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憲法論議には、もう飽きた

近代法は国民に幸福をもたらさなければならない


  1. 非武装化の思想は憲法の精神に反する
  2. 護憲派が憲法を殺した
  3. 憲法第九条を停止せよ
  4. 憲法論議には飽きた
  5. 天皇制の意義
  6. 利憲主義
  7. 天皇は元首か?
  8. 天皇は元首か? PartU
  9. 護憲と革命の矛盾
  10. 憲法と共産主義の必然的な軽さ
  11. 天皇が帝(皇帝)である意味
  12. 護憲とは何か
  13. 元首、主権とはなにか

非武装化の思想は憲法の精神に反する

 

評論家の小室直樹氏は憲法第9条について斬新な解釈をした。 まずは、話題の条文を実は暗唱もできないと言う方のために

第二章 戦争の放棄

第九条[戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認]

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、 国際紛争を解決する手段としては、 永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。

が、その条文である。
ここで小室氏は「国際紛争を解決する手段としては」という文言に注目する。 PKOは国際紛争なのか、あれは国内紛争ではないか、という。 続けて、憲法は50年以上も前に作られ、 よその国の内紛に関わるような事態は当時予測することなど不可能だった。憲法の想定外の事柄だ。
しかし、ではこのまま憲法を無視してもいいのか、否。
そのような場合には、憲法の精神を尊重し解釈しなければならない。 では、憲法の精神とは何か。作成者が憲法に込めた精神こそがそれだ。
憲法は誰が作ったか。小室氏はマッカーサーだ、と断言する。
当時、アメリカは二度と日本と戦争などしたくはなかった。 しかし憲法にアメリカと戦争をしてはならないなどとは書けない。 それでこういう文章になった。
憲法の精神にさえ、PKOについての対処はない。
小室氏は結論として、憲法の改正などは不可能なのだから、 憲法論議などするなとしている。
制定時の議論として、 第九条は屈辱的であるが、天皇制が守られるのであれば賛成というのが 大多数であったそうだ。新聞のアンケートでは80%以上の支持であった。 反対したのは共産党と社会党である。
世論もこの条文については積極的ではなく、共産党と社会党は反対、 誰も日本人は支持していないようにみえる。
しかし重要な人物を忘れてはいないか。 この条文を最も積極的に評価し、この憲法の公布者である吉田茂である。
太平洋戦争に外交官として反対し、 総理大臣としてアメリカからの再軍備の要請もはねつけ代わりに安保を結んだ 吉田茂の精神こそが憲法の精神ではないか。
吉田茂の有名なエピソード二つ紹介したい。
あるとき、吉田茂がトイレで便器かなにかをせっせと拭いていたそうだ。 それで、貴方のような人がそんなことをしちゃいけない、 と誰かが忠告すると、 このまま、出ていったら自分が汚したと思われる、 そんな恥はさらせない、と答えたという。
ワンマンと呼ばれた総理大臣のなんというプライドであろうか。
その吉田茂がド・ゴールと会見したあと、ド・ゴールは、側近に あのトランジスタのセールスマンは誰だ、と尋ねたという。
あれほどのプライドの持ち主が何故、このような屈辱に耐え続けられたのか。
この二つのエピソードで日本の歴史上最も有名な演説を思い出さないか。

今後、帝国の受けるべき苦難は、尋常にあらず。汝臣民の衷情も朕よくこれを知る。 しかれども、朕は時運の赴くところ、 耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す。

昭和天皇のポツダム宣言受諾つまり降伏宣言の一節だ。
まさに、吉田茂はこの通りに生きようとした人物だ。
再軍備を断ったのも、日本は経済の復興に集中すべきだという考えからである。 そして、遥か未来には再び屈辱にまみれた日本に名誉が栄光が戻ってくることを信じていたに 違いない。
アメリカの属国化の方針を決めたのも、 全て再び名誉ある地位につきたいという思いからであったことは疑いの余地はない。
日本は充分に経済大国になった。 今の非武装化、武装化の議論には、名誉という項目はない。 いま、議論しなければならないことは、世界から評価してもらうためにはどうするかである。
それが憲法を守ると言うことではないだろうか。

