また私はインターネット上の当院のホームページ(http://www.incl.or.jp/keiju/)で医療相談コーナーを運営いたしております。そこに寄せられる質問の多くに、「どうしてそういう治療方針や病気の原因を担当医に聞かないのだろうか(聞けないのだろうか)」といった内容のものが多々あり、医療者としても驚かされることがしばしばあります。
基本的に、私個人としてはカルテの情報公開に異議を唱えるものではありません。私は常日頃から信頼関係を持つためには、それが仕事の上の組織であろうが、友人であろうが、夫婦であろうが、そして医師と患者の間であろうが情報の共有化と透明性が必要条件であると思っております。
カルテはあくまでも個人の「経過の記録」「結果の記録」「覚え」であります。本来納得いく情報を共有した信頼関係が医師と患者にあるならば、カルテは医師と患者で協力して作っていくものだと思います。
しかし、官公庁の「食糧費」公開請求などと根本的に異なる問題として、ことカルテに関しては一つコンセンサスとして押さえておかなければならない問題があると思います。それは、カルテ情報は絶えず死というものと向かい合っているということです。人間は100%死という時を迎えるのです。これはガン告知の問題のみならず、あらゆる病気で対峙しなければいけない問題かと思います。
そこには見せる側だけではなく、見る側の責任、つまり腹をくくる姿勢も要求されてくるのではないでしょうか。カルテをとりあえず見て、その後「どうしよう」と苦悶した場合のフォローは誰に要求されるのでしょうか。各個人に自分の死をどう受け入れることができるかという哲学、倫理が要求されるのではないかと思います。
死に向かい合った本人の治療方針を誰が決定したか、すなわち医療側におまかせなのか、家族なのか、それとも本人なのかをきちんと整理する必要性もあります。
見せる側、見る側の責任とモラルが一致した時、カルテ公開に何ら障壁はないものと思います。
原則論から現実に目をむけると、カルテ公開に伴って、日本の医療制度の根幹にかかわる問題がいくつかあります。おっしゃるように、「同意と納得の医療」を行うには時間と経済的な裏付けが保証さておりません。この4月の診療報酬改訂で、インフォームドコンセント料の一部が認められたものの、技術よりも数が収入の基本にある以上、「同意と納得の医療」は医療機関、医師個人の自助努力によるサービス精神に依存しているのではないでしょうか。また、出来高払いの保険診療の根拠となる療養担当規則において、たとえ重篤な合併症が予知され、それを予防するために使用する薬剤を投与した場合でも保険請求は認められておりません。そのため、現場としては「保険病名」なるものをカルテに記載いたします。これもカルテ公開の時のトラブルの一つとなるように思います。
ご指摘の医療過誤の問題は、現実的に医師と患者との間に弁護士が介在する以上、司法の判断によるカルテ情報の開示は行われております。もし、「支援する制度」が必要ならば、公的あるいはボランティア組織による弁護士の組織化が第一かと思いますし、この問題に医師と患者の感情論が入るのは却って話をこじらせるような気がいたします。
遅れ馳せながら、医療の世界にもデジタル化の波が押し寄せてきています。電子カルテへの取り組みが試行されておりますし、オーダリングシステムなる病院内の情報の共有化も当院を含めて多くの病院で導入されつつあります。これにより、検査所見や、検査結果や処方箋などの情報は院内ネットワーク上を瞬時に飛び交っているのです。情報のデジタル化がなされれば、そのアウトプットの仕組みは容易に構築可能であります。先に述べたような医師と患者のコンセンサスが形成されたならば、情報公開の垣根は今後ずっと低くなっていくと思いますし、またそうなることを期待してやみません。