by
masatsune nakaji, kyoto
日本版タイトル: 「悪魔の耳飾り」(『世にも怪奇な物語』第3話)
原作: E・A・ポー
監督: フェデリコ・フェリーニ
主演: テレンス・スタンプ
Les Films Marceau Paris
CBS/SONY HOME VIDEO
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この映画のテーマは、〈神なき孤独〉である、と言うことができよう。〈神なき 孤独〉とは、つまり、神を信じないということが問題なのではなく、神が存在し ないということが問題なのであり、神が存在しないという問題に直面している ということである。そしてそれゆえの、あるいはその状況における、孤独が問題なの である。 神は個々人を、そのすべての行為において、それゆえ、その孤独の底においても、 見(=監視し)、理解しているべき存在であった。神の死とはそのような者が 存在しないということである。それは、孤独が絶対的なものになる、ということ を意味している。 「この無限の空間の永遠の沈黙は私をおびえさせる」(《Le silence éternel de ces espaces infinis méffraie.》)、とパスカルは語る(Pensées, 201 - 206)。 パスカルはキリスト教の、ほとんど限界のところまで行っているように見える。 「永遠の沈黙」、つまり、永遠に神の声が聞こえてこないこと、事態がそのような ものである、ということの、明確な把握。------にもかかわらずキリスト者は、 神が私を見、私の言葉を聞き、私を理解している、と信じる。そして、それに よって自分のアイデンティティを保つ。つまり、人間の誰一人として、自分を 理解しなくても(そして人間とはもともとそのような者であると考えられている のだが)、私は神の視線が私に注がれているという信仰の下に、自分の アイデンティティを保つのである。(この点において、この映画は、この オムニバスの第二作『ウィリアム・ウィルソン』と共通の問題をもち、その問題を 一層深めている。) 〈神の死〉、あるいは神の非存在は------あるいは神の死、神の非存在の〈知〉 は------キリスト者たちの、二千年に渡る、私に注がれる神の視線の存在への信仰を、 それが児戯にも等しい行為であったことを悟らせる。そして、そのような仕方で 保ってきた〈自分のアイデンティティ〉、〈私自身〉、とは、単なる一つの偶然 (の産物)でしかなかったことを悟らせる。そして、神の一つの意志によって欲せ られているがゆえに、自分(人間)にとって無限に大きな価値を持っていたはずの 〈私〉が、ただの一枚の紙切れのようなもの------価値においても、存在に おいても------に過ぎないことを、悟らせる。 〈孤独〉は、神の視線による(理解の)保証を失い、絶対的なものとなる。そして、 人間による〈理解〉は、神による媒介が失われているがために、その成立の究極的 根拠を原理的に失っており、また事実的に、人は、その機会に出会ったときに、 それが〈失われている〉ことを、〈存在していない〉ということを、〈知〉らしめ られる。〈絶対の孤独〉が開かれる。
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映画の場面が始まる以前に、トビーは、この絶対的な孤独に浸りつつも、あるいは 人間の理解者があるかも知れないという期待を捨ててしまってはいなかったよう である。映画の場面が始まってからもそうである。この期待を捨てることが、 「悪魔」(diable)の誘いに乗ることである、と、設定されているように見える。 イタリア・オスカー賞の授賞式典で、トビーは、近寄る人々、目にする人々、 の品定めをする。誰かこのなかに、人間の置かれているこの状況を、つまり神の死 のもたらした絶対の孤独を、体得している人間はいないか、と。 授賞式のシーンで重要なのは二人の人物である。その第一は、チャップリンに 擬せられた、偉大なはずの老喜劇俳優である。トビーは、彼が「自分の片目は 猫の目だ」などという、愚にもつかないジョークを飛ばすのを目の前にして、 チャップリン自身への憐れみと、芸術家というものを汚したことへの口に出せない 憤りと、自分と彼との間の橋渡しし得ぬ隔たりの自覚とを伴った、極めて痛ましい 表情をする。その表情は、「何と情けないことを言うのだ!」と嘆いているかの ようである。ここでトビーは、〈芸術家〉によって裏切られる。芸術家とは、 人間の置かれている状況とその意味を、万人に先駆けて、そして誰よりも深く、 理解し、体現しているべき人間である、と、トビーによって考えられていたようで ある。