護憲派が憲法を殺した

 護憲派の人々は何故憲法の一つの条文しか語らないのだろうか、と疑問を抱くのは当然であろう。
護憲派で天皇制反対などという決定的な矛盾に対して解決しようとは考えないのは理解に苦しむ。
いや、実は大変よく理解できる。彼らは実は憲法など本気で熟読したことなどないのだ。 憲法など愛してはいないのだ。
 もし本気で憲法を愛していれば不具合な箇所は積極的に修正しようとするだろう。
 彼らの言動は憲法に対しての言論の自由、つまり憲法の魂までも殺そうとしているかのようだ。 学問の自由・思想の自由とは、その人の意見はその人の人格とは関係しないという思想を反映している。
地動説、進化論、天皇機関説、最近の例では利己的遺伝子論など偉大な研究の成果は多大な迫害にあってきた。 その反省から、この憲法は生まれているのではないのか。
 彼らはお気に入りの条文しか議論を好まない。
 田中角栄は、最大の証人であるコーチャンの反対尋問を許されなかった。これは重大な憲法違反である。 そう語る護憲派は、きっと何処にもいないのであろう。

憲法第九条を停止せよ

  プログラム規定という言葉を知っていますか。
 数十年前のことですが、生活保護の金額が数百円であれば憲法で規定する健康で文化的な生活が送れないと裁判を起こした方がいました。その最高裁判所の判決がプログラム規定と呼ばれるものです。
 ざっくばらんに書けば、そりゃ、あんたの言うことはもっともだけれど、国にも財政事情とかあって、できないものはできないのだから、その憲法の条文は、日本がもっと豊かになってから実行される努力目標だよ、というものです。
 現在の日本国憲法は大日本帝国憲法から引き継がれ、神聖不可侵の特徴を、最初から所有しているのです。憲法改正などできません。成立の過程でも民主主義が関与したとは思えません。雲の上から降ってきた憲法なのです。これがもっと民主的に決定されていたら事態は違ったでしょう。
 しかし、憲法は自由に解釈できるのが大日本帝国憲法の特徴でもあったのです。天皇家は日清戦争、日露戦争、大東亜戦争の全てに反対の意向を示していました。それでも、憲法を変えることなく戦争に突入できたのです。
 現在の憲法も同じです。
 しかし、その解釈が混乱を起こしているのだとしたら、最高裁も認めた「プログラム規定」を憲法第九条にも適用するべきでしょう。
 実際、今、自衛隊をなくし戦力の空白を生じたら日本の安全は、全く保証できないのですから、プログラム規定の適用に何の問題もありません。

憲法論議には飽きた

 もう、憲法改正も、護憲もどうでもいい。私は基本的には改正反対派(反対派というよりは不必要派かな?)であるが現在の護憲論は歪んでる。自分たちの思想に利用しようとするだけで、なんの国益も幸福も考えていない。現実というものに目を反らしている。
 自衛隊は合法、合憲でいいじゃないの、自衛隊なしで平和が守られるなんて誰も信じちゃいないんだし、平和憲法の維持のためにも必要(自衛隊反対なんて、もう少数派だとは思いますが)。それ以外の憲法条項についての議論はないようだし(意見はいろいろあるのにね)、それで終了。はいはい。法は人のために人が作ったものですよ、法のために人がいるような意見は無意味でしょう。

天皇制の意義

 天皇制の反対理由の最大のものは不平等であるというものだ。
 さらには、天皇制は不平等を肯定し増大するとなる。
 まず、天皇制が不平等かどうかであるが、これは、憲法上では特殊な地位となっている。特殊である、つまり平等不平等の範囲外であるということで、法的には議論の範疇にはない。つまりこれは感覚的な問題であり、個人の判断ゆだねられるものである。
 次の心理的な影響であるが、これについて考えてみたい。天皇制があるために市民は不平等になるか、差別的になるか、確かにこれは実感のない考えではあるが、国家単位の多くの人数の中で無意識に蓄積していたとしたら、群衆に蓄積した効果は少なからず表現される可能性がある。

 天皇制とは限らず、君主制の意義については近年多くの議論がなされたが、その結論は、理由は確定できないが、国家の安定のために有効である、という曖昧なものだった。君主制を廃止すると、決まって独裁・恐怖政治・内戦が発生するという歴史的事実からの結論だ。
 ドイツのナチス、イギリスのクロムウェルの恐怖政治、フランスのナポレオン、アメリカの南北戦争、ロシア(ソ連)のスターリン、このなかで、イギリスは即座にクロムウェルを追い出し王政を復古しているが、その他の国では、その国家の歴史上で最大の犠牲者を出している。イギリスの本能的な老獪さには感嘆する。これが正しいとすると、従って、今一番危険なのは事実上の王政であった共産党独裁が崩壊したロシアである。

