医療における情報の開示

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医療における情報の開示−現場の立場から
情報開示には自己責任がつきまとう!?

月刊「医療とコンピュータ」(日本電子出版) 1999年7月号
特集:医療における情報の開示


医療とコンピュータ7月号キーワード:カルテ開示、医療における自己責任、カルテの電子化

はじめに

   2000年実施に向けての第4次医療法改正と診療報酬体系の見直しをはじめとした医療保険制度改革論議が盛んだ。国はミレニウムの区切りとして、介護保険制度と共に、これからの日本の医療と福祉制度に一定の道筋をつけようとしているようである。この中で、医療法の改正に伴って「患者から求めのあった場合の診療記録開示を法制化する」との方針が示されている。

   また、去る5月7日、行政文書の原則公開を義務づけた情報公開法が衆院本会議で全会一致で可決、成立した。行政文書の公開と診療録(以下、カルテと記載)の開示はその性格からすれば、まったく異なるものと考える。しかしながら、情報開示という流れからすると、この法案の可決はまさに追い風となっていくものと考える。

   本編は医療における情報開示の中核となるカルテ開示について述べることとする。また、はじめに医療の現場、最前線の立場にいる著者としてのスタンスを明示しておく。

   「カルテに記載された情報が個人を対象としているものである以上、その個人本人に開示することに異論を挟む余地はない。」

   ということになる。これを柱として、現実に起こってくるであろう問題点について整理し、検討してみたい。

情報の公開ということ

   昨年の4月に Free、Fair、Global を基本とした日本版金融ビッグバンが幕を開けた。同時に、アメリカの格付け機関による各種企業の格付けも広く公開されていくようになった。これらは、情報の公開により市場の公正・公平さをねらったものである。

   しかし、その根底には、移民の国そして契約の国であるアメリカにおける考え方、すなわち、「情報を公開させなければ、企業は都合の悪い情報を隠匿する。そのために詳細な契約を取りチェックする」という考え方、いわば「性悪説」が存在するように思えてならない。その上で「自己責任のもとで判断する」ということになる。

   この点が単一民族国家である日本における「旧きよきもの」、すなわち、「お任せ」「信頼関係」「なあなあ」「よきに計らえ」といった「性善説」に基づく考え方と根本的に異なっているように思える。前者の考え方が、グローバル・スタンダードとして、いま世を席巻しているわけである。

   医療においても同様に、医療に対する不信感、すなわち「医者は都合の悪いことを隠す」といった「性悪説」と共に情報の公開が求められてきているのではないだろうか。

  一昨年の6月にはレセプト開示が決定され、既に当然の道筋としてカルテ開示への流れが付けられたことになった。

   最近「カルテ開示は医療費削減に良薬」といった論調もたびたび見受けられる。つまり、「説明ができない検査や薬は出すな!」といった論調とイコールのものである。もし、これに反論できない医者が多いとするならば、残念ながら「性悪説」を受け入れざるを得ないということになるであろう。

   昨年に発表された健康保険組合連合会の「患者の医療に対する現状認識と意識に関する調査」では、カルテについて、実に入院では69.2%、外来では64.5%の患者が開示を求めていた。レセプトやカルテを「見たい」と回答した患者については、医師の対応や治療姿勢、検査の種類や回数に対する評価も全体として低い傾向が見られると報告されている。さらに、病状や治療についての医師からの説明については、約4割が「納得できないことや疑問を感じている」と回答し、その多くが「薬の副作用」や、「手術や治療方法」に対する十分な説明を求めていたとのことである。

   また、当院で運営しているインターネットホームページ( http://www.keiju.co.jp )上で3年間にわたって医療相談コーナーを開設した。ここには1日に3〜4通の電子メールによる医療相談が舞い込んだ。その6〜7割の質問は、実際に最寄りの医療機関に受診した上で、セカンドオピニオンをインターネットに求めるという内容であった。このなかで、医療提供者側の立場として「どうして、病状や原因を医者に聞かないのか(聞けないのか)」、「どうして、治療の選択肢が示されないのか」と思わざるを得ない質問内容を数多く認めたことからも、嫌応なく医療への不信感を実感させられるものであった。

