公費負担、社会保険料、そして自己負担。社会保障を支えていくためにこの3つしか財源がないというのは、どこの国でも、いつの時代でも当たり前のことだ。そこで重要なのは、あまり負担感がないように、皆が納得する形で、この3つのバランスを取っていくことだろうと思う。
公費負担では、今後は間接税をどのように組み入れるかが大きなポイントといえる。間接税をあげなければこの国はどうしようもない。しかし、ごく一般的な日本の家庭では、奥さんたちは可処分所得にしか目が向かない。つまり、消費税に対して非常に敏感なので、消費税は主婦が反対するからあげられないという議論になってしまった。
また保険では、たとえば老人医療費を見れば、健康保険組合の老人保険拠出金という財政調整の仕組みがあって、被保険者は自分の目で見たこともないような人たちの医療費まで負担させられている。しかも日本では、死ぬ間際の、終末期の医療費が膨大になっていて、そうした結果、健保の財政は汲々としてしまっている。
自己負担という点では、日本人は、医療は水と同じようにタダみたいなものだと思いつづけてきた。しかし、医療はすでに30数兆円のマーケットになっており、いまや、本当にしっかりしたサービスを受けるためには、相応の対価が必要となっている。それなのに、国民にはその意識が非常に薄い。
われわれは、こうしたことを念頭において、医療構造改革を考えていかなくてはいけない。
統計的に見ると、この数年間、病院の数は減りつづけている。しかし、外来患者は増えつづけてきた。それとは逆に、診療所の数は増え続けているのに、外来患者数は減り続けている。これは何も病院が強制的に患者さんを増やしているのではない。
ところが、2月29日の中医協(中央社会保険医療協議会、厚生省の付属機関)では、200以上のベッド数を持つ病院では外来は悪である、そうした病院は外来患者をどんどん手放せ、という感覚の診療報酬改定になってしまった。これは、患者の選択を、「病院に来るな、診療所に行け」と制度で切り返してやろうというものだ。
デパートなどでは、お客が来なくなったら、サービスを改善したり価格を下げたりする。診療所でも、頑張って診療の水準を上げ、サービスを改善して価格を抑えて、患者さんが「何かあったら、まず診療所に行こう」と思うような内容を作ることが、本来の医療提供のあり方だと思う。ところが、診療報酬改定では、診療所の価格ばかりが上がってしまう。常に「患者さんが減った、経営が苦しい、診療報酬を上げろ」というロジックになる。サービスの改善をせずに価格を上げ、制度によって患者さんが自分のところに増やすようにしている。これが最新の診療報酬改定だ。
では、患者さんに代わるのは誰か。それは健康保険組合、あるいは国民健康保険や政府管掌健康保険の保険者だ。保険とは本来、リスク・マネジメント機能を持つものだ。リスクを前提として、統計と確率論を駆使して保険料と給付内容を設定する。そして加入者をどう増やすか、リスクを低減させるための方策をどうするかを考える。
しかし、ここの彼らには価格決定権はなく、リスクを減らすこともしない。加入は強制加入で、しかも国がすべて割り振っているので、加入者を増やすこともできない。彼ら保険者は国が決めた法律にのっとってお金を集めて、不満足であるけれども、老人保健拠出金を拠出して、それから自分の組合の被保険者に対して給付するという、制度で決められたことだけやっているにすぎない。こんな状態では、リスク・マネジメント機能を果たせるわけがない。
規制改革委員会の第二次見解の中には、医療に関する新しい費用の体系をつくりたいということ、また、契約という概念を強く意識し、保険者はリスク・マネジメントを徹底しろということが書いてある。