 では、これは日本の天皇制にも適合するのか?
 天皇は日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦、のいずれにも反対の意向を示していたと現在に伝えられる。それでも戦争に突入できたのは法律上は神権君主制であったが、実際には革命政権、つまり明治維新の事実上の勝利者である維新の志士たちが実権を握っていた。政治とは慣例であり、理論で発生するものではない。権力は権力を争奪した主役が持つものだ。世にいう藩閥政治である。ここで、天皇制でも次々に戦争に突入できた理由の一つがあるが、それと同時に、維新の志士たちが死去したのちは、政治に混乱が生じ、軍部の影響力が大きくなっていき、無謀な戦争にまで突入する。これは、天皇制のためではなく、むしろ逆で、徳川幕府が倒れた後の天皇制への移行に失敗し、天皇が十分に神権君主制としての機能をはたしていなかったことによる。第二次世界大戦への参戦は徳川幕府倒幕による「君主制崩壊後の混乱」によるものと考えるべきだろう。
 つまり、日本の天皇制は安定への大きな効果はないが、あの「人間宣言」は、安保闘争に影響はしているだろうことは予想できるし、まったく影響がないとも思われない。

 同様に、天皇制の安定の影響は多少あると考えられるし、それは同時に、市民の差別意識(特権意識)にも多少は影響している可能性があるだろう。しかしそれらは決定的なものではないと考えられる(事実、天皇制の下で華族は自然消滅し、今、華族だ士族だというのは笑い話の対象にしかならない)ため、天皇制の意義としては、天皇制にかかる経費と外交への貢献の費用対効果のみで判断するのが妥当ではないかと思われる。

利憲主義

 憲法を利用して自分たちの主張を通そうとするのは卑劣な行為である。それが、憲法を愛しているからであるなら、理屈は通るだろうが、本多勝一氏の著作に、うろ覚えだが「文筆生活の方法」とういうのがあったが、そこで本多は「天皇制の問題は、憲法のこともあるし公に議論できない」とか「天皇制が存在する理由などない」などと書いておりましたが、これが憲法を愛してもいないで利用だけしているということで、このような人物がもし政権をとったりしたら、平気で(もう確信犯ですから)憲法を無視したり、言葉を翻して憲法を変えたりするのでしょうね。谷沢氏の本では大江健三郎氏が「憲法は私の血肉に等しい」といいながら、天皇制に反対していることを指摘しています。
 ほかに財産権の問題。共産党は実は生産財の財産権も認めています。あの成田空港の問題で何人もの共産党員が財産権を守れと言っているのですから、その財産権の先には「農地」という、どうみても生産財であって、生活財でも消費財でもないものが存在しているのです。二項の公共の福祉によって対応しようとしても「公共の福祉の濫用」などと言って成田空港に反対していたのですから不可能です。憲法によって生産財の財産権は共産党にさえも守られているのです。財産権は民法の三原則と、民法の憲法上の根拠であり、また資本主義経済体制の根拠ともなっています。現在の生産財を没収できないとなると、民間企業はそのままにして、税金によって一から産業を興すつもりなのでしょうか? それでも民間企業には負けるでしょうね。無駄な増税反対。
 職業選択の自由には起業の自由も含まれていますから、その問題もあります。まだ、探せば共産主義に対する憲法上の問題は山ほどあるでしょう。なにしろ、資本主義社会のための憲法ですから。
 憲法はまだ市民の直接民主制の洗礼を受けていません。これは、憲法の最大の問題だと思っています。第九条とかでなくても、ちょっとしたところを変更してみると、国民の憲法への関心も深まるのではないでしょうか。護憲派といわれる人が憲法をまともに読まず、愛しもせずにいるのは異常であり情けないというか、哀しいものがあります。今の状態は、現行の憲法が革命によって発生したという革命説ではなく、明治憲法の神聖不可侵を引き継いだ禅譲説の方が説得力を持っているように感じます。
 現在において憲法は国民が国家権力に突きつけた最高の法律ではなく、たんなる道徳律にすぎないように感じています。

「日本国憲法」講義ノート・第16回目

  憲法第29条第1項は、財産権を保障する。この規定は、二つの側面を有する。第一に、人権として財産権を保障する。第二に、制度的保障として財産権を保障する。換言すれば、私有財産制度自体を、すなわち、資本主義経済制度自体を保障する。従って、私有財産制度総体を否定するような法令を定めることは許されない(通説)。

 

天皇は元首か?

