▲Pumpkin Time▼ 小説・俳句

 「馬鹿みたい」私は呟く。時計を見た。ずいぶん時間が経っている。恵理華がもうそろそろ来てもいい頃だ。道に迷っているのかもしれない。この家に来たことはなかったはずだ。父親も下にいることだし降りてみようか。鍵を開け部屋の外に出る。耳を澄ます。どこかで話し声が聞こえる。私は歩きながら考えた、誰の声だろう、まさか父の独り言でもないだろうし、彼女は会話は好まない。彼女はただ父の側にいれば今はおとなしい。誰か客が来ているのかしら、だとすれば私としては好ましい事態かもしれない。外国人に始めて言葉を教える時にはどういった言葉から教えますか、という質問に、『勇気』と書いた小説があったが、私もその『勇気』という言葉を教わりたい、そんなことが頭に浮かんだ。私は下に降りる気になった。話し声は父親と誰か女性の声だということが判ってきた。誰か客がきてる。父は彼女を完全に制御しているのだろう、もしかしたら寝かせ付けたのかもしれない。安心して階段を降りていった。

 応接室から声は聞こえてきていた。ドアをそっと開ける。父の背中の向こうから恵理華がソファーに深々と凭れてチェックのパンツを穿いた脚を熱帯植物のように組んで絡めていた。組んだ膝の上にはエチオピアが体を恵理華にすり寄せている。

 「あら、茜ちゃん、お邪魔してまーす」

 「あ、恵理華、来てたのなら、教えてくれなきゃ」

 「ごめん、今来たばかりなのよ」

 父は、「じゃ、ゆっくりしていってね」と椅子から立ち上がった。

 「あら、お父さん」と恵理華が出ていこうとする父を呼び止めた。「今日、もしかすると遅くなるかもしれませんから、あの、私の家で食事していってもらいますから」

 「そうですか」と父は答え、私の方を見て、「あまり遅くならないでね」と言った。

 恵理華は「大丈夫ですよ、あんまり遅くなれば泊まっていってもらいますから」恵理華は上品な微笑みを父に向ける。

 「あんまり、迷惑になるなよ」と父は私に向かって言って出ていった。

 私も父の座っていた椅子に腰掛けテーブルに両肘を立て頬杖をついて、恵理華に「なんて言ったの」と聞いた。

 恵理華はくすくす笑って「別に、愛想良く、とか茜ちゃんてとっても、みんなから人気があってね、とか」「太鼓持ち」

 「あら、茜ちゃんて、古臭い言葉しってるのね」

 「どうして、恵理華が、『お父さん』とか他人の父親に言うのよ」

 「あら、習わなかった、敬語を使いましょうって、『お父さん』というのが赤の他人の父親に言う正しい敬語なのよ、珈琲ほしいなぁ」

 「あんた、他人の家でふてぶてしいいとちゃうかぁ」と私は立ち上がって、「インスタントでよかね」と言いて捨ててキッチンに向かった。

 「どうして関西弁や九州弁になるの、できればキリマンあたりがあればインスタントよりそっちの方がいいなあ」

 「贅沢」と私は珈琲カップにインスタント珈琲の粉を入れ、電気ポットからお湯を注いだ。熱い湯気が手に当たった。珈琲の香りが充満する。カップの熱くなった取っ手を持ってテーブルの上に「ほい」と言って置いた。

 「ありがと」恵理華はちょっと口を付け「私、猫舌なの」とカップをテーブルに置いた。 「で、他になんていったの?」

 「別に、特に何もいってないわ」

 「じゃ、私たち今から何するかってことも言ってないの」

 「え、何するつもりなの?」

 「私じゃなくて、君は父に何と言ったのか、それとも言ってないの」

 「私の家で夏休みの宿題をするって、常套句でしょ」

 「ほほう、伺っときましょ」と答えた。恵理華は冷えてきた、まだ湯気が立ってる珈琲カップを摘んで口を付けた。黙って恵理華が珈琲を飲むのを見ていた。恵理華は別に急ぐ様子もなく休み休み無表情に飲み続ける。

