日米戦争とは何だったか
大東亜戦争の意味
アメリカは真の敵が誰かを見誤った。
「本当に勝ったのは日本だ」という
ドラッカーの言葉はなぜ生まれたか
日本への最後通牒ハル・ノートを書いたハリー・ホワイト(左)
彼はソ連のスパイだった。
前項「日米戦争はなぜ起きたか」では、真珠湾以前からアメリカが行なってきた日本に対する執拗な嫌がらせについてみました。その嫌がらせの総まとめとも言えるものが、開戦直前にアメリカが日本に提出してきた最後通牒「ハル・ノート」です。
最初の一発を日本に打たせるためのハル・ノート
アメリカが提出してきた「ハル・ノート」は、日本にとっては寝耳に水、予想もしないものでした。そして日本政府には、目がくらむほどの絶望感が走ったのです。
その対日要求は、中国大陸や、仏領インドシナから日本の軍隊を引き上げるなどが、要求のおもなものでした。このような要求は予想できないでもありませんでした。
では、なぜこれが寝耳に水だったかというと、アメリカの言い分は、日本がこれらの要求をすべて呑めばABCD包囲網を解く、というものではなかったのです。日本がこれらの要求を呑んだら、ABCD包囲網をどうするかという話し合いに応じる、というものに過ぎませんでした。
しかしビジネスの世界でもそうですが、人と交渉して相手に妥協を求める際には、自分のほうでもそれなりの妥協を用意しなければならないものです。国際政治の舞台でも同様のはずです。
ところがアメリカの要求は、自らは一点の妥協もせず、いささかの犠牲も払わず、ただ日本が要求を呑んで、丸裸になれという無茶苦茶なものでした。こんな高飛車で理不尽な要求は、とうてい呑めるものではありません。
呑めば、こちらは丸裸になって、交渉する際の取引カードがなくなってしまいます。つまり、要求を呑んで丸裸になったあとに、「やはりABCD包囲網は解きません」と言われても、もうどうすることもできないのです。
ハル・ノートを受け取る以前の日本政府は、アメリカとの関係をなんとか修復したいと、必死の努力を続けていました。しかしこの要求を受け取ったとき、いまやすべての努力が挫折したと知ったのです。このとき日本国内に、
「事態ここに至る。座して死を待つより、戦って死すべし」
という気運が生まれました。そして開戦を決意、真珠湾攻撃へと向かっていったのです。
戦後、東京裁判でただ一人、日本の無罪を主張したインドのパール判事は、
「ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクのような小国でも、矛をとってアメリカに立ち向かうだろう」
と述べたことは有名です。なぜアメリカは、ハル・ノートというような無茶苦茶な要求をしてきたのでしょうか。
アメリカは、「オレンジ計画」にみられるように、いずれ日本を叩きつぶそう、屈服させようと思っていました。真珠湾以前から、アメリカが日本との戦争を決意していたことは、今日では良く知られています。
けれども当時、アメリカ国民の大半は、参戦に反対でした。アメリカ人の多くは、かつての大恐慌の悪夢からようやく立ち直り、安定した生活を手に入れるようになったばかりでした。できることなら、他国との戦争などにかかわりたくありません。
そうした中、ルーズベルト大統領は、なんとか日本と戦争をし、日本を屈服させたいと願っていました。
また当時ヨーロッパでは、すでにドイツ軍の勢力がイギリスにも迫っていました。それでルーズベルトは、盟友チャーチル首相のイギリスを救うためにも、アメリカの参戦を何とか果たしたいと思っていたのです。もしアメリカが日本と開戦すれば、日本とドイツの同盟関係により(日独伊三国同盟)、アメリカは自動的にドイツとも開戦することになります。そうすればアメリカがドイツを打ち負かす機会が生まるわけです。
そのためルーズベルトは、何とか参戦を果たしたいと願っていました。けれども、アメリカ政府が勝手に戦争を始めても、アメリカ世論がついてくるわけがありません。
どうしたら、世論は日本との戦争をよしとするだろうか。そうです。もし日本が最初の一発を打てば、アメリカ国民は怒り、戦争やむなしと思うに違いありません。
