▲Pumpkin Time▼ 小説・俳句

 団地に挟まれた道路には枝振りの悪い細々とした街路樹が規則正しく煉瓦を真似た歩道に並んでいる。キャップを深く被り直す。スーパーの看板は洒落たワインレッドに黄色でアルファベットの店名が書かれている。昼時で婦人の買い物客が頻繁に出入りしている。スーパーの入り口を過ぎると花屋があった。店の名が『花水木』なのが気に入った。日本全国でこの名前の花屋は何件あるのだろう。入り交じった花の香りが強くなり、薄くなる。

 焦げ茶色に塗られた壁に暗いガラスが大きく付けられ、黒い看板に白い文字で『珈琲・あかしあ』とあった。焦げ茶色のアンティックな木製のドアを押すとベルが鳴った。涼しい風を感じた。静かにボーカルのないジャズソングとコーヒーの香りが流れる。コーヒーの香りが唾液腺を刺激する。いらっしゃい、と低い男の声がした。床もテーブルも焦げ茶色に塗られた木製で統一されている。明るすぎず店全体が重厚な雰囲気だ。満席でカウンターしか空いていない。カウンターには白いシャツに黒いエプロンをつけたマスターがコーヒーを注いでいる。一番奥のテーブルで手を振られた。恵理華は先に来ていた。年輩の背広の集団、Tシャツとボディコンのアベックは大学生かしら、婦人の集まり、背広の一人客が書類を見ている、また、チェックの汚れたシャツとノースリーブの番、初老の背広が煙草を吹かしている、スーツのアベック、テーブルは二人用で恵理華は窓際に座っていた。窓の向かいに腰掛けた。暗かったガラス窓は中からは外の高温まで伝わってくるほど明るく見える。

 「まだ、注文は待って貰ってるわ」恵理華は無表情に真っ直ぐに見て「話したいことがあるんでしょ」と恵理華は目を伏せた。いらっしゃいませ、と不意に呼びかけられた。マスターと同じ服装のウエイトレスが私の斜め前に割り込み盆から水の入った透明なガラスコップを恵理華の前に置き、私の前に置いた。脇に挟んでいたメニューをテーブルの真ん中に置き何も言わず去っていった。

 「智則のこと、何か知ってるの」と恵理華はコップを手に取りながら訊いてきた。「智則?」私はそれが誰のことか見当がついたが訊き返した。恵理華の視線が周囲を回り潜めた声で、死んだのよ、ニュースで見たでしょ、と私を上目遣いで睨んだ。知らないわ、ニュースなんて見ないもの。新聞にも出てたわ、新聞は読むでしょ。読まないわ、なにがあったの。恵理華はメニューに手を伸ばし取った。メニューを広げながら、崖から車ごと落ちて死んでいたのよ、と私をメニューの上から目を覗かせて見た。恵理華の目は大きく映画で見た金髪の女の子みたいだ。そう、と私は頷く。茜ちゃん何か知っているんでしょ、恵理華はメニューをテーブルに置く。知らないわ。知らないはずないのよ、貴女は知ってるのよ、恵理華は私を正視した。どうして私が知ってるのよ。智則はあの日貴女とあの山に行ったんだから。恵理華が最後に誘った日のことかしら。そうよ、私は行かなかった、智則一人だった、とテーブルに視線を落とした。

 ご注文はおきまりですか。振り向くとウエイトレスが立っていた。私はキリマンと答えた。恵理華はアイスと私を正視したまま言った。畏まりました、キリマンとアイスですね、ウエイトレスは伝票に書き込みテーブルに伏せておき行った。恵理華は再び話し始めた。私はときおり、自殺の方法を考えているわ、首吊りは死体が見苦しい、服毒は入手が難しい、入水は捜索に費用が掛かり家族の迷惑だ、とかね、智則は貴女を生意気で強姦してやると言ってたわ、私は智則の命令するままに貴女を誘った、そう、それを私は鏡貼りのラブホテルのベットで聞かされて、智則のペニスを舐めているベットの上から貴女に電話を掛けた、私も、智則に強姦されたの、羊歯と落ち葉と枯れ枝に塗れ樫と椎に囲まれながら、体力も体格も違う彼に襲われて、私は無抵抗にするしかなかった・・・、手首を切るのは失敗するかもしれない、自殺の失敗って恥ずかしいでしょ、私は彼の唾液を啜り、彼の精液を飲み続けたわ、私の膣は彼のトイレ代わりとなり・・・。恵理華は黙り込み遠くに視線を移した。正面のポプラが見窄らしく見える。よく見るとかなり多くの枝が切られた痕がある。見えるよりもっと多くの細かな枝打ちがされているのだろう。