 「この猫かっこいいわね」と恵理華は膝の上のエチオピアを見て言った。

 「血統書付き」

 「ほう、生まれがいいんだ、鼠なんかとらないか」

 「とるとる、鼠を銜えてきては、私の前に並べるの、見て見てって」

 「あれって、腕自慢って訳じゃないみたいよ、狩りの下手な子供に餌あげてる母猫の気分なんだって」

 「へえ、まあ確かに私は鼠取るのは上手じゃないな」と言って笑った。

 「鼠って外で取ってくるんでしょ、血統書付きを放し飼いにしてていいの、雌でしょ、孕んじゃうよ、得体の知れない野良の」

 「去勢してる」

 恵理華は優雅な手付きで珈琲を飲み干すと「さっ、行こうか」と言った。

 どこに行くか決めていないが、とにかく家を出ることにした。ドアの外に出る。鍵を掛ける。

 恵理華が「いちいち鍵を掛けるんだ」と言い私が

 「内の家系は他人を信用しないの、出ていく人が鍵を掛ける」と答えた。恵理華は自転車で来ていたので私も自転車に乗った。

 「ゲーセン行こうか」と恵理華が前を走りながら行った。自転車は下り坂を滑りながら進んでいく。ゲーセンなんて行ったことがないな、と思ったが黙っていた。信号のない四つ角で子供が私の自転車の前に飛び出し私は急ブレーキを掛けながらひょいと飛び下りる。自転車は横倒しになりながら私の両腕によって止まった。両腕で倒れかけた自転車を起こしながら相手の男の子を睨んでやったが男の子の方は目を伏せごめんなさいと言って目を合わせず走り去っていった。

 「大丈夫?」と恵理華の声がした。見ると恵理華は自転車を止め片足を地面に付けて私の方を振り返っていた。

 「別になんでもないわよ」私は自転車にまた乗る。恵理華もまた走り始めた。陽射しが強い。帽子を被ってくればよかった。吹き過ぎる風が心地好い。

 「坂は降りる時は楽ね」恵理華が前から話し掛けてくる。

 「登る時には地獄よ」大声で答える。

 「そうよね、きつかったわ、ここを登るの」

 「脚が太くなっちゃうね」坂道はやがて終わり市街地にでる。建物が高くなったお陰で陽射しが遮られ日陰が多くなる。自動車が絶え間なく青白い排気ガスを残し行き交う。もう、けっこう大声を上げても恵理華に届かなくなる。

 デパートの裏に曲がり自転車置き場の前に私たちは止まり降りた。ぎっしり詰まった自転車置き場の隙間を見付けて自転車を突っ込んだ。私たちはデパートに入った。急に涼しくなった。金属色のピアスの売り場の前で恵理華は立ち止まり掛けられている様々な形状のピアスを覗く。ピアス専門のデザイナーとかいるのかしら、余りに多くの種類があるものだ。私は桜ん坊が二つ並んだピアスを指で突く、そして隣のジグザグな形の物を、と幾つか触ってみた。「恵理華、恵理華はピアスなんてしてないじゃない」と私が言う。

 「まだまだ甘いな、ほら」と横の髪を掻き揚げ私の顔の側に寄せた。

 「何」と思わず声に出したあと直ぐに恵理華の耳が目の前にありピアスの穴に気が付いた。「うわあ、不良だ」私は笑いながら言った。

 「不良って言葉、素敵じゃない?」恵理華が嬉しそうに答える。ああ、前にも聞いたことがある台詞だと思った。「茜ちゃんもしない?」と恵理華が言う。

 「私って真面目だから、遠慮しとくわ、痛いのも苦手だし」私は嬉しそうに笑う。私が真面目って言葉、誰かに言われたことがある。他人の言葉に私は占領されている。

 アクセサリー売り場の前を様々な人が通り過ぎる。私の前でファンデーションの香りを撒き散らして年増の女性が私が気にいっていたパラソル型のピアスを取っていった。恵理華が私の物欲しそうな表情を見詰めていた。エスカレーターで階を幾つか上がるとヤング向けの階があった。ウオッチやネックレスが色とりどりに飾られている。何も私を引き付けない、私はこの時間が終わるのを待っていた。同じぐらいの年の少女たちが、きゃらきゃら騒ぎながらカラフルなウオッチを指差したり摘み上げたりしている。

