聖書一日一章

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1日 旧約・士師記一五章
 ユダ族の人々は当時、ペリシテ人を自分たちの「支配者」と認めていた(一一)。神はペリシテ人を根絶やしにするよう命じておられたのに、ユダの人々は彼らの支配下で甘んじて過ごしていたのである。
 そこで神は、ペリシテ人追放のために、野蛮だが主への信仰を持つサムソンを用いられた。
 サムソンの怒りは、ティムナの女とその父には向けられず、むしろペリシテ人に対して向けられた(三)。彼はジャッカルにたいまつをつけ、ペリシテ人の土地に放して、畑を燃やした。
 ペリシテ人は、サムソンには復讐ができないので、腹いせにティムナの女とその父親を殺した(六)。それを知ったサムソンは、ますます怒りに燃えた。
 サムソンは多くのペリシテ人を倒した。ペリシテ人は、サムソンを殺そうと、ユダ族を攻めてレヒまでやってきた。
 そのとき同胞のユダ族は、サムソンと共にペリシテ人と戦ってはくれなかった。それどころかサムソンを、ペリシテ人に引き渡そうとしたのである(一二)。
 サムソンは孤独であった。しかし、彼には主が共におられた。
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2日 旧約・士師記一六章
 ペリシテ人は、サムソンの愛した女デリラを誘惑し、莫大な報酬をちらつかせて、サムソンの力の秘密を聞き出させようとした(五)。
 サムソンは自分の力の秘密について、三回にわたって嘘を言った。しかし、デリラに語った通りにサムソンが縛られ、襲われたのだから、デリラがペリシテ人に通じていることは明らかだった。
 にもかかわらず、「恋は盲目」なのであろうか、サムソンはデリラの涙の前に屈してしまう。サムソンは、かつてのティムナの女の時の苦々しい経験も忘れて、彼女に秘密を明かしてしまう(一七)。
 サムソンは力の源であった長い髪を切られ、捕らえられて牢につながれた。また両目をえぐり取られた。その発端は彼の盲目的な恋であったが、その結末は、彼の肉体的な目の喪失であった。
 しかし、牢においてサムソンの心の目は開きつつあった。彼にはもはや、自分の楽しみを求める心はなかった。ただ、自分に与えられた使命を、もう一度果たすことだけを考えていたのである。
 彼は、自分も死ぬことを承知で宮を崩し、ペリシテ人を偶像と共に葬った。
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3日 新約・テトス三章
 「神は・・・・ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました」(五)。
 あなたは、主イエスを救い主と信じたそのときから、天の父なる神を、あなたの「お父様」と呼べるようになったはずである。これは神の聖霊による。
 あなたはまた、神の子とされた喜びと、天国の平安に満たされた。これも聖霊の働きである。
 あなたは、やがて自分が天国に帰る時まで、この地上の旅を神と人のために生きたいと願っているに違いない。また自分のことだけでなく、隣人の救いや、隣人の幸福をも願い求めるようになったであろう。これも聖霊による。
 聖霊の働きについて、無知であってはならない。聖霊を受けると、必ず何か神秘的な幻を見るとか、奇跡的な現象が起きるはずだと考えるべきではない。
 聖霊の最も大切な働きは、私たちの心を神に向かわせ、神への愛と隣人への愛に満たすことである。自分の心に働く聖霊の思いを理解し、それを育んでいこう。
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4日 旧約・士師記一七章
 「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」(六)。
 当時は無政府状態であり、王も、律法の教師も、学校もなく、人々の間には信仰的にも混乱があった。
 ここに出てくるミカという人も、ヤハウェなる神を信じ、家に礼拝所(神の宮)を持つほどの信仰の人であったが、礼拝用の「彫像と鋳造」を造った(四)。これは、モーセの十戒に違反する行為である。
 彼は彫像を、主を愛するがゆえに造ったのであろうが、じつはそれによって律法を犯していたのである。
 私たちの信仰生活においても、ときおり「自分の目に正しいと見えることを行なっている」ことがないだろうか。私たちは、たとえ自分の目に正しいと見えることでも、つねに、
 「聖書の教えはどうだろうか」
 と問うてみなければならない。もし聖書の知識が不足しているために、無意識に聖書の教えに反した行動をとるようなら、それは悲しいことである。
 多くのクリスチャンが、このことで過ちを犯してきた。私たちは、日々みことばに学び、それに養われていく必要がある。
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5日 旧約・士師記一八章
