日本近代史

日米戦争はなぜ起きたか 

大東亜戦争への道
アメリカは、自分の真の敵が誰かを見誤った
日本が自衛戦争に出ざるを得なかった理由。


ダグラス・マッカーサー元帥。彼は戦後、
日本の戦争は「自衛戦争だった」と証言した

 一九四一年の日本による真珠湾攻撃から、一九四五年の終戦に至るまで、日本とアメリカは戦争を交えました。
 それ以前の日本とアメリカは、一時は兄弟のように良好な関係を持っていた時期もあります。にもかかわらず、両者は戦争を交えました。これについて、
 「この戦争は日本の侵略的態度に対し、アメリカが懲罰に出たもの」
 とする、いわゆる自虐史観が広く語られてきました。日本を一方的な悪として、アメリカを一方的な正義とする歴史観です。
 しかし、これはアメリカが戦後、自分の戦争を正当化するために唱えた歴史観であり、客観的にみれば決してそのようなものではなかったのです。
 日米戦争の責任は、アメリカと日本の双方にありました。
 両者は、中国で利害が対立したのです。アメリカは、自国の経済圏から日本を閉め出す一方で、中国においてアメリカの割り込みを執拗に求めました。そのために中国に進出していた日本とぶつかり合ったのです。
 日米はなぜ戦争をしなければならなかったのか。その本当の歴史をみてみましょう。


日本の戦争は自衛戦争だったと証言したマッカーサー

 日米戦争においてアメリカ軍を率いて日本と戦ったのは、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥でした。マッカーサーは日米戦争終結から六年後の一九五一年五月三日、アメリカ上院の委員会で、かつての日本の戦争についてこう証言しました。
 「日本が戦争に飛び込んでいったのは、おもに自衛(security=安全保障)の必要にかられてのことだったのです
 マッカーサーは、かつての日本の戦争について振り返り、日本は戦いたくて戦ったわけではない。またそれは侵略戦争でもなく、むしろ「自衛のためだった」と証言したのです。
 今日も、左翼や「反日的日本人」が、「かつての日本の戦争は侵略戦争であった」と言っています。しかし、かつて日本と戦った当のマッカーサー本人が、「日本の戦争は自衛戦争であった」と言っているのですから、これは大変注目に値します。
 ある日本の地方議会で、議員のひとりが、
 「かつての日本の戦争は自衛戦争だった」
 と言いました。すると他の議員たちから、
 「なにをバカなことを言っているのか、侵略戦争だろう」
 と野次が飛びました。そのとき彼は、マッカーサーの証言を正確に英語で引用し、黒板に書いて、説明を加えて言いました。
 「日本と戦った当のマッカーサー自身が、日本の戦争は自衛戦争だったと言っているのです」
 こう言うと、議会はシーンと静まりかえり、もはや野次は消え失せたそうです。
 日本はなぜこの「自衛戦争」に出なければならなかったのでしょうか。それには次にみるように、幾つかの要因がありました。


西へ、西へと進んだアメリカ

 アメリカは、西部開拓史にみられるように「西へ、西へ」の開拓によって大きくなっていった国です。アメリカは、はじめはあのように大きな国ではありませんでした。テキサス州なども、もとはメキシコの領土でした。しかし
 「リメンバー・アラモ砦!
 を合い言葉にメキシコと戦争をし、テキサスをはじめ西部の広大な土地を手に入れたのです。
 彼らはまた土着民のインディアンたちを殺しながら開拓を続け、そのインディアンたちとの戦争は二五年間続きました。合衆国の司令官たちは、
 「インディアンを絶滅すべし」
 と発言、容赦ない絶滅作戦が展開されました。女・子供も虐殺、生活環境を破壊し尽くし、インディアンの数が激減したところで、インディアンの組織的反抗は一八九〇年に終結しました。
 しかし、アメリカ人の「西へ、西へ」の侵出欲はおさまらず、ついに海を越えたのです。
 一八九八年、アメリカの戦艦メイン号が撃沈された事件が起きました。アメリカはそれを契機に、スペインとの戦争を始めました。合い言葉は、
 「リメンバー・メイン号!」。
 アメリカはこの戦争に勝利し、短期間でキューバ、フィリピン、プエルトリコ、グアムを手に入れました。
 メイン号爆破は、スペインのしわざと宣伝されました。しかし、その真相は一〇〇年経った今も不明です。当時、スペインは事件の調査を約束し、戦争を避けようと極限まで譲歩を重ねていました。けれどもアメリカは、有無を言わせず開戦に踏み切ったのです。
 「リメンバー・アラモ砦!」「リメンバー・メイン号!」「リメンバー・パールハーバー!」。アメリカの戦争はいつも「リメンバー!」でした。
 アメリカは不思議な国で、戦争の際には、いつも都合よく敵国からの攻撃があり、「リメンバー!」の合い言葉で国民世論がまとまって開戦に至るのです。


日本軍による真珠湾攻撃(1941年)。「リメンバー・アラモ砦!」
「リメンバー・メイン号!」「リメンバー・パールハーバー!」。ア
メリカの戦争はいつも「リメンバー!」だった。

