また、去る5月7日、行政文書の原則公開を義務づけた情報公開法が衆院本会議で全会一致で可決、成立した。行政文書の公開と診療録(以下、カルテと記載)の開示はその性格からすれば、まったく異なるものと考える。しかしながら、情報開示という流れからすると、この法案の可決はまさに追い風となっていくものと考える。
本編は医療における情報開示の中核となるカルテ開示について述べることとする。また、はじめに医療の現場、最前線の立場にいる著者としてのスタンスを明示しておく。
「カルテに記載された情報が個人を対象としているものである以上、その個人本人に開示することに異論を挟む余地はない。」
ということになる。これを柱として、現実に起こってくるであろう問題点について整理し、検討してみたい。
しかし、その根底には、移民の国そして契約の国であるアメリカにおける考え方、すなわち、「情報を公開させなければ、企業は都合の悪い情報を隠匿する。そのために詳細な契約を取りチェックする」という考え方、いわば「性悪説」が存在するように思えてならない。その上で「自己責任のもとで判断する」ということになる。
この点が単一民族国家である日本における「旧きよきもの」、すなわち、「お任せ」「信頼関係」「なあなあ」「よきに計らえ」といった「性善説」に基づく考え方と根本的に異なっているように思える。前者の考え方が、グローバル・スタンダードとして、いま世を席巻しているわけである。
医療においても同様に、医療に対する不信感、すなわち「医者は都合の悪いことを隠す」といった「性悪説」と共に情報の公開が求められてきているのではないだろうか。
一昨年の6月にはレセプト開示が決定され、既に当然の道筋としてカルテ開示への流れが付けられたことになった。
最近「カルテ開示は医療費削減に良薬」といった論調もたびたび見受けられる。つまり、「説明ができない検査や薬は出すな!」といった論調とイコールのものである。もし、これに反論できない医者が多いとするならば、残念ながら「性悪説」を受け入れざるを得ないということになるであろう。
昨年に発表された健康保険組合連合会の「患者の医療に対する現状認識と意識に関する調査」では、カルテについて、実に入院では69.2%、外来では64.5%の患者が開示を求めていた。レセプトやカルテを「見たい」と回答した患者については、医師の対応や治療姿勢、検査の種類や回数に対する評価も全体として低い傾向が見られると報告されている。さらに、病状や治療についての医師からの説明については、約4割が「納得できないことや疑問を感じている」と回答し、その多くが「薬の副作用」や、「手術や治療方法」に対する十分な説明を求めていたとのことである。
また、当院で運営しているインターネットホームページ( http://www.keiju.co.jp )上で3年間にわたって医療相談コーナーを開設した。ここには1日に3〜4通の電子メールによる医療相談が舞い込んだ。その6〜7割の質問は、実際に最寄りの医療機関に受診した上で、セカンドオピニオンをインターネットに求めるという内容であった。このなかで、医療提供者側の立場として「どうして、病状や原因を医者に聞かないのか(聞けないのか)」、「どうして、治療の選択肢が示されないのか」と思わざるを得ない質問内容を数多く認めたことからも、嫌応なく医療への不信感を実感させられるものであった。
厚生省の検討会(座長・森島昭夫上智大法学部教授)では、カルテ開示の目的を「医療の質を高めていくためにも患者にカルテを積極的に開示することが必要である」と、「医療の質」向上に重きを置いているような感がある。もちろん、一般企業においても、「品質保証」が一つのキーワードのなっていることは周知の通りである。右肩上がりの成長経済から成熟経済の時代に入り、この考え方はなくてはならないものである。
しかし、カルテ開示にあたっては、それ以上にここで一つの大原則を押さえておく必要がある。それは、「がんに限らず、どんな病気においても、必ず死ということと隣り合わせである」ということである。当然のことながら「人間は100%死ぬ」ということは、破られることのない真理である。そして、死を迎えるにあたっては、その前提に病気や外傷を伴うということになる。したがって、がんの告知のみならずあらゆる疾病のカルテ情報は絶えず死と向かい合っている情報をはらんでいるということになる。
