聖書一日一章

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1日 旧約・箴言二五章
 
「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に、燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いて下さる」(二一〜二二)。
 敵への愛、非暴力とはこのことである。この言葉は、ローマ人への手紙一二・二〇においても用いられている。
 自分を憎む者がもし窮乏していれば、「いい気味だ」「それみたことか」と思うのが普通の人ではないだろうか。しかし、そういうときにこそ隣人愛を示しなさいと、神はあなたに命じておられる。
 フローレンス・ナイチンゲールは、敵味方の区別なく傷病兵を看護した。私たちも、相手が誰であろうと隣人愛を示せる者になりたい。
 私たちが生まれつき愛の人だというわけではない。むしろ、私たちは愛のない者たちばかりではないか。しかし、神の愛を知った私たちに対して、神が愛しなさいと言われるのだから、愛する。
 そうしているうちに、実際に愛の人に成長するのである。愛は実践すると成長する。そして花実をつける。
 愛を何か特別な出来事とするのではなく、愛を生活するようにしたい。
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2日 新約・ルカ一九章
 主イエスがエルサレムに入城しようとするとき、弟子たちや人々は「喜んで大声に神を讃美し始めた」(三七)。
 あまりの喜びように、パリサイ人のある者たちは、「先生、お弟子たちをしかってください」と言ったほどであった。
 しかし、このように喜ぶ弟子たちと群衆とは裏腹に、ただひとり主イエスは涙を流し始められた(四一)。エルサレムの都が見えたとき、主は、やがてエルサレムに襲いかかろうとしている破滅を思って、憂いの涙を流されたのである。
 この破滅は、四〇年後の紀元七〇年に、ローマ帝国の軍隊がエルサレムを破壊したときに起こった。主イエスにとってエルサレム入城は、歓喜の入城ではなく、むしろ悲しみの入城だったのである。
 国を思う憂い、人々を思う憂いは、偉大な人物の特質である。愛は憂う。愛は憂いの涙を知っている。
 しかし、主は憂いの涙を流しながらも、前進し続けられた。感情は憂いに押し流されそうだが、それでも、なすべきことは日々なしていく。
 それは、神のご計画を実現する時が今や目前に迫っていたからである。
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3日 旧約・箴言二六章
 
ここでいう「愚かな者」は、頭の回転の遅い者のことではない。学校の成績の悪い者のことでもない。心の曲がった者のことである。
 「なまけ者」(一三)、「隣人を欺く者」(一九)、「陰口をたたく者」(二〇)、「争い好きな人」(二一)「憎む者」(二四)、また「偽りの舌」「へつらう口」(二八)を持つ者が、「愚かな者」である。神の教えを無視する者たち、そして「主をおそれない」者たち――彼らが「愚かな者」である。
 愚かな者は、いつの時代にも、どこの国にもいる。上流社会にも、下流社会にも、政治家の間にも、教師の間にも、サラリーマンの間にも、農民の間にも、ありとあらゆる所にいる。
 いや、というよりは、すべての人は何らかの愚かさを持っている。人によって多少程度の差があるだけである。この愚かさのために、多くの人は人生の回り道をしたり、ときには取り返しのつかない失敗をする。
 「犬が自分の吐いた物に帰ってくるように、愚かな者は自分の愚かさを繰り返す」(一一)。
 私たちのすべきことは、愚かさを繰り返さないことである。
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4日 旧約・箴言二七章
 
