三輪から東北へ
--- 大神神社の鎮花祭 ---
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2003年8月16日開版
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie






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 ◇◇◆ 三輪の鎮花祭はなしづめのまつり

 一九九七年四月十八日、この日私は鎮花祭(はなしずめのまつり)を見るために、奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社にでかけて行った。例年この日にこの祭りが行われることは前々から知っていたのだが、学期始めの慌ただしい日でもあり、これまで見学の機会を持てないでいた。桜の花咲き、花散りそめる頃、と言うことができるだろうか。花咲き花散ることにまつわる苦しい想念が、あたりに、色々と、濃く漂っている頃のことである。狂ったように、風の中、散り急ぐ桜の花を見ては、私もまた狂い死にしたい、と思う、そのような頃の祭りである。
 この祭りは、大宝令(701年)に「季春(すゑのはる)」の、国家による祭りとして定められていた。時期はやはりこの、花の散る頃にあてられている。

 前日、電話で、十時半から始まる、と聞いており、私は、十時十五分には大神神社本社前に到着していたのだが、その時には既に、御簾を上げたり、神餞を奉納したりする式などは終わっていたようだった。程なくして祝詞奏上が始まった。しっかりとした声で、逼(せま)ることなく、乱れることなく、篤く、強いものを感じさせる祝詞奏上であった。この祝詞は、大宝令の頃から、神社の神官、祝部が奏上していたものらしい。国家の神祇官は、ただ幣帛(へいはく)を奉献し、そうやって少し外側から、祭りに関与し、監督していたようである。祝詞の詞章そのものも、神社の神官みずからが考案したものではなかったか。八方への気遣いを交えながらも、大神(おおかみ)への畏怖と、崇敬、そのことへの確たる自信をもって読み上げられる祝詞を聞きながら、この祝詞には、国家の祭りとして大宝令に定められる以前から、ずっと変わらずに続いている明確な一つの洞察があり、それがこの祭りの生命をなし、今日にもなお生き続いているのではないかと思われたのだった。多分それこそが三輪の鎮花祭の生命である。

 ◇◆◇ 鎮花祭祝詞
 

 一九九七年の大神神社鎮花祭で読み上げられた祝詞には、次のような詞章が含まれていた。ここには恐るべく深くまた美しい、人間の心の洞察と、それへの慰めがあるのではないだろうか。

風の音も遠き神代の昔、
国造りの親神とたたへまつる大神の、
少彦名の大神と御力(みちから)を合はせ、御心を一つにして、
大国(おほぐに)、小国(をぐに)、
造り固めなしたまひ、
現(うつ)しき青人草を撫でたまひ、恵みたまへるなかに、

四つの季(とき)めぐりめぐりて春さり来れば咲く花の散り乱れ、
うつそみの人の心もさまよひ出(い)で、
千早振(ちはやぶ)る神のあやしき業(わざ)、荒(すさ)びそむるを鎮むるとして、
鎮花(はなしづめ)の御祭(みまつり)を大宝令に定めまつられしは、
いともいとも畏(かしこ)ききはにて、・・・

 私は、かすかに耳に届く祝詞奏上の声を、懸命に聞きとろうとしていた。するとその時、すっと私の心に落ちてきた言葉があった。それはしかし、むしろ聞き間違えではなかったか、と私をすぐに訝(いぶか)らせたものでもあった。「よつのときめぐりめぐりてはるさりくればさくはなのちりみだれ、うつそみのひとのこころもさまよひいで・・・」と、こう祝詞は語っていた。「咲く花の散り乱れ」ること、そこに何か堪え難いものがあること、その堪え難い傷(いた)みとともに、「人のこころ」も「さまよい出(い)で」てしまうこと・・・。多分、「人の心」は、(あくがれ出でる)魂とは違って、人の身から切り離されず、こころがさまよい出でる時、人は、心につれられて、身もろともどこかへさまよいいでてしまうのである。家郷を忘れ、家郷の生活を忘れ、傷みのままに傷みとともに浮かれ出て、さまよいいでてしまうのである。咲く花の散り、散り乱れるとともに、自分の人生も終わりにしてしまいたくなるのである。花に負けて、花に先を越されて、生き延びたくはなくなるのである。そんな生き延びる人生には何の意味もないように見えてしまうのである。