 目の前に温い湯気が立った。見ると白いコーヒーカップで黒い液体が優美な湯気を漂わせていた。恵理華の前にもアイスコーヒーの入ったグラスとが置かれた。真ん中にミルクポットとシュガーポットを置きウエイトレスは会釈をして帰った。ストローで恵理華がアイスコーヒーをゆっくりと掻き回し氷がぶつかりあう堅い音がした。カップを持つ右手が熱い。苦くて香ばしい液体が唇と舌を熱しコーヒーの味が舌と喉を刺激する。カップ皿とカップが当たり音がする。コーヒーの味が口の中に残っている。

 そうよ、と恵理華がミルクを入れたアイスコーヒーをストローでぼんやりと回しながら語り始めた。そうよ、私は、家畜だったし実験動物だったしペットだったわ、でも、そんなものよね人間て、人間の自由意志なんて最近できたものよ、民主主義とかいうのが発明されてね、人間て、ずっと昔から自分の意志で行動できるひとは限られていたわ、王様だって貴族だって、慣習とか世襲とか親族とかの桎梏に従って生きていくしかなかったのよ、運命に従って生きていくしか、決められた人と結婚し性交し、子供を産んで、その子供を自分の境遇と同じように嫁がせて、自由なんて、藤原氏とか平家とか、他の人を動物のように思い、自分だけが人間と思えて、そして、本当にそう扱える権力を持った人たちだけのものよ、全員に与えられた自由なんて、意味がないわ、二重螺旋構造の中には、そんな対応マニュアルは載ってないのよ、載っているのは、長い物には巻かれろ、と、郷に入れば郷に従え、ぐらいよ、私はそれに従って本能に従って生きているのよ、私は普通よ、普通すぎるぐらい普通よ、舌を噛み切ったって死なないというわ、喉に手を突っ込んで舌が喉に巻き込まれるのを防げば大丈夫って、人間は簡単に死ねないようにできているのよ、私は彼の奴隷だったわ、飲んだ精液で私の血液は白く濁って、血液検査でもしたら医者が医学事典を何冊もひっくり返すぐらい、でも、そうできてるのよ、人間はみんな、生まれ付き奴隷として生まれてきたのよ。

 恵理華、氷が溶けちゃうよ、と言って私はコーヒーカップを口に運んだ。恵理華のアイスコーヒーの氷は溶けかかり、恵理華が渦を立て続けても音がしなくなっていた。枝打ちされた見窄らしいポプラの葉は萎れかけ陽光に枯れ落ちそうに思えた。恵理華はグラスに挿されたストローに口を付ける。ストローを茶色が昇っていく。

 恵理華は一口飲んでストローを口から離した。茜ちゃん、彼は貴女と会うずっと前に貴女を知っていたわ、彼がクラスメイトを写した写真を見たのよ、彼は紹介しろと私に命令したわ、貴女のきつい目と強く結んだ唇が気に入ったって、言ってた、気が強い女を犯すのって男の夢だろって、でも、彼が愛していたのは、きっと、隆也よ、隆也と、彼は、肉体関係があったの、彼と、隆也と、私で、3人でするの、隆也は、女役専門で、男は彼一人、明かりを明々と点け、排泄物の付いたペニスを銜え、膣口も、肛門も、口腔も、彼のペニスが差し込まれ、穴の中でペニスは踊り回るのよ、彼は、きっと正常に恋愛ができないの、男や、女子中学生と、精液と唾液と糞尿に塗れてしか、勃起もできないのよ、臆病なのか異常なのか卑怯なのかわからないけれど、きっと。

 茶店でする話しではないと思いながら放心したような恵理華をみてコーヒーを飲んだ。コーヒーは温くなっていて吐き出したくなった。左手を私は広げ傷を見た。その傷を恵理華の前に顔を掴むかのように出した。恵理華、斜めに傷があるでしょ、深く。恵理華は目を大きくし私の手の平を見つめた。

