評論家の小室直樹氏は憲法第9条について斬新な解釈をした。
まずは、話題の条文を実は暗唱もできないと言う方のために
第二章 戦争の放棄
第九条[戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認]
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
が、その条文である。
ここで小室氏は「国際紛争を解決する手段としては」という文言に注目する。
PKOは国際紛争なのか、あれは国内紛争ではないか、という。
続けて、憲法は50年以上も前に作られ、
よその国の内紛に関わるような事態は当時予測することなど不可能だった。憲法の想定外の事柄だ。
しかし、ではこのまま憲法を無視してもいいのか、否。
そのような場合には、憲法の精神を尊重し解釈しなければならない。
では、憲法の精神とは何か。作成者が憲法に込めた精神こそがそれだ。
憲法は誰が作ったか。小室氏はマッカーサーだ、と断言する。
当時、アメリカは二度と日本と戦争などしたくはなかった。
しかし憲法にアメリカと戦争をしてはならないなどとは書けない。
それでこういう文章になった。
憲法の精神にさえ、PKOについての対処はない。
小室氏は結論として、憲法の改正などは不可能なのだから、
憲法論議などするなとしている。
制定時の議論として、
第九条は屈辱的であるが、天皇制が守られるのであれば賛成というのが
大多数であったそうだ。新聞のアンケートでは80%以上の支持であった。
反対したのは共産党と社会党である。
世論もこの条文については積極的ではなく、共産党と社会党は反対、
誰も日本人は支持していないようにみえる。
しかし重要な人物を忘れてはいないか。
この条文を最も積極的に評価し、この憲法の公布者である吉田茂である。
太平洋戦争に外交官として反対し、
総理大臣としてアメリカからの再軍備の要請もはねつけ代わりに安保を結んだ
吉田茂の精神こそが憲法の精神ではないか。
吉田茂の有名なエピソード二つ紹介したい。
あるとき、吉田茂がトイレで便器かなにかをせっせと拭いていたそうだ。
それで、貴方のような人がそんなことをしちゃいけない、
と誰かが忠告すると、 このまま、出ていったら自分が汚したと思われる、
そんな恥はさらせない、と答えたという。
ワンマンと呼ばれた総理大臣のなんというプライドであろうか。
その吉田茂がド・ゴールと会見したあと、ド・ゴールは、側近に
あのトランジスタのセールスマンは誰だ、と尋ねたという。
あれほどのプライドの持ち主が何故、このような屈辱に耐え続けられたのか。
この二つのエピソードで日本の歴史上最も有名な演説を思い出さないか。
今後、帝国の受けるべき苦難は、尋常にあらず。汝臣民の衷情も朕よくこれを知る。
しかれども、朕は時運の赴くところ、
耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す。
昭和天皇のポツダム宣言受諾つまり降伏宣言の一節だ。
まさに、吉田茂はこの通りに生きようとした人物だ。
再軍備を断ったのも、日本は経済の復興に集中すべきだという考えからである。
そして、遥か未来には再び屈辱にまみれた日本に名誉が栄光が戻ってくることを信じていたに
違いない。
アメリカの属国化の方針を決めたのも、
全て再び名誉ある地位につきたいという思いからであったことは疑いの余地はない。
日本は充分に経済大国になった。
今の非武装化、武装化の議論には、名誉という項目はない。
いま、議論しなければならないことは、世界から評価してもらうためにはどうするかである。
それが憲法を守ると言うことではないだろうか。
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