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極論・正論・いちゃもん館

貴方の常識が永久に地球上の何処でも常識のままであれば私は貴方に従おう


アンデルセンは子供心を汚す

アンデルセン童話の共通点を探してみたまえ。 人魚姫、みにくいアヒルの子、裸の王様、マッチ売りの少女が代表作であろう。 このうちの異色作が裸の王様であることは認めないわけにはいかない。
そして裸の王様以外の、 これらの作品が一つの価値観を生み出していることに気づかないだろうか。
美しく裕福であることが幸福であるという価値観である。
人魚姫は確かに美しい物語で、自己犠牲と神による救いというキリスト教的な価値観に 飾られている。
しかし、一目惚れの相手は王子様であった。
日本の昔話には、貧しいながらも夫婦円満に仲良く暮らしたとさ、というパターンも 多いが西洋には王子様との結婚が何よりの幸福と語られているのが実に多い。 日本の物語に大名と結婚しました、めでたしめでたしというものを私は知らない。 みにくいアヒルの子は結局、醜い間は不幸で白鳥になって幸福という典型的なもの。
マッチ売りの少女も人魚姫と同パターン。 貧しい彼女は暖かい部屋の幸福なクリスマスに憧れながら、この世では不幸であったが 神によって救われる。
つまり、地上では貧しいものは不幸しか与えられないのである。
青い鳥のような現状の肯定もなく、 オズの魔法使いのように大人への成長もない。
そして、裸の王様である。 虚飾を見栄を否定するのはいい。しかし、それを嘲笑するのは正しいことなのだろうか それは、美と富が地上の幸福と説く アンデルセンの他の物語と決定的に矛盾しているように思える。 地上での幸福を装うことが見栄の中心なのだから。 様々な、地上での愚かな行為を全て認めて、 その中で希望を持ち続け、切磋琢磨の中で成長を続ける姿こそ、 子供たちにとって必要なことではないのだろうか。


ナチスは民主主義だ

民主主義とは何か、この定義こそがその国の民主主義を決定する。
ペルーのフジモリ大統領が国会を停止し、独裁政権を一時的にせよ握ったのは民主的な行為とは 言い難い。
では、民主主義の欠片もないのか、いや、これも民主主義の一種なのである。 国民の多くの支持があったではないか。「民主的独裁」である。
選挙により選ばれたものが、国民の支持のもとに法を無視しても民主主義の一種なのである。
それでも法を守ることこそ民主主義の根本だという意見もあろう。 ごもっとも、「近代民主主義」からはその通り。 法によって政府の権限を制御し、国民の自由を守る、これこそがリベラルデモクラシーである
でも、ナチスは法を守らなかったの、武力によって独裁政権を奪取したの。
違うよね、ナチスの独裁は国会によって認められ、国民投票によって継続され続けた訳。
確かに国会審議なしに憲法は無視され続けたけれど、それは日本も同じ。
日本国憲法の三大義務は、勤労の義務、納税の義務、教育を受けさせる義務、だよね。 働かない人に罰則がありますか、脱税なんて日常茶飯事、義務なんて守られていない。
ドイツ国民はナチスに騙されてたって言い張るけど、言い訳だね。 民主主義では政治の責任は国民全てが負うもの。
所詮、ナチスも民主主義の中から誕生した、民主主義の鬼っ子にすぎないのである。


社会党の性格は変わっていない

最近、社民党と名前が変わったんだって。
自衛隊や消費税を認めてあそこも変わったねって言葉よく聞くけど、 それは、社会党の性格が思想に基づいていたという錯覚からきている。
社会党時代、彼らは反対しか能がないと言われ続けてきた。 では、その反対は何の役に立ったのだろう。
安保闘争の残党であるニュース23の司会者は 自民党の暴走を押さえてきて、存在価値はあったと言った。
まさにこれこそが社会党の性格なのである。 革新とは名ばかり、行政に何もさせないことこそ、 社会党の本質といつのまにか変わっていたのだ。
いざ、政権を取ってみたら、何もしないことは犯罪、 干涸らびたミイラが米国の定評となってしまった。
その社会党が自衛隊を行政の立場から否定できますか?  できる訳がない。彼らには改革する能力も意思もないのだから。


芸術は存在しない

芸術とはなにかと聞かれたら、新しい美を発見することだと答えるだろう。
現代の芸術が、現実とかけ離れたのは全く必然である。
音楽・美術・文学全てがもはや一般人には理解しがたいものになっていった。
文明開化が始まり西洋芸術が洪水のように雪崩れ込んだときには、もう既に 西洋芸術は終焉を迎えもはや新しい美はピカソに代表されるように 前衛と呼ばれる珍奇なものになるしかない運命だったのだ。
もはや、モーツアルトもゲーテも生まれない。
それでも、新しい美が一般市民にも美として理解できる内はいい、 現代のように前衛は下手物となり、 客が入った芝居をみて脚本家が 次はもっと理解できないものにしなければならないと口走る時代には、 もはや芸術は存在しないのも一緒だ。 (この台詞を吐いた脚本家はノーベル賞を取得しています)
全ての美は発見され尽くした。 それでもなお新しい美を見つけだすのは芸術家の宿命である
日本の芸術家はそれでも恵まれている。 日本には職人芸もまた、芸術であるという認識があるからだ。 完成こそが最上の美という思想が日本には存在する。
しかし、芸術は西洋から来た思想である。芸術は死滅したのだから 所詮、ゾンビが蠢いているのが現在芸術であり、 それが下手物になるのも必然であろう。


森林に保水力はない

 民主党のチラシについて
 すべてのダムの建設を、いったん凍結・見直し。森林の保水力を生かした「緑のダム」に転換します。
と書いてあった。
 異議あり!
 森林に本当に保水力はあるのか。
 森林があると腐葉土の層ができ樹木の根が絡み、確かに表層の水分量は上がるだろう。しかしそれは地表1メータ程度、それも一時的なものであり蒸発や河川への流出が恒常的に行われ、一時的に災害防止としての保水力はある程度期待できるかもしれないが、しかし、長期的な保水力は実際には伏流水や地下水のように深い位置にある方が量・期間ともに期待できる。表層の保水力は急速に水を蓄えられるが、それと同じように、急速に流出する。保水量は少なく、体積あたりの水分量は1割程度が限界であろう。
 しかも、森林は逆に水の大量消費地帯であり(樹木からの蒸発量の多さは森林の中の温度の低さを考えれば想像できるでしょう)、樹木がないほうが保水力は増大する。
 政策としてはコメントはしないが、学術的には誤り。緑のダムではなく緑の消費地帯。日本は雨量は多いけれど保水力は世界的に見ても少ないそうですよ。