一休み 遺伝子をめぐる冒険


自然選択は、表現型を対象にしたものですが、実は遺伝子型そのものの直接の自然選択を主張する説があります。それが「内部選択説」です。

自然選択は「外部選択」だけれども、そのまえに既に内部で選択が終わっている、というわけです。

生物は、複雑な作りになっています。設計図が間違っていたり、ほかの設計図と矛盾したら、最初から作れない、作らないだろうということですね。もっともな意見です。突然変異がおきても、それは無視されて、そのまま消えてしまうわけですね。

この場合の、選択の要因は、分子構造によるもの、遺伝子の関係によるもの、形態的な構造によるもの、環境に制限されるものなどが仮説として提出されています。ここでの環境によるものとは、いわゆる自然選択が内部選択をさらに限定するということですので、補足的な意味合いです。

それが、進化論に影響するとどうなるでしょう。進化の道筋が限定されてしまうのです。

もとの遺伝子と矛盾しない、許容範囲の変異しか外に出ることはないのですから、サルが立ち上がることも、魚が歩き出すことも、前から決まっていたことだよ、となります。その進化しか認められないのですから。

つまり、車の設計図から飛行機には、どんなに改造してもならないわけです。せいぜい、水面や水底を走るのが限度だよ、といっているのです(あるんですよ、そんな車)。

しかし、それは内部の基本的な構造は限定されても、外部の形態はもっと自由な気がします。

脊椎動物でも、イルカのように魚の形になったり、コウモリのように空を飛んだりします。

その場合に、内部では全然ちがう仕組みになっています。進化では使えるものを適当に使うのです。既存の内部構造を継承しながら、形態を許す限り進化させるのです。

鰭から足になるのは分かりやすいのですが、浮き袋が肺になるのはすごいですよね。同じ呼吸器官であるエラの進化ではないのです。イルカは水に戻ると、こんどは肺ではなく皮膚呼吸を発達させるのです(もちろん肺も適応変化していますけれど)。

鳥の羽は腕に相当しますが、コウモリの羽は手のひらです。水掻きかなんかから進化したのでしょうか、すごいですよね。