 この祝詞がしっかりと見定めているのは、散り乱れる花とともにかき立てられる、人の心のこの傷み、この浮かれ、このさまよいなのである。そして恐らくは、人の心がこのように乱れ、さまよい出でてしまうことを、「千早振(ちはやぶ)る神のあやしき業」と、それが「荒(すさ)びそむる」こと、と理解しているのである。荒ぶる神の、不可思議のわざというべきものであって、その激しい勢い、激しい落差は、心のその激しい絶望と浮かれは、人の、たとえば家族の、力をもってしては、とてもとどめられるとは思えないようなものであるに違いない。確かに、このさまよいいでるこころに、いったん身をゆだねてしまえば、これまでの生活の連続性、一貫性は、それっきり失われてしまうことであろう。うつそみの人の心がさまよい出でる、とはそれほど激しい出来事になってしまうもののことなのである。

 それは、「神のすさびのわざ」と言うべきものだ、と祝詞は語っている。しかしそれが、どのような名の神のすさびのわざであるのか、祝詞ははっきりとは語らない。しかし人々がどう考えればよいとしているか、は、はっきりとしている。わたしもまたその名を挙げることは控えるが、それが、かの***の大神のあやしきすさびのわざ、と考えうるものであること、考えるべきものであること、これはほとんど暗黙の了解、といったものだ。この神は、また荒ぶる、千早振る神とも、みなされるのだ。それは、正義と秩序の神では、ない。それは契約と法律によって支配を司る神ではない。---- 魔術的な神であろうか。然り。しかしそれはどういう魔術か。それを更に何と呼ぶべきであろうか。あやしきすさびのわざをなす神、つづめて「すさぶるの神」、と呼ぶべきではないであろうか。確かに湧き立つ勢いのままにわざをなす大神である。その後のことを顧慮しはしない。

 しかしそれにしても何というわざであろうか。何と美しいあやつりわざであろう。花を散り乱れさせること、---- それだけで、国にある人のこころは乱れ、乱され、悲傷とともに浮かれ立ち、さまよい出(い)でてしまうのだという。花咲くことと花散ることの奥義に、その神は働く。花の心と人の心が、滅びつつ、滅びゆくいのちとして、一瞬のわざのはたらきの内に、共感によび出されてしまう。そして、その交わりのなか、激しく、互いに、同じ時の流れをきざむ。花のいのちが、人の中に入ってくる。散り乱れる花が、瞬刻、散り去りゆくいのちとなり、人も、瞬刻の出会いに、みずから散り乱れる花となる。その、稀有な刻(トキ)の、ほとんど奇跡とも言うべき瞬刻のきざみ、そしてその見定めがたい効果を、大神はつかさどる。花と人とが、共にあることの、多分最も深い地点がここである。そしてこの瞬刻の成立自体が「いとも畏(かしこ)き際(きは)」、とっても危険な切っ先のところ、である。その地点を、この祝詞は、まぎれることなく、しっかりと見定めている。

 ◇◆◆ 「疫神分散して癘を行ふ」?
 

 このような大神のわざを、大神神社の神官は、決して見紛うことなく、見定めてきたことであろう。そもそも、この鎮花祭が始められたその時以来、つまり人々が、咲く花の散る頃には、恐ろしい魔の刻(トキ)がそこここに飛散しており、とても危険なのだ、ということに気付いて、そのまもりを、大神に願ったその時以来、人はこの祭りの本義を、決して見失うことはなかったであろう。そしてそのことが、今日のこの祝詞の継承に生きつづけているのであろう。しかし、大宝令に国家の祭りとしてこの鎮花を定めた時、国家の為政者たちはこの祭りの本義を間違いなく理解したのであろうか。

 為政者の側からの最も標準的な解釈、というべきものは、恐らく、『令義解』(834年)に記される次の説明であろう。それはこうである。

謂ふ。大神おほみわ狭井さゐの二祭なり。春花飛散の時に在りて、疫神やくじん分散してれいを行ふ。その鎮遏ちんあつの為に、必ずこの祭りあり。故に鎮花はなしづめといふ。(謂。大神狭井二祭也。在春花飛散之時。疫神分散而行癘。為其鎮遏。必有此祭。故曰鎮花。)

 この解釈もまた、春の「花鎮め」の必要を理解している。しかしその理由としては、それを、春に花が飛散する時には「疫神が分散して癘を行う」からだ、と説明しているのである。