現代を代表する芸術家であるはずの老喜劇俳優によって裏切られて、 トビーは、〈芸術家〉というアイデンティティを失い、また投げ捨てる。 つまり、チャップリンが「偉大な俳優」であるなら、自分はそうではない。 なぜなら、チャップリンが「偉大な芸術家」であるのなら、「偉大」とは、 〈天才〉が妥協することに対して、妥協してついには自分の精神を失ってしまう ことに対して、与えられる称号を意味するからである。チャップリンが「偉大」 であるなら自分は「偉大」ではない、ということを、トビーは告白する。 トビーは「天才俳優」である。シェイクスピアと並び、ダンテを継承するほどの 芸術家である。この映画で、トビーはまさにそのように設定され、描かれている。 天才とは生まれながらの能力であり、生まれながらの刻印である。真の芸術家 としての能力も生まれながらのものであり、天才によるものである。それゆえ天才は、 己が己として生まれたことの、つまり、自分の存在の、特異性と偶然性に、いち はやく気付かざるを得ない存在である。トビーは〈自分の精神〉を護ろうと している。彼がLSDを欠かすことが出来ないのはそのためである。なぜLSD を使うのか?というインタビュアーの質問に、トビーはこう答える。「ノーマル になるためだ (pour devenir normal)」、と。つまり、トビーは〈自分の精神〉を 護り抜くために、それを隠蔽しなければならないのである。そのようにして 〈自分の精神〉を隠すことによって、初めて、〈精神〉を失う事なく、人々と 共に生きることが出来るのである。換言すれば、LSDによって〈自分の精神〉 を一時的に眠らせることによって、初めて〈ノーマル」な生き方に従うことが 出来る、ということである。〈自分の精神〉を護ろうとするのでなかったならば、 トビーはもっと別の生き方をすることが出来たであろう。「自分も〈偉大な〉 人間になれたかもしれない」とトビーは言う。「偉大な」人間になるというような こと、そのようなことは、トビーには、堕落することであり、〈精神〉を喪失する ことである、と思えるのである。
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もう一人の重要な人物は、アルカイックな雰囲気を持った、容貌の端正な一人の 女である。彼女は、チャップリンの憐れな有様を見せ付けられて、悲嘆に沈ん でいるトビーに手を差し延べてくる。彼女は、神のごとき言葉を語る。つまり、 「私はあなたを昔から知っていた」、と彼女は言う。そして彼女は、自分こそが トビーの待っていた人間であり、彼女によってトビーは孤独とエゴイスムから 永遠に救われるのだ、とトビーに語る。まさしく彼女は、キリスト教の神が語 るべき言葉を語っている。それに対するトビーの返事は〈微笑〉である。トビーは、 存在の孤独に近寄ってくるキリスト教的な思想の誘惑の本性を見抜き、〈微笑〉 によってそれを退ける。キリスト教は、人間は誰かを待っており誰かによって 与えられる救いを待っている、と考える。しかし、本源的な差異が人間を差異 あるものとしている限り、このキリスト教的な誘惑は、無差異性の幻想による 誘惑であり、キリスト教自体が、〈私〉を保持させつつ、且つ、〈私の精神〉を 否定しようとする、無差異化する思想なのである。つまり、個人と神との一対一 の関係が成立しうるものであるならば、その場合には神が存在するであろうが、 そうであるならば、トビーは他人を待つ必要を全く持っていないのである。そして 神との一対一の関係が成立しえないものであるならば、その場合には、キリスト教 自体が〈いかさま〉であり、人間から〈私の精神〉を奪い、それによって人間に 〈去勢〉を施そうとする思想に他ならない。トビーは決定的なこと、つまり自分は 誰をも待ってはいなかったのであり、また誰にも用はないのである、という宣告 を残して、授賞式の会場を逃げ去る
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そしてフェラーリに乗る。このフェラーリこそが、彼がローマに来た唯一の 理由だったのである。しかし彼がフェラーリに乗って走り回る夜のローマの裏道は、 まるで迷路のようである。幾度も行き止まりにぶつかり、怪しげな光景・人物に 出会って、進路を変える。(それらの方向転換を促すものの全てが、何者かの 意志によってそこに存在し、その者の方へ自づからトビーを導いてゆく道標で あるかのように、映画は構成されている。また、聞こえてくる犬の鳴き声も、 ニーチェがそれについて語った一節を思い起こさせるものである:『ツァラトゥ ストラはこう語った』III - 2。) この見知らぬローマの、人のいない場末の街角で車を止め、トビーは声を上げる。 