会場では、今ではちょっと手を出せば届くINS通信網技術が仰々しく展示されていたし、20分前に誰かが即興で作った日本文を6ヶ国語に翻訳され画面に表示されるのを見てえらく感心したのを覚えている。15年経ち、筑波で見たロボットとか科学技術のすごさに圧倒された私は、「ああ言うところで勉強したい」と高校の猛反対にもあいながら、9年後に文系の大学生としてここにやってくるとは合格通知を見るまで思いもよらなかった。
それはともかく、そこで展示されていた技術は実用化されたものもあれば、未だに実験の域を出ないものもある。しかし、この15年でパソコンの出荷台数がカラーテレビの出荷台数を超え、一週間前のものであれば、TIMEの記事をタダで読むことができるなんて、考えもしなかった。
そして、忘れてはならないのは、この15年間に、色々な神話が崩れてしまった。「土地神話」しかり、「安全神話」しかり。何かしら今まで絶対と思われていたものが崩れてしまった。本当はこの世に絶対なんてないのかもしれないのけれど、どれほどの日本人がこのことを単なる精神訓話と認識するのでなく、実感として認識していただろうか。
15年のことをあれこれと思ってみると、あの筑波万博が「国・地方を通して、老若男女の日本人が熱狂するイベント」の最後ではなかっただろうかと考えてしまうのである。
確かに、価値観が多様化し、イベントに人々の視線が集中しない傾向が出てきたからかもしれない。しかし1985年以降、筑波万博のような博覧会が開催できるような技術やスケールのでかさを私たちが失ったこと、つまり、ああいうことを企画するとか、客として見に行く気力を失ったことが大きいのではないかと思う。
これは私たちという人のレベルではなく、日本という国でもそうかもしれない。
博覧会の元々の目的はホストである国や地域の工業力・技術力を対外的に見せびらかすためだと考えると、筑波万博は日本の技術をかなり世界に知らしめたとおもう。一方、その後、各地で開催された地方博覧会は、どうもその地域のすばらしさを伝えることが主眼になく、ハコものを作るなど、単なる一過性の公共事業の成果という匂いだけがぷんぷんするものばかりだった気がする。気がするというのは、実際に行ったことが無いし、どれがどれやらさっぱり記憶に残っていないからである。
1990年に花博が大阪で開かれたが、これも規模が違うだけで、結局は「地域の公共事業」が「国の事業」に代わっただけではなかったのではないかと思う。この花博については、行こうと思えば片道1時間半ぐらいで行ける距離にあったが、遂に行かずじまいだった。別に行かなくても、軽蔑も何もされなかった。そして、村上龍の言う「日本の失われた10年」がはじまっていくのである。
おそらく、今淡路で開催されているジャパンフローラにも行かないだろう。元々、ああいう庭園などは余裕が出てきて楽しめるものだ。不景気で余裕などなく、世界からの挑戦に四苦八苦している国で見せられても、楽しめるものも楽しめないだろうから。
(2000/05/26)