 ダン族にも、割当地は与えられていたのだが(ヨシ一九・四一〜四六)、彼らはこの時にはまだ占領を充分に実現していなかった(一)。
 ダン族は、ライシュに攻め上ることにした。しかしその前に、ミカの家から彫像と鋳造、またエポデとテラフィムを取り、祭司も連れ去った。これは、当時の無法状態をあらわしている。
 ライシュ攻略が成功したのち、ダン族はそこに住み、彫像を立て、礼拝に用いた(三一)。彼らもまた、
 「自分たちの目に正しいと見えることを行なった」。
 が、それは偶像崇拝であり、十戒を犯す行為であった。
 この時代には、イスラエルに王がおらず、人々の行為はバラバラだったのである。
 現在の日本の教会も、状況は違うが、バラバラであるという点では士師時代に似ていないか。日本の教会には、今はそれをまとめあげるだけの強力な指導者がいない。
 また各教団教派が、自分の目に正しいと見えることを行なっているだけで、相互のネットワークが充分出来ていない。
 日本の教会のために祈ろう。
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6日 新約・ヨハネ一九章
 ピラトが「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか」と言うと、祭司長たちは、
 「カイザル(ローマ皇帝)のほかには、私たちに王はありません」
 と言った(一五)。祭司長たちはイエスを十字架につけたいあまりに、神こそイスラエルの真の「王」であるという信仰を捨てて、自分たちの王はローマ皇帝の他にはいないと言い放ったのである。
 イエスの十字架には、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書かれた罪状書きが掲げられた(一九)。祭司長たちはそれに抗議して「ユダヤ人の王と自称していたと書いてください」と言ったが、聞き入れられず、罪状書きはそのままにされた。
 これは彼らへの皮肉である。祭司長たちが何と言おうと、イエスはユダヤ人の王であり、また全世界の人々の王であることに変わりはない。
 イエスは十字架上で「完了した」と言われた(三〇)。事実、そのとき旧約聖書の預言がすべて成就して、贖いのわざが完了した。
 イエスは十字架の死によって、私たちの罪を贖う救い主となられ、また私たちの永遠の王となられたのである。
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7日 旧約・士師記一九章
 「あの男を知りたい」(二二)
 とは、男色、すなわちホモ・セックスのことである。
 かつてソドムにおいて、これと同じ言葉が発せられた(創世一九・五)。フランシスコ・ザビエルがかつて日本に来たときにも、彼は当時の日本人の代表的な罪の一つとして、男色をあげている。当時、武士の間には男色が流行していたのである。
 ベニヤミン族の地ギブアにも、男色の風習がはびこっていた。
 レビ人とそのそばめが泊まった家を無法者たちが取り囲んだとき、レビ人のかわりにそばめが外に出され、夜明けまで強姦された。彼女は精根尽き果てたうえ、絶望の中に死亡した。「何の返事もなかった」(二八)とは、彼女がすでに死亡していたことをさす(二〇・五)。
 この記事には、当時の人々の醜悪さが様々な形で現われている。ギブア人の淫乱と強姦。またレビ人が、自分たちを救うためにそばめを犠牲に出したこと(二五)。老人も女性の生命を軽んじた(二四)。さらに、そばめの死体に対するレビ人の残酷な処置(二九)等。
 ギブアの出来事は、後にイスラエル史上最大級の罪として語り継がれた(ホセ九・九、一〇・九)。
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8日 旧約・士師記二〇章
 ギブアでの悪について聞き知ったイスラエルの他の部族は、ベニヤミン族に使者を送り、犯罪者を引き渡すように伝えた(一三)。まず外交的手段によって、解決しようとしたのである。
 もしこれが、ヨシュアが生きていた頃のイスラエルなら、ベニヤミン族は犯罪者を引き渡し、裁判が行なわれて、解決を見たであろう。しかし、ベニヤミン族は犯罪者を引き渡すどころか、全イスラエルと戦おうとした(一四)。
 内戦勃発である。ベニヤミン軍はわずかに二万六七〇〇人、一方、他の部族からなるイスラエル連合軍は四〇万人であった。
 ところが連合軍は二回にわたって敗北を喫する。これはベニヤミン族も悪い人々であったが、悪は他の部族にも、多少なりとも見られたからである。それで主は、連合軍に簡単には勝利をお与えにならなかった。
 しかし、主は連合軍に最終的に勝利をお与えになり、ベニヤミン族は彼らの前に屈した。ベニヤミン族の兵士で生き残ったのは、一七〇〇人程度に過ぎなかった(四六)。
 内戦までしなければならなかったことは、その後のイスラエル人にとって大きな悲しみとなった。