「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ」(一)。
 人は心に様々な計画をたてる。しかし、明日の計画を誇ってはいけない。予定は未定である。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからである。
 主イエスのたとえ話に出てくる金持ちは、一生遊んで暮らせるほどの財産を倉にためこみ、心の中で「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言った(ルカ一二・一九)。
 しかし、彼の命はその夜取り去られた。あなたは、一日のうちに何が起こるかを知らない。
 かつて古代のバビロン帝国は、世界一の繁栄と栄華を誇った。しかし、その没落は早かった。歴史家によれば、バビロン帝国はペルシャ帝国の攻撃の前に、わずか一日のうちに壊滅したのである。
 また聖書によれば、終末の時代に世界に君臨する「大バビロン」も、神の裁きによって、わずか「一日のうちに」壊滅するであろう(黙示一八・八)。
 私たちは、繁栄したとき、神を恐れることを忘れやすい。しかし、そのときこそ、それを忘れてはならない。
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5日 新約・コロサイ二章
 信仰生活とは、清く、正しく、道徳的な生活を歩むよう努力することであろうか。
 もちろん、清さや、正しさ、道徳的生活というものは、健全な信仰生活の結果として当然現われてくるものである。しかし、それを獲得するよう単に努力することが信仰生活なのではない。
 信仰生活とは、「キリストにあって歩む」ことである。
 「あなたがたは・・・・主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい」(六〜七)。
 自分がキリストの内にいることを、常に覚えることが信仰である。そして、自分の人生をキリストのうちに建てる。
 あなたの人生は、キリストの大きな御手の中に包まれている。キリストは、常にあなたと共にいて、あなたの出ると入るとを守られる。
 だから、いつも、私たちはあふれるばかりに彼に感謝する。キリストと一体の者として、一心同体の者として歩むこと――それが信仰である。
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6日 旧約・箴言二八章
 
人の価値は、人の富にあるのではない。
 「貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる」(六)。
 貧しいことは、恥ではない。むしろ人間としての最大の恥は、不誠実なことである。私たちは誠実の価値を忘れることはできない。
 聖書は、世の終末が近づいた時代に、人々はますます邪悪な者たちになるであろう、と述べている。しかし、周囲の者がたとえどんなに邪悪になり、不誠実が当たり前のような世の中になったとしても、神はなお私たちに、誠実な生き方を求めておられる。
 自分の良心に恥じず、神の御前に恥じない生き方を志すなら、私たちは永遠に、自分を恥じることなく生きることができるであろう。
 とはいえ、たとえ自分では誠実に生きているつもりでも、何らかのコミュニケーション不足や誤解のために、はからずも人を傷つけてしまうことがしばしばある。
 そうしたとき、私たちは人間としての小ささを感じざるを得ない。なかなか完璧にはなれない。だからこそ、私たちは信実な主イエスにより頼む。
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7日 旧約・箴言二九章
 「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである」(一八)。
 この節の前半は、以前の訳では、「幻なければ民滅ぶ」となっていた。そしてこの言葉は、将来の夢やビジョン(幻)がなければ、民は展望を失い、国はたちゆかないという意味で語られていた。
 そういう意味にとるのも、第二義的にはよいであろう。しかし第一義的には、この言葉は、神の啓示や御教えがなければ民の間に罪が横行し、その結果民は滅びる、という意味なのである。
 聖書でいう「幻」は、預言者たちが神から受けた啓示をいう。神のみこころや、御計画の多くは、預言者に対して預言的幻のかたちで見せられたことが多いからである。
 それはエゼキエル書や、ヨハネ黙示録などを読むと、よくわかる。また使徒パウロは、ヨーロッパ伝道をすべきとの確信を、ある夜、神からの幻の中で与えられた(使徒一六・九)。
 神の啓示、幻は、今『聖書』と呼ばれる一冊の麗しい書物となって、私たちの手もとにある。この書に従うことにより、私たちは神のみこころの中を歩み、永遠の命に至る。
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8日 新約・ルカ二〇章
 
祭司長、律法学者、長老たちは、イエスを神から来られたかたとは信じていなかった。そればかりか、バプテスマのヨハネについても、彼を神からの預言者とは認めていなかった。
 「ヨハネのバプテスマは天から来たのですか、人から来たのですか」 と主イエスがお聞きになったとき、このユダヤ人指導者たちは、
 「もし天からと言えば、それならなぜ彼を信じなかったか、と言うだろう」(五)
 というようなことを互いに話し合った。ヨハネを預言者と認めていなかったからである。彼らはヨハネからバプテスマを受けようともしなかった。
 すなわち、ユダヤ人指導者たちが主イエスを神からのお方と信じなかったのは、イエスがあまりに革命的だったからではない。イエスに比べれば、ヨハネは奇跡を行なうこともない普通の預言者だった。
 そのヨハネをも、ユダヤ人指導者たちは信じなかった。彼らの霊的盲目は、徹底していたのである。
 かたくなな心は、神を見えなくする。私たちに必要なのは、やわらかい砕かれた心である。
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9日 旧約・箴言三〇章
 