 戦争はスペイン領だったフィリピンでも行なわれました。アメリカは現地の独立運動を利用して戦いながら、「独立」の約束を破り、領有化しました。
 フィリピン人はアメリカに対し独立運動を起こします。しかし弾圧され、推定二万人が殺害され、また破壊に伴う飢餓と病気で二〇万人が死にました。
 フィリピンを手に入れたアメリカは、フィリピン人に対し英語を公用語とし、徹底的な洗脳政策を開始。知的な者ほど率先してフィリピン古来の文化を捨て、積極的にアメリカ化していきました。
 同じ年、アメリカはハワイも武力で脅迫して併合し、アメリカ領としました。こうしてアメリカは、日本の目と鼻の先までやって来たのです。
 当時のアメリカ人は、自らが非白人劣等民族の領土を植民地化することによって文明をもたらすことを、神から与えられた「明白なる天意」(マニフェスト・デスティニィ)と称していました。
 メキシコ、ハワイ、グアム、フィリピンと領土拡張を進めたアメリカの西進は、この「明白なる天意」のスローガンのもとに行なわれました。それは、傲れる白人の支配欲と欲得を正当化するためのスローガンだったのです。


「門戸開放」の利己的目的

 ここまで来ると、中国大陸はすぐそこでした。アメリカはついに中国大陸を目指しますが、当時すでに中国大陸ではヨーロッパ諸国の分捕り合戦が進んでいました。つけ入る隙がない。それでアメリカは一八九九年に
 「中国の門戸開放、機会均等
を主張します。要するに、「私も入れてくれ」ということです。一見、理想主義的で、ごもっともな意見ですが、その裏には利己的な欲望が隠されていました。
 アメリカは自分の勢力圏であるプエルトリコ、フィリピンなどの「門戸開放」は絶対に主張しません。さらに、一九二九年以降の大恐慌以後は、アメリカは自由貿易を捨ててブロック経済に入り、自分の経済圏から他国を閉め出しました。
 すなわち、自分の経済圏からは他国を閉め出して閉鎖主義をとる一方、中国には門戸開放を求めるという、完全なダブル・スタンダードだったのです。それは自分の利益にだけなることを求めたものでした。
 また、当時の中国はひどい内戦状態にありました。ヨーロッパ各国は租界の治安を守り、貿易を続けるために、すでに莫大な労力と資金を費やしていました。日本も中国に合法的な特殊権益を持っていました。
 当時、内戦と匪賊(ひぞく)の横行する中国では、「門戸開放」など非現実的なことであり、「門戸開放」で得をするのはアメリカだけだったのです。アメリカは労せずに権益を手に入れようと躍起になっていました。
 ところが厄介なことに、アメリカ人はこれを利己的な戦略ではなく「公平で理想的な行為」と信じ込んでいました。また、自分たちは欧州人のような覇権主義者ではないとすら思っていました。
 アメリカは過去に、メキシコやスペインとの戦争を通して領土を拡大してきたのに、そういう自国の歴史を都合良く忘れていたのです。
 アメリカは、「門戸開放」「公平な権利」の主張を自画自賛、現実には何の意味もないその主張を各国に執拗に求めました。このアメリカの態度に、ヨーロッパ各国は内心苦笑しつつ、「ええ賛成ですよ」と言いながら実行はしないという対応をとるばかりでした。
 アメリカはこの「門戸開放」を、そののち実に四〇年間にわたって繰り返し唱え続けます。そしてこれが、中国大陸における日米の対立の火種となっていったのです。
 

ロシアの脅威と日露戦争
 
 さて、この東アジアをわがものにしようと虎視眈々と機会をねらっている、もう一つの国がありました。ロシアです。
 ロシアは、すでに広大なユーラシア大陸に次々と領土を広げ、さらに東アジアもねらっていました。ロシアは欧米諸国以上に侵略欲の強い国でした
 日清戦争(一八九四年)後、清国に勝利した日本は、清国との条約により、遼東半島と台湾を譲り受けました。ところがロシアは、そのときドイツ、フランスを引き連れた「三国干渉」により日本に圧力をかけてきて、「遼東(りょうとう)半島を清国に返せ」とおどしてきます。
 日本には当時、その圧力を跳ね返すだけの力はありませんでした。それで日本は苦渋を飲み、遼東半島を清国に返還します。「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)という言葉が生まれたのも、この頃です。
 ロシアは清国に、「さあ遼東半島を返してあげた。その報酬をくれ」といって、清国から次々に権益をもらいます。さらにロシアは、なんと清国に返還させたその遼東半島に、自分が居座ってしまったのです! ロシアはそんなひどいことを公然と行なう国でした
 ロシアは南下政策を推し進め、満州地域を占領し、さらに朝鮮へ干渉し始めました。「これでは次は日本が危ない」と、日本は危機感をつのらせます。こうして日本とロシアの間に「日露戦争」(一九〇四年)が勃発したのです。
 日本は日露戦争に勝利しました。それはギリギリの勝利、辛勝でしたが、初めて有色人種が白人に勝ったという世界史上の大事件でした。
 日露戦争後、日本はロシアとの講和条約により、樺太の南半分や、遼東(リャントン)半島、また南満州鉄道を譲り受けました。南満州鉄道とは、ロシアが満州を支配するために敷いた東清鉄道の南半分です。日本はこの鉄道を経営することになりました。
 当時の世界では、強い国が他国の経済的な特権を持つことが認められていました。日本もこの権利を持つことになったのです。鉄道は経済発展の重要な基礎ですから、日本はこの権利を得たことを喜びます。
 しかし、日露戦争で膨大な戦費を使い果たしてしまった日本には、この鉄道を経営する資金の見通しがたちません。そうした中、アメリカの大実業家ハリマンが来日し、日本政府に、
 「資金を提供するので、南満州鉄道をアメリカと日本で共同経営しよう」
 と持ちかけました。ハリマンは「鉄道王」と呼ばれた人で、大きな鉄道会社を経営、世界的に有名でした。この提案に対し、桂太郎首相や、元老・井上馨、その他政財界の多くの人々は賛成し、近く協定を結ぶと仮約束しました。


