聖書一日一章

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1日 旧約・申命記一二章
 偶像の誘惑は、強力であった。だから、
 「彼らの神々を求めて、『これらの異邦の民はどのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう』と言わないようにしなさい」(三〇)
 と警告されている。
 偶像は私たちの欲望に対し、無限に「YES」という。それが偶像である。人は自分の欲望をかなえてもらうために、偶像に祈るのである。
 欲望をかなえてもらえないなら、人は偶像に祈らない。欲望の実現のために、人は偶像を欲するのである。
 しかし真の神は、私たちの欲望に対して、いつもYESとはおっしゃらない。時にはNOと言われる。
 それは真の神は、私たちに対して親のようにふるまわれるからである。親は、子が何かを望んだとき、それが好ましいものなら、かなえてあげようとする。
 しかしもし子が、良くないことを望むなら、「それはいけないよ」と言い、なぜいけないのか教え諭すであろう。それは子を愛しているからである。
 神は私たちの魂の親なので、私たちに対して親としてふるまわれる。神のYESも、神のNOも、私たちにとって最善なのである。
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2日 新約・ヨハネ三章
 新生とは、神とその救い主キリストを信じて、神の民として新たに生まれることである(三)。
 肉体の命しか持っていなかった人が、神の永遠の命に生まれることである。滅びに向かっていた人が、天国の命に生まれることである。
これは旧約時代には、「心の包皮を切り捨てる」ことと表現された。世と世の欲への執着心を捨て、神に仕える神の民として、新たに人生をスタートさせることなのである。
 人は誰でも、二度生まれなければならない。一度目は地上的生命への誕生であり、二度目は天国の命への誕生である。
 にわとりは、二度生まれる。一度目は卵として、二度目はヒヨコとして。
 人間も、そのように二度生まれなければならない。地上的生命に生まれただけでは、まだ真の命を持っていない。
 地上的生命しか持っていない人は、まだ卵の中にいる、にわとりのようなものである。その人は、まだ外の真の世界を見ていない。

 しかし、あなたが心の殻を破り、神の世界へ出てくるならば、神の愛と命の光があなたを照らすのである。[ページ一番上へ

3日 旧約・申命記一三章
 当時の世界には、奇跡まがいのことをして、偽りの神々を説く偽預言者が少なくなかった(一)。
今日も、「超能力」や「霊視」等を行なって、偽りの世界観を人々に植え付けている者が少なくない。彼らは、オカルト的な「目に見えない世界」の存在を人々にアピールしている。
 しかし彼らの教える「目に見えない世界」は、真の神のおられない世界である。偽りの世界観を人々に教えているのである。
 私たちは、奇跡まがいのことに惑わされるのではなく、神の御言葉に聞き従う者でなければならない(四)。不思議なことを行なうからと言って、そういう人々に、ついて行ってはならない。
 私たちは、すべての判断の基準を、聖書に置かなければならない。不思議なことを行なう者を見ても、その人が聖書に反することを説いているならば、その人に従っていってはならない。その人のわざには悪霊が関与しているのである。
 信仰の中心は、みことばである。私たちの信仰を養うものは、みことばであり神の御教えであって、不思議なわざではない。
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4日 旧約・申命記一四章
 「死人のために自分の身を傷つけたり・・・・してはならない」(一)。
 自分の身を傷つけることは、神の御教えに反することであった。
 死人を弔うために自分の身を傷つける風習は、当時の世界ではいろいろな民族に見られることであった。今日も、台湾の宗教の中には、恍惚状態になった人が頭にのこぎりを当て、自分の身を傷つけ、血だらけになる儀式がある。
 しかし、このようなことはイスラエルでは、主の忌み嫌われることとして禁止された。身体は神のものだからである。
 聖書は、常に身体をきよく保ち、すこやかに保つようにと教える。健康は神の御旨である。私たちは神に用いていただくために、自分の身体を良い状態に保って、それを神にささげるのである。
 また、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」(二)という教えは、繰り返し人々に語られた。