アメリカは、西部劇にもみられるように決闘の国であり、先に相手に銃をぬかせてこそ、大義名分が立つというものなのです。そのためにアメリカが用意したのが、
「ハル・ノート」
という日本への要求書でした。これをつきつけるなら、日本は牙をむいて、刃向かってくるに違いない――そう踏んだわけです。
もちろん、こうした国運をかけた重要な外交文書が出されるには、当然、アメリカ議会の承認が必要のはずです。ところがハル・ノートは、アメリカ議会も、アメリカ国民も全く知らないところで、ひそかに日本につきつけられました。
これが日本に出されたことは、ルーズベルト大統領と、幾人かの側近だけが知っていたことだったのです。真珠湾が攻撃されたとき、ほとんどのアメリカ国民は、ハル・ノートの存在すら知りませんでした。
アメリカ国民は、アメリカに対する日本の横暴な侵略が突如始まったとしか思わなかったのです。
戦争責任は双方にある
当時、ハワイの真珠湾にはアメリカ軍の一大基地があって、アメリカによるアジア侵出の拠点となっていました。1941年12月8日、日本軍はこの真珠湾の基地を攻撃、破壊しました。
真珠湾攻撃のニュースが飛び込んだとき、喜んだのはルーズベルト大統領でした。これでアメリカ世論は一気に傾き、日本との戦争を始められるからです。当時の大統領側近の話によれば、真珠湾のニュースを聞いたとき、大統領は「安堵した」といいます。それは彼の念願がかなった瞬間でした。
ルーズベルト大統領は、戦争には参加しないと公言して
当選したが、心ではアメリカの参戦を強く願っていた。彼
は日本を挑発して日本に「最初の一発」を打たせることに
成功し、米国民を一気に戦争へ向かわせていった。
そののち、大統領は米国民の前に出ると、急に顔をこわばらせて怒りをあらわにし、これを日本の「卑怯なだまし討ち」と非難して、国民の怒りを駆り立てました。さらに、
「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)
の合い言葉を繰り返し、一気に日本との戦争に向かわせていったのです。
のちに、イギリス・チャーチル内閣のオリバー・リットルトン生産相は、一九四四年の演説の中で、日本の真珠湾攻撃についてふれています。当時の『ザ・タイムズ』誌は、記事の中で次のように記しました。
「リットルトン氏は……『日本人が真珠湾でアメリカ人を攻撃せざるを得ない』ほど、アメリカは日本を挑発した、と言明し、『アメリカが戦争に巻き込まれたというのは、歴史を戯画化したものである』と付言した」
アメリカは戦争に巻き込まれたのではなく、戦争を自ら引き起こしたのだ、ということです。イギリスの海軍軍人ラッセル・グレンフェル大佐も、その著『主力艦隊シンガポール』の中で、こう述べました。
「今日、いやしくも合理的な知性のある人で、日本が合衆国に対して悪辣な不意討ちを行なった、と信ずる者はいない。攻撃は充分予期されていたのみならず、実際に希望されていたのである。
ルーズベルト大統領が、自国を戦争に巻き込みたいと考えていたことは、疑問の余地はない。しかし政治的理由から、最初の敵対行動が相手側から始められるようにすることを、熱望していたのである。
そのような理由から彼は……武力に訴えなければ耐えることができない点まで、日本人に圧力を加えたのである。日本は、アメリカ大統領によって合衆国を攻撃するように仕組まれたのである」
このように、日米戦争は、決して日本が一方的に始めたものではありませんでした。むしろ、アメリカは日本を、戦争以外に選択肢のないところに追いやったのです。もし戦争責任ということを言うなら、それはアメリカにも日本にもあったことです。
戦争はあってはならないものです。しかし日米は戦争をしました。その責任は双方にあります。日本は中国大陸に戦線を拡大する過ちをおかしました。アメリカは、日本を戦争へと挑発しました。
双方がそういう過ちを犯したということを、認識しなければなりません。
しかし、人間は結果から物事を見てしまいがちです。戦争に負けたほうの日本がすべて悪く、勝ったほうのアメリカはすべて正しかったと考えがちです。とくに日本にはその傾向が強く存在します。