本章はアグルの言葉だが、アグルに関する詳細は不明である。
 彼は、二つのことを神に求めた(七〜九)。一つは、
 「不信実と偽りとを私から遠ざけて下さい」
 であった。自分が不信実と偽りの人々の中で生きないこと、また自分自身が不信実と偽りの者とならないことを、彼は願った。
 またもう一つの願いは、
 「貧しさも、富も私に与えず、ただ私に定められた分の食物で私を養って下さい」
 であった。衣食住が足りれば十分と考えたのである。多くの富を得ることは求めなかったが、貧乏も望まなかった。
 「私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とは誰だ』とは言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために」
 と彼は言った。彼の願いは、神の栄光を第一に思う思いに根ざしていた。
 神は、こうした富に執着しない者たちに、多くの富をお与えになることがある。それはこうした人々は富を、自分のためにではなく、神と人々のために活用するからである。
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10日 旧約・箴言三一章
 
本章には、「マサの王レムエルが母から受けた戒めの言葉」という表題がついている。しかしレムエルについても、彼の母についても、詳しいことは何も知られていない。
 ただ、彼が王として治めていた「マサ」の地は、アラビヤ半島にあるイシュマエルの子孫の住んだ地域と考えられている(創世二五・一四、一六)。
 したがって、マサの王レムエルは、イスラエル人ではなかった。彼の母も、イスラエル人ではなかった。が、彼女が「主」(ヤハウェ)を信じる信者だったことは、三〇節に「主」の御名が出てくることからもわかる。
 彼女は、神ヤハウェを信じる異邦人信者だった。マサの地の人々は、アブラハムの子イシュマエルの子孫として、神ヤハウェを信じ続けていたのである。
 レムエルの母は、レムエルに、王として道を守り、性におぼれず、酒におぼれず、正しい「さばき」(裁判)をするよう諭した。世の男性は、その言葉に教えられるところが多いのではないか。
 また彼女は、「しっかりした妻」の特質と価値についても語った。世の女性は、その言葉に教えられるところが多いのではないか。
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11日 新約・コロサイ三章
 キリスト者は、主イエスを救い主として信じたとき、新しく生まれ、信仰義認の恵みを得、神の子とされ、永遠の命に入れられる。
 しかしそのときキリスト者は、まだキリストにある赤ん坊として誕生したばかりなのであって、幼な子にすぎない。キリスト者はその後、神の子としての成人になるまで、成長し続けなければならない。
 キリスト者として成人になるために、大きなきっかけになるのは、
 「古い人を、その行ないと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着る」(九〜一〇)
 という霊的体験である。単に自分の信仰によって、主イエスの恵みにより神の御前に義と認められたと信じるだけではない。自分が「古い人」に死んで、「新しい人」によみがえったと信じ、その信仰に全身全霊をあげて生きることである。
 この信仰に生きる者は、文字通り、新しい生き方に目覚める。その人は「造り主(イエス)のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至る」。
 私たちは、未信者時代と比べて、生き方がどれほど変わっただろうか。私たちの目標は、キリストに似た者となることである。
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12日 旧約・伝道者の書一章
 本書は、ソロモンが記したものである。
 「空の空。すべては空」(二)という彼の言葉は、仏教的な「空」の思想とは少し違うが、共通するところもある。ソロモンの言う「空」は、すべては移り変わる諸行無常の世界を言っている。
 仏教の「空」を説いたシャカ(本名ゴータマ・シッダルタ)は、シャカ族の王子であった。ソロモンは、イスラエルの王であった。
 王や王子は、物質的繁栄の極致に住んでいる。庶民は、欲しいものを得るために長い間あくせくと働かなければならない。しかし王や王子は、欲しいものを早くからみな手に入れてしまう。
