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極論・正論・いちゃもん館

私たちはこのような結論は決して望まなかった。しかしこの結果にしかならなかった。それが科学というものなのだろう。


リストラと転職とサッカーの密接な関係

最初に大規模なリストラが発生したのはオイルショックの時だった。 それは、日本の終身雇用が崩壊していく序章であった。
戦前には終身雇用はなく転職やリストラは珍しい物ではなかったと聞く。 終身雇用は日本の企業が高度経済成長のなかで雇用者の確保のために産まれたものだ。 そして、その終身雇用は会社を生活の中心、心の支えとしていった。
いま自分は何処を彷徨っているのだろうと思春期の頃に思わなかっただろうか。 しかし会社に入るとそのような疑問はなくなる。
自分の居場所があること、それは重要なことである。
学生のころはサークル活動がこれを吸収する。 オウムなどの宗教に走るのも、自分の安定した居場所を求めるためだともいえる。
しかし、リストラはリストラされなかったものにも自分の安住の場所を奪う効果がある。 徐々に会社は生活の中心ではなくなっていく。 人々は、家庭や会社の外の交友関係に安住の地を求めていく。
リストラと転職は景気という支点によって釣り合う天秤の重りである。 会社にとって不要な人物はリストラ、他の会社にとっても必要な人物は転職する。
サッカーのフランチャイズ制はリストラや転職で宇宙空間に漂うような不在感を 地元の共同体に吸収する役割を持つ。 地元の共同体に入り込めずに、群衆の中の孤独を感じ続けている人々にとって 地元のフットボールクラブのサポーターか一員になることによって、 新しくその土地に産まれたような効果があるのである。
Jリーグは最終的には各自治体に一つ、総合スポーツクラブとして設立する構想があるという。
もしこれが現実の物となれば、リストラの生活の糧を失うことよりももっと深刻な問題である 群衆の中の孤独から救い出す効果を必ず発揮するであろう。


演歌は日本の心ではない

歌の心とは何か、 それは歌い手が聞き手に伝えようとするものだと思ってはいないか。 では、鳥の囀りに心を感じないか、虫の音は心に響かないか、川のせせらぎは心に染み渡らないか。 鳥の囀りの意味はバードウオッチングでもしている人に聞くがいい。 心が安らぐ囀りが威嚇のためかもしれない。
歌の心とは聞き手の感受性のことだ。 歌い手がどのような気持ちで歌おうが、歌は歌い手とは無関係に聞き手の所有物になる。 聞き手に歌い手の感情を伝えるのは聞き手の感受性と、歌い手の技術が揃わなければならない。
歌が何の心を反映しているのかを知るにはとうすればいいのだろうか。
それは、その歌を最も愛している聞き手に聞くべきであり、歌はその聞き手のためにある。
演歌の聞き手は、日本の心だと言うだろう。 それは若者が自分たちの思想を自分たち独自の物だと考えたがり、 老人は自分たちの思想を絶対の正義だと思いたがる現象と同じだ。
演歌とロックは非常に聞き手が偏っている。 演歌は韓国からきて、日本の温泉地にきた中高年に支持されてきた。 演歌は彼らのためにあり、他の層のためにはない。 中学生、高校生の合唱にフォークやロックが使われることはある。 民謡もありうる。しかし、演歌だけは皆無に近い。
演歌は殆どの人が中高生が歌うのには望ましくないと考えるであろう。 演歌の歌詞の特性は、過去に縛られ、未来に立ち向かわない、明日を作らない、ということである。
日本人の特性は悲観的で内向なのではなく、楽観的で立ち直りが早いことだ。 それが、台風などの被害に対応した国民性であり民族性だ。
演歌の悲しみには悲壮感がない。憎悪とか、希望とか、開き直りとかの強い感情がなく、 惰性でなんとなく死んでしまおうなどと考える悲哀のための悲哀が演歌である。 結局、新しい未来を作るには年を取りすぎた中高年の温泉客のために発達したジャンルである。