 私たちは常に、神の聖なる民である、という意識をもって行動しなければならない。異教の忌むべき風習をまねてはならないのである。
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5日 新約・第二テサ一章
 主イエスはやがて、「炎の中に御使いを従えて天から現われ」、私たちの「感嘆の的となられる」(七、一〇)。
 主イエスは、どこから現われるのか。「天から」である。
 彼は宇宙の果てから飛んで来られるのか。そうではない。天国は、じつはすぐ近くにある(二列王六・一七)。ただ、次元の異なる霊の世界なので、肉眼で見えないだけである。
 定められた時が来ると、「天が開かれ」(黙示一九・一一)、つまり天国の一部が肉眼で見える状態にされ、そこから主イエスが降りて来られる。
 その再臨の御姿は、パレスチナ全域で見られることであろう。主は降りてきて、オリーブ山の上に立たれる(ゼカ一四・四)。
 その光景は、世が始まって以来の驚くべき光景であろう。それは、神に敵対する者に対しては恐怖となり、一方神を愛する者にとっては、大いなる喜びと感嘆の的となる。
 その日、主イエスは「王の王、主の主」となられる。彼は世界の悪を一掃し、世界に至福の王国を築かれる。
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6日 旧約・申命記一五章
 同胞は「兄弟」と呼ばれた(七)。聖書はまた、貧しい兄弟に必要なものを与えるとき、「物惜しみ」したり「心に未練を持ってはならない」と教えている(九〜一〇)。
 もし未練を持つなら、その人はまだ与えていないのである。本当に与えた人は、与えたことすら忘れてしまうものだ。何年かたって、まだしっかりと覚えているようなら、未練があるのかもしれない。
 ある日本人の運転する車が、アメリカのハイウェイで、故障してしまった。そこに、あるアメリカ人の車が立ち寄り、彼は手を真っ黒に汚しながら直してくれた。
 日本人はアメリカ人に、
 「どうかあなたのお名前と住所を教えてください。あとでお礼をさしあげたいのです」。
 と言った。これは、日本人なら普通の対応であろう。するとそのアメリカ人は笑って、
 「もしあなたが、今度誰か困っている人を見たら、自分の出来ることがあればそれをしてあげてください。それが何よりのお礼ですよ」
 と言った。この日本人は、困っている人を見て助けようとするとき、いつもこの言葉を思い出すという。
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7日 旧約・申命記一六章
 「人をかたよって見てはならない」(一九)。
 かつて福沢諭吉は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず・・・・」と言ったが、こうした、人を平等に見る考え方は、今から三四〇〇年前に聖書が教えていたことなのである。
 今日の社会でも、多くの国々ではまだ、人間を階級別に見る風習が残っている。とくに開発途上国ほど、上流階級と下層階級の別が存在する。
 インドでは未だにカースト制が存在し、人間が人間を差別している。下層階級は上流階級に対してへつらい、上流階級は下層階級に対していばっている。
 しかしイスラエルにおいては、人間に階級を設けるこうした考え方は、もとから無かった。人間はみな、神の下で平等なのである。
 「生まれつき偉い」人間は存在しない。また「生まれつき卑しい」人間も存在しない。私たちは誰に対してもへつらってはならず、また誰に対しても傲慢になってはならない。
 いかなる人も、神がお造りになった人であり、平等に神に愛されている者なのである。
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8日 新約・ヨハネ四章
 このサマリヤの女は、五度の離婚をし、今は別の男性と同棲していた(一八)。このような女は、当時の社会通念から言えば、売春婦同様にふらちな者と見られていた。
 主イエスは、彼女がそのような女であることを知っておられたにもかかわらず、あえて彼女に話しかけられた。それは彼女のような者を招くために、主は世に来られたからである。
 明治期の偉大なキリスト者・内村鑑三は、離婚経験者であった。彼はキリスト者になった後に、離婚した。しかし、その後信仰を新たに再出発した彼を、神は豊かに用いられた。
 今日、教会は、離婚経験者を温かく迎えているだろうか。