けれども、それではいけないのです。戦争の教訓をいかすことになりません。
これは戦争を讃えているのでも、肯定しているのでもありません。今の日本は、自虐的な歴史観に陥っています。日本がすべて悪かったのだと。また、あの当時の政治家や軍人たちはみな狂っていたのだと。しかしそうではありません。
当時の日本人は、熟慮に熟慮を重ねた末、やむを得ず戦争に突入していったのです。そこには、真剣に国の未来を考えた人々の姿がありました。
もちろん、失政や失策もありました。あとから「ああすればよかった」「こうすればよかった」ということもありました。しかし問題は、あの状況まで追い込まれたとき、それ以外には選択肢はあったか、ということです。
特攻隊員ら。彼らをはじめすべての日本兵は、
日本とアジアの未来を思い、命を捧げた。その
犠牲の上に今日の日本とアジアがあることを、
私たちは忘れてはならない。
もしあなたが、あの残酷きわまりない弱肉強食の時代に生きていたとしたら、あなたは戦争を止められたでしょうか。一九四一年九月六日の御前会議では、
「帝国は、自存自衛を全うするため、対米・英・蘭戦争を辞せざる決意のもとに、概ね10月下旬を目処とし戦争準備を完遂す」
との決定が下されています。日本は戦わずして屈服するより、戦うことを選びました。それは日本の存亡をかけた戦いだったのです。昭和天皇は戦後、
「この前の戦いは、結局は人種問題と石油問題であった」
と言われています。日米戦争の原因は、大局的にみれば、アメリカの人種差別政策が遠因となり、石油全面禁輸が近因となって起きました。昭和天皇は、その大局をよく見通しておられたのです。
コミンテルンの謀略
さて、今まで私たちは日米戦争の原因として、おもに日本側とアメリカ側の要因だけをみてきました。しかし、単に両者の要因だけで日米戦争が起きたわけではありません。
じつは当時、日米間に戦争が起こって欲しいと熱望していた、第三者の存在があったのです。そして結局それが、日米戦争に火をつけました。
その第三者とは、ソ連のモスクワに本部をおく「コミンテルン」(国際共産主義組織)です。コミンテルンは、「世界中を共産主義化する」という野望を抱いて行動していた人々です。
共産主義は、目的のためには手段を問いません。彼らは世界の列強同士を戦わせ、それらの国々が戦争で弱体化したところをねらって、その国に共産主義革命を起こし、共産主義化する戦略を立てていました。
つまり「夷(い 外国)をもって夷を制す」の考えです。二〇世紀におきた多くの騒乱や、局地戦争、また大東亜戦争を含む第二次世界大戦など、世界中の大半の戦争に、共産主義者の謀略が関与しています。コミンテルンは、世界中に戦争の種をばらまいたのです。
私たちは、人間は平和主義者ばかりではないことを、知る必要があります。コミンテルンは、日米間に戦争を起こしたいと欲しました。それによって両者を弱体化させ、そこに共産革命を起こし、両者とも共産主義化しようと謀略です。
この目的のためには、アメリカ人の日本に対する怒りを積もらせる必要があります。その目的のもとに共産主義者がつくったのが、先ほども述べた偽書「田中上奏文」です。それは日本を悪者に仕立て上げたものでした。
さらに、日本にアメリカとの戦争を決意させたものは、「ハル・ノート」であるとも述べました。
このハル・ノートですが、じつはもともとハル国務長官自身が最初に用意した原案は、もっと穏やかなものでした。それは日本側が呑める内容でした。それがもし実際に出されていたら、日本側は呑んだでしょう。そして日米戦争は起こらなかったに違いありません。
しかし、そののち実際に日本につきつけられたハル・ノートは、強硬で無茶苦茶な要求となっていました。その原稿を書いたのはハル長官自身ではありません。財務省補佐官のハリー・ホワイトなる人物でした。
それをルーズベルト大統領が気に入り、これでいけ、ということになって、ハル長官から野村大使に手渡されたので、以後「ハル・ノート」と呼ばれるようになりました。
ハル・ノートを書いたこのハリー・ホワイトは、共産党員であり、ソ連のスパイであったことが、戦後明らかになりました。