 春先で急に寒さがぶり返した日だったのを覚えている。決心して彼女のいる応接間に行った。このままでは私も気が狂う。彼女は衣類やスナック菓子が散らかった毛の短い緑色の絨毯にソファーの横にに凭れて座り込んで眠そうな目つきで陶器でできた人形のように静止していた。ソファーにもソファーの前にあるテーブルにもソファーの向かいにある椅子にも服やスナック菓子の袋が散乱しソファーと反対側の壁の棚はセーター、クッション、時計、スカート、木彫りの置物、ネッカチーフ、その他様々な雑貨が乱雑に押し込まれていた。陶器人形は花柄のフレアースカートを蓮華畑にいるかのように広げて落ちているスナック菓子をときおり摘んで食る。食べるために口に当てた手がそのまま止まる。止まって固まる。私がドアを開けて入ってきたのにも全く気が付かない。私はゆっくり彼女に近づく。彼女は動かない。目線も絨毯に向いたままだ。私が傍らから見下ろし続けるのに何の反応もない。私はしゃがみ彼女の耳元で「お母さん」と話しかけた。彼女はゆっくりと私に顔を向け見つめていたが「どなたですか」と口にした。「茜よ、貴女の、娘の茜よ」私は哀切を込めた声で答える。貴女誰よ、と声を張り上げた。私の顔に爪を立ててくる。私が跳ね上がると彼女も飛びかかり私の服を掴む。私は壁の棚に押し詰められ押し返す。棚を背に押し合いが始まった。私は彼女を絨毯に突き倒し彼女は歯を見せて吠えた。私は棚にあった本を投げつけた。彼女は絨毯に散らばる服や菓子を倒れて這いながら投げてぶつけてきた。私は棚のものを目覚まし時計や置物を手当たり次第に投げつけ続けた。棚のものが全て無くなる頃、彼女が泣き喚き始めた。彼女の腕の切り傷から血が出ていた。血は上腕の外側を一面に染めた。私は応接間から飛び出した。二階の自室に駆け上がった。鍵を掛けた。開けた窓の枠にエチオピアが寝ていたが私を見て擦り寄ってきた。私は抱き上げてベットに腰掛け膝の上に置いた。ベットの端の棚に手を伸ばしてブラシを取りエチオピアのブラッシングを始めた。ブラシに毛が溜まる。溜まった毛を毛玉にして塵箱に放る。何度も繰り返す、毛が取れなくなるまで。ノックがした。ああ、父だと思った。私は立ち上がり机の引き出しを開け鋏を取り出し逆手に持って左の手の平に刺し斜めに強く引き裂いた。血が溢れるのをポケットから出したハンカチで押さえ鼓動が手の平で聞こえた。これは私の神経の痛みだ、と思った。鍵を開けドアを引いた。ハンカチが血で湿り赤い液体は滴り落ちた。

 「そうやって、この傷はできたのよ」私は温くなり不快なコーヒーを飲み干した。その傷を母のせいにして、私は父に抗議したわ、でも、父は私が母を怪我させたことを責めたのよ、それで、終わり、小学生の頃よ、と言い、私はコーヒーカップをとり空なのに気が付きカップをおいた。恵理華のグラスは殆ど残っていたが、もう氷は消えていた。

 歩道を日傘を差した婦人が通る。ポプラの影が差す。婦人の顔に日が当たり通り過ぎた。「ねえ、自殺、しようか」と私は恵理華の顔をみらずに言った。いいわよ、と恵理華が答えた。

 私たちは伝票をとりアベックや背広の後ろを歩きカウンターの端で勘定をすませた。ベルの音が鳴り熱風が立ちこめた。ドアを締めるとコーヒーの香りは排気ガスになりジャズは蝉が代わりをつとめた。眩しかった。焦げるような日光に私はキャップの鍔を深く下げた。道沿いに延々と続く街路樹は日光に葉が萎れるように垂れている。道路の左右に団地が立ち並ぶ。団地のベランダには一揆の筵旗のように洗濯物が干され布団が掛けられている。鍔広の帽子を被った白いTシャツの私と同い年ぐらいの少女が背骨の線を見せながら自転車で追い越す。学校の屋上からでいい、と訊いた。恵理華は頷いた。 

 私はゲーム理論の『囚人のジレンマ』をもとにした生物学者くずれの創った童話を思い出していた。

 

 青い青い大きな湖にペリカンさんたちが住んでいました。浅い湖ですがとても透明な水とたくさんの生き物がすんでいます。すいすい泳ぐすばしっこいお魚、蓮の上をとっととあるく水鳥たち、水面をゆらゆらとぶ蜻蛉のむれ、水の底の鯰が砂をたててにげていきます。ペリカンさんたちもその中の住人です。ペリカンさんたちには悪いペリカンもいます。優しいペリカンさんもいます。気が強いペリカンさんだっています。みんな、お魚を食べて生きていました。