 ちなみに、ここで「疫」は、『和名抄』に「衣夜美(エヤミ)」と訓まれ、これがこの語の標準的な訓みと思われる。またそれは「トキノケ(度岐乃介)」とも呼ばれるが、これは「着(と)きの異(け)(tokinoke)」、つまり「とりついてくる異様なもの」の意味だと思われる(1)。そしてまたその意味として、『和名抄』は「民皆病むなり」と説明している。これらをまとめると、「疫」とは「強い伝染力をもつ悪質の流行病」のことだと考えることができる。そして「疫神」とは、そのような疫病(えきびょう)をもたらす「神」であろう。また、「癘」を、白川静氏の『字通』は、一方では「癩」と、また一方では「疫」と同義とみなしうるような、「蟲霊を用いる呪詛によって生ずる悪疾」、と説明しているが、そうであれば、「癘(れい)を行ふ」とは、そのような「神」が、一種の呪詛によって「悪しき疫病---これは悪瘡を生ずる病を典型とする---をもたらす」ことである、と考えることができるであろう。

 こうしてみると、「疫」とか「癘」とかは、一種の魔術的、呪術的な力によって広まるものであるとしても、結局は身体の病であり、疫痢や赤痢や疱瘡、あるいはO-157による病のように、その悪弊がもっぱら身体に現われる病であると考えられる。そして「疫神」と言われるものも、崇敬の対象とされるような「神」であるというよりは、むしろ病原菌そのもの、O-157そのもののような、目に見えず、正体がつかめないながらも確実に「悪」をもたらす、禍々しい存在、と観念されているように見える。それゆえにこそこの「疫神」は、「分散」し、散り広がるのである。

 そしてこの『令義解』は、春の花が飛散するときに分散し、疫病をひろめる「疫神」を鎮遏(ちんあつ)するために、必ず鎮花祭を執り行わなければならない、とする。「遏」とは、「邪悪なものを呪儀によってさえぎりおさえ、とどめる」という意味である。この祭では、当然、三輪の大神(おおかみ)の「助力」が請われるのである。このとき三輪の大神は、疫病をなす疫神と「親縁的な力」と理解されているのであろうか。つまり、もともとはこの疫神は大神のある種の意図に従って、癘を行っている、と理解されているのであろうか。それとも、疫神による行癘は、疫神のみずからによる独自の振る舞いであって、他方、強力な三輪の大神は、それを鎮遏することもしないこともおのれの意志次第でできる、といった場所にある、とされているのであろうか。ここには多分に微妙な問題があるであろう。

 つまりそれは、この『令義解』において、疫病の先例として、具体的にどのような事例が念頭に置かれているか、ということによって、多少とも異なってくる問題であろうからである。記紀に記される疫病の代表的な事例は、崇神期のものか、あるいは六世紀後半の欽明−敏達期のものである。そしてそのどちらの場合にも、多くの民が疫疾のために死亡しており、また三輪の大神とのかかわりも、少なからず認められるのである。『令義解』が念頭においているのは、このどちらの疫病の事例であろうか。それとも、そのどちらとも無関係なことなのであろうか。これが問うべき問題である。

 ◆◇◇ 春の疫疾えきしつ
 

 周知のように、崇神期の疫病の大流行は、記紀においては、三輪の大神、大物主(おおものぬし)みずからの意図によって引き起こされた、と説明されている。『書紀』によれば、崇神五年から疫病が広まり、民の多くが死亡する(五年、国内多疫疾、民有死亡者、且大半矣)。以後、いろいろな神々を祭るが、効果なく、ずっと国の治まらない状態が続く。その後、崇神七年のある日、大王崇神の夢にみずから大物主と名乗る神が現われ、「国が治まらないのは、わたしの意志なのだ(国之不治、是吾意也)。わたしの子であるオホタタネコにわたしを祭らせれば、ただちに国は平らぐであろう」と言う。果たしてこの年の十一月に、お告げの通りにこの神を祭ると、疫病ははじめて終息し、国内がようやく謐(しずま)る。---この『書紀』の記述によれば、この時の疫病の大流行は、はっきりと大物主の意図によるものだ、とされているのである。そしてオホタタネコであるが、『書紀』は、この人物を註して「今の三輪君の始祖なり」と記している。「今」とは、『書紀』の編纂時のことで、つまり「三輪高宮家系系譜」に、天武八年十月三輪君を改め、大神朝臣姓を賜ったと記される高市麿や、その子で、霊亀元年に氏上となり、大神神主になったと記される忍人などのことを指していると考えられる。なおこの崇神紀の記事には、春の季節と疫病とを結び付けるべき記述は存在しない。