 それで彼らは、人生は単に風のように過ぎ去っていくものにすぎないと、早くから感じ始める。
ローマ八・二〇によれば、現在すべての被造物は、罪のゆえに「虚無」に服している。現在の世界は神を離れては虚無であり、空にすぎない。
 これは人生は虚しく価値のないものだとする、いわゆる「虚無主義」を私たちに教えるためではない。むしろ、神を離れた世の虚無を知って、神と共に生きる幸福に目を向けようとするのである。
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13日 旧約・伝道者の書二章
 ソロモンはこの書を、聖人として書いているわけではない。
 旧約聖書の記録によれば、ソロモンは、王になったばかりの時は敬虔で立派な信仰の持ち主であった。しかし、やがて多くの妻やそばめを持つようになり、また彼女たちが王宮に持ち込んだ偶像を慕うようになった。
 彼は富と快楽におぼれ、民に重税を課し、王としての道を踏み外すようになった。こうして、後半生の彼は堕落したのである。
 しかし、堕落を通して彼が悟ったことがあった。それはこうした富と快楽におぼれる生活は、決して幸福ではない、ということである。
 「私は生きていることを憎んだ。日の下で行なわれるわざは、私にとってはわざわいだ。すべては虚しく、風を追うようなものだ」(一七)
 は、そのときの彼の心境だったのである。
 私たちがもし、快楽や、仕事また事業に励むこと、富を得ること、邸宅を建てること、豊かな暮らしをすることなど――それ自体の中に幸福を求めるなら、そこに得られる幸福は一時的であり、刹那的である。そして、いずれは単なる虚しさとなって心に残るだけであろう。
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14日 新約・ルカ二一章
 主イエスのご再臨が間近になったとき、世界は「患難時代」を迎える。患難時代は、大きく三期に分けられる。
 第一期には、戦争や、暴動、にせキリスト、大地震、疫病や、ききん、天変地異、迫害等が繰り返し起こる(八〜一九)。
 つぎに第二期は、「エルサレムが軍隊に囲まれる」ことに始まり(二〇)、「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」(二四)。
 「異邦人の時」について、ある人々はこれは現在のことと言うが、そうではない。これは未来に属する。黙示録一一・二によれば、それは患難時代中の「四二か月」、すなわち三年間半である。
 マタイ福音書によれば、第二期には、すでにエルサレムにユダヤ教の神殿が再建されている。エルサレムを踏みにじる者たちは、そこに「荒らす憎むべきもの」を立てる。
 「荒らす憎むべきもの」は、将来現われる世界的暴君「獣」をかたどった偶像である(ダニ一一・三一、Uテサ二・四、黙示録一三・一五)。
 その後、天変地異と、ハルマゲドンの戦い、キリストの再臨の時である第三期が来る(二五〜)。

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15日 旧約・伝道者の書三章
 「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」(一一)。
 人には「永遠への思い」がある。「永遠への思い」は、人と動物とを区別する。
 昔から、人は永遠の命、永遠の真理、永遠の愛を求めてきた。宗教は、どこの国にもあり、いつの時代にもあった。現代でも、たとえ科学がどんなに発達しようと、宗教はなくなることはない。
 それどころか、この日本でも数多くの宗教が乱立している。これは人に「永遠への思い」があるからである。しかし、この聖句は、
 「人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」(一一)
 と続いている。人が始めた宗教に数多くの種類があるのは、このためである。人の悟りや思想に基づいた宗教では、神のことを十分に知ることはできない。
 宗教には、人からの宗教と、神ご自身からの宗教がある。キリスト教は、他のすべての宗教とは違い、神ご自身に発し、神の御子イエス・キリストを通して啓示された真の神の御教えである。
 これは神ご自身からの宗教であるから、私たちを救う力がある。
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16日 旧約・伝道者の書四章
 