 暫くデパートを目的もなくうろついた。意味のない会話を楽しみながらデパートを出てアーケード街を見て回った。人工の洞窟の中は様々な店が建ち並び人々が細胞の間を流れる血球のように通りを蠢き過ぎていく。有線らしき音楽と雑踏が異国にいる気分にさせる。

 恵理華が「あんまり痛くないよ」と話しかけてくる。「何が」と訊くと「ピアス」と答えてきた。

 「ピアスの穴、安く開けてくれるところ知ってるよ、行ってみようか、ねえ、茜ちゃん、今時結構みんなしてるじゃない」

 「私は知らないわよ、中学生でピアスなんかしてる子なんか」

 「嘘、よく見掛けるでしょ」

 「町ではね、友達にはいないわ」

 「学校で、してるわけないじゃない。ねえ、今から観るだけでいいから行ってみよう」と恵理華は微笑んだ。ううん、じゃあ、観るだけだよ、と返事をした。

 人込みが淀みを所々作りながら血流のように私たちを通り過ぎていく。恵理華が、こっちよと言いながら流れの一部になっていった。その後を奴隷のように付いていく。道路を渡り、向かいのアーケード街も抜けて、何もかも溶かし尽くそうとするような傾きかけた日差しの下に出た。城の堀沿いに暫く歩くとまた商店街に入った。襤褸なコンクリート建ての茶店の端から地下に続く階段の前で恵理華は立ち止まり振り返って「ここよ」と言った。さもいかがわしそうな汚れた壁の隙間から狭い階段が薄暗い下へ続いていた。

 恵理華の後ろをゆっくりと付いて階段を降りていった。固いコンクリートの感触と響く足音を感じながら独房へ連れて行かれる囚人はこんな気分かと思った。揺れるようなジャズが漏れている。階段を降りた先には木製の半開きになった古いドアがあり恵理華はそのドアを開けた。その部屋はアラブの骨董品屋のようだつた。

 冷気が私を包む。アンティークな木製の机の前にピアスだらけの男が私たちの方を向いて座っていた。鼻、唇、両耳、いったい幾つのピアスをこの男は顔中に付けているのだろう。両耳のピアスは全て異なる様々な飾りが付いたものだった。金色の鎖のような飾り、赤・黄色・紫・白・緑などのカラフルな色の糸の束の飾り、緑の宝石かガラスの飾り、青と赤のガラス玉が数珠繋ぎになった飾り、いったい幾つのピアスがこの男の両耳にぶらさがっているのか。肌の色は人工的な浅黒さで白髪混ざりの口髭に厚めの不健康そうな色の唇。この地下室の淡いライトがこう絵に描いたような如何わしさ、怪しさを醸し出してるのだろうか。

 恵理華が「久しぶり」と声をかける。

 「やあ今日はどんなのが欲しいんだい、ただの冷やかしだったらとっとと帰ってくれよ」とピアスの男は笑いながら指で手招きをした。

 私たちは部屋の中に踏み入れた。黴の匂いが噎せるようだった。黴の匂いではないのかもしれない。剥き出しのコンクリートの床、壁の金属の網に掛けられた幾百ものピアス、乱雑に置かれた幾つかの木製の机の上に無造作に置かれた工作機械、正面奥のスチールラックに英語のタイトルと日本語のタイトルの本が乱雑に突っ込まれている。ジャズやピアス関係の本らしい。

 「ただの冷やかしよ、何も買う気はないわ」恵理華は笑ってはいなかった。

 男は机の上の煙草の箱を取り一本取り出して銜え机の上のガスライターをとり片手で気取った火の付け方をした。

 「まあゆっくり観ていきなよ、今日は暇なんだ残念ながらね」男はまた笑った。笑顔は無邪気だと思った。きっと詐欺師ほど笑顔が素敵な人種はない、いつも研究しているから。

 「ねえ」と恵理華が男に声を掛けた、「どうやってピアスの穴開けるのか説明してあげてよ」男はまた無邪気に低い声を上げて笑った。

 「この娘がピアスするのかい」とまだ笑いながら私の方を優しい目で見た。

 「私、する気ないわよ」と少し不機嫌な口調で答えた。

 はは、と恵理華が笑って、「その娘は見学よ、見学」と言って私を見て目で合図をした。私は手で口を隠しながら小さく欠伸をして目線を逸らした。

 ここは空気が薄い、濁っていて酸素濃度が低くなっているのかもしれない。ライトが暗すぎるのも影響しているのだろうか。まあ、わざわざ説明するのもなんだしな、待っててよ、誰か来るかもしれないし、運が良ければ見せてあげるよ、男は薄笑いをして近くの金色の針金のようなものを手を伸ばして取り目の前の万力に似た機械に固定しラジオペンチで加工しはじめた。

