死後の世界

<< 書評 >> 
『「セカンドチャンス」は本当にあるのか――未信者の死後の救いをめぐって
(ウィリアム・ウッド著 いのちのことば社 840円)

セカンドチャンス否定の立場の本

 本書は、「死後のセカンドチャンス(未信者の死後の回心の機会)はない」とする立場から書かれたものである。とりわけ、レムナント出版発行『聖書的セカンドチャンス論』(久保有政著)に対して批判をなしている。
 著者は、異端の救済と伝道で有名なウィリアム・ウッド師である。彼は、ものみの塔や、モルモン教、統一協会などから信者を救出し、伝統的福音的な教会へ立ち帰らせていることで功績があり、レムナント誌も彼の働きには敬意を表してきた。
 だが本書を一読して、「セカンドチャンス」に対し、かたよった見方しかなされていないことは、残念なことである。
 この本は、セカンドチャンス否定本の中では感情的なものではなく、比較的冷静な書き方をしている。その点で著者の真摯さが感じられるものである。しかし著者のセカンドチャンス否定論が、充分な説得力を持っているとは到底言い難い。
 本書はまず第一章で、セカンドチャンスの考え方が初代教父の時代からあったこと、また現代にいたるまで常にあり、そして最近アメリカや日本でこの考え方を持つ人が増えて、論争が起きていることなどを述べている。
 第二章では、レムナント出版刊『聖書的セカンドチャンス論』が、セカンドチャンスの聖書的根拠としてかかげた八つの聖句を紹介し、その解釈の要点を述べている。このように一章をさいて、『聖書的セカンドチャンス論』の要点を紹介してくださったことは、感謝なことである。
 さて第三章では、これら八つの聖句解釈に対する批判が述べられる。そして第四章では、著者が「セカンドチャンスを否定する聖句」と考えるものを、幾つか述べて解説を加えている。
 ただし、これらセカンドチャンス否定論に真新しいものはなく、すべて一般的に多くのセカンドチャンス否定論者が口にする事柄である。


セカンドチャンスを否定する聖句?

 著者が第四章で、「セカンドチャンスを否定する聖句」としてかかげたものは、次の通りである。ルカ一六・一九〜三一、ローマ一・一六〜二〇、二・一二〜一六、イザヤ五五・六、第二コリント六・二、ヘブル九・二七〜二八、ヨハネ三・一六〜一八、第二ペテロ二・九。
 だが、これらはいずれも「セカンドチャンスを否定する聖句」とは、とても言えないものばかりだ。たとえばルカ一六・一九〜三一は「金持ちとラザロ」の話であるが、ここは「セカンドチャンス肯定論者」にとっても、重要な論拠なのである。
 著者はまた、ローマ一・一六〜二〇の、
「……神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は……被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はない」
 から、セカンドチャンス否定を語る。「これは『セカンドチャンス』に致命的なダメージを与える」という。しかし、一体どうしてこの聖句がセカンドチャンス否定になるのか、理解に苦しむものである。
 たしかに神の存在と永遠の神性に関しては、自然界を通して知られるものであり、無神論者に弁解の余地を与えない。けれども、その一方でキリストとその福音は、宣べ伝える者がいなくては決して伝わらないのである。
 「聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」(ロマ一〇・一四)
 私たちは神の存在を知ったとしても、キリストを信じることがなければ救われない。そうであれば、単に自然界を観察するだけでなく、キリストの福音を聞くチャンス、キリストを救い主と信じるチャンスが与えられなければならないのだ。セカンドチャンス論が語っているのは、そのことである。
 著者は、たとえキリストの福音を聞くことがなくても、与えられた光(自然啓示や良心)にしたがって歩む姿勢が大切なのだ、といったことを述べている。しかし、たとえ与えられた光に忠実であっても、キリストの福音ぬきには罪と滅びからの救いは決してないのである。
 ある人は、キリストの福音を聞くことがなかったために、仏教、あるいは神道、あるいはイスラム教を通して神を信じている。彼らは、与えられた光に対し真摯に応じ、それなりの信じ方で神を信じたのである。また、良心に従って真摯に生きている人たちもいる。彼らは救われるのか。いや、キリストの福音ぬきには罪と滅びからの救いはない、というのが私たちの信じる立場ではないか。
 いかなる人にも、すべての人にキリストの福音を聞くチャンス、また信じるチャンスが与えられなければならない。キリストは、「すべての造られた者に」福音を宣べ伝えよ、と命じられた。そのキリストが、福音を聞くことなく死んだ人々に対し全くの無関心であるとか、また、ただそれだけで彼らを滅びに渡すというのであれば、それこそおかしな結論と言わざるを得ない。