「ふたりは、ひとりよりもまさっている」(九)。
 神が、男女の間に一夫一婦の結婚を定められたのは、このためである。
 「ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。・・・・ふたりが一緒に寝ると暖かいが、ひとりではどうして暖かくなろう」(九〜一一)。
 夫婦の間で愛と協力の関係が十分に出来ているとき、その夫婦は、互いに独身でいたときよりも大きなことができる。
 神が夫婦を創始されたのは、人の働きと幸福を大きくするためである。さらに、人生の困難に力強く立ち向かえるようにするためである。
 「もしひとりなら打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ拠りの糸は簡単には切れない」(一二)。
 なぜ、これまで「ふたり」について語られてきたことが、ここで「三つ拠りの糸は簡単には切れない」と、「三つ」になるのだろうか。
 残りの「一つ」とは何か。それはイエス・キリストである。
 夫婦の完成は、主イエスと、夫と、妻が三位一体になり、一心同体となることにある。この三本の糸がしっかり拠り合わされるなら、それは簡単には切れない。
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17日 新約・コロサイ四章
 本章には、今は詳しいことが知られていない幾人かの聖徒たちの名が出てくる。
 「主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべ」と呼ばれたテキコ、また「忠実な愛する兄弟」オネシモ――彼はもとは奴隷であった(ピレ一六)。
 またパウロと「一緒に囚人となって」いたアリスタルコ――彼はテサロニケのマケドニア人であった(使徒二七・二)。
 そして「バルナバのいとこ」マルコ――マルコの福音書の著者であるが、彼はパウロの第一回伝道旅行の途中、エルサレムに帰ってしまった。それで第二回伝道旅行では、パウロが彼の同行を拒否し、バルナバとの間で意見の食い違いが起こった。
 しかし、マルコを歓迎するようにとパウロがこの手紙に書いているところを見ると(一〇)、パウロとマルコの関係はのちに改善されたようである。
 ほかに、パウロと共に「よろしく」と伝えている「ユストと呼ばれるイエス」の名もあるが、彼については詳しいことは何も知られていない。
 私たちに知られていない聖徒たちは多い。しかし、彼らはみな、神にすべてを覚えられている。
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18日 旧約・伝道者の書五章
 
ソロモンは、諸行無常のこの世を空しいと言い続けてきた。では、彼は厭世家ショーペンハウエルのように、生よりも死を望むのだろうか。
 そうではない。ソロモンはなおこの世には、幸福があるという。
 「神が・・・・人に許される命の日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つける」(一八)ことが「人の受ける分」であり、人の幸福なのだと彼はいう。人生にはたとえ、労苦が多くても、ささやかな幸福や喜びが全くないわけではない。
 「じつに神は、すべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である」(一九)。
 苦労の中にも、日常生活の小さな事柄においてささやかな幸せを求めることは、神が許されたことである。人はその幸せを楽しんでよい。
 よく見渡すなら、神は様々な恵みを周囲に置いて下さっている。そうした恵みを見いだして喜ぶ人は幸いである。
 「こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ」(二〇)。
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19日 旧約・伝道者の書六章
 
もし人が「千年の倍生きても、しあわせな目に会わなければ」、その人よりは死産の子のほうがましだと、ソロモンは言う(三〜六)。
 たとえどんなに長く生きても、幸福をつかめないとすれば、その人の人生は空しい。人生の意味は幸福になることにある。真の幸福をつかむことで、はじめて「人生」と言えるのである。
 しかし、多くの人は間違った仕方で幸福を求めているから、なかなか幸福になれない。
 もし私たちが、人生を幸福にする真理を知ることなく生き、また死ぬなら、単なる「影のように過ごす空しいつかのまの人生」(一二)で終わってしまう。
 人生を幸福にする真理は、この世自体の中にはない。そこには、流転し変転する世界があるだけである。それは影のように過ぎ去り、移り変わっていく。
 あなたを幸福にするのは、上なる天にいます永遠者のほかにおられない。永遠の神は、ご自身のうちに幸福の源泉を持っておられる。
 この方と共に歩むとき、私たちはいかなる世界にあっても、真の幸福をつかむことができるのである。
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20日 新約・ルカ二二章
 