 離婚は、ないのがベストである。しかし、離婚が現実に多くなっている現代において、すでに離婚してしまった人々をいかにして愛のうちに迎えるかということが、問われているように思える。
 教会は、人々を断罪するためではなく、愛によって生かすためにある。 私たちは、サマリヤの女に対する主イエスの接し方から、これについて学ばなければならない。
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9日 旧約・申命記一七章
 カナンの地に定着してのち、もし民が「王がほしい」というなら、神が選んだ者を王として立てることが許可された(一四)。
 しかし、王政には危険も伴った。王になった者が、軍備の拡張、後宮の設置、富の集中等に走り、主から心をそらす場合があるからである(一六〜一七)。
 王の心が神の御教えから離れるなら、それはそのまま亡国につながる。イスラエルはやがて、この危険に陥った。
 ダビデの子ソロモン王は、馬を増やし(軍備の拡張)、約一千人の妻やそばめを持ち、国の富を宮廷に集中させた。そしてその心は、神から離れた。
 ソロモンは、申命記の言葉を忘れたのである。これがために彼の死後、王国は分裂。腐敗と暗黒の時代に入っていくことになる。
 またやがて、「アッスリヤ捕囚」「バビロン捕囚」と呼ばれる神の裁きを迎えるようになる。それは亡国の道であった。
 王はとくに、神の御教えから「右にも左にもそれることがない」(二〇)ことが求められた。指導者の責任は重い。
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10日 旧約・申命記一八章
 「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない」(一五)。
 これは、モーセが語ったキリスト預言である。
 「私のようなひとりの預言者」とは、モーセの後継者ヨシュアではなかった。申命記の終わりに、
 「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった」(三四・一〇)
 と述べられているからである。
 イエスの時代になって、人々はバプテスマのヨハネに対して、「あなたは、あの預言者ですか」と尋ねた。その答えは、
 「違います」
 であった(ヨハ一・二一)。当時、人々はモーセの語った「あの預言者」を待ち望んでいたのである。
 モーセの語った「預言者」とは、イエスのことであった。イエスは預言者であり(マタ一三・五七)、また神の御子であり、救い主であり、私たちの主なのである。イエスは言われた。
 「モーセは、わたしについて書いたのである」(ヨハ五・四六)。
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11日 新約・二テサ二章
 「不法の人」――つまり黙示録で「獣」と呼ばれる独裁者が、まず現われなければ、「主の日」すなわちキリスト再臨の日は来ない、と言われている(三)。
 これは、「獣」が現われる以前にキリストの空中再臨が起こったり、キリスト者の携挙が起こったりすることはない、という意味でもある。これについてはキリストご自身も、
 「これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子(キリスト)が戸口まで近づいていると知りなさい」(マタ二四・三三)
 と言われた。「これらのこと」とは、患難時代のいろいろな出来事である。それらのことがすべて起こってしまって、初めてキリストの再臨が「戸口まで近づいた」、と言えるのである。
 だから、患難時代の前にキリストの空中再臨があってキリスト者の携挙が起こる、とする「患難時代前携挙説」は間違いだと言わなければならない。
 キリストの再臨は二段階ではなく、一度であり、それは患難時代の終わり頃である。その時にキリスト者の携挙も起こる、と思われる。
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12日 旧約・申命記一九章
 聖書には「ウソをついてはならない」という戒めはないが、「偽証してはならない」という戒めがある。それは十戒の一条項とされ、とくに重要視された。
 裁判の際に偽証する者は、重く罰せられたのである(一六)。不正な証言で人をおとしいれようとすることは、卑劣な悪とされた。
 当時の世界においては、公正な裁判などというものは、どこの国でもほとんど見られるものではなかった。裁判の公正は、権力者の野望や、社会通念の低さによってねじ曲げられることが多かった。