こうして比較してみると、もし日本が本当に資本主義国家であり、それから民主主義を守るのであれば、日本の医療費はGDPに対して10%ぐらいあってもおかしくないと思っている。社会政策というのは、ライトとロングではなく、グッドとバッドで考えるものだ。絶対の正解はなく、社会がそのときどきどういう状態にあるかを考えて、どちらがより好ましいかを考える。そういう意味で、日本とイギリスの医療費は安すぎる。アメリカは高すぎる。同じくらいの生活を維持しているフランス、ドイツはGDP比で11〜12%。日本でも、そのくらいの医療費はあっていい。
ただ、その10%というか、医療費の総枠は官僚ではなく、市場が決めていくという形にしなくてはいけない。市場では非効率なプレーヤーは淘汰されるので、何の努力もしない、何の改善もない診療所、病院は消えていっていい。かわりに、いろいろなことに一生懸命取り組んで、自己責任を伴った患者さんに選択された医療機関は隆々としていいということになる。そのとき、市場として、GDP比で10%ぐらいの規模がないと、サービスを受ける側の人たちが満足できない。いまは安かろう、悪かろうですべて終わってしまっている。
たとえば日本では、人件費の部分に費用をかけなさすぎてている。日本の平均的な病院の、入院患者さん一人当たりの職員数−医者、看護婦、事務員、技師も全部含む−は1.0人しかいない。そして平均在院日数−入院している人が平均的にどのぐらい入院しているかという期間−は30数日といわれている。これに対しアメリカは、患者さん一人に対して医師を除いた職員数は約4.5人、在院日数は5.5〜5.6日。つまり、日本の4.5倍ぐらいの人がいて、在院日数は6分の1ぐらいになっている。イギリスは患者さん一人当たり3人ぐらい、在院日数が10日前後。ドイツ、フランスは2.5人で、在院日数が12〜13日。患者さん一人当たりの職員数と在院日数はきれいに反比例している。
日本は一人当たりの患者さんに対しての職員数がいかに少なく、いかにだらだら入院していることか。職員数を増やすことによって在院日数を短くし、非常に効率的な医療が行われることになる。その結果、単価としては医療費が高くなるけれども、在院日数が短くなるから、全体的にはそれほど変わらないだろうと思う。
それから30年前と比較して、患者さん一人当たりの医師数、看護婦数が変わらないのは日本だけだ。アメリカ、フランス、ドイツ、イギリスなどの国では、入院患者一人当たりの医師数、看護婦数はどんどん増えて、30年前に比べれば3倍ぐらい担っている。それが日本では変わらない。なぜか。日本はベッドをどんどん増やしたからだ。日本の病院のベッド数は、極端なことをいえば、海外に比べると人口当たり2.数倍から5倍ぐらいだ。
なぜそうなのか。それは1945年の政策に起源がある。敗戦の時、日本の国家は、国民に対してまず衣食住を確保する状況に合った。民主主義は、奪い取って勝ち得たのではなく、与えられてしまった。そのなかで、社会保障、特に医療は、貧困からの救済、量的拡大、すべて一律であるはずだという公平、この3点が出発点になった。
しかしいま、2000年になっても、貧困からの救済という基本理念でいいのか。そうではない。これは、「尊厳ある生活の確保」に変わっていかなくてはいけない。そして、いま必要なのは、量ではなく質になった。質さえ確保されていれば、量は減ってもいい。公平については、もちろん、一部は公平でなくては行けないが、同時に公正である必要がある。公正とは、違いがあることを前提として、その違いを正しく評価し、いいものはいい、悪いものは悪いとする、それに対して適切に対応するということだ。
ところが、いまの医療改革は、貧困からの救済という基本理念を変えられない。量的拡大については、いまの量をなんとか生き延びさせなければいけないという。公正の視点はなく、いいも悪いも一緒くたにして、全部同じだといまだに言い続けている。これを変えることが改革のいちばんのポイントで、先ほど述べたように、ここに患者さんの選択をどう入れるかを考えなければ、医療構造改革はできない。