カルテ開示の原則

   99%の医療側からしてみれば、取りたてて「都合の悪いことを隠している」といった実感はないはずである。カルテはあくまでも、その時々の患者の訴えがあり、それに対しての理学的身体所見、検査所見があり、さらにそれに対する医師の判断、治療内容が記されているものである。この内容に関して、患者と情報を共有しても、何ら医療者側に不都合は生じないはずである。

   厚生省の検討会(座長・森島昭夫上智大法学部教授)では、カルテ開示の目的を「医療の質を高めていくためにも患者にカルテを積極的に開示することが必要である」と、「医療の質」向上に重きを置いているような感がある。もちろん、一般企業においても、「品質保証」が一つのキーワードのなっていることは周知の通りである。右肩上がりの成長経済から成熟経済の時代に入り、この考え方はなくてはならないものである。

   しかし、カルテ開示にあたっては、それ以上にここで一つの大原則を押さえておく必要がある。それは、「がんに限らず、どんな病気においても、必ず死ということと隣り合わせである」ということである。当然のことながら「人間は100%死ぬ」ということは、破られることのない真理である。そして、死を迎えるにあたっては、その前提に病気や外傷を伴うということになる。したがって、がんの告知のみならずあらゆる疾病のカルテ情報は絶えず死と向かい合っている情報をはらんでいるということになる。

   そこには、見せる側の責任だけではなく、見る側にも責任というものが存在することを強調したい。つまり、見る側にも「腹をくくる必要がある」ということになる。カルテをとりあえず見て(見てしまって)、その後のフォローを誰に求めるかということが問題となると思われてならない。各個人に自分の死をどう受け入れるかといった哲学と倫理が必要となることを忘れてはならない。

   さらに、死に向かい合った本人の治療方針を誰が決定するのか、医療側にお任せなのか、家族が決定するのか、自己責任のもと本人が決定するのかを情報公開を求める以上はきちんと整理しておく必要がある。

   日本においてはキリスト教国である欧米に比べて、宗教感の違いや、またカウンセリング体制の不備が挙げられる。カルテを見た後の心理的葛藤を処理するバックグラウンドの整備も、カルテ開示と対になるべきものと強調したい。

   このような原則を踏まえて見る側と見せる側のモラルの一致があれば、カルテ開示に何ら問題はないものと思われる。

カルテ開示の現実

   原則論から現実に目をむけ、いくつかの運用上の問題点を整理してみたい。

カルテ開示の未来

   医療に限らず、情報化の波は急速に押し寄せてきている。去る4月22日に厚生省より「従来の紙によるカルテ情報の保存から、電子化保存を容認する」旨の通達が示された。医療の世界でも、これが引き金になって、今後、予想よりも早い時期にカルテ内容のデジタル化、すなわち「電子カルテ」が一般化する時代が到来するものと考えられる。

   基本原則や運用上の問題は電子化されても何ら変わるものではない。しかし、ひとたびデジタル化されると、ネットワークされたコンピューターに格納された情報は、その取り出し方さえ規定すれば、いつでも、どこでも、誰でも、容易に情報を収集できることになる。そこでは、セキュリティーに対する医師と患者のコンセンサスさえ得ることができれば、情報公開の垣根はずっと低くなることが予想される。

   病院で待つことなく、ネットワークされたコンピューターから、最新の検査成績と選択すべき治療内容の提示を自宅で参照し、医師に対する質問事項や医師からの処方箋や注意事項、さらには今後の治療方針・治療予約を電子メールでやり取りをする。このような未来図も、決して絵空事ではないように思われる。

おわりに

   診療情報の開示について話し合っている厚生省の検討会においても、その法制化については、(1)診療情報の開示を請求する患者の権利と、医師の開示義務とを法律で規定する(2)患者の開示請求権は規定せず、医師の開示義務のみを努力規定とする(3)法律上の規定は設けず、診療情報の提供に当たっての指針(ガイドライン)を定める――などと意見が分かれていたようである。そして、冒頭に述べたようにこの選択肢の中で最も権利と義務を明確に定めた法的開示が間近に選択されようとしている。

   このような議論の以前に、これまで述べてきたような原則、現実の問題点が山積する。したがって、決して「情報開示」のみが一人歩きする問題ではないと思われる。医師と患者の関係を契約と自己責任という概念で規定すること、医療システム全体の考え方や仕組みを見直すことなどが必須であると思われる。この見直しなくして、たとえ法的にカルテ開示を先行規定されたとしても現実には機能しない問題であると思えてならない。


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