 今日でも、独裁者のいる国や共産主義国などでは、体制に反する者は捕らえられて、ろくな裁判もなしに牢獄に投げ込まれている。虚偽の密告によって捕らえられた者もいる。
 しかしイスラエルにおいては、裁判の公正は非常に重要視された。これはイスラエルから、悪を除くためであった。
 「目には目、歯には歯」(二一)は、同害復讐法と呼ばれるもので、過剰報復を予防するためのものであった。これはまた、個人的な報復を許すものではなく、法の公的執行としてなされた。
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13日 旧約・申命記二〇章
 新しい家を建ててまだ奉献していない者、ぶどう畑を作ってまだ収穫していない者、女と婚約してまだ結婚していない者等は、兵役を免除され、出征が取り消された。これは人道的見地と、兵の士気の面からの配慮であった(五〜七)
 また、弱気になっている者も、家に帰ることを命じられた(八)。弱気になっている者とは、神が共にいて戦ってくださるという信仰が、くじけている者である。彼らも、戦闘に参加してはならなかった。
 イスラエルの指導者は、戦闘員は多ければ多いほど良い、とは考えなかった。たとえ少数でも、士気の高い精鋭たちであることを望んだのである。
主イエスも、はじめ多くの弟子はおつくりにならなかった。みそばに置いて訓練されたのは、たった一二人だった。フロンティア(開拓者)的な仕事は、少数精鋭で始めたほうが、成功の確率が高い。
 私たちの人生は、ときに戦いがある。いやむしろ、困難と戦いの連続である。私たちは、
 「あなたの神、主が、あなたと共におられる」(一)
 という信仰を持って進むべきである。
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14日 新約・ヨハネ五章
 「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠の命を持ち、さばきに会うことがなく、死から命に移っているのです」(二四)
 と主イエスは言われた。ここで「死から命に移るであろう」でなく、すでに「死から命に移っている」と言われていることに注意していただきたい。
 聖書には、私たちは永遠の命を「持つようになる」と言われているところと、すでに「持っている」と言われているところがある。一体どちらが本当なのか。
 どちらも本当なのである。永遠の命の体は、キリストの再臨の時に私たちに与えられる。しかし本質的には、その永遠の命はすでに、信じる私たちに保証されており、与えられている。
 だから永遠の命は、本質的にはすでに私たちのものであり、それが現実の世界に開花結実するのがキリスト再臨の時なのである。
 信じる私たちには、すでに永遠の命の種が宿っている。その種を育て、やがて開花結実させるものは、神の恵みであり、また私たちの日々の信仰の歩みなのである。
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15日 旧約・申命記二一章
 「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」(二三)。
 これについてキリストの使徒パウロは、こう言っている。
 「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者は、すべてのろわれたものである』と書いてあるからです」(ガラ三・一三)。
 キリストは、十字架の木にかかり、私たちのために身代わりに、のろわれた者となってくださった。「のろい」とは、神の恵みが断たれた状態のことである。
 私たちは罪を犯したので、いずれ神に捨てられ、神の恵みの全く断たれた状態(地獄)に入れられるはずであった。しかしキリストは、私たちの受けるべきその状態を、代わりに受けてくださったのである。
 主イエスが十字架上で死なれた時、主の遺体はその日のうちに埋葬された。アリマタヤのヨセフとニコデモが、近くの墓に彼を葬ったのである。
 これは、「その日のうちに必ず埋葬しなければならない」という申命記の教え(二三)に基づいたものである。
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16日 旧約・申命記二二章
 「女は男の衣装を身につけてはならない。また男は、女の着物を着てはならない」(五)。
 最近は、「ニューハーフ」などと言って、オカマに対する新しい呼び方が登場している。ときに彼らは、もの珍しがられて、テレビなどにも登場し、なかにはタレント化している者もいる。