 ところが、悪いペリカンは自分でお魚を捕りません。他のペリカンが捕まえたお魚を盗んでしまいます。

 ほら、気の強いペリカンさんがちょうどお魚を捕まえました。ペリカンさんの嘴でぴちぴち動いています。悪いペリカンがさっそく盗りにいきました。気の強いペリカンさんが銜えているのを横からかんで嘴から抜き取ってしまいました。

 気の強いペリカンさんは怒っていいました。なにするんだ、かえせよ。いやだよ、もう、ぼくのものだ、悪いペリカンがいいかえします。

 気の強いペリカンさんと悪いペリカンのお魚のぴっぱりっこがはじまりました。気の強いペリカンさんが優勢です。あっ、悪いペリカンさんが巻きかえしました。どっちもどっちです。とうとうお魚をおっことしてしまいました。

 お魚は水面をぴしゃりとはねて逃げていきます。

 気の強いペリカンさんはおこります。なにするんだよ。気の強いペリカンさんと悪いペリカンは大喧嘩をしました。どちらも羽はぼろぼろ怪我だらけです。悪いペリカンと気の強いペリカンさんは何度もおなじように喧嘩をしました。

 喜んだのはお魚だけです。気の強いペリカンさんは偶には悪いペリカンに見つかる前にお魚をのみこめますが、悪いペリカンは自分でお魚をとらないので全然お魚をたべられません。ぺこぺこです。

 こんどは優しいペリカンさんがお魚をとりました。悪いペリカンが見つけます。よし、こんどこそ、と悪いペリカンは優しいペリカンさんのお魚をとってしまいました。優しいペリカンさんは考えます。またお魚は捕まえればいいや、悪いペリカンさんもお腹がすいていたんだよ。

 優しいペリカンさんはまたお魚をつかまえます。また悪いペリカンが横取りします。優しいペリカンさんはそれでも、またお魚を捕まえます。とられます。つかまえます。とられます。なんどお魚を捕まえても優しいペリカンさんはお魚を食べられません。もう、ぺこぺこのふらふらです。お魚をつかまえるのもやっとのことです。

 またお魚が悪いペリカンに盗られました。優しいペリカンさんも怒りました。このままでは優しいペリカンさんはお腹がすいてたおれてしまいます。悪いペリカンが盗ったお魚をとりかえそうとします。でも優しいペリカンさんはぺこぺこで速くおよげません。悪いペリカンさんはもうたくさんお魚をたべていますから早くおよげます。優しいペリカンさんはまたお魚をつかまえようとします。ぺこぺこで目の前がぐるぐるまわります。お魚はすいすいおよいでおいつけません。とうとう優しいペリカンさんは泳げなくなりました。

 優しいペリカンさんは次の日の朝には痩せ細ってしんでしまいました。

 悪いペリカンは優しいペリカンさんがいなくなりましたのでお魚がたべられません。お腹がぺこぺこになりました。

 また気の強いペリカンさんのお魚をとろうとします。でも気の強いペリカンさんは元気です。悪いペリカンはなかなかおいつけません。気の強いペリカンさんは悪いペリカンがおいつくまえにお魚をのみこむこともあります。

 悪いペリカンが気の強いペリカンさんのお魚をとることができることもあります。でも気の強いペリカンさんは取り返そうとしてまた大喧嘩です。いつものようにお魚はにげてきます。悪いペリカンは、しかたがないや、と諦めて気の強いペリカンさんから離れていきます。でも、どうにも我慢ができないのが気の強いペリカンさんです。気の強いペリカンさんは悪いペリカンを追いかけて、つつきまわして怒ります。悪いペリカンも気の強いペリカンさんをつつきかえします。ペリカンのピンク色のきれいな羽もすりきれたり、おれたり、ちであかくそまったりしています。

 悪いペリカンはだんだん痩せておよげなくなります。もう気の強いペリカンさんが近くでお魚をつかまえても盗ることができません。

 ぺこぺこのふらふらのぼろぼろです。とうとう悪いペリカンもしんでしまいました。

 青い青い大きな湖には気の強いペリカンさんだけがのこりました。

 