鉄道王エドワード・ハリマン

 井上馨などは、それは日本の防衛のためにも良いと考えていました。というのは、日本は侵略的なロシアの進出を阻止ために日露戦争を戦ったのですが、日本一国では満州を守ることはできないでしょう。そこにアメリカが入ってくれば防衛は強固なものとなると考えたからです。
 しかし、このとき外務大臣の小村寿太郎(じゅたろう)は、講話会談のため、まだアメリカにいたので日本にいませんでした。彼は帰国してこの話を聞くと、「とんでもないことだ」と言って猛反対したのです。理由は、
 「莫大な戦費を使い、数十万の兵士の血を流して手に入れた権利を、外国に売り渡すまねはできないし、講和条約の趣旨にも反する」
 というものです。たしかに、満州における権利は日本人の多大な犠牲を払って獲得したものであり、一方、アメリカはそれを労せずして手に入れることになります。
 結局、小村の意見が通り、日本はハリマン提案を拒否しました。南満州鉄道は日本だけで経営することになったのです。
 しかし、以来アメリカ人の多くは、
 「日本は満州を独り占めしようとしている
 と不快感を持つようになりました。アメリカには、鉄道は領土獲得の基礎という考えが強くあったのです。鉄道が敷かれるところ、自分たちの領土が広がる、という考えです。このためハリマン提案の挫折は、アメリカ人に深い失望をもたらしました。
 この出来事もまた、歴史の大きな分かれ目でした。この時から三六年後、日本とアメリカは戦争をしますが、もしこのとき満州の鉄道を日本とアメリカが共同経営していれば、日米は協調路線をとり、日米戦争はなかっただろう、という見方もあります。


日米戦争は避けられたか

 たしかに、満州の鉄道を共同経営していれば、その後の歴史は全く違った方向へ向かったことは間違いありません。日米は同じ利害を持ったからです。もし日米の政治家が道をあやまらず、うまく協調路線を歩んだならば、日米戦争はなかったかもしれません。
 けれども、本当に日米戦争がなかったかどうかは、結局、想像の域を出ないことです。というのは、当時のアメリカは今のアメリカではなかったからです。当時のアメリカは、今日のような様々な人種の融合した社会ではなく、人種差別的観念のきわめて強い国家でした。
 アメリカはもともと、インディアンに対する虐殺で始まった国です。またその後も、近代に至るまで大規模な黒人奴隷制が存在しました。黒人奴隷はリンカーンの時代に解放されたものの、人種差別は国内に根強く残っていたのです。
 当時のアメリカ国内の人種差別は、ひどい状態でした。レストランも、トイレも、バスも、学校も、公共施設はみな、「白人用」と「有色人種用」に分けられていました。
 アジア人種に対する迫害も、すでに一八〇〇年代から始まっていました。アメリカ西海岸では、ヒステリックな中国人移民排斥運動が起き、虐殺事件も発生しました。そののち、矛先は日本人に対して向けられたのです。
 日本人移民に対する迫害も、すでに一八〇〇年代に始まっていました。勤勉な日本人移民が成功を収めるのを見て、アメリカ人の中には嫉妬と憎悪に燃える者も多くいました。同時に、白人のロシアを破った民族として、恐怖心をも持ったのです。
 当時の多くのアメリカ人にとって、日本人とは得体の知れないエイリアンのような存在に映りました。そして「日本人は油断ならない」「日本をつぶすべきだ」という観念が、アメリカで広まっていったのです。
 いわゆる「黄禍論」です。とくに日本人移民の多かったカリフォルニアでは、駅やトイレ、街角には「ジャップは消えろ」「ジャップを焼き殺せ」のなぐり書きが見られました。散髪屋に入ると「動物の散髪はしない」と断られ、不動産屋に入ると「日本人が住んだら地下が下がる」と断られる。


黄禍論の台頭により、1886年、英国商船の海難事故で
乗船していた日本人が救助されずに死亡した。ノルマン
トン号船長いわく、「助けてもらいたいなら、何ドル出す?
早く言え、時は金なり」