 しかし、女装した男や、性転換をした者(二三・一)は、聖書によれば「主の忌み嫌われる」ものである。それは神の創造の秩序を破壊するものだからである。
 聖書ではまた、ホモセックスが禁じられている。これも創造の秩序を破壊するものだからである。
 神の道を知らない者は、しだいに心がゆがんでくる。そのため、中には女になろうとする男や、男同士で寝る者たち、またその逆の者が現われるのである。
 パウロは彼らについてこう言っている。
 「女は自然の用を不自然なものに代え、同じように男も、女の自然な用を捨てて男同士で情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり・・・・」(ロマ一・二六〜二七)。
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17日 新約・二テサ三章
 使徒パウロは、テサロニケ教会の信者の中には「締まりのない」生活をしている人がいる、と言っている(一一)。
 彼らは「何も仕事をせず、おせっかいばかりして」いた。これは自分の義務を果たさず、余計なことに口をはさむ人々である。
 あるいは、自分の権利ばかり主張する人々である。または、口は達者だが実行のない人々である。
 私たちは、信仰に入っても、すぐには過去の悪習からぬけ出せないことがある。そういう人は、どこかで自分に死ななければならない。
 自分に死に、キリストに生きることを体得し、自分の心から悪習を一つ一つ追い出さなければならない。
 自分の前でラッパを吹き鳴らすのではなく、「静かに仕事をする」(一二)人々こそ、神に覚えられている。コツコツと積み上げることを忘れて、締まりのない生活をしてはならない。
 信仰は、日々の生活の中にある。すべての成功者は、毎日コツコツと積み上げることをした人である。
 「継続は力なり」という。日々、向上心を持って歩んでいこう。
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18日 旧約・申命記二三章
 不倫の子と、アモン人、モアブ人は、主の集会に加わることを禁じられた(二〜四)。
 旧約時代のイスラエルにおいて、一部の人々は、主の集会に加わることができなかったのである。しかしこうした規定は、新約時代には撤廃された。
 キリストが、「すべての人のために死なれた」(二コリ五・一四)ので、今日すべての人は救いの家に招かれている。
 イエス・キリストの肉による先祖の一人ルツ(マタ一・五)は、モアブ人の女であった。またイエスの先祖ソロモン(マタ一・六)は、不倫の子である。
 これは、彼らもキリストによって救いの家に招かれるためである。
 「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者」(二コリ五・一七)である。そこにはもはや、ユダヤ人も、ギリシャ人も、アモン人も、モアブ人も、不倫の子もない。すべての人が、主の集会に加わることを許されている。
 誰でも、ありのままの姿で、主のもとに来ることができる。いかなる生まれの者でも、新生して、同じ神の子になることができる。
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19日 旧約・申命記二四章
 「在留異国人や、みなしごの権利」という言葉が、ここに出てくる(一七)。「権利」とは、人権である。人としての権利である。イスラエルでは、人権が非常に尊重された。
 数年前、中国で天安門事件(民主化を求めた学生たちが虐殺された事件)があったとき、中国の政治家は、
 「中国には一〇億の民がいる。たとえ一億人が死んでも、たいしたことはない」
 と語ったという。しかし、こうした考えは、イスラエルにはなかった。一人一人の人命と、基本的人権が、非常に尊重されたのである。
 かつて日本でも、大名が民から搾取し、資本家が労働者から搾取した時代があった。彼らは、貧民の人権を侵したのである。
 しかしこうした搾取は、イスラエルでは厳に禁じられた。弱い立場にある者から搾取することは、大きな悪とされたのである。
 たとえ貧しくとも、あるいは富んでいようと、人の価値は神の前には変わらない。一人一人が尊いのである。だから私たちも、人をかたより見ることをしてはならない。誰であれ、隣り人を、自分を愛するように愛さなければならない。
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20日 新約・ヨハネ六章
