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近くを歩くとすぐに大きく造りも立派な家が目に入った。ためらわず門の中に入って玄関から奥へごめん下さいと声を通した。ほどなく家の主婦と思われる方が出てこられた。わたしは、「鉛の藤井さんから紹介されて松橋さんのところを訪ねてきたのですが、お留守のようなのです。それでどなたかに豊沢の山の仕事のことを聞かせていただきたいとおもっているのですが、ご紹介いただけないでしょうか」と、そんな風に来意を告げた。そのご婦人は一緒についてもう一度松橋さんのお宅へ行ってくれた。そしてもう一度玄関で呼び出した。返事はない。それで裏庭の畑の方に行った。ベルを押して出ない時でも、裏の畑でなにかしていることがよくあるのだ、ということだった。
裏には相当に広い畑があり野菜や花が豊かにたっぷり生い育っていた。豊沢の花や野菜をここに持ってきているのだ、となぜか咄嗟に思った。
だが松橋さんはそこにもいなかった。やはり留守だった。
松橋さんのお宅から戻り、そのご婦人はわたしをさっきの石碑のところに案内してくれた。「これは豊沢にあった石碑で、わたしが毎朝掃除をしてお参りをしています」、と標準語で言った。その言葉にはその人の並々ならぬ心が感じられた。その念仏塔がとりわけ大事なもののようだった。
その何となくゆとりのある雰囲気のご婦人は、「松橋さんの先祖は熊捕をする人で、秋田からやってたが身寄りがなかったので、うちでお世話をしていました」、と語ってくれた。やはり豊沢の村の主となる家の方に違いなかった。わたしは、その松橋さんをお世話したという話のことをいずれもっとお聞きしたいと思っている。
そのご婦人はまた自分の家には豊沢からもってきた古い書類がたくさんあるのだ、と教えてくれた。わたしは古文書類が苦手なのだが、その書類のことも、また見せていただいて、そしてまたお話をお聞きしたいと思ったのだった。
そうして、わたしが豊沢の山の仕事のことを知りたいと告げていたので、わたしを近くの一軒の家に案内してくれた。「パチンコをしにいくこともあるので、今いらっしゃるかどうかわからないが」、と言いながら。
案内してくれた方は高橋美雄さんという方だった。美雄さんはさいわいお宅にいらした。居間に上げていただいて豊沢の山の生活の話を聞いた。
美雄さんの話はわたしにはまことに驚くべきものだった。話の一つ一つが極めて正確だった。同じような正確な語り方をする人をわたしはひとり知っていた。飛騨高山の猟師、橋本繁蔵さんだ。山のことについてわたしはその橋本さんから非常に多くのことを教えてもらってきていたのだ。同じように正確で的確な説明をしてくれる高橋美雄さんに、わたしはたちどころに魅了されてしまった。美雄さんは昭和七年生まれの方である。
美雄さんの話によると、豊沢は白沢、豊沢、幕館、桂沢の四つの伝統的な地区と、樺太からの引揚者の居住区に分かれ、合わせて六十七世帯が住んでいた。そして豊沢の生活は一つには春のワサビや山菜採りがあり、これは花巻や鉛にもっていった。また林業・炭焼きもしていた。そして畑ではヒエ・マメ・アワを育てた。そして牛が200頭ほどおり、三分の二の家が牛の放牧をしていて、牛でもいくらかの収入を得ていた。牛の競りは毎年秋の彼岸に豊沢で行なわれていた。業者が豊沢まで来るのである。そして秋には茸採りをする。平成六年には三人で行って一日で百キロ採ってきたこともあるという。そうして豊沢の山の生活のことをひとつひとつしっかりした確かさで語ってくれる。
美雄さん自身は学校を出てからおじさんたちに連れられて放牧の仕事をしていた。まさに山に牛を放つのである。よそから金をもらって放牧していた牛もいる。放たれた牛は豊沢の山の中だけにいるわけではない。山の陰を越えてゆく。沢内に越えたり、雫石の北本内に越えたり、葛丸ダムのある大瀬川に越えたりする。それを連れてこなければならない。そうして連れられて山の中を歩いているうちに豊沢の山はすっかり「すかっと覚えて」いると言えるまでになったのだった。
そうして美雄さんから豊沢の生活のことを聞いているうちに、わたしの携帯に一本の電話がかかってきた。松橋さんの奥さんからだった。(2006.10.24)
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