 金属の棒は複雑に絡まり一部は平たく一部は細くなる。次第に精巧な細工になっていく。ああ、蝶を作っている。金色の芸術的な柄の揚羽蝶になっていく。でも絶対に動きそうにない蝶だ。急な寒波に凍えて固まってしまった蝶だ。その耳飾りの蝶はピアスになるためのフックを拘束衣がわりに身に着けて凍り付いている。淡く仄かに赤いライトが蝶をガラス細工のように見せる。金色に透き通る蝶に見える。なぜか自分が黄金の針金でできた蝶の止まる銀の針金でできたチューリップに思えた。

 すごいんですね、と私はピアスの男に声を掛けた、あっと言う間にできちゃうんですね。ああ、簡単だよ、慣れるとね、と私の方を振り向いて無邪気な笑顔を見せた。続けて、何か作って欲しいピアスがあるかい、作ってあげるよ、と微笑んで、ああ君はピアスしないんだったねと笑った。チューリップ、作って、私はぼそっと言った。チューリップ?好きなのかい。別に好きじゃないけど、なんとなくね、蝶と合うのはチューリップだと思いませんか? 特にそうは思わないね、と大声で楽しそうに笑い声を立てチューリップでオランダが大不況に陥った話を知ってるかい? と私に質問してきた。知らない、と答えると男は淡々とした口調で喋り始めた。チューリップの球根が昔、もの凄く値上がりしたんだ、球根一つでフェラーリが買えるくらいにね、株やなんかと一緒だな、チューリップに投資し始めたんだよ、もっと値上がりするだろうから、もっと買っておこうってね。それで大暴落したんでしょ、きっと、と私が口を挟む。そうさ、それでその十年か二十年かあとにまたおこったんだ。そして、また大暴落したんでしょ。そうさ、次はチューリップじゃなくてヒヤシンスだった。ヒヤシンスも綺麗よ。家と引き替えにできるほどじゃない、所詮、ただの球根さ。でもダイヤモンドだってただの石ころよ。あれはイギリスかどこかの会社が海に捨てている、値段を保つためにね。黄金は?、あれも高いでしょ。黄金は特別さ、あれは大昔から貨幣の代わりをしてた、そして今もね。どうして?、ダイヤモンドがただの石だったら黄金もただの金属でしょ? 黄金は魔性の魅力があるんだよ、ダイヤモンドさえも適わないようなね、人の欲望や願望の奥底に忍び込むような冷たく煌やかな魔力があるんだよ、きっと今に分かるよ、金製のアクセサリでも身につけ始めるとその魅力に溶かされてしまうんだ、どろどろにね。どうして、信じられないわ、黄金に溶かされる人はダイヤモンドにだって、きっと溶けてしまうわ。黄金は特別なんだ、母親の愛情のようにね、美しいだけじゃないんだよ。

 不意に不愉快な気分になり私は口を噤んで暫くの間の後、視線を泳がせ部屋の中を見回し始めた。まるで自分が自分でない感覚、魂が体から抜け出して抜け殻になったような。いまカッターで指を切り落としたとしても一滴の血も出ないのではないかと思わせる他人の肉体の感覚だ。

 私はピアスの男に、黄金のために争いや不幸も数しれないのでしょうね、と独り言のように言った。ああ、きっと他のどんな貴金属や宝石よりもね、と男は優しい口調で返事をしてまた机の上の器具に向かい新しいピアスを作り始めた、金色の細長い金属で。どろどろに、もうこの男は溶かされてしまっている。復元できないほどに自分の形を失っているに違いない。

