で、金持ちはかつて自分が地上で生きていたときのことを、陰府において思い出しています。
ですからその交通事故で死んだ人も、生きているときにあなたから伝道されたキリストの福音を、陰府において思い起こすでしょう。そして陰府において神からのお取り扱いを受ける中で、救い主キリストの福音を信じることは、十分あり得ることです。
こうして、あなたが伝道した言葉は決して無駄なものとはなりません。その人は、きっとあなたから受けた伝道を感謝するに違いありません。あなたがその人に再会できる日も来ることでしょう。
伝道というものは、その人が地上に生きているうちに信じようと信じまいと、ともかく語っておくことが大切なのです。
質問13 夫の死
「私はクリスチャンになりたいと思っています。しかし、一つ気がかりなことがあります。私は三年前に結婚したのですが、その半年後、夫は突然、交通事故で死んでしまいました。夫はやさしい人で、私は悲しみのどん底につき落とされました。彼はクリスチャンではなく、宗教にも全く興味を持っていませんでした。彼はもう救われないのでしょうか」。
救われないことはありません。聖書にこう記されています。
「信者でない夫は(信者である)妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです」(第一コリ七・一四)
つまり、あなたがキリストに従い、クリスチャンとして歩むなら、あなたの夫だった彼には、神の特別な聖別と顧みが与えられることになります。
彼は今、陰府にいると思われますが、神の憐れみが彼の上に注がれるでしょう。あなたが地上で神を愛しながら生きるなら、神の愛はなおのこと彼の上に豊かに注がれます。
そうやって、彼がやがて陰府において回心して救われ、来たるべき日に天国であなたと再会するようにもなるでしょう。ですから大切なのは、あなたがクリスチャンとなることです。神を愛し、キリストに従って人生を歩んでいかれてください。
質問14 新しい教え?
「私は、陰府と地獄は同じようなものと思っていたので、『未信者として死んだ人々にもまだ救いの機会はある』と聞いて驚いています。これは新しい教えですか」
いいえ、新しい教えではありません。この理解は、初代教会にはあったのです。新約聖書の中に、はっきりそういう聖句があるわけですから。しかしその後、教会は西方教会と東方教会に分かれました。ローマ・カトリックやプロテスタントは西方教会です。
東方教会は、正教会や、景教(ネストリウス派キリスト教)の教会などです。東方教会では、たとえば第一ペテロ三・一八〜四・六について、キリストの陰府での福音宣教という理解は広く説かれていました。景教徒たちも、「日に七回、生者と死者のために祈った」と景教碑に書かれています。
ところが、西方教会は死後の救いを述べることをタブー視しました。その背景には、しだいにヨーロッパの異教的な地獄観念が入り込み、陰府と「地獄」が混同されるようになったことがあります。陰府と「地獄」は同一視され、地獄は死の直後の場所と考えられるようになりました。
人間は死んだらすぐに天国か地獄か、そのどちらかに行って、それは永遠に続くという理解です。この誤った理解のために、西方教会では、死後の救いを説くことは禁じられました。しかし、それは誤った聖書理解の上に立っていたのです。
質問15 未信者の葬儀
「死後の世界について久保先生が書かれた本を読んで、たいへん教えられました。じつは私は今、キリスト教式の葬儀社をつくろうとしています。それで、単にクリスチャンだけのための葬儀ではなくて、広く未信者からも頼まれるようなキリスト教式の葬儀をやりたいと思っています。何かアドバイスをいただけないでしょうか」。
そうですか。それは素晴らしいことです。
今も多くの教会では、残念なことに地獄と陰府の混同が続いていて、未信者は死んで地獄に行っていると思っています。ですからクリスチャンのための葬儀はできても、未信者のための葬儀はどうやればいいかわからない。いや、未信者の葬儀はやらないという教会さえありますね。
困ったものです。地獄に行くと思っているのでは、葬儀のやりようがないわけです。会衆に何の希望も与えられない。福音の説きようがありません。お葬式は本来、すばらしい伝道の場でもあるはずなのに、日本のキリスト教会はそれを活用していないのです。
キリスト教が日本に根ずくためには、クリスチャン/未信者を問わず「お葬式は教会でしよう」という観念が一般的になっていく必要があります。ヨーロッパなどでは、クリスチャンでも未信者でも葬儀は教会でするのが一種の常識となっていますね。日本でもそうなってほしいものです。
そのためには、まず私たちクリスチャンが、地獄と陰府の混同から抜けだし、未信者はいま陰府にいること、そこは最終状態ではなく、まだ希望があること、そしてセカンドチャンスも理解していく必要があります。さらに、この地上で回心することがいかに大切か、その理由を明らかにしていく必要がありますね。
そのときに、未信者の葬儀に希望をもたせることができ、また一つのよい伝道の場にもしていけます。そういうことを理解した牧師がたくさん日本に生まれていくことを、共に祈っていきましょう。そしてお葬式が、未信者の死者のためにも広く行なわれるように。
今のキリスト教会は、結婚式はよくやりますけれども、お葬式は仏教にまかせてしまっているような状況です。これではいけません。人生観や死生観について、人々が最も思いをはせるのは、葬式においてです。キリスト教会は、未信者からも葬儀を頼まれるくらいになって初めて、日本に福音を浸透させることができるでしょう。
あなたのような働きが、日本の各地で広がっていくことを祈っています。
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久保有政 著
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