 「イエスは、人々が自分を王とするために無理矢理に連れて行こうとしているのを知って・・・・」(一五)。
 人々は、イエスを王にしようとした。彼らは、イエスは自分たちをローマの圧政から解放し、充分な食べ物を与えてくださる救い主であると考え、王にしようとしたのである。
 しかし彼らはまだ、イエスが魂の主であり、私たちを罪と滅びから解放して下さる救い主であるとは、理解していなかった。
 イエスの初来の目的は、人々の魂の王となることであって、政治的な王になることではなかった。人々はイエスを誤解していた。
 それでイエスは、ご自分を王にしようとしている人々からのがれて、ひとり山に退かれたのである。
 イエスはご自分が「いのちのパン」であり、人々に永遠のいのちを与える者であることを説明されたが、彼らは理解しなかった(六六)。以来、多くの者がイエスから離れ去った。
 もしイエスが、ご自分が政治的な王になることを欲し、人々にそう言明したならば、多くのユダヤ人がイエスについていったかも知れない。しかし、それは神の示された道ではなかった。
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21日 旧約・申命記二五章
 夫婦の間に子がないうちに夫が死んだ場合、死んだ夫の兄弟は、残された妻をめとり、彼女の間に子をもうける必要があった(五)。
 それは、子孫がとだえることは相続地を失うことを意味したので、大きな不幸とされたからである。
 キリストの時代に、復活のことでサドカイ人がキリストに質問したが、これはこの律法に基づいていた。
 その質問は、兄弟が妻をめとったがその間に子がなく、ほかの兄弟が彼女をめとったがまた子がなく・・・・というようにして彼女はついに七人の妻となったが、復活の際には彼女は誰の妻となるのか、というものであった(マタ二二・二八)。
 しかし復活の際には、人は天使のように男女の区別のない単性になるから、そのような心配はないのである。
 一三節の「大小異なる重り石を持っていてはならない」は、商売において正しい秤が用いられなければならない、の意味である。
 昔は、ものの重量を測るために天秤を用い、「重り石」が用いられた。なかには、売る時と買う時で別の重り石を用いる者がいたが、これは律法によって禁じられたのである。
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22日 旧約・申命記二六章
 イスラエル人は、ふつう「ヘブル人」と呼ばれるが、ここでは「アラム人」と呼ばれている。
 「私の父(父祖ヤコブ)は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り・・・・」(五)。
 ヘブル人とアラム人は、セムという共通の先祖から発した民族である(創世一〇・二一〜二四 エベルはヘブルのこと)。イスラエル人は、父系でいうとヘブル人である。
 しかし、イサクの妻リベカはアラム人であった(創世二五・二〇)。また、ヤコブはラバンの二人の娘レアとラケルを妻としたが、彼女らはアラム人であった(創世二八・五)。つまりイスラエル人には、母系にアラム人の血が流れている。
 なお、旧約聖書原典の大部分はヘブル語だが、一部はアラム語で書かれている(エズ四・八〜六・一八、七・一二〜二六、エレ一〇・一一、ダニ二・四〜七・二八および数語)。
 イスラエル人は、アラム人と深い関係を持ってきたので、古くからヘブル語だけでなく、アラム語を話した。イエスもアラム語を話された。
 「アバ父よ」の「アバ」も、アラム語である。
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23日 新約・第一テモ一章
 パウロは自分を、「罪人のかしら」(一五)と呼んだ。
 パウロはかつては、クリスチャンを迫害する者であり、「神を汚す者、暴力をふるう者」であった(一三)。しかし「罪人のかしら」は、単にそのことを言っているのではない。
 彼はあらゆる面で、自分の罪深さをよく知っていた。だから彼は、自分を罪人の最たる者と呼ぶことによって、それを赦してくださった神の偉大な憐れみを讃美しているのである。
 自分の罪深さをよく知る者ほど、神の恵みをよく知っている。逆に、自分の罪深さに気づいていない者ほど、神の恵みがわからない。
 私たちは、信仰生活に入って後に、信仰が深まれば深まるほど、自分の罪深さに気づくことがある。以前は罪だと思っていなかったことも、罪だとわかるようになるのである。