そこには、見せる側の責任だけではなく、見る側にも責任というものが存在することを強調したい。つまり、見る側にも「腹をくくる必要がある」ということになる。カルテをとりあえず見て(見てしまって)、その後のフォローを誰に求めるかということが問題となると思われてならない。各個人に自分の死をどう受け入れるかといった哲学と倫理が必要となることを忘れてはならない。
さらに、死に向かい合った本人の治療方針を誰が決定するのか、医療側にお任せなのか、家族が決定するのか、自己責任のもと本人が決定するのかを情報公開を求める以上はきちんと整理しておく必要がある。
日本においてはキリスト教国である欧米に比べて、宗教感の違いや、またカウンセリング体制の不備が挙げられる。カルテを見た後の心理的葛藤を処理するバックグラウンドの整備も、カルテ開示と対になるべきものと強調したい。
このような原則を踏まえて見る側と見せる側のモラルの一致があれば、カルテ開示に何ら問題はないものと思われる。
したがって、カルテ開示単独では、現実問題として意味を成すものではないといえる。そのためには現場でカルテの持つ意味の見直し、カルテに関する考え方の意識改革が必要となる。カルテは患者の経過の公的な報告書であると認識し、それ自体が読み物として耐える記載が要求されることになるかもしれない。
1996年の資料で、医師と病院の役割が分離・独立しているアメリカにおける医療費区分をみてみると、総額1兆351ドルの医療費に対してDRG(Diagnostic Related Groups)/PPS(Prospective Payment System)などによるホスピタルフィーは34.6%、RBRVS(Resource Based Relative Value Scale)などによるドクターフィーは19.5%と明確にされている。これに対して、同年の総医療費28兆5210億円の日本においては、入院医療費36.8%、入院外医療費43.8%とホスピタルフィー、ドクターフィーの区分は明確ではない。(厚生省、アメリカ医療財務庁(HCFA)の資料より)
実際、現場においてカルテ開示の問題でなくとも、病状の説明やがんの告知の場面で、家族の都合に合わせて夜間や休日に説明を強いられることもある。また、3時間待たせて3分診療した診察料と、病状について詳しく1時間説明した診察料は同等か、まったく無報酬であるという現実も存在する。
このような背景では、「説明と納得、同意」は医療機関と医師のサービス精神による自助努力によるところが大きいと言わざるを得ない。カルテ開示に伴い、医師の仕事を時間軸で見たドクターフィーの考え方の導入を強く望みたい。
例えば、外科で肝硬変を合併した肝切除術の術後に、いったん引き起これば命取りとなる血液凝固障害(DIC)を予防する目的でタンパク分解酵素阻害剤などを使用するケースがある。この場合では、血液凝固障害の「保険病名」を付加しない限り、保険給付は認められない。確かにこのようなケースでは、その旨をすべてあらかじめ説明すべきであるという意見もあると思う。しかし、現実に起きていない合併症すべてを説明する場合の労力と聞いた側の混乱・不安、さらにそのギャップを埋めるための時間を考えると気が遠くなってしまう。
もちろん、日本版DRG/PPSなどの包括定額払い制度になった場合は、想定されない問題であることはいうまでもない。
基本原則や運用上の問題は電子化されても何ら変わるものではない。しかし、ひとたびデジタル化されると、ネットワークされたコンピューターに格納された情報は、その取り出し方さえ規定すれば、いつでも、どこでも、誰でも、容易に情報を収集できることになる。そこでは、セキュリティーに対する医師と患者のコンセンサスさえ得ることができれば、情報公開の垣根はずっと低くなることが予想される。
病院で待つことなく、ネットワークされたコンピューターから、最新の検査成績と選択すべき治療内容の提示を自宅で参照し、医師に対する質問事項や医師からの処方箋や注意事項、さらには今後の治療方針・治療予約を電子メールでやり取りをする。このような未来図も、決して絵空事ではないように思われる。
このような議論の以前に、これまで述べてきたような原則、現実の問題点が山積する。したがって、決して「情報開示」のみが一人歩きする問題ではないと思われる。医師と患者の関係を契約と自己責任という概念で規定すること、医療システム全体の考え方や仕組みを見直すことなどが必須であると思われる。この見直しなくして、たとえ法的にカルテ開示を先行規定されたとしても現実には機能しない問題であると思えてならない。