 また欽明−敏達期の疫病であるが、『書紀』には、欽明十三(552)年と敏達十四(585)年に、疫病(疫気/疫疾)の大流行についての記述が見られる。そして『書紀』は、物部尾輿(おこし)弓削守屋(ゆげのもりや)、中臣鎌子/勝海(かつみ)らが、これらの疫病流行を、蘇我氏が仏法を興し行おうとしたための国神の怒りと解釈し、仏法を断つべきことを提言し、天皇がそれぞれ、それを裁可し、仏像や仏殿が焼かれたことを記している。しかし話はこれで終わらず、たとえば敏達紀では、この時、天皇と物部弓削守屋大連が、急に瘡(ソウ)(=できもの。疱瘡か?)を患い、また民にも瘡を発病して死ぬものが満ち、人々はこれを仏像を焼いた罪によるものだ、と噂したと記されている。そして天皇も、結局、蘇我馬子に仏法を行うことを許すにいたるのである。----岩波日本古典文学大系の注釈は、欽明十三年以来の病のすべてを疱瘡であろうとしているが、私は、ここには、国神の祟りとしての疫疾/仏の祟りとしての瘡、という疾病の対立の構図があるように思う。そして瘡の方が、より重く酷い病だと言おうとしているように見えるのである。また、敏達十四年二月以来、馬子も病にかかるが、馬子の病は「疾」「疾病」とのみ記される。これは「疫」でも「瘡」でもない、第三のカテゴリーの病であるように見える。それは父稻目の尊んだ「神」である仏を、充分に祭っていないためにかかった病、とされているように読めるのである。ちなみに、「疾」は、「矢創(やきず)」から発した語で、病としても「急疾」の意味があるという(『字通』参照)。

 ここで大変興味深いことは、『書紀』の引く或本に、三輪君逆(みわのきみさかう)が、物部弓削守屋、中臣磐余連(なかとみのいわれのむらじ)とともに謀って、寺塔を焼き仏像を捨てようとした、と記されていることである。恐らく当時氏族の長であった三輪君逆は、この時明らかに排仏派に属していたのである。そしてまた、敏達十四年から始まる疫病は、この年の春、二月二十四日の条に記されている、ということである。「の時に、国に疫疾えやみおこりて、民死ぬる者おほし」と記される。これはまさに春の病、春に流行した病である。この疫病に対して、恐らくは三輪山祭祀の継承者でもあった逆は、ただ手をこまねいていただけであったのだろうか。国の神の、崇仏に対する怒りによって発したと言われるこの疫病(欽明十三年紀の物部尾輿・中臣鎌子の説)は、たとえ三輪の大神、大物主みずからの怒りではないにしても----『書紀』には大物主の関与のようなことはほのめかされてもいない、----大物主の力に頼るなら鎮めることができると期待しうるものではなかっただろうか。

 私が思うのは、この時に三輪君逆が、大王敏達に、疫神を祓い鎮めるための祭を命ぜられた、もしくはみずから願い許された、というようなことはなかったのだろうか、ということである。そしてそれゆえまた、それが鎮花祭の公式的な起源なのではないか、ということである。敏達十四年紀の「疫疾」に着目するならば、疫病は春に大流行を始める、と認めることができる。他方、崇神紀においても、また欽明紀においても、疫病がいつの季節に始まったか、ということについては正確なことは何も記されていない。それらの記事においては、流行の始まった時期、季節についての関心は全く存在していないようなのである。この点において、われわれは、季春(すゑのはる)に特定される三輪の鎮花祭について、『令義解』の想定している疫病のモデルが記紀の内に見出しうるとすれば、----それが記紀以降の書(たとえば『続日本紀』など)に見出される、と考える必要はないであろう----それは、敏達十四年紀に記されるものしかないであろう、と考えうるのである(2)。

 ◆◇◆ 「ゆゑ鎮花はなしづめといふ」
 

 『令義解』は、「その鎮遏(ちんあつ)の為に、必ずこの祭りあり」と、この祭りを執り行うことの必要性を強調している(3)。それはなぜなのであろうか。それは何よりも、春の花の飛散する時には、疫病が広がる恐れがきわめて強くある、と考えられているからである。しかしそうだとすると、『令義解』が敏達十四年の疫病流行を念頭においているとした場合、鎮花祭が敏達十四年に公的に定められ、以後毎年欠かさずに執り行われてきたのでないならば、その年以降、春に疫病の広まらなかった年が存在することの説明が困難になることだろう。これに対しては、この年以降、毎年必ず鎮花祭が行われてきた、と考えることで解決することができる。