 しかし、これは健全なことである。人は明るいところに出るほど、自分の衣服の汚れがわかるようになる。
 認罪の意識が強くなるところに、神の恵みはますます増し加えられる。私たち罪人は、神の恵みなしには生きることができず、無に等しいのである。
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24日 旧約・申命記二七章
 「アーメン」(一五)とは、神の言葉に「その通りです。従います」と表明する言葉である。
 私たちも、自分が祈った最後に、あるいは人が祈った最後に、「アーメン」という。私たちはこの言葉をいうことによって、「その通りです。従います」と言っているのである。
 しかし私たちは、この言葉を、しばしば形式に流れて言ってはいないだろうか。イスラエルにおいて「アーメン」と言われる時、それは非常に重みのある言葉であった。
 それは、確実な実行を要求される言葉だったのである。私たちも、確実な実行をなす決意のもとに、それを言っているだろうか。
 笹尾鉄三郎という人は、ある時「主の祈り」を祈っているとき、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」の所に来て、それを言えなくなってしまった。それに「アーメン」と言えなかったのである。
 彼の心には、みこころが成ってしまっては困る、という気持ちがあった。彼は自我を通したかった。しかし、彼は涙とともに悔い改め、その自我は砕かれた。
 そのとき、彼は心から「アーメン」と言える者になったのである。
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25日 旧約・申命記二八章
 一〜一四節の祝福の約束は、おもにカナンに入ってから、ソロモン王の時代までの期間に成就した(紀元前一四世紀〜一〇世紀)。
 一方、一五節以降ののろいの警告は、おもにソロモンの死と王国分裂後の時代に成就した(紀元前一〇世紀以降)。
 「一つの国民にあなたを襲わせる」(四九)と言われているように、彼らは紀元前七〜六世紀にかけて、バビロン帝国によって襲われた。
 また、「主は地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす」(六四)と言われているように、紀元七〇年にはローマ帝国によってエルサレムが破壊され、以来民は全世界に離散したのである。
 こうして祝福の約束も、のろいの警告も、等しくイスラエルの歴史の上に成就することになる。それは細部に至るまで、そのとおりになるのである。
 これは、彼らが主に仕えることと、サタンに仕えることの相違を思い知るためであった。しかしこうした中でも、主は彼らを決して見捨てることはなさらなかった。
 主は最終的には、彼らを大いなる祝福の中に入れられるのである。
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26日 新約・ヨハネ七章
 イエスの兄弟たちは、この時はまだイエスを信じていなかった(五)。
 イエスは長男であったが、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという弟がいた(マタ一三・五五)。彼らは、イエスの復活後に、イエスの信者となった。
 イエスの弟ヤコブは、初代教会の有力な指導者となった。ガラテヤ一・一九に「主の兄弟ヤコブ」と言われているのは、彼のことである。
 ヤコブはまた、新約聖書の「ヤコブの手紙」を書いた。彼はその手紙の中で、イエスを「主」と呼んでいる。以前は「兄」と呼んでいただけなのが、イエスを「主」と呼ぶ者に変えられたのである。
 また、新約聖書の「ユダの手紙」は、イエスの弟ユダが記した。彼は手紙の冒頭で、自分を「イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダ」と呼んでいる。
 他の弟も、ヤコブやユダと同様に信者になったようである。使徒一・一四には、聖霊降臨の前に、
 「この人たちは・・・・イエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた」
 と記されている。
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27日 旧約・申命記二九章
 「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこの御教えのすべての言葉を行なうためである」(二九)。