福音を聞くことなく死んだ人々は福音なしに滅びるのか

 著者はまた、ローマ二・一二の、「律法なしに罪を犯した者はすべて律法なしに滅び…」との句から、福音を聞くことなく死んだ人々は福音なしに滅ぶ、といった意味のことを語る。ただし、
 「さばきの日には、そのツロとシドンのほうが、まだおまえたちより罰が軽いのだ」(ルカ一〇・一四)
 という句から、福音を聞くことなく死んだ人々は、何度も福音を聞きながら拒絶した人々に比べて、罰は軽いのだという。しかし、そう言われて、一体何の慰めになるだろうか。
 罰が軽いといっても結局、永遠の地獄に行くのであれば、何の慰めにもならないだろう。もしセカンドチャンス否定論者の言うところに従うなら、福音を聞くことのなかった未信者は、与えられた光に忠実であっても、なくても、みな結局は地獄へ行かなければならないことになる。
 しかしそれが聖書の教えだろうか。聖書は、第一ペテロ三・一八〜四・六において、キリストがなされた陰府での福音宣教を語っている。死者に、福音を聞いて信じるセカンドチャンスが与えられた、と明言しているのである。この理解を拒む理由が一体どこにあるというのだろうか。
 私たちは、生まれながらの状態では、どんな人もみな滅ぶべき者なのである。律法のある人も、ない人も、みな罪のゆえに滅びるのである。その私たちが救われるのは、福音を聞いて信じたからである。そして死者にも福音宣教が行なわれた、と聖書が述べているのだから、キリストの死者への深い憐れみを理解すべきではないか。


「死後のさばき」とは?

 著者はさらに、ヘブル九・二七〜二八の、
「そして人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている……」
 の句から、セカンドチャンス否定を語っている。しかし、この聖句も一体どうしてセカンドチャンス否定になるのか、理解に苦しむものである。
 「死後のさばき」は、肉体の死の直後にあるのではない。世の終わりの最後の審判の時にあるものである。それまでの間、未信者として死んだ者は、陰府(黄泉、ハデス)に留め置かれる。また「さばき」は、必ずしも罰を与えるものではない。「さばき」とは裁判であって、有罪か無罪かを判定するものである。たとえば聖書に、
 「いつもは彼ら(イスラエルの長老たち)が民をさばき、むずかしい事件はモーセのところに持って来たが、小さい事件は、みな彼ら自身でさばいた」(出エ一八・二六)
 と記されている。このように「さばき」は罰を与えることではなく、有罪か無罪かを決定し、適切な量刑を与えることである。
 「死後のさばき」、つまり最後の審判のさばきも、同様である。それは有罪か無罪かを決定し、死んだ未信者が最終的に「神の国」(天国)に入るか、それとも「地獄」に行くかを確定するためなのである。
 だから、死んだ未信者が最終的に神の国に入るか、それとも地獄かは、世の終わりになって確定することであって、それまでは、すべての者に、救われるチャンスは残されている。すなわち、たとえ陰府においても未信者がキリストの福音を信じるなら、まだ救われるチャンスはあるというのが、聖書の自然な読み方なのである。


日本人が先祖を気にかけるのは「自立していない」から?

 このように、セカンドチャンス否定論の多くは、聖書の曲解と、かたくなな固定観念に基づいていると言わざるを得ない。
 健全なセカンドチャンス論は、先祖のことを気にかけることの多いアジア、またこの日本において、絶対に必要な理解である。それには、健全な聖書理解が欠かせない。
 本書の著者は、個人主義の強い西欧では先祖のことをあまり気にしないが、日本人が先祖の行方を気にかけることについて、こう述べる。
「日本人のこうした態度は、家族(先祖)を大切に思う、優しい心から出ていると言えるでしょう。……しかし、この問題について、もう一つの考え方もできます。それは、多くの日本人が極端な集団主義に陥っている、ということです。具体的に言うと、自分で物事を判断したり、決断したりすることが苦手で、グループで行動をとることに安心感を覚えることです。……マインドコントロールにかかってしまう人の多くは、自立心が育っていないということでした。……聖書は、人が自立した人間になることを励ましています」
 どうも、日本人が先祖を気にかけるのは自立していないからだ、と言いたいようである。しかし、これほど日本人を誤解したものもないだろう。
 日本人が先祖の行方を気にかけるのは、自立していないからではない。それは自然な思いやりからである。自立した人間も、先祖を、当然のこと気にかけるのである。それは非常に健全な心持ちであって、むしろ気にかけないほうがおかしい。先祖を気にかけるのは、日本人の精神の健全さを表すものである。
 日本人は「自分で物事を判断」できないから、先祖を気にしてキリスト教に入らないのではない。「先祖も救えないようなキリスト教は馬鹿馬鹿しくて信じられない」と自分で判断しているのである。
 こうした誤解を解くのが、聖書的セカンドチャンス論なのである。
 というところで、紙幅がつきた。さらにこうした論点について興味のあるかたは、レムナント出版刊『聖書的セカンドチャンス論』と読み比べてみることをお勧めしたい。
 本書の出版に刺激されて、セカンドチャンスに関する健全な聖書的議論が行なわれ、真実が広まっていくことを期待するものである。その点では、この本の著者も、またレムナント誌編集部も同じ思いであると思う。












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