 日本人は、B級映画、小説、漫画の格好のネタとなりました。そして、どぎつい邪悪なイメージばかりが大衆に強烈に植えつけられていったのです。また「新聞王ハースト」と呼ばれる男は、連日、何の根拠もない日本脅威論を書き立てました。ハーストは、
 「新聞の売上げを増やすためなら、国を戦争に追い込むことも辞さない
 と言われた人物で、総人口の〇・一%しかいない日本人があたかもアメリカを征服するかのように書き、世論をあおりました。
 さらに、日露戦争直後の一九〇六年、サンフランシスコで大地震が起きたのですが、そのとき排日暴動が起き、日本人移民が暴行、略奪を受けました。
 日本からは、震災の復興のためにと、五〇万円(現在の十数億円相当)もの見舞金がアメリカに送られました。ところが感謝の言葉もないばかりか、日本人移民の子はその資金で再建された校舎には入れず、ボロ小屋のような校舎に隔離教育されたのです。
 さらにそののちアメリカは、感情的で差別心むき出しの「排日移民法」を成立させてしまいます。日本人移民の総数は、一ヶ月あたりのヨーロッパ系移民よりも少なかったにもかかわらず、日本人移民は土地所有も帰化も認められず、権利を剥奪され、新たな移民も完全にストップしました。
 この排日移民法は、日本国民の感情をいたく傷つけました。このような人種偏見の強かった当時のアメリカと、日本が、本当に満州で仲良く対等にやっていけただろうかというと、かなりの疑問が残るわけです。


日本を敵視したオレンジ計画

 このようにアメリカが、日本人を国内から締め出しても、日本はアメリカとの戦争は全く考えていませんでした。アメリカとは仲良くやっていきたかったのです。
 日本が最も脅威と感じていたのはロシアでした。アメリカではありませんでした。しかしアメリカのほうは、ロシアの脅威をまったく気にせず、ただ日本というライバル国家をつぶしたいと思っていました。アメリカは日露戦争直後の一九〇六年に、
 「オレンジ計画
 なる作戦を立案しています。いろいろな国を色別して、日本はオレンジだったのですが、これは長期的な日本制圧プランでした。日本を第一の仮想敵国とみなし、戦争準備に着手した計画だったのです。
 オレンジ計画は年々改訂され、最終的にはなんと、日本の本土を無差別に焼き払って占領することまで盛り込まれていました。これは日本人の大量虐殺を意味します。
 アメリカはそのような計画を、ヒトラーのナチス・ドイツに対しても、共産主義のソ連に対しても立てたことはありません。白人国家に対しては決して立てなかった。ただ黄色人種の日本に対してだけ立てたのです。
 この計画は、「いずれ日本を叩きつぶすぞ」という計画でした。一九四五年の大東亜戦争終結に至るまでのアメリカの行動はすべて、このオレンジ計画に基づいて遂行されたものでした。
 大東亜戦争末期に、アメリカ軍は日本の本土爆撃をなし、各都市を焼け野原として、民間人約六〇万人を虐殺しました。兵士ではない民間人を殺すことは、明確な国際法違反です。しかし、それさえもすべて、もとはといえばオレンジ計画に盛り込まれていたことなのです。
 なぜアメリカが、日露戦争直後という非常に早い段階に、日本に対してこれほど強硬な姿勢を持ったのか。当時はまだ日中戦争さえも始まっていない時代です。その根底にみえるのはやはり、
 「アジアに白人が進出するのはOKだが、黄色人種の日本が出しゃばるのは許せない
 という、アメリカの人種差別意識なのです。アジアに対するイギリスの進出はOK、ドイツも、フランスも、ロシアもOK、しかし日本はダメという対抗意識です。
 その意識が、「オレンジ計画」となってまとまりました。当時のアメリカには、
「日本人の大脳は、欧米人の灰白色より白い。原始的なままで、思考力は劣る」
 と言ってのける人類学者もいたほどです。このように、「なぜ日本なのか」ということを考えるとき、やはりその根底に人種偏見があったと言わざるを得ません。日米戦争の根深い原因が、そこにあったのです。
 オレンジ計画が作成された時から、アメリカの日本に対する執拗な嫌がらせと、挑発が始まりました。
 アメリカはまず満洲と中国への介入のために、中国の抗日運動を煽りたてます。それは日本を深く悩ませるものでした。日本政府は一九二三年の国防方針書に、
 「米国は……経済的侵略政策を遂行し、とくに支那(中国)に対するその経営施設は、悪辣な排日宣伝とともに、日本が国運をかけ幾多の犠牲を払って獲得した地位を脅かしている」(現代語訳)
 と記し、中国におけるアメリカの「悪辣な排日活動」を憂えています。のちに日中戦争が泥沼化した背景には、アメリカによる中国の抗日運動の扇動があったのです。
 アメリカは日本叩きのために、中国の混乱を利用していました。また日中戦争が始まったとき、アメリカは中立を捨て、蒋介石の軍隊へのあからさまな支援もしていきました。
 やがてアメリカは日英同盟を解消させ、日本への石油禁輸、ABCD包囲網など、日本への挑発を続けました。さらに、最終的に日本に「ハル・ノート」をつきつけ、ついに直接的な武力衝突へと誘い込んでいったのです。


アメリカは領土を広げるたびに、星条旗の星の数を増やしてきた。
その領土獲得欲はさらにアジアに向けられ、次のターゲットは
中国だった。しかしそこに立ちはだかったのが日本だった。