始めは唸り声のように。そして段々声を高め、最後は力の限りを尽くして。ここで トビーは神の反響を聞こうとする。しかし声の大きさに応じて、自分の孤独の 空間の大きさを確認するばかりである。自分の声の反響しか聞こえてこない。 あるいは、神の反響を聞こうとする、というよりも、寧ろ、神の非存在の、そして 己の絶対の孤独の、最終的な確認を行おうとしているかのようである。その後再び ローマの裏道を突き走る。そしてやっとのことで高速道路に入るが、程なくして 行き止まりにぶつかる。この行き止まりは、しかし、どのような道の行き止まり なのだろうか? トビーはスピードを見出した。フェラーリによって、スピードによって、トビーは 孤独を解消し、また孤独という問題を解消する。というのも、スピードにおいて、 マシーンとの一体化が生じるからである。身体のマシーン化が生じるのである。 また、マシーンの身体化が生じるのである。この、同時に生じる二つの相互への 生成が、トビーの発見した新しい愛であり、新しいライフ・スタイルであった。 これは〈孤独の解消」ということ以上の意味を持っている。というのも、この二重の 生成によって、トビーは〈〈私〉−孤独−理解〉という図式の外に出るからである。 つまり、スピードおいて、〈私〉に代えて、〈欲望するマシーンズ」接合が、 実在として把握されるようになるからであり、〈孤独と理解〉に代えて〈マシーンズ の相互への生成〉が生じているからである。そして〈私の精神〉もまた、マシーンズ の相互的生成の生産として、つまり新しい愛として、生産の連関の内に解消されて いるからである。 しかし、トビーがこの新しいライフ・スタイルを把握するのも、決して充分に ではない。彼は、その意味を充分に把握しないままに、突然スピードを停止させ られることになる。障害物が現れ、ハイ・スピードで走っていたトビーは、それに 激突してしまうのである。この衝撃から立直り、車から降りて辺りを見回り、 トビーは、橋が壊れ、道路が続いていないのだということを、そしてそのために 障害物が設けてあったのだ、ということを理解する。しかしそれと同時に、 橋の向こう側に「悪魔」がいて、自分を招いているのを目にする。
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「悪魔」はこの新しいライフ・スタイルの、差し当たりの〈挫折〉と共に現れて くるのである。しかも、間髪を入れないタイミングで。つまり、フェラーリとの ランデブーをやり直したい、という気持ちが再び生まれてくるより前に、思考の 一瞬の空白状態を衝いて、現れるのである。しかも少女の姿をとって。 これまでトビーが悪魔の誘いを遠ざけていたのは、やはり人間の理解者が存在する ことへの期待のためであった。しかし理解を求めること自体が、私を、生産する 諸々の欲望としてではなく、一つの〈私〉、つまり〈存在する自我〉として想定 することを基礎にした考え方であった。それゆえ今や、スピードの経験によって、 〈存在する自我〉の想定が退けられるとともに、悪魔の誘いも、それを遠ざける 直接の理由が、見出されなくなっていたのである。しかし実際には、悪魔の誘惑は、 単に、人間へと働きかけようとする欲求が、それに一度乗ってしまうや、消え 失せてしまうようなものであるにとどまらず、人間を含むマシーンズの相互的 生成を生むべき、生産的愛への欲求も、消え失せてしまうようなものなのである。 悪魔はこの映画では、〈私的ファンタスム〉として捉えられており、それは、 ポーにおいて悪魔が凡そそのような意味をもっていた、〈悪行における理解の 共同性への誘惑〉というものよりも、一層たちの悪いものなのである。 ポーにおいては、悪魔は、共同的理解のある一様式、の象徴であった、と言う ことができよう。そのようなものは、神の非存在にも関わらず、一定の程度に おいて存続するものである。悪魔は神よりも古く、また長生きする。というのも、 社会において〈悪行〉というものが、考えうるものであるかぎりにおいて、悪行 における共同性、共犯幻想と呼ぶべき濃密な共同性が、存在するからである。 これは、存在における絶対的な孤独を自覚する〈私〉にとって、神の死の後も、 限りない誘惑となりうるものである。 しかしトビーの悪魔はそのようなものではない。純粋に私的な存在であり、また 社会的な意味での悪とも悪行とも関わりの無いものである。寧ろ、〈純粋に私的な もの〉であるということ、そのことが重要である。そこにこの作品の、極めて 危うい設定がある。というのも、〈純粋に私的なファンタスム〉というような ものは、理念であり、現実には存在しないからである。