主イエスは、「過越が神の国において成就するまでは・・・・」(一六)と言われた。この「過越の成就」の時とは、いつのことだろうか。
 それは主イエスの十字架の死の時をさすのか。それとも、各信者の死の時のことだろうか。
 どちらでもない。これは、かつてイスラエル人が出エジプトをした時のことを考えてみれば、わかる。
 イスラエル人は、ユダヤ暦一月一四日の夕暮れに「過越の小羊」をほふった。主イエスの十字架死は、これに相当する。
 つぎに、翌一五日の夜、裁きの天使が出ていって、エジプト全土に裁きを下した。エジプト中の長子は死んだ。
 しかし、小羊の血を家の入り口にぬっていたイスラエル人の家庭では、このことは起こらなかった。裁きが彼らの上を過ぎ越したからである。このように「過越の成就」が起こったのは、過越の小羊がほふられた後しばらくしてからであった。
 「神の国で過越が成就する時」についてもそうである。これは、世の終わりの最後の審判の時をさす。そのとき、過越の小羊キリストの血を心の入り口にぬっている者の上を、裁きは過ぎ越していくのである。
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21日 旧約・伝道者の書七章
 
多くの人は、過去から今を見て生きている。
 「昔はあんないいことがあったのに、今はなにもない」「今私がこんなひどい目にあっているのは、昔あのことがあったからだ」
 そう言って多くの人は、過去から今を見た生き方をしている。いわば、過去に生きているのである。
 しかし、もう一つの生き方がある。それは、終わりから今を見て生きる生き方である。
 一〇〇メートル走をする選手は、目をゴールから決して離さない。マラソン選手も、ゴールまであとどれくらい距離があるかを、常に思いながら走る。終点から今を見ているのである。
 人生にもそれが必要である。人生の終点である死と、死後の世界――クリスチャンなら天国――を見つめながら今を考えて生きる生き方と、そうでない生き方とでは、確かに大きな差が出る。
 人生の終点を見つめることは、今の人生のあり方を考えさせるよい機会である。ソロモンはその意味で、
 「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行く方がよい」(二)
 とさえ言っている。死は、それまでの人生の集約なのである。
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22日 旧約・伝道者の書八章
 
「私は快楽を讃美する」(一五)
 という言葉は、いわゆる低俗な快楽のことを言っているのではなく、日常生活の中で神が私たちの労苦の中に添えて下さる、ささやかな喜びや楽しみのことを言っている。
 たとえば、飲食の時に「おいしい」と感じ、美しい自然の中を歩くとき「すがすがしい」と感じる。人のちょっとした親切が、心にしみることもある。こうしたことも、ここでいう「快楽」なのである。
 ソロモンは、この世は矛盾に満ちているという。この世ではしばしば悪人が長生きし、善人が苦しみを受けている(一二、一四)。
 「人が人を支配して、わざわいを与える」ことも多い(九)。こうした矛盾だらけの腐敗した世において、日常生活の苦労の中に神が添えて下さるささやかな喜びや楽しみは、人々に対するせめてもの慰めである。
 もちろん、こうした慰めがクリスチャンに与えられる喜びのすべてではない。クリスチャンには、ほかにも、人生で体験できる多くの素晴らしい喜びがある。
 しかし神は、クリスチャンでない人々にも、彼らの日常生活に楽しみや喜びを添えて下さっている。
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23日 新約・Tテサ一章
 
「私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです」(五)。
 クリスチャンの伝道において、宣教の「ことば」もおろそかにしてはならないが、最も大切なのは「力と聖霊と強い確信」である。
 もしあなたが、上手な言い回しで福音を語れなくても、それは全くかまわない。美辞麗句を並べる必要は全くない。
 たとえそのようなことをしても、言葉が浮いてしまって、それはもはやあなたの言葉ではないだろう。大切なのは、あなたが主イエスキリストの福音の真理を、自分の確信している事柄に関し、自分の言葉で語ることである。
 自分の救いの証しから始めるのも良い。そうすれば、その言葉には自然に「力と聖霊と強い確信」がこもるであろう。
 私たちは、伝道の手段として何を用いるのか。伝道の手段は真理である。真理を、人を回心させる手段として用いなければならない。真理には、人を回心させる力がある。それは聖霊が、私たちの語る真理を場として、回心のために人の心に迫って下さるからである。
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24日 旧約・伝道者の書九章
 