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9日 新約・ピレモン
 オネシモは、ピレモンの奴隷であった。しかしオネシモは、主人の物を盗んで逃亡し、ローマへ行った。そうこうするうちに、彼はパウロに会い、福音を聞いて回心した。
 オネシモはしばらくパウロに仕えていたが、当時の習慣によれば奴隷は主人の所有物であるので、パウロは機会を見て、彼をピレモンのもとに送り返そうとした。
 当時、主人の物を盗んで逃亡した奴隷は、罰として殺されるのが常であった。そこでパウロはピレモンに、オネシモを主にある兄弟として赦してくれるように頼んだ。それがこの手紙である(一三)。
 当時は、奴隷制はまだ社会の一要素として残っていた。しかし、
 「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち愛する兄弟としてです」(一六)
 というパウロの言葉には、奴隷制が改善されることを願う気持ちがあらわれている。
 初代教会においては、奴隷の中にもクリスチャンになった者が多かった。当時の教会は、奴隷も、主人も、また奴隷を持たない者も、みなが一つになって主を礼拝したのである。
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10日 旧約・士師記二一章
 イスラエルは自分たちの中から悪を除くために、ベニヤミン族と戦った。しかし、いざ戦いが終わってみると、一二部族のうち一部族が欠けるという危機に直面。大きな悲しみに襲われた。
 それで何とか、ベニヤミン族を再建しようと考えた。しかし支障となったのが、かつて自分たちの立てた誓いであった(一)。
 彼らは、苦肉の策を考えだした。その策とは、かつて主のところに来なかったヤベシュ・ギルアデの住民の中から処女をとってベニヤミン族の男子に与えること(一二)、および、ベニヤミン族のめいめいがシロの娘たちを捕らえ、略奪結婚することであった(二一)。
 このように、士師記の最後の三章は、レビ人のそばめが強姦殺害されるという事件に始まり、シロの略奪結婚で終わっている。これらは、当時の社会的、また霊的な暗黒を物語ったものである。
 当時のイスラエルにおいて、人々は神の存在を信じていたし、律法も存在していた。しかし彼らは訓練されておらず、全き信仰の人も少なかった。それで彼らは全般的に異教の風習に染まりやすく、無秩序な行為に走ることが多かったのである。
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11日 旧約・ルツ記一章
 ルツ記は、イエス・キリストの先祖ダビデの先祖ルツに関する記録である。
 ルツは異邦人の女性であった(四)。また彼女は、結婚前には異教徒であったとも思われる。しかし夫や姑を通して真の神を信じ、素晴らしい信仰の人となった。
 彼女はキリストの先祖となった女性として、のちにマタイ福音書冒頭の系図にも名を記されることになる(マタ一・五)。
 本書は、時代的には士師時代のことであった(一)。当時の暗い面を記したのが士師記だが、ルツ記は、その時代においても神と人に仕えた人物のことを伝えている。これはちょうど、砂漠にわき出るオアシスのように、読む者の心を慰める。
 ルツは、夫の死後も、姑ナオミのもとを離れようとしなかった。ナオミを慕っていたルツは、ナオミとの暮らしを続けながら、地上の幸福を超越したイスラエルの神ヤハウェとの関係を、さらに育みたかったのである。
 「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(一六)
 は、そうした彼女の心境を最もよく表している。
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12日 新約・ヨハネ二〇章
 主イエスは復活後、常に弟子たちと共にいるわけではなく、時々現われてはまた姿を隠された。
 本章においても、イエスは復活の日曜日に姿を現わされたのち、その一週間後の日曜日まで姿を隠しておられた(二六節の「八日後」は、最初の日も数に入っているので、今の数え方で言えば一週間後にあたる)。
 イエスはトマスに、指をイエスの手につけるよう、また手をイエスのわきに差し入れるように言われた(二七)。これは、一週間前にトマスの言った言葉をイエスが知っておられた、ということを意味する。
 こうしてイエスは、ご自身がたとえ見えない時でもじつは弟子たちと共にいる、ということを示された。
 イエスは復活後の四〇日のあいだ、時々現われてはまた姿を隠すということを繰り返し、ご自身が見える時でも、また見えない時でも同様に弟子たちと共にいる、という真理を教え込まれたのである。
 イエスは昇天後、肉眼ではすっかり見えなくなられたが、今も私たちと共におられる。復活後の四〇日間は、こうした昇天後の時代のための準備期間だったのである。