 
大東亜戦争は人種戦争だった

 日米戦争、大東亜戦争とは何か。それは根本的に「人種間闘争」「人種戦争」でした。また、傲れる白人支配に終焉をもたらすための戦争でもあったのです。
 アメリカと日本の行動をもう少し詳しくみてみましょう。
 日本は第一次世界大戦後、国際連盟に「人種差別撤廃法案」を提出します。それは白人の黄色人種に対する差別に苦しんでいた日本にとって、きわめて重要な意味を持っていました。当時の日本は世界の五大国の一つであり、唯一の黄色人種の国家でした。
 日本の非常な努力の結果、この画期的な法案には、多くの国々が賛成しました。ところが、議長であったアメリカ大統領ウィルソンが発した鶴の一声、
 「この提案は全会一致でなければ可決すべきでない」
 で結局、否決されてしまったのです。国内で人種差別をしていたアメリカは、人種差別撤廃法案を断じて認めるわけにはいかなかったのです。
 このように世界で初めて「人種平等」を国際舞台の場で提唱したのが日本であり、それを力づくでつぶしたのが、アメリカやイギリスでした。
 ウィルソンは、「民族自決」を唱えた大統領として知られています。しかしそれはあくまで欧州の民族に関してだけで、アジアやアフリカの民族など眼中になかったのです。すべては白人支配の存続と、自国の利益をねらったものでした。
 アメリカとしては、黄色人種と対等につき合っていくつもりは毛頭なかったのです。日本は、このように人種偏見のうずまく欧米諸国を相手に渡り合っていかなければならなかったのです。それがどれほど大変なことだったか。
 日本は第一次世界大戦に参加した結果、ドイツ領だった南洋諸島(マリアナ諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島、カロリン諸島など)を統治することになりました。
 そこには日本統治により、やがて学校や病院が立てられ、ミクロネシア人の半数以上が初めて実用的な読み書きができるようになりました。住民全員に予防接種も実施され、漁業、農業、鉱業、商業が振興され、製糖業も目覚ましく発展して、住民の生活水準は著しく向上しました。
 人々の多くは今も親日的で、パラオでは八割の人が名前の一部に日本名をつけています。またパラオの国旗が日の丸に似ているのも、親日感情の表れです。
 第二次世界大戦後、この地域はアメリカの統治下に移されました。しかしアメリカは、この地域を水爆の実験場程度にしか扱いませんでした。またアメリカ人が、二宮金次郎像を引きずり下ろし、南洋神社を取り壊したことは、現地の人々にとって耐え難い行為だったといいます。
 この南洋諸島は、グアム島の東隣りに位置します。グアムはアメリカ領、一方の南洋諸島は日本領です。すぐ隣り合わせでした。しかもグアムとアメリカ本土の間に、日本領が入った形です。アメリカはひそかに、この邪魔者・日本への敵意を燃やしました


共産主義に無頓着だったアメリカ

 アメリカはこのように日本に対してライバル意識を持つ一方、共産主義の拡大には全く無頓着でした。
 一九二三年〜二四年にかけて、すでに共産化していたソ連は、外蒙、および烏梁海(ウリヤンハイ 蒙古西方辺境)の地域を、卑怯な手を使って侵略し、そこを共産化してしまいました。
 このときアメリカはどうしたかというと、その恐るべき意味を理解せず、一言の批判も加えなかったのです。またアメリカは、共産主義の侵略・拡大に対し何の措置もとりませんでした。
 アメリカにとっては、それは白人同胞のしたことであって、所詮は対岸の火事にしか思えなかったからです。
 当時、共産主義の拡大の脅威を本当に認識していたのは、アジアでただひとり日本だけでした。共産主義の拡大がやがて世界とアジアを危機に陥れることを、日本は充分認識し、その拡大に対抗していたのです。
 ところが、アメリカはその日本を、ことさらに敵視し叩こうとしました。そこには、日本はアメリカの中国進出の障害だとみる利己的理由があったからです。
 世界情勢をもっと大局的にみれば、本当に障害なのは日本ではなく、むしろ、すでに始まっていた共産主義のアジア侵略でした。ソ連の共産主義者は外蒙への侵出後、甘い言葉をもってさらに中国に近づき、中国を共産化しようとねらっていたのです。
 こうした共産主義者の侵略、またアメリカの態度について、後にダグラス・マッカーサー元帥は、
 「太平洋において米国が過去百年に犯した最大の政治的過ちは、共産主義者を中国において強大にさせたことだ」(一九五一年五月、上院軍事外交委員会)
 と述べています。アメリカは世界情勢を見誤っていたのです。