 しかしそうなると、敏達十四年の起源において存在していた、仏法ないしは崇仏に対する国神の怒りというものが、八・九世紀にも相変わらずに続いており、その怒りが春の疫神行癘(えきじんこうれい)の原因なのだ、と為政者が考えていることになる。しかし、既に藤原氏による神仏両拝の政策の定着した時代にあって、なおも仏法に対する国神の怒りが、春に決まって爆発する、とは、人の考えうることであろうか。仏法に対する国神の怨念はなおも根深く、なおも底流している、とは、有りえぬことではないかもしれないが、その場合にも、人は国家の祭儀を、そのような危惧の上に懸けうるであろうか。この場合、たとえその源流と源泉を国神の怨念に見るとしても、祭儀は、その表現を、より一般的なものの上に載せないものであろうか。そしてまた国神の怨念そのものも、それ自身をより一般的なものの上に変形してゆくのではないだろうか。『令義解』の施行された時には、花は既に、人々の念の、一般的な形になっていたのではないだろうか。解釈されるべきものは、『令義解』に「故に鎮花といふ」と、言われる、この「故に」である。

 ここで鎮められるのは、既に「花」である。そして「鎮める」とは「鎮遏する」とまず同義である。すると「花」とは、「春花飛散の時に在りて、疫神分散して癘を行ふ」と、言われることの全体であることになる。「疫神分散して癘を行ふ」ということ、そのことが「花」なのである。この時既に、先にわれわれがもっぱら身体の病に視点をあてていると見た『令義解』の解釈も、既に相当に、こころの傷(いた)みに相接している。「花」とは、畢竟、〈悪事を行なうこと〉なのである。だから、花が咲くことも、それが散り乱れることも、一つのことであり、一つの「行癘(こうれい)」であり、一つの天意、善悪を越えた一つの呪詛なのである。そして人は、花とともに、こころを散り乱れさせる・・・・・。一九九七年季春(すえのはる)四月に奏上された鎮花祭祝詞の思想との、一種の交差を、われわれはここに見て取ることができるであろう。

 花を鎮めること、それは多分、究極においては三輪のすさぶる大神(おおかみ)大物主のわざ、その荒魂のわざとみなしうる、「花」の出来事の、呪詛の力を、大神みずからに祈願することによって、できるだけ小さなものとしようとする営為のことである。

 ◆◆◇ 大物主の二つのかお。そして、東北へ
 

 ここから東北へ、われわれはどのような線を引くことができるであろうか。そして、見出すべき私たちの「東北」はどこにあるのだろうか。ここでその簡単なデッサンを描いておこう。

 荒魂(アラミタマ)と和魂(ニギミタマ)、大物主は二つの貌(かお)をもつ。荒魂は大物主本来のの貌である。それは国家の〈外〉を、国家の庇護の届かぬ〈外〉にみずからがあるということを見せつける〈出来事〉を、一瞬の内にあらわにしてしまう力である。たとえば大震災がわたしを襲う一瞬。乱れ散る桜の花にわたしが心を狂わせてしまう一瞬。こういう国家の〈外〉を開く力のはたらきが、大物主の本来の、荒魂のわざなのである。この力は戦士的な力であり、戦士をつくりだす力である。インド神話で言うならば、インドラの力である。

 しかし、この大物主の、戦士的な荒魂も、記紀の説話が示しているように、さまざまな仕方で、国家の内にとり込められてしまっている。国家の魔術的な力によって、というよりはむしろ契約によって、その荒魂は、約束の網の目の内に、平安に収まるのである。崇神紀の大王崇神との契約が、その典型と言えるだろうか。その時、大物主は、みずからの本性から切り離され、和魂として謐(しず)まるのである。そしてその時、その戦士的な力は、国家の中で、軍事的な力に変質され、大物主は時に軍神とされてしまうのである。神功皇后紀に記されるようにである。国家の法と力に取り込まれる時、大物主みずからが、軍神としてより他、みずからの生存を見出せなくなってしまうのである。