というのは、別にエリザベス・ベントレイというソ連のスパイが逮捕されたのですが、彼女は、ハリー・ホワイトは共産党エリートだとしゃべったのです。また、ウイタカー・チェンバースという元共産党員の男も、ホワイトはソ連のスパイだと告発しました。
こうしたスパイ疑惑のなか、ホワイトは審問期間中に突然、不審な死を遂げます。その死に方は、事故死か自殺のようにもみせかけられていましたが、コミンテルンに消されたというのが大方の見方です。
このように、ハル・ノートが対日強硬要求となった背景には、日米間に戦争を起こそうとするコミンテルンの謀略があったのです。
根底にあった人種差別
このように日米戦争は、もともとブロック経済に始まった世界経済の窮迫を背景に、欧・米・日の東アジアへの進出、ソ連の脅威、石油問題などを原因とし、そこにコミンテルンの謀略も加わって起きました。
しかし根本的には、アメリカがブロック経済と排日主義によりアメリカへの門戸を日本に対して閉ざした一方、中国の門戸開放を執拗に求め、日本を締め出しにかかったというアンフェアーな行動が大きな原因としてあったのです。
さらに、もっと根底に、アメリカ人の人種偏見が存在しました。開戦後、アメリカのトマス・ブレーミー将軍はこう演説しています。
「諸君らが戦っているのは、奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい」
また一九四三年の米軍の調査では、アメリカ兵の半数が日本民族を根絶すべきと考えていました。その狂気はそのまま戦場に持ち込まれ、日本兵捕虜は容赦なく撃ち殺され、まだ息のある者も他の死体と共に穴に投げ入れられたと、従軍記者エドガー・L・ジョーンズは記しています。
アメリカは、自らの打算的な目的のために、日本人をことさらに敵視したのです。
なぜアメリカはナチス・ドイツではなく、日本に原爆を落としたのか。それはドイツ人は白人であり、日本人は黄色人種だったからでしょう。著名な飛行家リンドバーグは、
「ドイツ人はユダヤ人の扱いで人間性を汚したと主張する我々アメリカ人が、日本人の扱いで同じようなことをしでかしたのである」
と書いています。ドイツ人がユダヤ人に対し、ひどい人種偏見を抱いていたのと全く同じように、アメリカ人は日本人に対し、ひどい人種偏見を抱いていました。
もしこの人種偏見がなかったら、歴史は全く違った方向へ進んだことでしょう。しかし、当時は人種偏見の時代だったのです。
大航海時代以降の四世紀にわたる白人支配、白人全能の歴史に、日本はただ一国で立ち向かいました。白人は、この生意気な有色人種をどうしても許せませんでした。そして彼らは「オレンジ計画」を作成し、日本の都市をことごとく空襲で焼き払い、原爆を二発落とすまで収まりませんでした。
一方、日本は、当初から日本対白人の戦争をしようと思っていたわけではありません。日本は最後の最後まで、欧米を相手とする国際協調にかけていました。それは忍耐に忍耐を重ねたものです。しかしそれが破綻したとき、日本は自存自衛のために、白人相手に戦うことを辞さなかったのです。
東京裁判の偽善
日米戦争は四年間続きました。前半は、日本のほうが優勢でした。破竹の快進撃を続けたのです。しかし後半は、物量にものをいわせたアメリカが反撃の期をつかみ、アメリカの優勢に転じました。
やがて日本軍の各地での玉砕、特攻隊、広島・長崎への原爆投下など悲惨なことが続き、ついに日本が降伏。マッカーサー元帥と占領軍が日本の厚木基地に降り立ちました。
マッカーサーは、日本の戦犯をさばくために東京で軍事法廷を開きました。いわゆる「東京裁判」(極東軍事裁判)です。それは裁判とはいっても、実際は勝者が敗者を一方的に裁いた、一種のリンチにすぎませんでした。
東京裁判は、一種のリンチであり、負けた日本が一方的な
悪であることを世界に印象づけるためのショーだった
それは、勝ったアメリカが一方的な正義であり、負けた日本が一方的な悪であることを世界に印象づけるための演出だったのです。一種のショーと言ってもよいでしょう。このショーを通して、日本の戦時指導者は「戦犯」とされて処刑されました。