中国の内戦に巻き込まれた日本

 そうこうするうちに、中国の共産主義者の謀略により、日本は中国の内戦に巻き込まれてしまいます。
 当時、中国の共産軍は、蒋介石の国民党軍に追いつめられ、風前の灯火となっていました。それで共産軍は、中国内戦に日本軍を引き込み、日本軍と国民党軍を戦わせて、その間に共産軍の建て直しを計ろうとしたのです。
 日本には、もともと中国内部に入っていくつもりなど、全くありませんでした。満州国が成長してくれれば、充分だったのです。それはソ連の脅威を防ぐ防波堤となったでしょう。
 日本は実際のところ、広大な中国の内戦にまでかまっている余裕など、ありませんでした。ましてや侵略の意志もありません。しかし度重なる中国側からの挑発、また中国側の謀略により、日本は満州国を守るため、万里の長城の内側に足を踏み入れていきました。
 日中戦争(当時は支那事変と呼ばれた)の勃発です(一九三七年)。
 日本は蒋介石の軍と戦いました。しかし、日本は何度も和平に持ち込もうと努力しました。ところが和平が成立しそうになると、必ずといっていいほどそれを邪魔する事件が起き、和平は破綻したのです。
 それらの事件の背後には、ソ連またはアメリカの手引きがありました。彼らは日中が戦うことを望み、それを誘発したのです。
 ソ連の目的は、日中戦争によって日中両国が弱体化したところをねらって、両国を共産化することにありました。一方のアメリカは、日中戦争によって日本を弱体化させ、それによって中国の巨大市場をわがものとしようとねらっていたのです。
 つまり、この日中戦争を単に「日本の軍部の暴走」だとか、「明治憲法の欠陥」「参謀本部の無能さ」などで説明することは、単なる一面の説明にすぎません。戦争の原因を日本国内のことだけで説明しようとするのは、自虐史観におとしいれるものです。
 戦争の原因は、むしろ外にありました。外から迫り来る悪意は、日本に否応なく決断を迫り、日本を巻き込んでいったのです。
 このときアメリカは、日本を叩くため、蒋介石の国民党軍に対し莫大な援助をしていきました。なぜなら、蒋介石が戦ってくれるなら、アメリカは自分の血や汗を流さずに中国から日本を追い出し、中国に自分の権益を築けるからです。
 しかし、蒋介石への援助が日本叩きに効果がないことがわかると、アメリカはやがて直接対決に日本を誘い込んでいきます。


中国に幻想を抱き続けたアメリカ

 日中戦争開始は、日本にとって歴史の大きな分かれ目でした。満州国建国までは、まだ良かったのです。それはのちに、ほとんどの国が承認するところとなりましたから。
 けれども、日本が万里の長城を越え、中国内部にまで足を踏み入れたことは、アメリカの怒りを買うこととなりました。アメリカとの戦争を避けるという観点からするなら、日本は満州までにとどめておき、中国内部へは絶対に足を踏み入れるべきではなかった、との意見があります。
 日本は満州国をひとり立ちさせることだけに力を使うべきであり、日中戦争は何としても阻止すべきであったと。確かに、もしそれができたなら、確かにアメリカとの戦争も避けられたかもしれません。
 しかし当時アメリカは、日中戦争を望み、それを利用したのです。
 全く理解しがたい話ですが、アメリカ人は自国に来た中国人は徹底的に差別し排斥していながら、遠い中国大陸には、ロマンチックな幻想を抱いていました。その幻想は、一九三〇年代には、パール・バックのノーベル賞受賞作『大地』に描かれた中国人の姿への感動によって強められました。
 また当時の大流行作家ジェームズ、ヒルトンは、中国奥地に神秘的な理想郷「シャングリラ」があるという荒唐無稽(こうとうむけい)な小説『失われた地平線』を書き、これが映画化されて空前の大ヒットとなりました。
 また『タイム』『ライフ』誌を創刊、ラジオ、映画、ニュースにも大きな影響力を持ったヘンリー・ルースは、宣教師を父とし中国で育ったという個人的な思い入れから、親中・反日の報道に徹していたのです。
 彼は、蒋介石夫妻を「自由中国」の象徴と絶賛しました。中国にいるアメリカ人外交官が、いくら「現実の中国はそうでない」と説明しても、アメリカ本国の政府や国民の反応は全く違う方向を向いていました。


毛沢東と組んで日本軍と戦った蒋介石(写真は1945年)。
アメリカ人の多くは蒋介石の正体を見誤っていた

 一方の蒋介石も、アメリカ人のこの奇妙な幻想をたくみに利用しました。蒋介石は、自分の軍がなした中国民間人虐殺を日本軍のしわざにみせかけ、その捏造写真をアメリカ国内にばらまいて、反日宣伝を繰り広げました。
 「日本の暴虐」を証拠づけるとされた有名な捏造写真の数々は、この時期に、蒋介石の国民党によって作られたものです。
 また蒋介石夫人の宗美齢は、アメリカで開かれた講演会で、「日本の暴虐」を訴えて泣いて見せました。英語はペラペラ、しかも美人、またキリスト教徒を演じる蒋介石夫人の語る言葉によって、異教徒の日本人と戦う敬虔なキリスト教徒夫妻というイメージが作られ、アメリカ世論はまんまと蒋介石の国民党支持にまわっていったのです。
 アメリカの著名人や、マスコミ、政治家はすっかり騙されました。たとえばオーウェン・ラティモアは、自分に逆らう者を機関車のボイラーで焼き殺すようなやり方をしていた蒋介石を、「真に民主的なリーダー」とまで呼んだほどです。
 蒋介石は民主的なリーダー、日本軍は暴虐な人々という観念がアメリカ人に作り上げられていったのです。一方、そのころ一般のアメリカ人の六〇%は、世界地図のどこが中国か指し示せないほど何も知りませんでした。
 また大東亜戦争開戦後のイギリスで、
 「蒋介石は、中国内外における巧みな宣伝に支えられてはいるが、その実は、腐敗した政治家たちに囲まれているファシストにすぎない
 と評されるようになっても、アメリカは騙され続けました。イギリス外務省極東部長アシュレー・クラークは、アメリカを訪れた際、
 「現実の中国についての限りない無知
 に驚愕したといいます。
 