原子力はエネルギー危機を救えない

原発反対の理屈は安全性一本であり、推進派はエネルギー確保一本である。
確かに原子力は数年おきにどこかで大事故を起こす危険なものである。 そして、少量で膨大なエネルギーを発生するものである。 原発の開発は進んだとしても、稼働している原発の改築が行われない限り安全性の進歩もない。 原子力の開発に安全性の問題は切り離せないものである。 しかし、過去に石油を求めて無謀な戦争を始めなければならなかった日本としてはエネルギー確保を訴えられたら確かにつらい。
しかし、ここで疑問は浮かばないか。石油は必要である。しかし、原子力は石油の代わりになるのか。 そして、石炭は原子力の代わりにならないのか。
石油が他のどの燃料より必要とされるのは何故か。ひとえに液体燃料であるからだ。 つまり、エンジンの燃料として直接使用でき、ガスよりも輸送が便利であることだ。
原子力も、石炭も、石油の代わりにはなりはしない。 原子力は巨大な原子炉が必要であり、 原子炉でタービンを稼働し電力でエンジンを動かす。
石炭はガスを発生させそのガスでエンジンを動かす。
実用に耐えない。
石油の代用をするためには液化こそが最大課題だ。
では、何故、原子力は注目されているのか。 それは、重量、体積あたりのエネルギー産出量が膨大であるからである。 原子力は理論上、ほぼ無限大に等しいほどのエネルギーを発生する。 あの原爆を思い出せば、あれでも百分の一程度だと思えば、分かるだろう。
しかし、原子炉では調整して徐々にエネルギーを発生させなければならない。 その中で無限大の連鎖を引き起こすことは不可能なのではないか。 実際、未だに誇大広告とは裏腹に実現できてはいない。 各国は、次々に新規開発からは降りている。
では、少量で大量のエネルギーは何のために必要なのか。
ウラニウムは水に溶けやすく、ウランが取れる地層は地球が水に覆われる前の 太古のものに限られる。 石油はバクテリアの死骸といわれており太古に海であり、 地層が大きく湾曲したところでなければ貯まらない。 質さえ問わなければあらゆる地層に発見されるのは石炭だ。 石炭の液化にこそ力を注ぐべきだ。
原子力は結局のところ巨大な原子炉を積み長期間にわたり輸送経路から 隔離されているときにこそ、最大の力を発揮する。 つまり、軍事目的の原子力船、原子力潜水艦に限られるのである。


遠山の金さんの登場人物は全て無罪だ

「法の精神」という有名な書物がある。 その中で権力からの人民の自由を守るための方法として三権分立が語られている。 それ以後、民主主義国は全てがこの方式をとっている。
この方式をとらず何らかの機関に権力を集中させている国は民主主義を名乗ってはいても事実上 国民の自由は守られていない。共産党に権力が集中していた旧ソ連を思い浮かべれば 彼らが言い張っていた「民主的独裁」という言葉のむなしさが理解できるであろう。
現在、民主主義とは「リベラルデモクラシー」つまり自由主義を前提とした民主主義をさす。 選挙によって政治に参加でき、法律によって権力から守られる、これこそが民主主義である。
では、三権分立の一角を占める司法府、つまり裁判所とは何をするところだろうか。 法の解釈と一般的に習っていることだろう。 しかし、以上の原点に戻ってみれば、権力が勝手に法を解釈し、 独断で裁くことから人民を守る役割を持つことが分かる。
裁判所は行政府つまり検察官の求刑より重い判決を出せないことからも この精神に基づいていることが理解できるだろう。
裁判所は被告を裁くのではない、検察の求刑を裁くのである。 では、金さんの役割は裁判官であろうか。
もちろん違う、彼は検察官の役割である。彼は罪人の刑を決定しているのである。
では、ここで民主的裁判が存在すればどうなるであろうか。
検察官の証言は客観的証拠と認めることは難しい、従って無罪。これが当然である。


反抗期とは

母親は我が子に煩くするのを愛情だと思いたがる。 しかし実際は絞め殺したくなるほどに本当に煩わしく思っているのである。 それは太古より引き継ぐ本能なのだから。
他の子育てをする動物をみてみるがいい。 同様の行動が観察されるはずである。 子供がそろそろ一人立ちできる頃になると、親は子を縄張りを犯した敵のように追い払う。 そのことによって次の子をゆっくりと育てられるようになるからである。
「ねえやは十五で嫁に行き」とは有名な童謡の一節である。 男の場合にも十二・三で元服し独立していた。 つまりその頃までに人間は子を追い払うことを常とし続けていたのである。 現在、養育期間は昔のそれを大きく越えていった。 そのために子の精神的負担は限界を超えるのである。
そうして、やがてかつては独立期であった反抗期との戦争が始まる。