この東京裁判、またそれによって形成された「東京裁判史観」は、今も日本人に暗い影を落としています。この裁判は一体何だったのか、少しみてみましょう。
かつてヨーロッパでは、多くの戦争がありました。昔はヨーロッパでも、勝者が敗者に無茶苦茶な要求をしたり、敗者を容赦なく裁いて処刑したりすることが多くありました。しかし、やがて啓蒙思想の時代になると、ヨーロッパの人々はそれを反省し、そういうことは良くないといってあまりしなくなったのです。
つまりウェストファリア条約以降、「勝敗はあっても、敵を悪いものとは決めつけない」という伝統が生まれました。そのため第一次世界大戦が終わったときも、負けたドイツ皇帝ヴィルヘルム一世をどう裁くかという案は、ヨーロッパからは出ませんでした。
当時アメリカは厳しく裁くことを求めましたが、ヨーロッパの人たちは、勝者が敗者を裁くことはよくないといって、結局その意見を通しました。事実、ヴィルヘルム一世は裁かれないまま、自分の親類のいるオランダで平和に余生を過ごすことができたのです。
ところが第二次世界大戦後になると、状況が一変しました。なにしろアメリカが圧倒的に強かったので、すべてにアメリカの意見が通ることとなったのです。東京裁判にみられるように、勝者が敗者を裁くということが当然のように行なわれました。
アメリカは新しい国で、いわばヨーロッパの伝統を飛び越してできた国です。ヨーロッパではすでに「勝者が敗者を裁くのはよくない」という観念になっていたのに、アメリカはそのプロセスを経ていないので、敵を悪魔同然に扱いました。
東京裁判においても、そのような認識のもとに日本人を裁いたのです。
そして東京裁判が行なわれているあいだ中、占領軍がつくった「真相はこうだ」「真相箱」というラジオ番組が毎日、ひっきりなしに日本国民に向かって流され続けました。
それはアメリカのしてきたことは一方的な正義であり、日本のしてきたことは一方的な悪だったとする内容です。アメリカ人の歴史観を日本人に吹き込み、たくみに日本人を洗脳する番組でした。
日本の国民が悪いのではない。軍部が悪かったのだ。アメリカは日本を救ってくれた、アメリカが自由と民主主義をくれた、といったプロパガンダ(政治宣伝)です。この番組は、NHKがつくったように偽装されていましたが、つくったのは占領軍でした。
それが三年間も、毎日ゴールデンタイムに流され続けたのです。当時の日本人は敗戦で何もかも失い、呆然とした状況でしたし、厳しい情報統制下にありましたから、多くの者が、
「そうだったのか」
と思みました。これは占領軍の、
「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争犯罪意識を植えつける洗脳計画)
に基づいて作られたものなのです。またこのプログラムにより占領軍は、日本人に与える情報や、出版物、教育などを厳しく制限し、統制しました。こうして、今日の日本にみられるような、
「明治以降の日本の歴史は侵略の歴史だった」
という、日本を悪者とする歴史観が形成されていきました。これが、今日の日本人の自虐史観の源なのです。
私たちは洗脳されていた
このように、それは押しつけられた歴史観でした。私たちは洗脳されていたのです。
しかし戦後五〇年、あるいは六〇年たって、ようやく日本の真実の歴史が語られるようになりました。私たちは今こそ東京裁判史観の呪縛から解き放たれ、父母や祖父母の時代の歴史を、もう一度学び直す必要があります。
日米戦争についてみるなら、アメリカが一方的に正義だったというのは全くあり得ないことです。なぜなら、国際法にのっとって裁くなら、民間人を殺した罪が一番重いからです。
アメリカは日本の各都市への無差別爆撃で、民間人計約六〇万人を殺しました。
そのやり方は、まず直径五〜六キロの周辺を焼夷弾で焼き払い、人々の逃げ道を断って、それから内側に無数の爆弾を雨あられと落とすものでした。それは始めから民間人の虐殺を目的としたものだったのです。史上空前のホロコーストでした。
またアメリカは、原爆で、民間人計約三〇万人を殺しました。原爆は一発はウラン型爆弾、一発はプルトニウム型爆弾でした。アメリカは持った以上、使ってみたかった。それで日本人を相手に人体実験を行なったのです。
