(内容の一部)
公的介護保険構想は迷走を極め、早急な介護保証を求める市民の期待を裏切りつつある。その最大の原因は、介護保険の二つの方式(公費負担方式・介護保険方式)の十分な吟味なしに、現実的選択の名の下で、介護保険に傾斜してしまったことにある。公費か保険かは重要な論点ではなく、大切なのはニーズに適切にこたえることだという意見もあるが、むしろそのためにこそ、どの方式を取るべきかが問われていることを知るべきである。
公的介護保証制度構築の第一次基準は制度の目的との適合性にある。つまり、普遍性・権利性・公平性・選択性である。
普遍性とは「だれでも、いつでも、どこでも」サービスを受けられることだが、端的にいって保険ではその実現は難しい。社会保険は保険料の拠出を条件に給付するシステムで、逆にいえば負担なき受益は排除されるからである。この排除論理は公費を投入しても解消されず、保険料を負担できない低所得階層は介護サービスが必要となるまさにその時に、サービスを受けられないことになる。
現実に、介護保険は「不安なき老後への福祉革命」などともてはやされたが、二転三転する中でやせ細り、保険の欠如が如実に露呈しつつある。
特に未納者へのペナルティー規定は詳細で、保険給付の支払方法の変更やサービス給付の停止・制限などを定めている。ペナルティーは保険では不可避で、それが保険の最大の欠点の一つである。保険論者の中には一部の切り捨ては当然と言い切る人があるが、低所得者がサービスを必要とする時にそれをカットされるとすれば、社会保障として失格であろう。
税より保険料の方が合意を得やすいという俗説は依然強い。だが、その幻想たることを明確にし、介護保険料も新たな増税に等しいことを明らかにして率直に選択肢を明示すれば、国民の合意を得ることは可能である。市民の理解力を軽視し、錯覚に依拠して合意形成を図ることは、政治的にも邪道である。
時あたかも21世紀を目前に控えて、社会保障構造改革が叫ばれている。そこでは、すでに国民年金や健康保険で矛盾を露呈しているにもかかわらず、社会保険中心主義が強化されようとしており、その先兵に介護保険が置かれている。
この文脈を考えれば、現実的判断などで介護保険を推進することは将来に遺恨を残すことになろう。21世紀の社会保障を「自助の前提としての社会保障」として構築するためにも、旧北欧論者をはじめ、介護保険論者の再考を望みたい。