 運動場では汗塗れでサッカーの試合が行われているのに夏休みで人が少ないからか端の日向で鳩が砂浴びや羽を無防備に崩して日向ぼっこをしていた。茂った桜の木陰を選びながら私たちは横を通り過ぎていく。一本の楠からけたたましい無数の鳥の叫び声が響く。たぶん椋鳥だろう。楠の真下から見上げると茂みの全ての梢に黒い鳥が犇めいていた。椋鳥はその木だけに集まり他の木にはいなかった。椋鳥の糞が地面に散らばっている。今日だけでの量ではないように思えた。毎日、他の木には見向きもせずこの木に止まっていることになる。堅く平らな地面には夏休みの間に背の低い草が所々生えている。笛の音が響く。水に飛び込む音がして金網の向こうのプールではタイムを取っている。校舎の入り口に鍵はかかっていなかった。土足でいいよ、と私は恵理華に言った。裏校舎と呼ばれている文化系クラブと理科室などの特殊教室になっている建物には正面の校舎を通り抜けると近い。裏校舎もコンクリート造りの3階建てで文化系のクラブは夏休みにはあまり出てこず殆ど無人になっている。入り口の扉の鍵は開いていたが電灯は点けられていないので薄暗く奥に進むごとに暗さは増し月夜のような闇になる。北窓から薄日が射す廊下の端に階段はあり二人のスニーカーの足音が暗いコンクリートの階段に響く。屋上に入る錆び付き始めた鉄のドアは鍵が壊れており針金を巻いて固定されている。針金は太く素手で外そうとすれば力がいり手の平に食い込んで痛みが走る。ハンカチで巻いて二人がかりで解くのも汗ばむ。Tシャツは背中で皮膚に貼り付きますます蒸し暑さを増幅する。錆び付いたドアは蛙の悲鳴のような音をたてて開いた。光と風が吹き込み目を細めて涼しさを感じた。屋上では囲んでいる胸ほどの高さの金網を蜃気楼が揺らめかしていた。南側では別の校舎が視界を塞ぎ遠くの山が校舎の上に青く煙っている。北側は蔓性植物に完全に覆われた学校を囲む高い金網の向こうに瓦屋根だけが広がる。屋根以外の何も見えない。遙かに続く屋根の向こうは山々が地変線を隠している。恵理華は、私の名前と同じエリカという花を茜ちゃんは知ってる、と訊きながら屋上に出た。昔、ヨーロッパで牛とか羊とか飼いすぎて、全ての植物が無くなって、ヒースの荒野になったとき、ヒースと一緒に生き残ったのが乾燥に強くて食べにくいエリカだったのよ、花言葉は孤独。

 「ほら、金網を越えて」と恵理華に言った。恵理華は広がる瓦屋根を見てから、金網を乗り越え手の平の幅の縁に立った。下を暫く見つめた後に体を私に向け、茜ちゃんは、と訊いてきた。

 「『しかえしするペリカン』って知ってるかしら」と恵理華に答えた。恵理華の目は大きく瞳は濃い茶色で綺麗だ、と思った。私の青銅で覆われた心臓が青銅を押し割ろうと鼓動を高まらせる。私は生命と生命の証である内蔵からの叫びを聴いていた。内蔵を通る血液がその呪詛の叫びを赤血球に乗せ全身に運ぶ。心臓は錆びた青銅に亀裂を走らせ血液を巡らせる。私は両手で恵理華の肩を突き、恵理華は悲鳴を上げ咄嗟に伸ばした手が私の足下の金網を掴んだ。悲鳴をあげ続け片手でぶら下がる恵理華は一方の手ぶらの手を切れそうなくらい上に伸ばして金網を鷲掴みにした。恵理華の悲鳴が鳴り響き続ける。私は「死にたいのでしょ、さっさと手を離しなさいよ、簡単よ、死ぬことなんて」と金網を鷲掴みにする指を蹴った。二度三度と蹴った。指の爪の間から血が滲んだ。指は剥がれた。恵理華は今、片手だけで金網にぶら下がっている。恵理華は剥がれた手を金網の外にある屋上の縁に掛けた。私はもう一方の手の指も蹴った。指は直ぐに離され金網越しに恵理華は屋上の縁にぶら下がっている。恵理華の悲鳴が響き続ける。私は恵理華をそのままにして屋上のドアにゆっくりと歩いていった。

 

      桜吹雪の金さんは

         正義の味方じゃありません

      証拠も揃えず金さんは

      反論訊かずに金さんは

      弁護士付けずに金さんは

      言い訳させずに金さんは

      異論も集めず金さんは

      磔獄門引き回し

       買い付け穀物皿回し

        浅漬けホルモン猿回し

 

 