アメリカはすでに日本が降伏する意志を持っている
ことを知りながら、「戦争を終わらせるため」と称して
原爆を落とし、民間人の大量虐殺を行なった
じつは当時すでに、日本は降伏することを決めていました(和平の仲介をすでにソ連に願い出ていた)。アメリカ側も、その情報をつかんでいました。ところがアメリカは、「これ以上アメリカ人兵士の死者を出さないため」と言いわけを付けて、日本で原爆による殺戮を行なったのです。
つまり、原爆を落とさなくても日本はもう降伏すると知っていながら、「それを落とさないと戦争は終わらない」と米国民に説明して、原爆を落としたのです。
また、原爆を使った背景には、戦後の体制を見据えて、「アメリカにはこんなすごい武器があるぞ」ということを、ソ連に見せつけておくねらいもあったのです。
近代戦において、これほど多くの民間人を組織的に、かつ、ためらいもなく殺した国があったでしょうか。国際法からいえば、アメリカは最も裁かれるべき存在であるはずです。しかし、裁かれていません。
勝者が敗者を裁いた東京裁判がいかに茶番であるか、それを考えただけでもわかるというものです。
アメリカは中国への野望を抱き、そのために、黄色人種の大国に成長していた日本をいつかは叩かなければならないと思っていました。やがて排日移民法による日本人移民の締め出し、中国での排日運動の扇動、蒋介石へのあからさまな軍事援助、ABCD包囲網、石油輸出禁止などを行ない、最後にはハル・ノートで挑発して、日本を戦争へと向かわせました。
あの戦争でアメリカのどこに「正義」があったのでしょうか。
一方、日本が戦ったのは自衛のためでした。そして欧米列強によるアジアの全植民地化を防ぎ、アジア諸国を独立させるという「正義」がありました。
単に日本を悪者とするだけの歴史観は、歴史への冒涜というものです。そして日本人を骨抜きにしてしまうものです。私たちは、日本人としてのアイデンティティ(自分は何者か)を回復する必要があります。
それには公平で真実な歴史観に立つ必要があるのです。
朝鮮戦争を通してマッカーサーが知ったこと
さて、戦争直後の七年間、日本はアメリカ占領軍の支配下におかれ、独立を奪われました。七年間、日本に主権はなかったのです。主権がなかったということは、日本という独立国家がなかったことでもあります。
占領軍は当初、日本を二度と戦争に向かわせないようにするため、日本の産業を農業と軽工業くらいに限る政策をとりました。重工業をやらせず農業国家にするつもりだったのです。戦車や戦艦、武器をつくられたら困るからです。
ところが、やがて一九五〇年、朝鮮戦争が勃発しました。北朝鮮軍が韓国を侵略したのです。その北朝鮮軍を援助していたのが、ソ連と中国でした。
朝鮮戦争でマッカーサーは、日本からみた共産軍の
脅威というものを初めて肌で感じた
このとき、マッカーサー元帥は初めて、日本からみた共産軍の脅威というものがどんなものかを、肌で感じるようになります。朝鮮半島が共産化してしまったら、次は日本です。
朝鮮半島は、ちょうど日本列島の脇腹にナイフを突き刺すような形で存在しています。そこにソ連や中共がいすわってしまったら、日本も共産化されてしまうのは、もはや時間の問題です。
マッカーサーは、アメリカ軍を組織し直し、すぐ朝鮮半島に飛んで、韓国から共産軍を追い出しにかかります。彼はそこで必死に戦いますが、結局、日米戦争時以上のアメリカ人死傷者を出してしまいます。
戦闘は一進一退を繰り返し、ようやく三年後に共産軍を北緯三八度線まで追い返したところで、休戦となりました。
この戦争が始まったとき、アメリカは日本に対する政策を改めたのです。アメリカは急いでサンフランシスコ講和条約を結び、日本を独立させました。そして日本の重工業をも許し、朝鮮戦争に必要な様々な物資の供給基地として、日本の産業を援助、育成しました。
これが朝鮮戦争特需といわれるものです。これによって日本の産業と経済は、復興の契機をつかみました。
なぜマッカーサーは、朝鮮戦争で、あれほどの苦労をしなければならなかったのでしょうか。それは敵の北朝鮮軍と共に、ソ連軍や中共軍がいたからです。
