お飲物はいかが 遺伝子をめぐる冒険
進化論では「獲得形質」という言葉は禁句なのです。獲得形質・・・後天的な形質ということ、生まれてから手に入れた性質とか形態とか、頑張って英語を覚えたとか、ダンクシュートができるようになったとか、ですね。この獲得形質が遺伝するという、進化論が最初に系統立てて言われたときからの「非科学的」な思想は密かだけれど根強く続いているのです。
中立説が勢力を伸ばすにつれ、遺伝子のそのままの構造を遺伝子型とよび、実際に発現したものを表現型と呼ぶのが頻繁になりました。中立説が強調したことは、遺伝子型と表現型は一致しない。遺伝子型は、必ずしも表現型にはならない。こういうことでした。
まあ、設計図があっても、なに書いてるか分からないものだったり、別な設計図を使って、ある設計図は使わなかったりするぞ、という程度の意味なんですが、もう一つの意味があるのです。表現型は環境に影響され、全く同じ遺伝子でも違ってくるというものです。
しかし、これを強調すると表現型は獲得形質と見分けができなくなります。だから、中立説はこれを控えめにしか言わなかったのです。
獲得形質、その進化学への呪詛は今も、「非科学的」という言葉でもって追い払われ続けます。
しかし、では本当に「獲得形質」は「遺伝子」よりも非科学的なのでしょうか。たとえば、英語を話せないと生き残れないような環境では、英語を覚える能力が高い個体が生き残りやすくなりなります。これは、親がすべて英語を話せるという獲得形質が影響していることは明らかです。獲得形質が環境そのものになるのです。「環境」→「獲得形質」→「環境」と獲得形質と環境は互いに影響し、「獲得形質」→「環境」→「自然選択」→「進化」という図式は成り立ちます。
「利己的遺伝子説」はどうでしょう。大流行の理論ですよね。
この説は、ざっくり説明すれば、生物は結局は遺伝子によって作られているんだから、一番生存力のある遺伝子が生き延びる、つまり、個体よりも遺伝子が生存競争をしているんだということ。分かりにくいですよね。
個体なんて遺伝子の乗り物っていう言い方をします。他の遺伝子をけ落とした方が生き延びるっていうことなんですが、実はこの「科学的」に思える理論には科学的な証拠がないのです。
たとえば、性的な魅力とかで、もてるもてないの理由はある固定の形質(尾が長いとか腹が赤いとか)に左右されることが多いのですが、だからといって、もてない個体も子孫をちゃんと残して一定の割合を保っているのです。もてようが、もてまいが、生き延びられるのです。
そこで排除されるのは、その形質にはかかわりなく、ある形質の一定の限度を超えた個体なのです。遺伝子が排除されるのではありません。
第一、外部に現れた一つの形質は、数多くの遺伝子や環境の影響を当然受けているわけです。一つの遺伝子が一つの形質を完全に制御するなどは珍しい例でしょう。
むしろ、健康状態をみるのに、それらの形質は利用され、極端に健康状態が悪い異常な個体が排除されるにすぎません。個体の健康状態が生存を決定するのです。遺伝子ではなく、あくまでも個体が選別されます。
つまり、極端な異常を除いては、利己的遺伝子説は成り立ちません。
ましてや、人間にまで適用しようとするなんて・・・。
竹なんとかという、利己的遺伝子説についての本をベストセラーにしている女性がいますが、たしかに売れてるだけあって面白かったんですが、なにひとつ、その結果によって個体群の形質がこうかわったとかいう例がありません。
男の浮気は遺伝子を広めるため、女の浮気は遺伝子のバラエティを広げるため、とか言っています。でも、本当でしょうか。人類の性的な行動は、文化的なものに左右されていたと思うのですが。その時代の文化に逆らうような性的な行動を起こした人々は社会から排除されていたように思えますが。結婚・恋愛観は時代のつまり、文化の産物でしょう。男の浮気は、それを時代が許していたから。女の浮気は、それを時代が許したから、ではないのかなっと。性的な衝動は消えなくても、それを制御するために人間には文化が、それ以外には本能があるわけです。
もし、利己的遺伝子説が成り立つのなら、人間は文化に従順なものが生き延びたことにはならないのですか、竹なんとかさん。文化は遺伝子よりも強力に遺伝して、広がっていくものです。
利己的遺伝子説がはやるのも、なにもかも自分の責任にしたくない、無責任な時代のせいではないでしょうか。