しかし、〈私的な もの〉の極限的意味を、悪魔という形象において象徴することは、芸術表現として 正当なことである。というのも、問題なのは、〈純粋に私的な領域〉に愛を尽く そうとする欲望を、形象化することだからである。従ってここで理解しておくべき ことは、この少女の姿をした悪魔に向けられる欲望が、例えば、太陽とも、 小鳥とも、接合関係を持とうとする方向を持たないものとして、描かれている、 ということである。〈純粋に私的なファンタスム〉が存在すると想定し、そこへ 没入することをもって、人間の最大の悪と見做すような思考の次元は、現実に 存在しており、この映画はその次元を捉えている、と言うことができよう。 トビーは、壊れた橋の向こう側から、悪魔が自分を招いているのを目にする。 しかし、この招きが、つまりは賭けに招待しているということなのである、という ことは、ポーの原作と重ね合わせないかぎり、読み取ることは出来ない。その場合、 その賭けとは、この橋の壊れたところを飛び越せるか、という賭けだ、ということ になる。しかし、フェリーニの映画においては、〈賭け〉をここに読み取る 必要はない。フェリーニの映画がポーの原作を受けているのは、トビーが、 思いも掛けず、悪魔に首を取られることになる、という設定だけであるように 見える。
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悪魔の姿にうっとりと魅せられて、しかしトビーは、その誘いに乗ることに、 一瞬ためらいを見せ、橋の下に小屋を掛けている男に------彼は先程トビーに 迂回路を教えてくれた男なのだが------「待ってくれ」と頼む。しかし男は、 その願いに一言も応えず、扉を閉めて小屋に入ってしまう。もはや人間の方向に、 悪魔の誘いに乗るのを引き延ばす手立てはない。トビーは悪魔の誘いに乗ること を決め、車をバックさせる。しかし尚も恐怖があり、ためらいがある。 このためらいは、それが先述したような〈悪魔〉の誘いであるからである。 そして、このためらいの内には、それ以外の生き方がありえないかどうかの 摸索がある、と考えうるかもしれない。しかしこの摸索のうちには、もはや、 先ほど見出したばかりの、新しいライフ・スタイルを継続させる、という可能性は、 入っていないように見える。トビーの思考を領しているのは、少女の魅惑と、その 魅惑にのった場合に待ち受けているであろう未知の事柄への恐れ、であるように 見える。この恐れを乗り越えることだけが問題となる。そして、この乗り越えを なしうるためには、笑いが必要である。トビーは笑う。始めにトビーは、この 選択にまで立ち至った自分の人生を、一個の喜劇として、一個の実験として、 捉えることから生じる笑いを笑う(神の死後、すべての人生は一個の実験で あろう)。しかし後に、それは一種の悲鳴のようなものに変わる。この作品中で 最も難解なこの悲鳴の意味は、この最終的な決定にまで立ち至らざるを得なく なった、自分に与えられた禍々しい宿命に、トビーがなす術をなくした状態にある、 ということであるように見える。そしてそこには〈自暴自棄〉も含まれている。 自暴自棄とはつまり、呪わしい宿命に、もはやあらがうことが不可能性である ことを自覚させられ、自分の人生についての望ましいヴィジョンを捨て去って、 その宿命の方に身を投げる決定をすることである。 その悲鳴のままに、そして自暴自棄のままに、トビーはアクセルを踏み、車を スタートさせる。橋は見事に飛び越えたものの、橋の上に張り渡されていた ワイヤー・ロープに首を切り落とされ、トビーの首は悪魔の所有する所となる。 〈私的ファンタスム〉の魅惑に生を賭けるや否や、その思考はファンタスムの 所有物になるの、と映画は語る。映画はそこで終わる。
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この、豊富なシーニュに満ちた映画は、更に多くの解読を許容するであろう。冒頭 近くの空港のシーンも、不吉な数々のシーニュに満ちている。より即物的な、 シーニュの系列の精密な分類に基づく読解は、この作品の別の意味を必ずや照らし 出すであろう。私が試みたのは、この作品のもつ、西洋・宗教・思想史上の注目 すべき位置に、若干の目印を付けたにすぎない。それは、ニーチェが語る〈der tolle Mensch(気の狂った人間)〉(『歓ばしい知識』III - 125)の、少し後に続く べき位置であるように見える。〈神の死〉のメッセージは、ここにおいても未だ 早すぎるのである。
mnnakaji@mta.biglobe.ne.jp
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