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13日 旧約・ルツ記二章
 「ボアズ」(一)は、やがてルツと結婚することになる人物である。このボアズとルツの子孫として、やがてダビデが生まれることになる。本章は、この二人の出会いの場面である。
 「ルツは・・・・落ち穂を拾い集めていたが、それは、はからずも・・・・ボアズの畑のうちであった。ちょうどその時ボアズは・・・・」(三〜四)。
 「はからずも」という言葉は、ルツがボアズの畑にいたことが意図的でなかったことを示している。それは人間的な知識によれば、偶然である。
 しかし、「ちょうどその時」と続いている。これは、人間の知識を越えた神の摂理である。
 このタイミングに、神の導きがある。「はからずも」そこにいたルツに、「ちょうど」よく神はボアズを引き会わせられたのである。
 モーセの律法によれば、貧しい者や在留異国人は、落ち穂を拾って自分のものとしてよかった(レビ一九・九〜一〇)。ボアズはルツに、多くの落ち穂を拾えるようにしてあげた(一六)。これは同情とともに、ルツに対する関心も手伝ってのことであろう。
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14日 旧約・ルツ記三章
 姑ナオミは、ボアズが親切な人であるのを知って、ルツを彼に嫁がせたいと考えた。
 ちょうど、ボアズはナオミにとって「買い戻しの権利のある親類」であった。これはたとえば親戚が死んで、その土地が売りに出たとき、それを買い戻す(これを「贖う」という)ことのできる権利である。
 ただし買い戻すときは、死んだ所有者の妻、あるいは死んだ相続者の妻と結婚して、死んだ者の名をその相続地に残す必要があった。ナオミはこれを利用して、ルツをボアズに嫁がせようとしたのである。
 ナオミは、死んだ夫エリメレクの畑を売ることを考えていた。もしボアズがそれを買い戻してくれたら、ルツは彼と正式に結婚できる。
 ナオミはルツを、ボアズのもとに行かせた。ルツはボアズの足もとに寝て、彼に、
 「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおって下さい。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから」(九)
 と言った。衣のすそを女性にかけてやることは、結婚のしるしである(エゼ一六・八)。ルツは、買い戻しを通して私と結婚して下さいと、彼にプロポーズしたのである。
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15日 新約・ヘブル一章
 「ヘブル人への手紙」は、ユダヤ教の祭儀よりもキリストの救いがはるかに優れたものであることを説いた文書である。
 それを述べるにあたって、本章ではまず、キリストの神性について解説している。
 今日、キリスト教の異端と呼ばれるものがあるが、彼らの多くはイエス・キリストの神性を否定する。また、イエスは天使のひとりであり、天使長であった、とするものもある。
 しかし、ヘブル一章は、そうした見解を明確に否定する。
 「神は・・・・御子によって世界を造られました」(二)
 神は、「神の言葉」である御子キリストによって世界を創造された。キリストは創造のみわざに参加されたのである。つまり彼は、人間や天使のような被造物ではない。彼は万物に先だって存在されたかたである。
 「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり」(三)。
 御子は、神の本質を具現化されたかたであり、神性を持っておられる。彼は父なる神から生まれ出た子なる神であり、また永遠者であられる。存在および本質において、父なる神と一体なる救い主なのである。
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16日 旧約・ルツ記四章
 ボアズは、「買い戻しの権利」に従い、ナオミの死んだ夫エリメレクの畑を買い戻した。
 また、死んだ者の名をその土地に起こすために、エリメレクの息子マフロンの妻であったルツをめとって、妻とした。
 ボアズはまた、姑ナオミをも養い、共に住んだのであろう。ルツが子を産んだとき、その子はボアズにとっても、ルツにとっても、ナオミにとっても喜びとなった。
 母親ルツもその子を養育したが、おもに養育担当は、時間のある老婆ナオミであったろう。ナオミはいつも子と共にいたので、近所の人々は、
 「ナオミに子が生まれた」(一七)
 と言うほどであった。
 かつてナオミは、夫や息子たちに先立たれて失意のうちにベツレヘムにやって来た時、人々に、
 「私をナオミ(快いの意)と呼ばないで、マラ(苦しみ)と呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから」(一・二〇)