 いつもの偏頭痛がしてきた。左前頭部が杭を打ち付けられたように重い痛みが鼓動とともに響いてくる。

 早くこの場から出て脳髄ごとこの頭痛を抉り取ってしまいたい。私は掌で頭を押さえながら、黄金に溶かされる人はきっと色んなものに溶かされるわ、くだらないものに、そういい捨てた。男は私の言葉がバックに流れるジャズのメロディに溶けて消えてしまったのか全く反応せずに金色のピアスを作り続けた。この男たちは、くだらない物、愛だとか恋だとか情だとか、人か自分の都合のいいことに使う言葉にきっとどろどろに、まるで金や銀のようにどろどろに溶かされるに違いない。

 恵理華はずっと壁際の黒く塗られたネットにぶら下がった金や銀のメタリックな色のピアスを眺めていた。私も恵理華の隣に行きピアスを眺め始めた。恵理華は私をちらっと見てピアスの男の方を振り返り、ピアス開けに来る客が来ないんだったらもう帰るよ、と伸びのある歌うような声で言った。ああ、今度きたときはなんか買っていけよ、と男は机の上の繊細な作業から目を離さずに返答した。

 ドアが開く音がして私は振り返った。よお、いらっしゃい、と男は顔をドアの方に向けて屈託のない笑顔で呼びかけた。中学生か高校生にしか見えない女の子の二人組が無表情に入ってきた。ぶっきらぼうに、ピアスの穴開けたいんだけど、ここでやってくれるって聞いたんだけど、とスカートの女の子が口を開いた。横のスリムジーンズの女の子は、二人ともピアスしたいんですけど、とにこやかに尋ねる。ピアスの男は、ああ簡単だよ、直ぐ済むよと、明るく答えた。ほら、ちょうど良かったじゃない、と恵理華が耳元で囁く。私は早く外に出たかった。偏頭痛が私の頭部にしがみついている。エイリアンかタランチュラのように寄生している。私は早く外の空気を吸いたかった。何も興味がなかった。それに人が傷つく姿など見たくはなかった。なんだか自分までも痛覚を刺激された気分になる。ジーンズの方が男に、どれ位するんですか、と前に出ながら訊いた。どれ位って値段かい?と男は聞き返しながら続けて、一枚だよ安い方、と小さな楽しそうな声を上げて笑った。ふうん、でも安全なの?テレビで見たんだけどホッチキスみたいなので穴開けるんでしょ、とタータンチェックが訝しげな薄笑いで責め立てた。男は少し狼狽した口調でここじゃそんな機械使わないよ、スプレーで冷やしてる間に針で穴を開けるんだよ、と机の上の千枚通しのような道具を摘み上げ、これでね、と付け足した。女の子たちは顔を見合わせ態とらしい困った表情を見せた。痛くないの、とジーパンが訊くと、ピアスの男は、そりゃ少しは痛いよ、とにやりと笑って、でもあまりの痛さに安楽死を申し出た奴はいない、と付け加えた。そりゃいないでしょうけど、途中でやめた人はいるんじゃない、ねえ、とジーンズがタータンチェックに話しかけた。うーん、でもやっぱりピアスしたいな、とタータンチェックが答えた。そうね、そのために来たんだものね、とジーンズが深刻な問題でも語るように答えた。私するわよ、ピアスしたいもの、とタータンチェックが少し口を尖らせた。どうしようかな、とジーンズは辺りを見回した。じゃあ、お願いします、とタータンチェックがピアスの男に言った。ああ、いいよ、直ぐ済むからね、とピアスの男は千枚通しに似たあの道具を手に取り細目でその先端を凝視した。

 尖った先端は淡いライトを反射し薄い赤色に光る。眩暈がするほどの痛みの恐怖に私は襲われる。偏頭痛が脳髄を鷲掴みにする。聴覚に直接に鼓動が響く。うん、その椅子に座って、とピアスの男は命令する。タータンチェックは素直に黙って座った。ピアスの男は彼女の頬を指で押して耳を自分の前に向けさせ彼女の耳朶を軽く摘んで下に引っ張った。引っ張って伸ばした耳朶に片手を伸ばして取ったスプレー缶から白い霧をその耳朶に吹きかけた。滑らかで最小の動きで千枚通しをダーツを投げるような持ち方で耳朶の横に当て躊躇いもなく耳朶を突き通した。