 元首とは、その国の代表となる一名を指しますが、天皇が元首かどうかで学説が分かれているそうで、それを読んでみるとバカみたいです。なになに、憲法上で「元首」という言葉が使われていないし「象徴」なんだから「元首」ではない。君主が元首であることは常識。ほうほう、どっちだっていいじゃない、民主主義国家なんだから、細かいことでウジャウジャもめないで、多数決で決めたら? とか思ってしまうのは、ほんとは、そんな理由は後付けで「戦前の現人神の子孫を元首と認めたくない」「日本も西洋諸国と同様の普通の国として振る舞いたい」の感情的な対立なんでしょ。後付けの理由なんて、説得力ありませんよ。

げんしゅ【元首】その国の長として国を代表する人。
Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997

 これだけ読むと、もめるようなことじゃありませんけれど、まあ、外交上、いると便利なんだから元首でもいいんじゃない? とか思うのですが、やっぱり「長」という言葉が引っかかるのかもしれませんが、外交上の妥協で「元首扱い」とかいうようにするぐらいなら、あっさり「元首」にしてしまえば面倒がなさそうな、そんな言葉だけの問題にどうしてこだわっているのでしょう。
 天皇は西洋の君主と歴史が違うとか言ったって、君主とか元首とか国民とか主権とか憲法とか、みんな西洋の概念なんだから、それに当てはめなきゃ、今の外交儀礼の基本なんだからね。ほんとに、諸外国で憲法上で象徴であることを明記し元首であると書かれていない憲法があったらその国の君主を元首とは認めないつもり? なんてことはあり得ないわけで、元首ではないという主張は感情的な問題以外に理由はなく、また、メリットも感情的な満足しかないでしょう。
 元首には、まあ絶対君主の意味合いがあるでしょうし、明治憲法での元首のイメージと重なるのかもしれませんが、今の元首では、事実上、象徴的な元首が増えていますので、そう問題視するほどではないでしょう。
 国外向けには「元首」扱いを要求し、国内では元首の「空位」、というのは、ちょっと気持ち悪いかな、と感じてしまうだけなんですけれどね。

天皇は元首か? PartU

 日本国憲法は実はいい加減に作られていて、いい加減に運用できるようにされているのです。第九条だって、誰それが再軍備のためにここの文言の追加を主張して、入れられた、とかいう逸話があるように、多分第一条も、あとで自由に解釈できるように作られているのです。

第1条 (天皇の地位・国民主権)  
天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 はーい、「元首」かどうかは日本国民の「総意」に基づくのでございますね。
 では、「総意」とはなにか、これを問題にしなければなりません。
 この総意という言葉、実は政治家、特に為政者にとって便利な言葉。単純に多数決という意味ではなく、結果的に幸福になれるのなら、総意に基づいているとされ、目的を達する手段は、目的にあっていれば総意であるのです。絶対君主制の弁護のために使われていた言葉なのです。

 マッカーサー:「天皇が元首? ダメだダメだ、元首といえば、もともと主権者、神権君主のことだぞ」
 憲法作成者:「しかし元帥閣下、国王が元首でないと、元首がいなくなります、それではあまりに異常です」
 マッカーサー:「だから、なんだ、国王という言葉を使わずに『TENNOU』という言葉を使っているだろ」
 憲法作成者:「それでは、総理大臣を、大統領とよび元首にしましょうか? 日本では過去に、元首らしき人物が複数いたりしたようですし、総理大臣を大統領にするのも国際慣例から考えて問題はありませんが」
 マッカーサー:「いやー、やっぱり、ミニスター(ミニスターは大臣の意味で語源は地位の低い者)の方がプレジデントよりもやりやすいな、うーん、あー、面倒だから、日本人に後で決めて貰おう」
 憲法作成者:「あ、よい言葉があります。『総意』という言葉を使いましょう。そうすると内閣が国民の適当な支持で好きに解釈できます」
 マッカーサー:「うむ、よきにはからえ」