マッカーサーは、この朝鮮戦争を戦ったとき、かつて日本がなぜあれほど朝鮮半島や満州にこだわったか、という理由をはっきり理解しました。朝鮮と満州は、日本にとって共産軍から身を守るための最後の防波堤だったのです。
マッカーサーは日本を統治し、そののち朝鮮戦争を戦って共産軍の脅威に直面して初めて、日本の立場というものをはっきり理解しました。
それで、マッカーサーは朝鮮戦争中の一九五一年、演説のなかで日本の自衛権を強調しています。彼は日本を独立させ、その独立した日本が再武装する必要性を説きました。
また、共産軍の圧倒的な力に直面した彼は、共産軍を叩くために満州に原爆攻撃を加える許可を、アメリカ大統領に求めています。しかし、再び世界戦争に拡大することを恐れたアメリカ大統領トルーマンは、この要求を拒否し、マッカーサーを解任しました。
帰国したマッカーサーは、アメリカ上院議会で、日本についての証言を求められました。かつての日本の戦争についてどう思うかと聞かれた彼は、日本が中国大陸に進出したのは侵略戦争ではなかった、自衛のための戦争だったと言いました。
これは、朝鮮戦争を通して北からの脅威が骨身にしみたマッカーサーの、実感から出た言葉だったのです。
マッカーサーはかつて、日本を侵略戦争を行なった悪者と決めつけ、東京裁判を開き、「平和に対する罪」で日本を断罪した人物です。しかし、やがて日本統治を通して日本の立場に立ち、また朝鮮戦争を経験したとき、かつての日本の戦争は自衛戦争だったことをはっきりと理解したのです。
アメリカの見込み違い
アメリカは中国に市場を求め、中国を自分側につけたいと思って、日本と戦争をしました。
アメリカは当時、中国は「第二の西部」だという強い思い入れを持っていたのです。中国は西欧諸国や日本の進出により滅茶苦茶になっているけれども、本来は成熟した国であり、良いパートナーになれると思っていたのがアメリカでした。
この思いこみに従い、アメリカは国民党の蒋介石をずっと助けてきました。蒋介石はキリスト教徒を演じていましたし、アメリカ世論への訴え方のうまい人でした。しかし結局、アメリカは蒋介石を助けたことにより、大きく国益を損じたのです。
客観的にみるなら、日本の方が、歴史的にもきちんと選挙をして議会も運営していました。ところがアメリカは、権力欲のかたまりにすぎない蒋介石を、民主的な指導者と思い込んでしまったのです。
これがアメリカの大きな見込み違いでした。アメリカは蒋介石に、金でも武器でも食糧でも大量にそそぎ込んで助けました。しかしそれらは、すべて蒋介石の軍隊に食い物にされていたことは有名です。
そのあげく、日本が退却したあと、蒋介石は毛沢東と戦ってすぐに負け、台湾に逃げてしまいました。以後、共産党に支配された中国は、皮肉なことにソ連と組んでアメリカに敵対するようになったのです。
さらに、そののちアメリカは、朝鮮戦争のときに中国と戦うことになってしまいました。これはアメリカにとってみれば、非常なショックだったでしょう。中国が敵となって立ちはだかったのですから。
アメリカは、かつて日本さえやっつければ中国を好きなようにできると思って、莫大な金と軍隊をつぎこみ、日米戦争までやったのです。ところが、だまされた、あてがはずれた、という気持ちだったでしょう。アメリカは日米戦争を戦って、何の得もしていないのです。
そののち、ようやくこれに気づいたアメリカは、日本を大切な同盟国と考えるようになりました。アジアで責任と信頼をもってつきあえるのは誰かと、ふと考えたら、それは日本ではないか、ということになったのです。
迷惑な話です。もう少し早く気づいてくれればよかったのに、と思います。明治以来、日本側にはその用意はあったのですから。アメリカが蒋介石を助けたりしなければ、日本側も、アメリカを敵視することはなかったのです。
またアメリカにとって、ソ連を友としたことも、大きな見込み違いでした。
アメリカは日本を敵視し、日本をつぶすための戦いにソ連を仲間として引き入れました。アメリカは当初、共産主義に対してきわめて寛容で、そのためにあとでそのツケを払うはめになったのです。
アメリカは、真の敵が誰かを見誤ったのです。
