松橋和三郎の生没年
--- 宮沢賢治・花巻見聞録 11 ---


中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie





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   ◆◇◇ 花巻・鉛 八月二十九日の見聞 四
 

 松橋夫人は午前中の鉛からの電話でわたしのことは了解してくれていた。夫人はとても賢い方だ。無駄なことは何も言わない。けれども言うべきことはスッと的確に言う。そのことをわたしは午前中の電話のやりとりで十分に知らされていた。

 わたしは、役所で調べるのでもなく、菩提寺に行って過去帳を見せてもらうのでもなく夫人の義理の祖父である松橋和三郎の生没年を知る方法を、その朝、鉛の藤井行雄さんから教えてもらっていた。それを夫人にお願いしたかったのだ。簡単な方法ではある。だがそういう方法で昔の祖先のことを知るやりかたはわたしには既に縁遠いものになっていたのだった。

 わたしは、松橋夫人に、位牌を調べてほしいとお願いした。決定的な瞬間であった。おそらく少なからぬ人が知りたがっていたことが明らかになる瞬間だった。

 夫人は、すぐに調べにいってくれた。松橋和三郎は昭和五年一月十八日、享年七十九歳で亡くなった。そういうことであった。享年は数え年であろうから西暦にすると1852年の生まれということになる。ペリーが黒船を率いて浦賀に来航する前年である。宮沢賢治との年齢差は四十四歳ということになる。仮に賢治が大正七年、彼が二十二歳の時に出会っていたとすれば、その時和三郎は六十六歳である。作品『なめとこ山の熊』の小十郎のモデルとしては丁度よい年齢であろう。

 またこれもそのとき尋ねたことなのだが、家に和三郎の写真はない、ということであった。和三郎の容姿を確かめる手掛かりはここにはないようであった。

その時わたしは同時に松橋勝治さんの位牌も調べてもらった。和三郎の長男勝治さんは夫人の義父であり、没年月日は昭和四十三(1968)年二月十六日である。生年は明治二十五年前後ということでやや不確かだったが、夫人はそれが巳年だということをはっきりと記憶していた。すると明治二十六年である。西暦1893年の生まれということになる。和三郎四十一歳のときの子である。宮沢賢治の三歳年長になる。ちなみに夫人のご主人である勝美さんは大正九年、西暦1920年の生まれで、平成十五年、西暦2003年に亡くなっている。まずまず長寿の一家といってよいだろう。


 わたしはその日のうちに京都に帰らなければならなかった。絶対に帰らなければならないということではなかった。だが締切を二日後に控えた大事な仕事があった。それをこなすのに丸一日はかかりそうだった。やはり帰っておかなければならない。

 高橋美雄さんのところでは他になめとこ山の登り方のことも聞いた。念仏踊りの写真も見せてもらった。それはやはりとても大事なことのようだ。その他松橋さんの家や家族の話しも聞いた。豊沢の熊狩りのことも聞いた。またこちらに来てから勝治さんと近くの松林でウサギ狩りをしたという話も聞いた。そして勝治さんの指の話も聞いた。それは山の斜面を登ってゆくとき、当然手で潅木や草を掴んで体を引き上げて登ってゆくことになるが、その時センノキの若木を掴んでしまったのだ。センノキの若木には棘がありそれには毒がある。もちろん普通なら刺さった時すぐにその棘を抜くのだが、抜けないものが指に残ってしまったものらしい。そうして病院にも行かずに放っておいたところ指が腐り、結局失ってしまった。右手の中指だった。しかしそれにもかかわらず勝治は卓越した猟師だった。十人近い家族をほとんど狩猟だけで支えていた。もっとも後には組合に入り資格を得て炭焼きもはじめたということであったが。

 高橋美雄さんのところでは折角遠いところから来て、聞きたいこともまだあるのだから泊ってゆけ、と勧めてくれた。ありがたいことだった。そして嬉しかった。だがわたしは、宮沢賢治研究大会から引き続いて、これほどすばらしい出会いや経験に次々に恵まれて、もう頭も心もいっぱいになっていた。一度家に帰って、その経験を整理しておきたかった。

 美雄さんからはもっともっと豊沢の話を聞きたかった。そしてできるなら松橋さんのところでも話を聞きたかった。だがわたしの力はもう限界に近いところまで来ていた。それでわたしは美雄さんのところをおいとました。美雄さんは帰りに山からもってきた面白い形の切株を見せてくれた。樹がどうしてこんな形になったのか、見ているといつまでも見飽きないものたちだ。そして土産に美雄さんが木で作った鍋敷をもらった。ありがたいことだった。

 それから最後に一寸だけ松橋さんのお宅にうかがって、トヨ夫人にお目にかかり、そうしてお礼のことばだけ述べさせてもらった。そう簡単に信頼してもらえるものではないが、直接にお礼も述べずに立ち去る失礼はできるものではなかった。


 帰途に着き、新幹線の新花巻駅からあたりの風景を見ていると、花巻にも宮沢賢治とほとんど何の関係もなく、美しく生きている人たちがいるのだ、そしてそれが当たり前のことなのだ、ということを強く感じた。「宮沢賢治国際研究大会」から、わたしはどれだけ遠くに来てしまったことだろう。しかしそこには確実につながるひとつのものがある。そうわたしは確信している。(2006.10.25)

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