きっとこんなやりとりが交わされて、第一条が決まったに違いない。

護憲と革命の矛盾

 憲法改正の限界という言葉があります。その憲法の成立の精神に反する改正はできない、その場合には新憲法の設立という形式を取るというものです。
 明治憲法から現行の日本国憲法への移行は明治憲法の法規に則って行われましたが、この場合は、新憲法であっても限界を超えているので明治憲法からの移行ではなく、実は革命が起こったと現在では解釈されるのが通説です。
 神権君主制から民主制の移行では新憲法だけでは足りないと言うことですね。

 では、資本主義体制から共産主義体制への移行はどうでしょう? 革命であれば憲法は廃止されなければなりませんね、現在の憲法はどう見ても資本主義経済体制のための憲法ですから共産主義は憲法違反です。憲法の精神そのものに反しているということです。民主主義、立憲君主制、三権分立民主制、資本主義経済体制、平和主義、自由主義、人道主義、国際協調主義などは憲法改正でもなくすことはできないものです。解釈で対応など論外です。
 自衛隊は平和主義に反すると考える人もいるでしょうが、憲法は憲法を施行する体制が守られることを前提としなければ成り立ちませんから、自衛隊がなくても国家体制が守られる、他国の侵略はあり得ないことを客観的に証明できなければ、憲法解釈の限界を超えているとまでは言えないでしょう。平和を守るとはどういうことか、平和を守るためにはどうしたらよいかというのは未だに解答が存在しない難しい問題です。ロマンティックな幻想だけでは平和を守ることはできません。ウルトラマンも言葉の通じない怪獣と話し合いで解決しようとはしません。
 では共産主義は資本主義経済体制と共存できるのかというと、それは無理ですから憲法の限界を超えた革命であり、新憲法を設立しなければならないと言うことになります。
 共産党はしきりに一次段階では大企業のみの国有化ということを喧伝していますが、最終目標が共産主義であれば同じことです。大企業を国有化すると大企業優遇処置がとられ血税が大企業に送り込まれ大企業が中小企業に対して圧倒的に有利になります。大企業は国家権力に等しくなりますので次の段階に移るために中小企業に圧力をかけ併合を国家の後ろ盾で進めることになるでしょう。目的を隠して過渡期の体制ばかりを強調するのは共産党の卑劣な権謀術数にすぎません。共産主義は資本主義と矛盾します。つまり日本国憲法と矛盾しています。

 護憲は革命を否定します。従って、護憲を説くならば保守主義者になるべきであり、保守主義者のみが護憲を主張する権利があります。

  1.  
  2. 「日本国憲法」講義ノート・第02回目
  3. 法律用語の基礎知識

憲法と共産主義の必然的な軽さ

 ワイマール共和制は、バリケードから生まれなかった、だから脆弱だった。
 よく言われる言葉である、ヒットラーに易々と強奪された自由民主主義は、所詮、強さとか重さは理想や言葉で発生するものではなく、血と汗と涙の果てに産声をあげるということを証明している。
 日本の平和主義は重いが、憲法は軽い。それは、改憲派も護憲派も共通して、意識せずとも行為によって証明している。護憲派に九条以外の憲法論議をふっかけてみればよい。天皇制、財産権、教育権、納税義務、彼らは予想通りに内容をよく知らないし、自分勝手な解釈を平気で行う。
 もし、今、国民投票で何事かを決定したとしたら、それは憲法よりも重くなる。例え理屈や文言では憲法よりも遙かに軽いものだとしても、事実上、重いものになる。
 それは共産主義についてもそうだ。共産主義は軽い。もやは、後ろ盾となる事実はなく、空想の中でしか理想を語れなくなった思想の軽さ。共産主義とはどのようなものか尋ねても、質問を重ねる毎に曖昧で不確かなものになっていく。
 実証のない言葉、体験のない想像、実物のない紙だけの理想、魂のない肉塊。 