偽書『田中上奏文』

 その頃、中国の共産主義者がつくった偽書『田中上奏文』(田中メモリアル)が出回るようになりました。これは「日本は世界征服の陰謀を企てている」という内容の反日文書で、アメリカ議会でも回し読みされました。
 これが偽書であることは、当時の日本の正式な上奏文形式に合致していないことなどからも明らかです。しかし、アメリカ人の反日感情を燃え上がらせるのに、大きな効果を発揮しました。
 日本を、「美しき民主中国」を脅かす強暴な侵略者として非難する声があがったのです。田中上奏文は、その後延々と反日宣伝に使われました。結局、こうして作られたアメリカの幻想により、中国の内戦は泥沼化し、日本は抜け出せなくなってしまったのです。
 しかし、日本は中国に足を踏み入れた以上、中国の内戦を終結させ、中国を再建するために活動していきました。それは自力で内戦を終結できない中国を平定し、アジアに新秩序を建設するという、道義的介入でもあったのです。
 日中戦争が始まって約一年半後には、日本は中国の約半分を占領しました。そして中国の民衆を保護し、そこに近代的な農業や、産業、法制、教育などを持ち込み、中国再建に取り組みました。
 しかしアメリカは、本国に巨大な国土を持ちながら、本土からはるかに離れた地球の裏側の中国に経済市場を求め、日本に対して「お前は引っ込め」とばかりに干渉し続けてきました。
 アメリカは、中国の蒋介石の軍隊への援助を強めました。アメリカ(そしてイギリス)は蒋介石に対し、幾つかのルートを通し、多大な軍事物資や、武器、そのほか経済的な供給をなしていました。
 もしこのアメリカなどからの莫大な援助がなかったら、重慶の山奥に逃げていた蒋介石の軍は、日本の前に降参し、講和に持ち込んでいたことでしょう。しかし莫大な援助を受けていたことにより、彼の軍は持ちこたえていきます。


ルーズベルトの幻想

 それにしても、蒋介石はなぜ日本と戦い続けたのでしょうか。蒋介石にとって本当は日本は敵ではありませんでした。彼の本当の敵は共産軍でした。
 にもかかららず、彼が日本と戦い続けた一つの理由は、もし日本と和解すれば「弱腰!」と大宣伝され、失脚させられてしまうからでした。彼はみずからの保身のために戦い続けたのです。
 もう一つの理由は、彼は日本と戦うことによって、アメリカの援助をさらに引き出し、その援助を対共産党戦のために温存することを計っていました。彼は「日本と手をにぎるぞ」と脅しをかけながら、さらなる援助を引き出していました。
 そうやって、アメリカからの援助を対共産党戦のために温存していたのです。要するに蒋介石にとって、日本との戦争は「金づる」でした。彼は権力をにぎるために、アメリカと日本を利用したのです。
 もっともその蒋介石の夢は実現しませんでした。彼は結局、共産軍に負け、台湾に逃げてしまうはめになるからです。
 しかし蒋介石の野望によって迷惑を受けたのは、アメリカと日本でした。なぜなら、両者はそののち大戦争を交えなければならないはめになったのですから。
 さて、この蒋介石を不幸にも信用していたのが、アメリカで大統領になったルーズベルトでした。ルーズベルトの特殊なアジア人観は、その後の日米関係に決定的な影響を与えています。


フランクリン・ルーズベルト大統領。彼は徹底した反日
主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近に
はソ連のスパイがうごめいていた

 ルーズベルトは、「いつも中国人には親しみを感じている」と言っていました。なぜなら、彼の祖先が中国とのアヘン貿易で儲けたからでした。彼はまた、蒋介石を偉大な指導者と讃美し、援助を惜しみませんでした。
 その一方でルーズベルトは、日本は世界征服の陰謀を企てている悪の帝国と信じていました。彼は「田中上奏文」とほぼ同じ内容の話を学生時代に聞き、それを信じ続けていたのです。
 さらにルーズベルトは、スミソニアン博物館教授アレス・ハードリシュカに、「日本はなぜ邪悪なのか」を内々に研究させ、その結果、
 「日本人が邪悪なのは、我々よりも頭蓋骨の発達が二〇〇〇年遅れているからだ」
 というようなことを本気で信じて
いました。そのために彼は、日本人を病原菌にたとえ、「日本人の根絶」を理想として抱いていたのです。
 ルーズベルトはまた、中国に対しては甘い幻想を抱き、さらに共産主義のソ連に対しても甘い幻想を抱いていました。ルーズベルトには共産主義への警戒感がほとんどなかったのです。
 そして第二次大戦中は、ソ連と同盟を組み、あの大虐殺者スターリンと仲良くしました。ルーズベルトは、スターリンの望むものをあげていれば、彼は侵略やアメリカの邪魔をしないだろうなどと言っていました。
 そのためルーズベルト政権の中枢には、ソ連のスパイ網が広がり、暗躍を続けていました。アメリカはその後、そのために悩まされることになります。
 さて、アメリカやイギリスが蒋介石の国民党軍を支援したため、日中戦争は、日本対白人の代理戦争の様相を呈しました。蒋介石は、白人の傀儡となり、戦争は泥沼化しました。