本当はアメリカにとって、日本よりもソ連のほうが脅威だったはずです。大東亜戦争後の朝鮮戦争にも、ベトナム戦争にも、背後にはソ連がいました。そしてアメリカは、そのソ連の存在に長く苦しめられることになったのです。
「本当に勝ったのは日本」
日本はかつて大東亜戦争で、アメリカをはじめとする連合国と戦い、負け、結局、何もかも失いました。
戦争なんてバカなことをしたからだ、と思う人もいるでしょう。しかし、あの弱肉強食の植民地時代、残酷きわまりない西欧列強がひしめく時代にあって、はたして本当に戦争が回避できたでしょうか。
幾つか歴史の大きな分かれ目はありました。けれども結局、歴史は戦争へと向かっていきました。それが「歴史の必然」だったというべきでしょう。
ただし、日本の戦争は悪いことばかりだったのではありません。
P・F・ドラッカーという思想家が、日本は物理的には負けたが、本当に勝ったのは日本である、といった意味のことを言っています。
P・F・ドラッカー
本当に勝ったのは日本である
どういうことでしょうか。それは、この戦争で日本が戦ったことによって、それまで西欧諸国が築きあげてきた人種差別世界が打ち砕かれたからです。
あの戦争以前、アジアで近代的な独立国家として歩んでいたのは、日本だけでした。あとはみな、西欧諸国の植民地と化していたのです。それは戦争前の地図をみたら、一目瞭然です。アジアはどこもかしこも西欧の植民地で、白人が黄色人種を支配し、搾取していました。
そのため、アジアはますます貧しくなり、西欧諸国はますます富んでいきました。アジア人は白人にペコペコして、召使いのようになって仕えていました。アジア人は自分の国にいながら、権利を制限され、苛酷な人種差別のもとで暮らしていました。
しかしそのとき日本が、それらの植民地にいる西欧諸国の軍隊を次々に追い出していったのです。そして、日本がアジア諸国にはぐくんだ独立への意志は、そののち日本が敗戦を迎えたあとも、確実に育っていきました。
日本の敗戦後、西欧諸国は再びアジアに来て、植民地化しようとしました。ところがアジア人はもう、彼らの言いなりにはなりませんでした。彼らは戦後、次々に独立していったのです。
結局、大東亜戦争によって、西欧諸国は植民地をすべて失なっただけで終わったのです。一方、日本は戦闘には負けましたが、アジア諸国を西欧から独立させるという目的を果たしました。
戦争に勝ったか負けたかは、戦争目的を達成したかどうかで決まる、とはクラウゼヴィッツの戦争論です。日本の戦争は、人種差別世界を叩きつぶすという目的、また自存自衛の目的を果たしました。その意味で、日本こそ勝ったのです。
これは私たちが誇りにしてよいことです。タイの元・首相ククリッド・プラモードは、新聞にこんな一文を載せています。
「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子どもはすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである」。
日本の捨て身の一撃が、人種差別世界を叩きつぶしたのです。大東亜戦争は、大航海時代以来の欧米諸国によるアジア・アフリカ収奪の歴史に、終止符を打ちました。これは、いくら評価しても評価しきれないほど、大きな事柄です。
人類史上、画期的な出来事といってよいのです。歴史学者H・G・ウェルズも述べています。
「この戦争は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石を置いた」。
その主役を果たしたのが日本でした。あの空前のスケールの戦争だった大東亜戦争の意義が、ここにあります。
戦争は、ないに越したことはありません。しかし、もしあの戦争がなかったなら、今もってアジア諸国は西欧の植民地であり続けたでしょう。黄色人種は白人の召使いのように、ペコペコしていなければならなかったでしょう。
西欧はアジアからの搾取によってますます富み、アジアはますます貧しく放置されていたに違いありません。しかし日本の戦争が、その歴史の流れを変えたのです。これは神の配剤でしょう。
久保有政著
|