 約束、ないしは契約による国家の内への取り込み、わが国の思想の歴史において、大物主はその神話的先例を示している、と言えるであろう。そしてヤマトの国家はこのやり方を更に洗練させてゆく。われわれは敏達紀十年の蝦夷綾糟(エミシアヤカス)の誓約の内に、〈外〉を、国家の内に取り込むやり方の、一つの完成された方式を見て取ることができるのではないだろうか。まず軍事的な力によって捕捉し、次いで誓約によって国家の〈外〉への逃げ道を断ち切るのである。これは捕捉され和魂(ニギミタマ)となった大物主の姿と、全く同じものではないだろうか。この敏達十年、綾糟は、まさに、大物主の住まう三輪山に向かって、誓約の言葉を述べた、とされているのである。この時大物主は、綾糟にとって、一体、どのような存在で有りえたのであろうか。そしてこの誓約の時、大王敏達の寵臣であった三輪君逆(ミワノキミサカウ)は、綾糟と、一体、どのような関りをもったのだろうか。----これらの問題は、三輪から東北へ引かれうる一つの線を素描しているであろう。

 しかしなおより重要なことは、とりわけ美において、人がなおも「花」の呪詛に出会いうる、ということである。今日なお国家の〈外〉というものが生じうるのであり、さまざまな瞬間に、多くは美とともに、散り乱れる花の美とともに、あるいは〈自然〉とともに、国家の捕捉の利かない、悲惨でもあり充実でもある、さまざまな部分空間が生じうるのである。呪詛の神、〈外〉の力である荒魂の大物主は、なおも健在であり、人はなおも、美とともに、〈自然〉とともに、〈外〉の力を得て、みずから戦士となしうるのである。東北には、なお多くの〈外〉の力が眠っていないだろうか。たとえば、宮沢賢治の見出した、「気圏の戦士」をつくる、宇宙と〈自然〉と踊りが交流する〈外〉の力のような力が。私はこれこそが三輪から東北へと引き結ばれるべき、もう一つの線であると思うのだが、どうであろうか。

   註
(1)白川静氏の『字訓』(「えやみ」の項)は、この「度岐乃介(ときのけ)」の「とき」に「時」の意味を汲んでいるように見受けられるが(「・・・ある時期に、またある地方に集中する。・・・」)、「度岐」が甲類(toki)であってみれば、乙類(töki)である「時」の意をここに読み込むことには、『和名抄』の時期には甲乙の音韻の明確な区別は既に存在しない、ということが通説ではあるにしても、ただちには賛同しがたい。またここで、「介(け)」もまた甲類(ke)であり、ここに乙類(kë)である「気(け)」の意を読み取ることにも、同じくわたしは若干の留保をつけておきたい。
(2)和田萃氏はこの大神神社、狭井神社の鎮花祭を、大物主が「境にいて、(ヤマトの)外部からやってくる疫神を防ぐ神と意識され」(補足は引用者)たことを起源とする祭りだ、と解釈されているが、このような解釈は、鎮花祭が執り行われる時期、季節についての顧慮を全く欠いており、われわれはついてゆくことができない(「三輪山祭祀の再検討」、『国立歴史民俗博物館研究報告』第七集所収)。また、三輪山祭祀についての 和田氏の所説に対する 批判としては、田中卓「古代三輪山祭祀と大神祭について ---価値ある 古伝承の証明---」(『大三輪』93号、大神神社)も参照されたい。
(3)「必」の読みは国史体系本の黒板勝美氏の校訂に従う。しかし、もしこの「必」を「始」として読むべきであるならば、『令義解』の説明はもっぱら鎮花祭の起源についての説明とみなされ、その場合、八・九世紀におけるこの祭りの継続の理由について、新たに考察の余白と余地が生じることになる。以下のわれわれの説明は、その継続の理由についてもカヴァーするものである。なお、「始」と読む場合、わたしの敏達十四年起源説はより有力になるはずである。
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このテキストははじめ1997年、
京都造形芸術大学の「風土の日本文化論」の授業で、
それまでの2、3回の授業の内容をまとめる形で配布したものです。
後に
拙著 『日本感性史叙説』 (創言社、1999年)で一般に公表しました。
今回このHPに、
わたしの 《日本学》 の中核的な論文として公開します。
大和の三輪山と東北との精神的な関わりを追究するこの仕事は、
さらに拙著 『古代東北と王権』 (講談社、2001年)で進められましたが、
わたしはその先にまだまだ多くの秘密が残されていると感じています。
時機がくれば再びこの探求を進めたいと思っています。
多方面からのご教示をお待ちしています。

山中智恵子のキリスト教 --- 神の死と歌うこと ---



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