 タータンチェックは日本人形のように固まったままだ。痛くはなかったのだろうか、耳朶からは一滴の血も流れない。ピアスの男は立ち上がりながら、終わったよ、と言って透明な焦げ茶色の瓶を近くの棚から取り蓋を開けながら瓶の中から一切れの脱脂綿を指で取り出しタータンチェックに渡し、暫く血が漏れると思うけど直ぐ収まるから、と話しかけた。タータンチェックは、はい、と答え脱脂綿を受け取り耳朶の今串刺しになったばかりの場所に当てた。ジーパンが、意外と簡単ね、と驚いたように話しかけ、痛くなかった?と訊いた。うーん、痛かったけど、思ったよりそうでもないよ、と脱脂綿を押さえたままジーパンの顔を見上げた。そうね、やっぱり開けようかしら、とジーパンが呟く。そうよ、そうよ、一緒にピアスやろうよ、とタータンチェックが誘うと、ジーパンの方は少し迷った表情で黙り込んだ。脱脂綿からアルコールの香りが漂ってくる。そうね、私もするわ、と言ってピアスの男の顔を見た。分かった、じゃ君もそこに座って、とピアスの男は瓶をテーブルの上に置いた。タータンチェックが立ち上がりジーパンに席を譲る。タータンチェックが押さえている脱脂綿が赤く滲んでいた。偏頭痛が鼓動を頭蓋骨の中で騒がしく響かせる。

 この場所から逃げ出したい。私は首を振り顔を顰める。どうしたの、茜ちゃん、と恵理華が不意に声を掛けてくる。いつもの頭痛、と答える。外へ出ようか、の恵理華の言葉に私は頷いた。

 私たちは階段を上がり外に出た。夕日で辺りは茜色になっていた。溶けるように暑かった。空気だけが新鮮で清浄に思える。茜ちゃん、血は苦手なのね、と恵理華が夕焼けに染まった雲の方向を見上げながら言った。好きじゃないけど、この頭痛とは関係ないわよ、と私は少し不愉快に言った。分かってるわよ、そんなこと、と恵理華は受け流した。逆光で恵理華の表情は見えない。茜ちゃんはもう帰るよね、と恵理華は楽しそうな声で言った。うん、帰りたいな、眠りが浅くなると直ぐ頭痛がするのよ、寝不足の原因も偏頭痛なのにね、私は弱々しく笑った。恵理華も私に微笑みを見せる。恵理華は暫くの沈黙の後、残念ね、まだ連れていきたかったところがあるのに、とお道化た表情を見せた。私はただ早く一人きりになりたかった。誰もいない潮騒だけが聞こえる無人島に漂流でもしたかった。私はそこで野垂れ死にたい。誰にも看取られず詰まらないことで例えば裸足で砂浜を歩いていて蟹にでも足の親指を挟まれ破傷風に罹ってとかで死んでしまうのが一番いい。夕日はやけに蒸し暑く感じられる。

 徐々に茜色から藤色に移ろうとする夕日を眩しく感じながら私たちは来た道を戻った。純子の家の前を通る度に妙な好奇心に駆られていた。また誘うからと恵理華は帰っていった。

 

 駐車場の八つ手は私が除けたアスファルトの間から、もう逞しい色を見せていた。まだ歪曲した枝振りから天に向かって伸び始めていた。私は苛立たしくなって横にまだ置かれたままになっているアスファルトの薄汚れた破片をジグゾーパズルのように、はめた。八つ手は乗せたアスファルトを持ち上げ反抗している。えい、と言って破片の上に両足で飛び乗った。八つ手が折れる音がして足下がアスファルトと共に沈んだ。

 

   お前は誰だ、

   俺の前で平気で血を流し、

   俺の心臓から聞こえる呻き声に聞き耳を立てる

   ほらあのピアスをみろ

   あの黄金の蝶を見ろ

   きっと、金の蝶は銀の花にしか停まれない

   蜜の無い花にしか停まれない

   あの蝶は死んでいる

   羽ばたきもせず死んでいる

 

 日記を書いた後私はベッドで眠った、夜明けに偏頭痛で目が覚めるまで。