暴力の素顔
--- 書評: 『神、人を喰う』 ---
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2003年8月12日開版
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie






 暴力の素顔 
 六車由実著 『神、人を喰う −−人身御供の民俗学』 書評

 タイトルは『神、人を喰う』である。神が人を喰うのだそうである。どうやって喰うのだろうか。神にも歯があるのだろうか。何故、喰うのだろうか。人、つまり人間を喰うのだろうけれど、人間は美味いのだろうか。どんな人間が美味いのだろうか。その喰われる人間=人身御供はその神様の食の好みによって選ばれるのだろうか。人間の肉はたとえば牛や馬や鹿の肉などより美味いのだろうか。そんなに美味そうには思えないのだが。また人を喰う神様も色々だろう。大蛇の神様、大猿の神様、……他にもっと形の分からない神様もいることだろう。それぞれの神様の好みはどうなのだろう。大蛇の神様ならかえって大カエルや大ネズミの方が喜ぶのではないだろうか。大猿ならどうだろう。大猿の神様はほんとうに人間の肉を食べたいのだろうか。食べたいのかもしれないけれど。むしろ性的に食べたいということはないのだろうか……。
 こんな風に書いてみると、この「人身御供」の問題は、いろいろな「書いてはいけないこと」の近くにあるのだということがわかる。いろいろなレベルの「検閲」によって取り巻かれているようである。しかし問題を追究するためには、書くべきことはきちんと書かなければならないだろう。

       * * * 

 著者、六車由実氏はこの本によって何を述べたかったのだろうか。この本を読んで私がもっとも大きな魅力を感じたのはその最終章である。これは上手い構成だということだろうか。ともあれ初めにその章建てを紹介しておこう。「はじめに」と「あとがき」を除くと次のような構成になっている。
  序 章 「人身御供」はどのように論じ得るか
  第一章 「人身御供の祭」という語りと暴力
  第二章 祭における「性」と「食」
  第三章 人身御供と殺生罪業観
  第四章 人形御供と稲作農耕
  終 章 人柱・人身御供・イケニエ

 これらを眺めていると、序章のタイトルからして、「人身御供」は論じ方の難しい問題のようである。それはおそらく、「人身御供」については現実に行なわれているものを観察し記述するところから論を立てることができないからであろう。しかしそれと同時に、人肉食や人柱といった犠牲は非常に野蛮な習俗であって、日本人の現代につながる祖先にそのような習俗があったと認めるわけには行かないという禁忌の感情に、われわれがつきまとわれるからであろう。E.S.モースの大森貝塚からの食人骨の発見を機縁にはじまるそのような禁忌の感情の歴史を、六車は序章で略述する。「供犠は、それを論じる者の置かれた時代状況が如実に反映されるやっかいな問題」だというのである(p.38)。

 しかしそうだとすると、六車自身の論はいったいどのような時代状況を反映していることになるのだろうか。現代とはどのような時代なのであろうか。六車の論に欠けていると思えるもの、それは、冒頭に述べたように、「人身御供」を捧げられる神は、どのような人間の肉を〈美味しい〉としたと考えられていたか、あるいは、なぜ女が、しかも若い娘が、〈美味しい〉とみなされていたのか、というような問題への真剣な取り組みである。伝承されている語りや祭からこうした問題のディティールを丁寧に取り出してくることが、人身御供の問題を正しく分析するために必要であろう。なぜなら、こうしたディティールを丁寧に取り出すことによってしか、神が、現実に、何を欲していると考えられていたかということを明らかにすることはできないだろうからである。しかし、このような問いは、現代においても、変わらずに、禁忌の幕によって封じられているのではないだろうか。