 私たちは、未来のことを完全に測り知ることはできない。それは、隠された事柄である。しかし、人間がどう生きるべきかは、神の現わされた事柄の中に充分に示されている。
 人は、隠されている事柄について、神に全き信頼を置くべきである。そして、現わされた神のみこころに従って、生きるべきである。
 私たちは信仰生活において、知的にはなかなか理解が及ばない事柄に出会うこともある。「これはどうなのだろう」と疑問は持つが、なかなか解決が与えられないことがある。
 すべてが知らされているわけではない。私たちには、わからないこともある。
 しかし、隠されていることは神のものである。それは神が知っておられることであり、必ずしも人間が知らなくても良いのだ。
 大切なのは、現わされた神のみこころに従って生きることである。
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28日 旧約・申命記三〇章
 モーセは、祝福とのろいの双方がイスラエルの民に臨む、と言った(一)。しかし彼は、イスラエルの民に回復の預言も告げている。
 すなわち、民が離散の地で主に立ち返るなら、主は全世界から彼らをパレスチナに連れ戻されるのである(二〜四)。
 このことは、一九四八年にイスラエル共和国が建国されたときに、その成就を見た。二千年間世界を流浪していた民族が、消滅することなく、故国に帰って、国を再建したのである。
 これを「奇跡」と呼ばないなら、何が奇跡であろう。このようなことは、他のどんな民族にもないことであった。
 彼らは死語であったヘブル語をも、国語として再興した。私たち二〇世紀に生きる者たちは、この奇跡の目撃者なのである。
 しかしイスラエル回復の預言は、一九四八年に完全に成就し終わったわけではない。回復の過程は、いまも進行中である。
 イスラエルの回復は、キリスト再臨の時に至って完全なものとなる。現在は、その回復過程の途中なのである。
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29日 新約・第一テモテ二章
 パウロは、「私は女が教えたり、男を支配したりすることを許しません」(一二)と述べ、女性が教会で説教をしたり、指導的立場につくことをよく思っていない。
 これは女性が男性より劣るという意味ではなく、両性の役割の違いを述べているのである。家庭の精神的支柱は男性であり、女性はその「助け手」(創世二・一八)であるように、教会においてもそうだということである。
 これは、女性が全く教えてはならないということではないと思われる。男性の主導権を侵害しない限りで「助け手」の立場で教えることは、さしつかえないであろう。
 女性は、教会では人を指導するより、むしろ「良い行ないを自分の飾りとする」(一〇)ことにより、役割を最大限に生かすのではないか。
 男性も、もちろん良い行ないに励むべきだが、女性の無言の良い奉仕は、なおのこと美しい飾りとなる。
 戦地で敵味方の別なく傷病者を看護したナイチンゲール、またインドで貧しい人々を看護するマザー・テレサ等の働きは、その模範であろう。彼女らは、説教をしないが、無言の良き働きによって、人々に雄弁に語っているのである。
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30日 旧約・申命記三一章
 いまやモーセは死のうとしており、民はヨシュアに率いられて、カナンに入ろうとしていた。
 モーセは、民がカナンに入って諸民族の征服に成功することを、知っていた。しかし同時に、その後民が堕落して神の怒りを招くことも、知っていた(二九)。
 イスラエル民族は「うなじのこわい」(二七)民と言われた。これは「強情な」の意味である。イスラエル民族は、とくに「うなじのこわい」民だったのであろうか。
 いや、これはむしろ、全ての民族に共通する人間の性なのである。残念なことに、これは教会の歴史においても例外ではなかった。
 教会史を見ると、迫害を受けていた時代は、教会は純粋な信仰を保っていた。しかし四世紀にキリスト教がローマ帝国の国教となると、急速に堕落が始まった。
 以後一六世紀に宗教改革がなされるまでの約一千年間は、教会史における暗黒の時代となった。この暗黒の時代を通して、教会は、人間の性の強さを思い知らされたのである。
 しかし宗教改革以後は、教会は回復に向かっている。それは教会が主の御教えに立ち返ったからである。
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