この世では、善人も悪人も、みないずれ死ぬ。幸福に生きた人も、不幸な生き方をした人も、みな最後は同じ死を迎える。
 「同じ結末がすべての人に来る」(三)
 のである。人生はおよそ公平ではないのに、死だけは公平に来る。
 また、旧約時代は、すべての人は死後「よみ」(ギリシャ語ハデス、ヘブル語シェオル)に行った。神を信じている者も、信じていない者も、みな「よみ」に行った(創世三七・三五)。
 信者と不信者とでは、よみの中の場所は違ったものの(ルカ一六・一九〜)、彼らはみな同じく「よみ」に下ったのである。
 今日、クリスチャンは死の直後に「天国」に迎えられる。しかし、このような恵みは、ソロモンの時代にはなかった。ソロモン自身、自分は死んだら「よみ」に行く、と理解していた。
 もしあなたがユダヤ教徒に会ったら、「あなたは死んだらどこへ行きますか」と聞いてみるとよい。その人は、「死んだら、わたしはよみに行きます」と答える。
 この意味でも、旧約時代と新約時代とでは大きな違いがある。
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25日 旧約・伝道者一〇章
 「なまけていると天井が落ち、手をこまねいていると雨漏りがする」(一八)。
 私たちは、人生において働ける年月はそれほど多くはない。
 二〇歳前後までは勉学のために時間をとられるし、七〇歳を越えれば体力がついていかなくなる。
 その間の五〇年間でさえ、一日の三分の一は睡眠にとられるし、もう三分の一は雑用やその他のことにとられるであろう。とすれば残りの三分の一、すなわち一七年程度が働きのための時間ということになる。
 人の一生は七〇〜八〇年と言っても、何かの生産的・建設的な働き、あるいは自分独自の働きのために費やせる時間は、一七年前後しかないのである。
 だから、なまけていて時間を浪費していると、そのうち人生の「天井が落ち、雨漏りがする」ようになってしまうであろう。
 あくせく働かなければいけないということではない。働きの量よりも、むしろ何をするかが大切である。
 そして、働くべき時に働かないと、働ける時は遠のいてしまう。人生は決して長くはない。
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26日 新約・ルカ二三章
 主イエスは盗賊のひとりに、
 「あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます」(四三)
 と言われた。盗賊は死後、イエスと共に「パラダイス」に行った。
 しかし使徒の働き二・三一によれば、イエスは十字架死の後、ハデス(よみ)に下られたのである。私たちはこれをどう考えればよいのか。
 「パラダイス」という言葉は、ふつう天国の別名である(黙示二・七)。しかし「パラダイス」には、もう一つの意味がある。それは、キリストと共にいることである。
 聖書は、キリストは天国の本体であられると記している(コロ二・一七)。そのキリストと共に行けば、たとえどこであろうと、そこはパラダイスなのである。
 罪赦された盗賊は、死後イエスと共に、ハデスに下った。しかし、イエスと共に行ったので、そのハデスでさえも彼にとってはパラダイスと同じだった。
 また、彼はイエスの昇天の際に、それまでハデスにいた旧約の聖徒たちと共に、イエスによって天国に引き上げられた(エペ四・八)。こうして彼は、天国という、輝く栄光のパラダイスに入ったのである。
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27日 旧約・伝道者一一章
 「若い男よ。若いうちに楽しめ。・・・・あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め」(九)
 は、いわゆる快楽主義を言っているのではない。単に好き勝手に生き、無責任でいいと言っているのではない。
 ソロモンの言う事はこうである。
私たちは人生を楽しんでよい。すべてのことは私たちの前にあるし、何をするのも自由である。
 しかし、私たちは自分の行為に対する神からの報いを後の日に受けることを、忘れてはならない。ソロモンは言う。
 「しかし、これらすべての事において、あなたは神の裁きを受けることを知っておけ」(九)。