 六車が「人身御供譚」を論じることによって取り組みたかったのは暴力の問題のようである。終章では六車自身が、「人身御供譚にこだわり続け、そこに喰う/喰われるという暴力性の発現を見ようとしたのは……何よりも、私自身が、自らの身体の中に、生のリアルな感覚」を呼び覚ましたかったからだ、と述懐している。この思いは分からなくはない。しかし何か、まだ思いが明確にはなっていない気がする。生あるものを破壊することは、単なる暴力とは違う次元をもつであろう。そこには確かに神的な次元があり、神の名によってしか許されない破壊があるであろう。例えば第一章で紹介される尾張大国霊神社の儺追祭の起源についての『先代旧事本紀大成経』の記事。それはこの祭を「天下の人々の災厄不祥を一人に負わせて、(大己貴神が)これを食う」祭として説明するものである。天下の災厄不祥の凝縮した人間を食うこと、これは「神」にしかできないことであろう。人がそんなことをすれば、その人自身が災厄不祥に汚染されて、拭いようもなく、ただのた打ち回るしかなくなるであろう。災厄の凝縮者を食って汚染されないのはただ「神」だけであろう。だからこの場合、共食のようなことは行われないと推測される。するとそのとき、ひとはこのどこに暴力を見るのであろう。むしろ、天下の災厄をただ一人に負わせること、このことにであろう。このことのうちには容易に暴力を見て取ることができるであろう。「秩序を回復するため」と言われるかもしれない。集団が自らを一種正当なものとして維持するために、〈異人〉に「罪」を負わせ、破壊すること。ここには集団が常習的に行なう暴力があるだろう。しかしそれはひどく卑俗で野蛮な暴力ではないだろうか。なぜならそこでは知性や機知が勝利を収めるということはなく、ただ権力をもった多数者が勝利するという図式が反復されるばかりだからだ。六車はそのような暴力の発現に触れたいのだろうか。そしてこの図式において、六車は多数者の側に身をおきたいのか、それとも犠牲者の側に身をおきたいのか。ここに「生のリアルな感覚」を呼び覚ますだけは、確かに多くのことが欠けているであろう。

 たとえば支配権者が、集団の日常的秩序を維持するためには、原初の犠牲者は貴重な存在であればあるほどよい。なぜなら、日常的な刑の執行のためには、「お前よりもはるかに貴重な人間が犠牲になって、この日常が維持されてきているのだぞ」という脅しは、処罰される者に対して大いに説得的なはずだからだ。しばしば美しい処女が人身御供にされる(と語られる)ことの背景にはこの論理があるであろう。高貴な存在の原初における犠牲は、並の人間の日常的な排除を免罪する論理になるのである。そしてそのためにも「高貴な犠牲者を食べる強力な神」が呼び出されるのである。

 ところで六車は「人身御供譚」においては、犠牲者が単に追放されるのではなく、また単に殺されるのでもなく、まさに喰われるのだということに繰り返し注意を促している。そして六車は実際にフィールドにでかけ、人身御供的な由来伝承をもつ多くの祭りを観察してくる。そして例えば、そのような祭のなかに神饌を運ぶ女性みずからが神饌の一部をなしていると見えるものを発見し、その儀式のさまざまな場面に、女性自身が神饌であると解釈できる要素を見事に読み取ってゆくのである(pp.112-117)。

 六車がそう記述しているわけでは必ずしもないが、このタイプの祭の神饌も、後に直会などにおいて村の人々に頒たれ、食されるのが普通であろう。私が思うに、このタイプの「人身御供」においては、神饌として食されるべき存在は、決して、「儺負人」の場合のように、村の災厄を一身に負わせられた人物、罪や汚れの塊といった人物ではないであろう。それは、ある種の横暴な神に対して、村の平安を一定期間保証してもらうために、犠牲として、村から選ばれた存在、といったものであろう。その存在は、まずなによりも神に受納してもらえなければならないはずだ。むしろ「清浄」で、そして神にとって「美味」で、またできれば「美しい」存在であることが望まれるであろう。八岐のヲロチに供される櫛稲田媛がその典型になるであろうか。そしてこの「清浄」と「美味」と「美」という観念と、そしてさらに「聴取力」という能力の領域の間に、「人身御供」の女性がそなえるべき属性のすべてが込められるであろう。そのうち誰にもできるはずのものが、厳しい精進潔斎による「清浄」の獲得であろう。ただ六車の論は、この領域にきちんと食い込んでいるわけではない。そのため例えば、頭屋祭祀の儀礼の中に神事における女性の古代的な役割とその変化を読み取ろうとする上井久義の論に対して、六車の論はかなり曖昧な対応をしているように見えるのだがどうであろうか。  私にとって六車の論でもっとも魅力的にみえるのは、「人身御供」の由来を伝承する祭のうちに、その継続のうちに、そしてその反復のうちに、何か言葉にできないが爆発的な暴力の力を、その姿を、読み取ろうとしているところである。原初に人身御供の暴力があったと語られるかぎり、祭においてその暴力が再認され、発現される可能性は潜在するのである。その「暴力」は、正確に言ってどんな姿のものなのであろうか。その暴力の素顔を、私は六車に、これから、ねばり強く描いていってほしい、と思う。



このテキストははじめ『東北学 Vol. 8』
(東北芸術工科大学 東北文化研究センター発行、2003)
のコーナー「東北学の窓」に
同じタイトルで書かれたものです。
この度このHPでも公開することにしました。
なお、一部表記を変えたところがあります。
『六車由実 Yumi's HP』

玉依姫という思想
---小林秀雄と清光館---




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