医者は業務独占資格であり、業務独占している医師の責任とは、常に向上していることだ。プロは内在する課題として、自分の向上を図り、評価にさらされなくてはいけない。しかし、日本では、そうしたプロフェッショナリズムの意識があまりにも低く、自分が行う医療に対する評価を徹底することがない。しかも年齢制限がないため、いくつになっても開業している人がたくさんいて、一方で新規参入がどんどん増えていく。こうした状況で、みんなを食わせろということになれば、医療費は際限なく増えていく。だから、年を取ってあまり選ばれないほうがいいという人に対しては、早くやめたいと思うような環境をつくればいい。
ところが多くの医療団体には社会性がなく、不必要な医療機関、医療人まで守るという護送船団方式しか考えていない。医療人自らが日本の医療を変えるなどということはとてもできない。今回の診療報酬改定で、なぜ200ベッド以上の病院から外来を奪おうとしているか。それは、200ベッド以上の病院の大部分が国立であり、自治体立病院であるためだ。国立、自治体立病院は、サービスの水準が高くないものも多く、また、まともな運営をしていない。それに対し、あんな病院はどんどん赤字にしていい、税金の垂れ流しで補助金が入るから構わない、というような改定だ。自治体立病院は約1000あるが、それらには年間で1兆5000億円を超える補助金が出ている。補助金をもらったうえで、さらに赤字を垂れ流しているところが多い。
一方、補助金の入らない民間病院にとってはたまったものではないが、それを言っても、「大型の民間病院は、嫌ならやめればいいじゃないですか」といわれるだけだ。経営がどうにもならなければやめてもいいのだが、しかしわれわれの病院にはいま、1日に平均1200名を超える外来の患者さんがある。入院はほとんど100%だ。それほど多くの患者さんに選ばれている医療機関が、なぜ制度に拘束されてやめなくては行けないか。われわれは、できるだけ自由化してほしいと考えている。一方で、やる気のない、力のないところはできるだけ守られたいと考えている。医療も、一枚岩というわけではない。私のような考え方をしている医療人は、非常に増えてきている。私はいま、東京都病院協会の会長をしているが、この会では、自己努力をしないところは淘汰されると打ち出している。
では、医療は、なぜ護送船団方式だけを守っていくのか。それは、実は医療団体の会長を選ぶ代議員制度にも原因がある。おそらく、日本の団体の中でももっとも高齢化をしているのは、この代議員制度だろう。なかには、平均年齢が70歳を超えた団体もある。
しかし、規制改革委員会の議論が今の医療に関する議論に反映されているかといえば、ほとんど反映されていない。理由は、改革委の見解、論点は閣議決定しなくてはいけないということになっていることだ。閣議決定するとなれば、事務次官会議などで各省庁が合意しなくてはならない。そうなると、議論したことの大半は削られてしまう。今回の第二次見解でも、われわれが議論したことの多くがカットされてしまった。厚生省が政治的にがんじがらめにされているためだ。こうしたことから、私は、改革委を公正取引委員会や金融再生委員会と同じ行政委員会に切り替えてほしいと提案している。
もう一つ、私が主張したいのは、営利法人が病院経営をするというごく部分的な議論ではなく、医療における法人形態のあり方だ。いまの医療界がしている、営利、非営利という議論は、患者さんが来たときに、ああ、金だ、と思って診療するなというだけの精神論だ。しかし、営利、非営利の議論は、ノン・プロフィットではなく、ノット・フォー・プロフィットの組織論でなくてはいけない。
アメリカでは、政治・行政が税金の中でやらなければいけないことを、税を軽減することによってビル・ゲイツのような人が個人の関心で、毎年何兆円という寄付をしてやってしまっているが、これもやりすぎではないか。医療の市場形成が第一であることはいうまでもない。しかし、セーフティー・ネットの部分に関しては、安易に民間に任せたり、寄付に頼るということではない。この部分については、やはり税金と社会保険と自己負担のバランスを考えながら、国家が政治と行政の中でつくるべきだと思っている。