 と言った。しかし、今や彼女は自分がナオミと呼ばれることを、快く感じたことであろう。全能者が彼女に、大きな幸福をお与えになったからである。
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17日 旧約・第一サム一章
 「サムエル記第一」は、預言者サムエル、サウル王、またダビデ王の生涯の一部を、伝記風に記した書物である。
 それは、王のいない士師時代を経たのちにイスラエル統一王国が形成される過程を記したものであり、年代的には紀元前一一〇〇〜一〇〇〇年頃のことである。
 本章は、イスラエルにおける最初の預言者サムエルの誕生に関するものである。彼は、母ハンナの祈りによって誕生した。
 不妊の女であったハンナは、ひどく悩み苦しみ、その顔には苦渋が浮かんだ。彼女は主の宮に行き、心を注ぎ出して祈った。長くそこにいたのだが、祈り終わると、彼女の顔には平安が満ちた。
 「彼女の顔はもはや以前のようではなかった」(一八)。
 心を注ぎ出して祈ると、祈りがすでに聞かれたという確信と、不思議なほどの平安に心が満たされ、それが表情にも現われるものである。
 これは、そのような祈りをしたことのない人には、決してわからないであろう。神は多くの場合、私たちのもだえるほどの祈りを通して、事をなされるのである。
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18日 新約・ヨハネ二一章
 かつてペテロは、三度にわたってイエスを否認した。しかしそのペテロの心をいやすために、主は彼に三度「私を愛するか」とお聞きになる(一五〜一九)。
 主はペテロの「愛します」という言葉を聞くと、さらに彼に言われた。「私の羊を飼いなさい」(一七)。また「わたしに従いなさい」(一九)。
 もしこのやりとりがなかったら、ペテロの心はいやされないまま残り、その後の力強い宣教の働きはできなかったに違いない。しかし、ペテロはこれを通して、自分のような弱い者をさえ用いてくださる恵みの主に対し、死に至るまで忠実であろうと再び決心できたのである。
 あなたは、ペテロと同じ様な失敗を犯したことがあるだろうか。ほとんどの人が、彼と同じようにイエスを否認するような行為をしてしまったことがあるのではないだろうか。
 しかし、そうした私たちに、主は再び「あなたはわたしを愛するか」と言われる。そして「わたしに従いなさい」と。
 私たちは、主イエスのその御言葉によっていやされ、死に至るまで忠実であろうと再び決心することができるのである。
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19日 旧約・第一サム二章
 ハンナは一年前、主の御前に祈って、自分の子が与えられるとの約束を祈りの中で得た。そしてその約束がかなえられたとき、ハンナも、主に対する約束を果たした。彼女は生まれた子サムエルを、一生涯主にささげたのである(一・二八)
サムエルは、祭司エリのもとで育てられた。
 ところが祭司エリの息子たちは、よこしまな者たちで、主の前に悪を積み上げていた(一二)。サムエルは、彼らの悪に染まることなく、心身ともにすこやかに育った。
 祭司エリの息子たちの行なった悪は、もし「レビ記」等の時代だったならば、即刻死刑にされたものである。実際、荒野流浪時代に大祭司アロンの息子たちが主の命令に反する香をたいた時、彼らはその場で主によって殺された(レビ一〇・二)。
 祭司エリは、自分の息子たちの悪がどれほどのものか知っていたはずである。しかし、時折は叱ったものの、とくに厳しい態度をとらなかった。
 そのため、彼の家はやがて主から捨てられてしまう。神は、ご自身を尊ぶ者を尊び、さげすむ者を軽んじられるのである(三〇)。
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20日 旧約・第一サム三章
 主はしばしば、「静かな細き御声」によって語りかけられる。少年サムエルは、三度にわたってその御声を聞いた(八)。サムエルが、
 「主よ、お話しください。しもべは聞いております」(九)
 と言うと、主はこれから起こることについて、彼に告げられた。
 しかしその内容は、エリの家への災いについてだったから、サムエルはそれをエリに知られることを恐れた。
 エリはサムエルに、包み隠さず話すように迫った。サムエルが話すと、エリは主の御前に反抗的になることなく、
 「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」
 と言って、かえって主の御前にひれ伏した(一八)。
 この場合の「主のみこころ」は、エリの家への罰である。にもかかわらず、彼はそれをひれ伏して受け入れ、主をほめ讃えた。