 エチオピアが朝っぱらからトイレ用の砂を蹴倒し海が割れ天が裂けたように大慌てで掃除をしているときに電話が鳴った。父が取り私に回した。恵理華の声がした。「私、生き残ったから」と言って電話は切られた。エチオピアは私が電話と掃除でパニックを起こしている間もソファーの新しい主となって寝そべっていた。

 

     美しい琴の音を聴かせておくれ

     私が粗末な笛を奏でるから

     

     お前の名前を教えておくれ

     お前のために祈りができないから

 

     なにもいらないからそばにいておくれ

     ひとりきりにあきたから

 

 

 寝る前に、ガラガラ蛇が自殺した、と恵理華から電話があった。自宅の近くのマンションの屋上から真っ裸で飛び降りたそうだ。恵理華が突き落としたのかもしれない。眠かったので直ぐ切って寝た。

 

     花を摘む乙女がいます

     私は花の名前を知りません

     白い花です

     緑の野原に咲いています

     花を摘む乙女に

     花の名前を訊いたなら

     教えてくれるかもしれません

     私は名前を訊きません

     白くて可愛い花びらで

     恋占いができなくなるから

 

 

 夏休みの終わりに彼女の病院に行った。相変わらず、私に、お母さん、と言って話しかけてくる。

 

     昔書いた恋文は

     早めに焼くのがいいものです

 

     いらなくなった恋文は

     嫉妬や未練をささやくよ

 

     昔書いた恋文は

     あした燃やしちゃいけません

 

     だせなくなった恋文は

     あしたもきっと生き残る

 

 

 広く高い体育館の板張りの床に犇めいて軍人のように整然と両膝を立ててみんな座っている。教師たちは左端に二列に並んで立っていた。台上には校長が立ち物分かりが良いのか悪いのか分からない演説をした。生徒会長やら教頭やら生活指導担当やら頼みもしないのに(少なくとも私は頼んでいないのに)次々にでてくる。誰が真面目に聴いているというのだろう。学校は軍隊に似ている。整然と並ぶことで士気と忠誠を確認する。軍隊と違うのは誰も使命感も愛校心も持たないこと。斜め前の一団が明るくなり室内の照明をはるかに凌駕する陽光が射し体育館の高い場所にある窓から光の道が空中に映った。光の道の先に青空に絵を描くように鳶が輪を画いていた(鴎とか鳶とか輪を画くのはなぜかしら)。講壇から響く声が辺りから漏れる密やかな話し声と絡む。辺り中から笑い声が鳴り響いた。講壇の教師がジョークを言ったのが受けたらしい。始業式の終わりの宣言に途端に騒がしくなり一斉に立ちあがった。騒がしさが列を作りスリッパの音と絡みながらパレードか行軍のように順序よく前と後ろにある眩しい光が射す出口から出ていく。体育館から校舎へはコンクリートで通路が造られ通路には黄色い線で平行線が引かれ『土足厳禁』と書かれている。校舎に入ると水に落とした牛乳が拡散するように騒めきも無秩序に広がる。緩やかな階段を騒音の軍団は上がっていく。

 「分かったわよ」の耳元の声に階段から転げ落ちそうになりながら振り向いた。恵理華は笑顔で「『しかえしするペリカン』の意味が分かったわよ」と言った。「あのペリカンって歯医者さんをしてるんでしょ」と立ち止まった私を置き去りにして階段を上り去った。私は恵理華の言葉を菩提樹の下の釈迦如来のように真剣に考えながら雑踏の流れに復活していった(その意味に気付いたのは数ヶ月後にテレビでバレーの『世界の創造』を観ていたときだった)。騒音は止み説教じみた教師の声に併せてまだ窓からは蝉の声がした。教師は佐上純子が転校したことを伝えた。どよめきは起こらなかった。近くから鳩の洞窟から籠もって響くような鳴き声がした。空には雲はなかった。運動場を取り巻く茂った桜の木が大きく揺らめきヨットの帆のように舞立った砂埃が横切っていく。砂埃は離合を繰り返しながら時には竜巻のように渦になる。砂埃の切れ端がどんどん近づき椅子にぼんやり座っていた私たちを襲った。教室中に悲鳴が湧き教師の窓を閉めろの怒鳴り声が響き砂埃の中を誰かが立ち上がりガラス窓を閉めた。音が幻術のようになくなった。窓からの風景は映像に変わった。目の痛み。砂の味と感触が口の中に残っている。ハンカチで涙を拭っているクラスメイトもいた。滲んだ窓からの風景は何もかもが動きを止めていた。