Medical Management 1998年3月号そもそも、これら改革は、財政の破綻、バブルの後遺症、政官の失態・失策から端を発しているようであるが、それ以上にアメリカ政府からのグローバルスタンダード(世界標準)という名のもとの外圧によるところも大きいと思われる。
制度上のスタンダードにはその国の歴史と文化、さらに国民性が根底にあると考えられる。従来、日本の制度の根底は、旧きよきもの、すなわち相互の信頼関係といった、いわば“性善説”に基づいていたと思われる。これに対して、移民の国アメリカからもたらされたグローバルスタンダードなるものは、自由化と自己責任には、情報公開という監視が必要となる。いわば、“性悪説”に基づいた考え方によるものではないだろうか。
医療や福祉の世界にも、費用の「適正化」という大義のもとで、「アメリカではこうである」といったスタンダードなるものを求める声がますます大きくなっている。そこで今回は二つのトピックについて、考えてみることとする。
しかし、官公庁の「食糧費」の公開と異にする問題を確認しておく必要がある。それは、「ガンに限らずどんな病気でも必ず死というものと隣り合わせである」という認識をもっておかねばならないということである。
そこには見せる側だけではなく、見る側の責任、つまり腹をくくる姿勢も要求されてくるのではないだろうか。カルテをとりあえず見て、その後「どうしよう」と苦悶した場合のフォローは誰に要求されるのであろうか。各個人に自分の死をどう受け入れることができるかという哲学、倫理が要求されるのではないかと思われる。「見てしまった」後における自己の責任の取り方に対して、外部からの心理的あるいは宗教的なフォローアップが不可欠といえる。
しかしながら、わが国における心理的カウンセリングの環境が不十分であることや、宗教にとらわれない国民性は、すべての情報を獲得した後の心理的混乱を危惧させる。医療機関、その他におけるカウンセリング体制の整備も、情報の開示と並行して行われるべきであると訴えたい。
死に向かい合った本人の治療方針を誰が決定したか、すなわち医療側におまかせなのか、家族なのか、それとも本人なのかをきちんと整理する必要性もあると思われる。
1997年12月号の住友生命総合研究所による「スミセイエコノミックレビュー」の巻頭言に「特に現在加入者3000万人を超える組合健保を民営化してはどうか?この場合、保険者と医療サービス提供の仲介をかねるオルガナイザーが必要となってくるが、その担い手としては民間の生・損保会社が有力な候補となり得よう。すでに医療保険販売の実績もかなりあり、また全国に存在する審査医のネットワーク(生保)、代理店網(損保)の存在等を考えれば、わが国におけるマネージド・ケアの担い手として生・損保を想定することはごく自然なことと考えられまいか?」なる提言が記載されている。
医療や福祉の「奇麗事」は別にして、現在繰り広げられている議論の究極の解答はここにあるように思えてならない。競争原理と自己責任において、持つものと持たざるものの格差が広がってくるようにも思われる。
この二つのトピックのキーワードは「スタンダードは自己責任」である。冒頭に記載したような日本の国民性がこれを受け入れることができるか。医療に限らず、銀行、信託、証券に対する考え方にも、共通して流れるポイントのように思われる。
確かに、多国籍の企業が増えれば増えるほど、日本における独自の税制や規制はその運営の障壁になることは当然考えられる。また、情報ネットワークの世界はインターネットや衛星通信をはじめとして、広く世界と密接に結合し、「グローバルスタンダード」はなくてはならない状況となっている。
今年は日本を鎖国状態から開国した「徳川慶喜」である。われわれ医療機関は、好むと好まざるとに関わらず、来るべき「開国」に備えて、いかなる制度にも対応できるしくみ、すなわち、「見られる」に足りるカルテ情報の整備やマネージド・ケアに対応できる原価管理のしくみを、まさに今、準備していかなければならない時のように思う。