 主から来るものが、幸いでも災いでも、それをほめ讃えて受ける。こうした信仰は、ご利益宗教の人々には理解できないに違いない。しかし、これこそ真の信仰の姿であろう。
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21日 新約・ヘブル二章
 私たちはとかく、天使は人間よりも偉い、と思いがちである。たしかに、現在人間は堕落のゆえに「御使いよりも、しばらくの間、低い者と」されている(七)。
 しかし本来は、人間のほうが天使よりも上の者なのである。
 天使はみな「仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるために」創造された者たちである(一・一四)。たとえば、ここにひとりの大富豪と、その子どもたちがいたとしよう。
 彼らは大邸宅に住み、そこには何人もの執事やメイドが、その家族のために働いている。もしこの大富豪を神とすれば、その子どもたちが人間であり、執事やメイドたちは天使にあたる。
 人間は、神の子となるために造られた。天使は、彼ら「神の家族」に仕えるために創造されたのである。
 神の家族の長子(長男)は、イエス・キリストである。私たちは彼につながることによって、神の子としての権利を回復する。そして、神の莫大な富を相続する権利も得るのである。
 主イエスが私たちを「兄弟」と呼んでくださる幸いを、感謝しよう(一一)。
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22日 旧約・第一サム四章
 ペリシテ人とは、紀元前一五〜一三世紀頃にパレスチナの地中海沿岸地方に侵入し、定住した民族である。彼らは、しばしばイスラエル人をおびやかした。
 イスラエルはペリシテ人と戦ったが、敗戦し、しかも聖なる神の箱――契約の箱まで奪われた。その日、祭司エリのふたりの息子ホフニとピネハスも死んだ。これは、
 「ふたりとも一日のうちに死ぬ」
 という二章三四節の言葉の成就である。
 契約の箱は、主の臨在を象徴するもので、それが奪われたことは、もはやイスラエルに主がご臨在を置かれなくなったことを意味する。それがイスラエルの民にとって、どんなにショックだったかは、容易に想像できる。
 しかし、これはもともと、イスラエルの堕落が引き起こしたことだった。もっと早く悔い改めていれば、こんな状況は避けられたのである。
 神は人の罪を見ても、ある期間はそれを忍耐される。しかし、それにも限度がある。
 私たちの力は、主のご臨在にある。私たちは注意して、聖霊を悲しませないようにしなければならない。
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23日 旧約・第一サム五章
 「ダゴン」は、ペリシテ人の崇拝した神で、多神教の神々の一つである。
 ダゴンは豊饒祭儀神で、上半身は人間、下半身は魚の尾のようで、人魚を男性にしたような形をしていた。この神は、フェニキヤやアッシリヤ等でも崇拝された。
 ペリシテ人はヤハウェの契約の箱を奪ったものの、それは行く先々で災厄をもたらした。箱は彼らの神ダゴンの像を倒し、設置された地の住民にも、恐慌や腫物をもたらした。
 もともとペリシテ人は、契約の箱が自分たちの所にあれば、それが御利益をもたらしてくれるだろう、とでも思って奪ったのであろう。しかし契約の箱は、それさえあれば御利益があるというような魔術的なものとは違った。
 それはヤハウェなる神を崇拝する所では祝福をもたらすが、その信仰のない所には、逆に災厄をもたらすのである。
今日、多くの日本人は「お守り札」などを持って、それさえあれば自分に御利益があるというような気持ちでいるようだ。しかし、そのようなものは真の神とは何の関係もないので、持っても、御利益もなければ災厄もないのである。
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24日 新約・使徒一章
 「聖霊のバプテスマを受ける」(五)とは、聖霊が下ることである。聖霊が力をもって臨み、人の魂の奥底まで満たすことである。
 弟子たちは、イエス昇天からペンテコステの日に至るまでの一〇日の間、「屋上の間」で連日、祈祷会を続けていた(一四)。聖霊は、熱心に祈る者の上に臨むからである。
 聖霊は、目に見えないかたちで、クリスチャンや求道者に、常に影響をお与えになっている。聖霊の働きは、神を求めるすべての人に及ぶ。
 しかし、ここで弟子たちの待っていたのは、聖霊の単なる「影響」ではない。そうではなく、聖霊が、これからのすべての宣教の働きの指導者、また主人公となってくださることを待ち望んでいたのである。
 聖霊が主人公であり、私たちはその「器」に過ぎない。祈りは、私たちを聖霊の器にするための、唯一の手段である。
 祈りによって、私たちが心を注ぎ出し、神によって魂を清めていただくとき、はじめて聖霊がそこに住み、快く働かれる状態になる。祈りによって、聖霊を内に受け入れよう。そして聖霊に満たされ、存分に活動していただこう。
