ファミコンから始まって、スーパーファミコン、プレステ、セガサターンなどたくさんのゲームが世に出てきた。今は一家に1台と言うより、複数台ある家庭の方が多いのではないだろうか?

 ゲームは子供達だけでなく、大人の心もとらえ、コンピュータよりはるかに普及している。早くからゲームの害を指摘するものもあったが、一方でゲームが子供達の間でコミュニティーを作ってきたのもまた事実である。ゲームはますます高度化し、発展を続けているように思える。

 今育っている子供達は、小さな頃からゲームの中で大きくなっている。ゲームそのものは素晴らしいものもあるのだが、どのゲームにも言えることが一つだけある。ゲームの前では自分はいつも主人公なのであり、ある種の神のような存在だとも言える。自由自在にゲームに登場するものを操り、死んでしまっても、また生き返らせることもできる。敵に襲われても、事故を起こしても、遊んでいる本人は痛みを受けることはない。機械は文句を言わないので、自分の思うがままにやればよいし、気に入らなければ電源を切って放り出せばよい。

 現実の人間関係はゲームほど簡単ではない。わがままは許されないし、何気ないことで他人を傷つけるかもしれないし、傷つけられるかもしれない。誰でも機嫌がいいときもあるし、悪いときもある。喧嘩をすれば、傷も痛むし、心も痛む。自分は同じように接しているのに、相手は違う接し方をするかもしれない。

 現実社会から逃避したい子供達はいつでもゲームが相手をしてくれる。ゲームの前では自分は主人公である。思うがままに何でもできるし、ゲームが裏切ることはない。

 近頃、凶悪事件の低年齢化傾向が見られる。神戸の小学生殺人事件にしろ、ナイフの問題にしても、少なからずこのようなゲーム環境で育ったことが背景にあるのではないだろうか?ゲームのなかでは自分も相手も痛むことはないし、また生き返らせることもできる。現実から逃避したいために、ゲームの世界に逃げ込んでしまうこっどももいる。ひどくなると、ゲームの中の自分を肥大化させ、現実社会と区別できなくなる子供もいる。

 ゲームは素晴らしい。時に我々の発想を豊かにし、我々ができないようなことも体験させてくれる。大事なことは子供達が快適な「ゲームの世界に」逃げ込むのではなく、生き生きとした人間関係の中で傷つき、傷つけられながらも、楽しく明るく生きていけるように子供達を育てなければならない。 

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