 「裁き」とは、善悪を判断する神の裁判のことである。私たちはいずれ、蒔いた種を自分で刈り取るようになる。結果は自分に返ってくる。もしこのことを忘れないなら、あなたは何をするにも自由である。
 しかし、同じ自由なら、私達はその自由を奔放な生活のために用いるのではなく、神の栄光を現わす生き方のために用いるべきではないか。
 そうした生き方は、虚しい風のように過ぎ去るこの世界にあって、永遠的な価値を放つからである。
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28日 旧約・伝道者一二章
 人は、いつキリストを信じたとしても救われる。人生の終わりに信じた人も、人生の半ばに信じた人も、若き日に信じた人も、みな同じように救われる。
 キリストの十字架の横にいた強盗は、死の直前にキリストを信じて、パラダイスに入った。ほかにも、病床でキリストを信じ、まもなく息を引き取って天国に凱旋していった多くの聖徒たちを、私たちは身近に知っている。
 では、キリストを信じるのは、生涯の最後でよいのか。生涯の最後でキリストを信じても、あるいは若き日にキリストを信じても、そこには何の違いもないのか。
 いや、大きな違いがある。それは、若き日にキリストを信じた人には、神の栄光を現わして生きる、という祝福された生き方をする機会が、残りの人生において与えられるということである。
 この違いは大きい。そしてこれは、決定的とも言える違いである。だからこそ、人生の終わりが近づいて神とキリストを信じた人々の多くは、
 「もっと早く信じていれば・・・・」
 と悔やむのである。
 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(一)。
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29日 新約・Tテサ二章
 「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは誰でしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです」(一九〜二〇)。
 パウロは、テサロニケ教会の人々に関して、彼らは主イエスの再臨のとき、その御前でパウロたちの誉れとなり喜びとなるであろう、と言った。
 同様に、あなたの伝道で信仰に入った人々は、主イエスの再臨のとき、その御前においてあなたの誉れとなり、また喜びとなる。
 私たちは、自分自身のうちには何ら誇るべきものを持ち合わせていない。すべては主の恵みである。
 しかし、自分の伝道によって信仰に入った人々は、あなたが肉体を脱ぎ捨てたのちも、あなたの喜び、また楽しみとなり続けるであろう。
 人は大人になって結婚し、子どもをつくる。子どもの成長は、親にとっては大きな楽しみであり、喜びである。
 同様に、人はクリスチャンになったら、伝道の子を生み出したいものである。その子たちの成長は、導いた者にとって、大きな喜び、また楽しみとなるであろう。
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30日 旧約・雅歌一章
 
日本語聖書においては、本書は漢訳聖書の影響によって「雅歌」と呼ばれている。しかしヘブル語聖書においては、「歌の中の歌」すなわち「最上の歌」と呼ばれるものである。
 雅歌は、男女間の恋愛の賛歌であり、ソロモンによって作られた。このような賛歌が、なぜ「聖書」の一部として取り入れられたのか。
 第一に知ることは、聖書は男女間の健全な恋愛を、決して卑しめていない、ということである。
 仏教、とくにシャカの原始仏教においては、恋愛は修行のさまたげになるとされ、恋愛をする者は決して仏になれないとされた。これに対してキリスト教では、恋愛は必ずしも救いのさまたげではない。
 神は創造の始めから人間を男と女に造って、愛し合う者とされた。
 第二に、この賛歌に歌われた愛は、神とイスラエルの関係、またキリストと教会の関係の影なのである。
 聖書では、神とイスラエルは夫婦のような関係とされる(ホセア書)。また、キリストは花婿であり、教会はその花嫁である(エペ五・三二)。両者は深い愛で結ばれている。男女間の恋愛はじつに、至上のお方と人間のあいだに存在し得る至高の愛の関係の、影なのである。
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