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25日 旧約・第一サム六章
 主の箱は七か月間ペリシテ人の所にあったが、あまりに災厄が下るので、彼らはたまりかねてイスラエルに返すことになった。
 彼らは返すための方法を、ダゴンに仕える祭司や占い師にうかがった。(二)。祭司らは、その方法を述べた後、もし箱を載せた車が、
 「ベテ・シェメシュに上って行けば・・・・」(九)
 と言った。その言葉通り、車はまっすぐベテ・シェメシュに上って行った。これは箱の置かれていたエクロンから一番近いイスラエルの町であった。
 イスラエルの神は、箱がご自身のものであることをペリシテ人にも示すために、ペリシテ人の祭司の言葉通り、車をベテ・シェメシュに向かわせられたのである。
 ベテ・シェメシュの人々は、主の箱が来るのを見て、驚きながらも喜んだ。箱が着くと、彼らはそれを安置し、全焼のいけにえをささげるなど、主への信仰を表した。
 しかし彼らは、大きな失敗を犯した。興味本意から箱の中をのぞき、主の裁きを招いたのである。箱は神聖なものであるから、勝手に覗いたり、触れたりすることは厳禁とされていた。
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26日 旧約・第一サム七章
 サムエルの説教に従い、イスラエル人は主の御前に悔い改め、偶像バアルやアシュタロテを取り除き、主にのみ仕えた。
 するとイスラエル人は、ペリシテ人を征服することができた。ペリシテ人は「二度とイスラエルの領内に入ってこなかった」(一三)。
 単純な結末である。しかしこの単純さにこそ、信仰の真理がある。
 神は、ご自身を愛する者を祝福し、ご自身を捨てる者を軽んじられる。神のご態度は、最初から最後まで一貫している。
 主イエスも言われた。
 「わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います」(マタ一〇・三二〜三三)。
 祝福を得る道は、決して複雑ではなく、むしろ非常に単純である。
 それは、まつわりつく罪をかなぐり捨てて、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの父なる神と、その救い主キリストを愛することである。
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27日 新約・ヘブル三章
 かつてイスラエルは、出エジプト後、四〇年にわたって荒野を放浪し、「乳と蜜の流れる」約束の地カナンに入った。
 じつはこのことは、私たちクリスチャンのための予型である。私たちは、キリストの十字架によって「出エジプト」をし、罪と滅びの定めから脱出した。
 現在私たちは、荒野のようなこの世にあって、人生を歩んでいる。しかし、やがて安息の地――約束の至福の国・天国に入ろうとしているのである。
 だから、私たちが人生の荒野の旅を全うし、無事に安息に入るためには、「最初の確信を終わりまでしっかり保」たなければならない(一四)。また、「もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」(一五)。
 私たちに必要なのは、神の御前における素直さである。自分の罪を認め、心砕かれて悔い改めたあのダビデのような素直さである。
 もし、心をかたくなにするなら、私たちは滅びるであろう。私たちに必要なのは、素直さと、神に対する服従である。
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28日 旧約・第一サム八章
 民は、「私たちをさばく王を与えて下さい」と言った(六)。
 「さばく」とは「治める」の意味である。彼らは、外国と同じように、強大な権威を持つ王に治められることを願った。
 さばきつかさ(士師)と王の違いは、おもに権力の大きさにある。さばきつかさには税を取り立てる権利がなかったが、王にはそれがあった。また王は、将軍としても行動し、軍事的にも政治的にも権力を一身に引き受けていた。
 もしイスラエルの民が、まことを尽くして主の道に歩むなら、王は必要なく、さばきつかさだけで充分であったろう。しかしイスラエルの民は、堕落しやすかったので、神は民の声を聞き入れ、王を立てることを許容された(九)。
 こうして士師時代は終わり、イスラエル統一王国時代がやってくる。統一王国時代に、王は三人登場する。サウル、ダビデ、ソロモンである。
 このうち二番目のダビデは名君とも言われ、イスラエル史上名高い王である。しかし、彼も深刻な罪を犯した。
 またサウルと、ソロモンは、初めは良かったが、後半は堕落し、国に災厄を招くことになる。
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