日本の息の根を止めようとしたアメリカ

 このアメリカやイギリスが蒋介石に援助物資を送っていたルートを、「援蒋(えんしょう)ルート」といいます。「援蒋ルート」の全輸送量の半分以上を占めていたのは、仏領インドシナから中国へのルートでした。
 日本はやむなく、そのルートを遮断するため、ベトナム北部に軍隊を進駐させます(一九四〇年九月)。
 この進駐は、当時のイギリスやアメリカ、ソ連がしていた軍の外国への進駐に比べ、非常に紳士的なものでした。とくにソ連のバルト三国への進駐は、侵略にほかなりませんでした。アメリカ、イギリスも不戦条約違反を犯していました。
 一方、日本のベトナム北部への進駐は、二ヶ月に及ぶ辛抱強い外交交渉の末、その地域を支配していたフランス政府からOKをもらってのことだったのです。
 ところが、このときアメリカは、自国やイギリス、ロシアなどのしたことには何もふれず、ただ日本を非難して、日本を封鎖するための「ABCD包囲網」というものを作りました。
 ABCDとは、アメリカ (America)、イギリス (Britain)、中国 (China)、オランダ (Dutch)の頭文字です。これはアメリカ主導に行なわれた日本に対する厳しい経済制裁でした。ABCD包囲網により、日本には石油や鉄をはじめ、生活必需品などが入らなくなってしまいました。
 しかし、こうしたこともすべて、先に述べた「オレンジ計画」の一環だったのです。
 今日も、アメリカはしばしば他国に対して「経済制裁」という手法をとります。最近では、イラクや北朝鮮に対する経済制裁などです。しかし、最近のアメリカは同じ経済制裁をするにしても、たいていは行き過ぎない、賢いやり方をするようになっています。
 あまりやり過ぎると、向こうが牙をむき、戦争を起こしてくるからです。けれども、ABCD包囲網という経済制裁は、まさに日本に「死ね」と言うほどのキツイものでした
 ですからこの経済制裁は、戦争を誘発するものだとして、ルーズベルト大統領の前のフーバー大統領は決して行なわなかったのです。しかしルーズベルトは、この経済制裁に踏み切りました。
 貿易に依存するしか生きていく方法のない日本は、まさに窮地に立たされました。さらに、一九四一年にアメリカは日本人の在米資産を凍結し、また日本に対する石油の全面禁輸を実施しました。
 石油が入らなければ、車も走らず、飛行機も飛ばず、工場も動きません。日本の産業は停止してしまいます。石油の備蓄をわずかしか持たない日本にとって、これは死活問題でした。
 これほどキツイことをすれば、日本は戦争を決意するだろうということは、もちろんアメリカにもわかっていました。しかしアメリカは、それを望んでいたのです。
 以前私は、イスラエルに住むユダヤ人歴史家のアビグドール・シャハン博士が来日したとき、彼を連れて日本の神社を案内したことがあります。そのとき彼はしみじみと、こう言いました。
 「多くの人は、日米戦争は日本軍の真珠湾攻撃によって突然始まったと思っているが、そうではない。その前に、アメリカが日本に対してしてきた悪辣な事柄の数々を知らなければ、なぜ日米戦争が始まったか理解できない」
 まさにそうなのです。日米戦争は、真珠湾以前から始まっていました。
 それでも、日本はこのときもまだ、米国との関係修復のために最後の努力を積んでいました。日本は、野村駐米大使と来栖(くるす)臨時大使を派遣し、交渉に当たらせたのです。彼らは、日米首脳会談を強く申し入れました。
 日本側は、ABCD包囲網を解いてくれるなら、中国大陸からの撤兵も考慮するとの案を用意していました。そして中国でのアメリカに対する門戸開放、機会均等も約束すると。これはちゃんと記録にもあることです。日本側は大きな妥協の条件も用意していたのです。
 しかし、当時のルーズベルト大統領は、話し合いの場に出てきませんでした。
 もし両者が誠心誠意、交渉のテーブルについて話し合ったなら、日米戦争は回避されたに違いありません。ところが、アメリカ側はこのとき、のらりくらりするばかりで、交渉の要求にも、示した条件にも返答しなかったのです。
 そしてやがて一九四一年一一月二六日、アメリカのハル国務長官は野村大使と来栖大使を呼び出し、突如、あの悪名高い「ハル・ノート」という一方的な対日要求を通告してきました。
 これが、日本に真珠湾攻撃を決意させるものとなったのです。

→次項「日米戦争とは何だったか」へ

久保有政

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