飛騨に生きる人々と技(56)
飛騨学へ
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie


前頁


飛騨学へ

 この連載も一年を越え、時々読者からの声も届くようになった。私事で恐縮だが、先日わたしの大学の通信制のスクーリングで、この連載の二十二回目の記事を授業で使った。すると受講生の中に、この連載は毎回読んでおり、この記事のことも読んだことがあるという学生があった。ちょっとした驚きだった。
 また直接、間接にお便りをいただくこともある。そんな中にはわたしの聞き違え、思い違えを訂正してくれるものもある。例えば、第五十三回でわたしは「石炭バス」と書いたのだが、それは「木炭バス」ではないかというお手紙を、岐阜市にお住まいの荘川村出身の方からいただいた。急いで取材ノートを調べてみると、わたしがその話をお聞きした荘川村の大沢喜二丸さんも、「木炭バス」と言っていたのだった。わたしが思い違えをしていたのだった。またその方のお話では、荘川・高山間の木炭バスは、旧軽岡峠を通っていたということであった。調べられるものなら飛騨地方に蒸気自動車のバスが走っていたころの事もきちんと調べてみたいと思っている。
 ところでこの連載も、今回が最終回ということになった。以前にも紹介したが、柳田国男は自分の書く紀行文が「その土地の住民」の目に触れることを期待していた。「それが事実を見誤っておらぬ限り、いつかはその土地の人に認められて、あるいは記録なき郷土の一つの記録として遺(のこ)るかも知れぬ」と記しているのである。また柳田は、そうした紀行が、新聞によって即刻に頒布され、容易にその誤謬を訂正しうるということを、新時代の利用されるべき便宜と考えていた。色々な異見を寄せていただくことは、そしてまた人々の間で記憶を確かめ合ったり、それを書き記したりしていくことは、郷土の正しい姿を描くために、大変有益なこととなるであろう。この連載では、当初に考えていたことの三分の一もまだ成し遂げていない。林業について、焼畑を含む昔の農業について、食生活について、生活道具について、それらを近隣地域との繋がりをよく見定めながら記してゆくこと、そのことをわたしはこれからも続けてゆきたい。その先に、地域の繋がりの学としての「飛騨学」が姿を見せてくることだろう。わたしはこれからそれを、小泉首相に倣って、メールマガジンとして発行してゆきたい。メールアドレスは、mnnakaji@mta.biglobe.ne.jpである。メールを下さった方にお届けして行きたい。

目次
go 飛騨学事始 飛騨に生きる人々と技Index go homepage head


mnnakaji@mta.biglobe.ne.jp

(C) masatsune nakaji, kyoto. since 2000