天皇が帝(皇帝)である意味

 天皇の訳語はエンペラーである。エンペラーの訳語は皇帝である。この翻訳自体は正しい。しかし、日本語の皇帝と英語の皇帝、北京語の皇帝は、それぞれ微妙に意味が食い違う。英語の皇帝は、帝国主義という言葉でも分かるように、複数の国家を支配する王の中の王、という意味である。北京語の皇帝は、皇帝の他に皇帝はなし、世界でもっとも権力を持つ者、世界を支配するものという意味である。では、日本語の皇帝とはどういう意味になるのか。これは、日本の国家としての基礎を作った聖徳太子にさかのぼる。当時の隋の皇帝に送った有名な手紙、「日のいずるところの天子が日の沈むところの天子に送る」の言葉から始まる。天子とは皇帝の意味、当然、隋の皇帝は怒り心頭、皇帝はただ一人であるから。これによって聖徳太子は、隋と対等の立場であることを示した。つまり日本語の皇帝とは、独立国家、どの国の支配下にもない国家の王であることを示している。

護憲とは何か

 社民党が「護憲」などというと、酷く違和感を感じる。
 現在の日本国憲法はもちろん民主憲法として存在している。民主憲法とは国民が国家に突きつけた基本法であり、基本法に反する場合は基本法の変更について国民の許可が必要になるものである。つまり民主憲法とは国家が勝手に基本政策を変更してならないという国家権力に対する縛りである。特に国家体制の変更は新憲法を成立させなければならないし、基本思想の変更は革命とみなされ、旧憲法からの継承を断ち切らなければならない。
 当然、資本主義経済体制から社会主義・共産主義への変更は現行憲法の破棄を意味する。
 法律とは慣例により解釈される。現行憲法の制定者と考えられているマッカーサーの要求で現行憲法の公布者である吉田茂が制定した自衛隊については、もはや現行憲法の要求する国家体制の一部と考えるべきであり、この否定こそが憲法改正を要求し国民の意思を確認するべきことではないだろうか。

元首とはなにか、主権とはなにか

 元首、主権という概念は近代以降、つまり、絶対君主制から発生したものです。
 絶対君主制により「朕は国家なり」というルイ14世の言葉に代表される主権の概念が登場します。全ての決定権を持ち、慣例、法律、道徳等の全てに縛られない絶対的な権利こそが主権なのです。これに伴い国家有機体説が発生します。国家とは一個の生命体であり、各個人は国家の一機関に過ぎない、というこの説は、戦前、不謹慎として糾弾された天皇機関説のもとになったものです。その中で絶対君主とは全ての決定を行う頭のようなものである、ということから元首という概念が現れます。
 つまり、絶対君主制においては、主権者=元首=絶対君主の式が成り立つわけです。社会契約説の中でルソーは主権の意志こそが国家の総意であると強調しています。
 ここで、民主主義が登場し、絶対君主から主権を強奪します。国民は国家に対し、絶対的な基本規則を突きつけ、これに反する法や行為を行わないように要求します。この基本法が憲法で、この要求を受け入れた君主が立憲君主です。
 主権者は国民になった、絶対君主は立憲君主に変わった。では元首は誰になったのか?
 元首は立憲君主が継続してになうことになったのです。実権の無くなった君主は、国民の象徴として、国家が人格として投影されたものとして名誉・地位のみを残して存在することになり、それに伴い元首もまた国家有機体説での「頭」ではなく「顔」の部分のみを担うようになります。それは多分に外交や式典等のためであったのでしょう。最高の歓迎・敬意を表すのに、国家君主ほど適当なものはなく、国家君主に元首の地位を与えることで、それは名実ともに最高の敬意を表すことのできる存在になるのです。
 その後、君主そのものを追い出す国家や、最初から君主を持たない国家が登場します。すると、もちろん立憲君主などいませんから、元首がいなくなってしまいます。それは外交上も国内での式典等でも不便ですので、選挙で元首を選ぶことになります。これが「大統領」です。大統領とはそもそもそういった、国民から選ばれた君主であるわけです。首相内閣総理大臣)が、内閣の長を意味する政治的な役割を指す言葉に対して、大統領とは地位を表す言葉です。英語の語源でも首相はトップの使用人を意味し、大統領は地位の高い人を意味します。
 ですから、「首相公選制とかにすると、実質的な大統領になる」とかいう意見とかは、あまり意味がありません。選び方など大した意味を持たないのです。首相が議会から選ばれるようになったのは、議会が主権を奪い取った主体であるからで、それまでの首相は国王が指名していますし、現在でも大統領が首相を指名する国もあります。(まあ、私は公選制には反対ですけれど)
 

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