聖書一日一章

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1日 旧約・詩篇九三篇
 私たちは地上では民主主義国家に住んでいるが、信仰の世界では王国に住んでいる。私たちは、
 「ヤハウェは王である」(一)
 と告白する者たちなのである。神は世界の真の王であり、日本の真の王であり、また私たちの人生の王であられる。
 人間は不完全であるから、人間が王となって君臨する場合は常に危険性が伴う。悪い人間が王となれば、民は悪政のもとに置かれる。しかし、優秀な人間が王となった場合は、民主主義国家よりもはるかに迅速に良い政策が展開していく。
 けれども、優秀な人間は決して多くなく、また人間には寿命があるから、優秀な人間であってもいずれ死んでしまう。したがって人間による王制には欠点が多いのである。
 しかし、永遠に生きておられる完全者が王となられるとき、その統治は完全である。腐敗した民主主義国家などとは比べることのできない完璧な政治が、そこに見られるであろう。
 神を王とする世界においては、民の間に真の平和と、繁栄と、幸福が宿る。私たちはこの地上にいるときから、すでにこの王国の国民なのである。
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2日 新約・第二コリ一〇章
 
「誇る者は、主にあって誇りなさい」(一七)。
 私たちが何かを誇るとしても、もし自分の栄光として誇るなら、それは空しいことである。自分の栄光など、所詮取るに足りない。
 しかし、もし神の栄光、主イエスの栄光として誇るなら、神はあなたを高く上げてくださるであろう。神はご自身の栄光のために働く者を、祝福せずにはいられない。
 私たちは、人からほめられれば、いい気分になるであろう。しかしそうした「いい気分」は、人を高慢にしやすい。
 だから、私たちはたとえほめられても、謙虚さを失わないことを心がけたい。誰かが言ったように、「恥はわがもの、栄光は主のもの」である。
 人から認められることよりも、主ご自身から認められ、よしとされることのほうが、はるかに大きな幸福である。
 私たちが求めているものは、自分の栄光であろうか。それとも主の栄光であろうか。
 自分の栄光を求めることは空しい。しかし主の栄光を現わすことには、大きな祝福が伴う。

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3日 旧約・詩篇九四篇
 ある男が、ある人に対して復讐することを誓っていた。彼の口癖は、
 「復讐するは我にあり」
 であった。彼によると、これは聖書の言葉なのだという。あたかも、復讐することは聖書の教えだと言わんばかりであった。
 確かに、これは聖書の言葉ではある。ローマ人への手紙一二・一九に、
 「復讐はわたしのすることである」
 と書いてある。しかし、この「わたし」「我」とは、神である。人間ではない。復讐は神のすることだから人間がしてはいけない、と聖書は教えているのである。
 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」(同)。
 私たちには、怒りを任せることのできるかたがおられる。真の正義を実現できるかたが、共におられる。
 大岡越前のさばきよりも、ソロモンのさばきよりも、すぐれたさばきをするかたが共におられる。だから私たちは、自分の怒りにまかせてはいけない。
 この世は矛盾に満ちているし、不正や悪行がまかり通っている。しかし、やがて神の正義が世界をおおう時がやって来る。私たちはその時を待ち望む。
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4日 旧約・詩篇九五篇
 七節以降の御言葉は、ヘブル三・七〜四・一三において、キリスト者に適用されている。
 「きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」(七〜八)。
 かつてイスラエルの民は、すでに神のみわざを幾つも見ていながら、目の前に困難を見たとき、心をかたくなにして神に逆らった。彼らは不平不満を言い、愚痴をこぼし、過去を慕って、エジプトに帰りたいと言った。
 そこで神は堅く誓って言われた。
 「彼らは、わたしの安息に入れない」(一一)。
 これは、信仰生活において不平や愚痴をこぼしているキリスト者に対する警告でもある。
 もし私たちが、信仰生活において、目の前に困難を見たとき、かつてのイスラエル民族のように不平を言ったり、愚痴をこぼしたりするなら、約束の御国である天国とその安息は私たちから遠ざかるであろう。
 私たちはイスラエル民族のように心をかたくなにするのではなく、謙虚になって、どんなときも神に感謝し、神を賛美しつつ歩んでいきたい。
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5日 新約・マルコ一五章
 イエスが十字架にかけられ、その日の午後三時頃に死なれたとき、ピラトはそれを聞いて、「イエスがもう死んだのかと驚いた」(四四)。
 というのは、十字架につけられた者が死ぬまでには数日かかるのが普通で、なかには一週間くらい生きる者もいたからである。
 だからイエスがわずか六時間で死なれたことは、ピラトには驚きであった。しかし、イエスが確かに死なれたことは、そのあと夕方にローマ兵がそれを確認し、さらにイエスのわき腹を槍で刺して「血と水とが出てきた」(ヨハ一九・三四)という記述からも知れる。
 「血と水」という表現が、体内の血液がすでに赤い血球部分と、透明な血清部分とに分かれていたことを意味するのだとすれば、イエスは心臓破裂か何かの原因によって死に、かなりの体内出血をしておられたことが想像される。
 これは、十字架上の主イエスの御苦しみが尋常のものではなかったことを物語っている。主はあのとき、父なる神からの無限の隔たりに追いやられた。
 それは彼に、恐ろしいばかりの苦しみをもたらしたのである。しかし、それも全ては私達のためであった。
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6日 旧約・詩篇九六篇
 信仰に前進があり、リバイバルが進むところでは、つねに「新しい歌」(一)が作られる。
 讃美歌集や、聖歌集におさめられた歌は、みな過去のそうしたリバイバルの中で作られた歌である。だから今日も、信仰の前進がある教会では常に「新しい歌」がつくられ、紹介される。
 生き生きとした教会は、音楽的にも生き生きとしている。現代でも「新しい歌」が常に作られているが、よいものならば自分たちの教会にどんどん取り入れるだけの、視野の広さを持ちたいものである。
 かといって、過去の名曲を忘れるわけではない。今まで歌い慣れた曲と共に、新しい曲も徐々に取り入れるようにしたら、讃美の時がより楽しいものとなるのではないか。
 私たちの信仰生活の中で、讃美の歌の持つウェイトは大きい。
 未信者が、歌謡曲を歌いながらドライブしたり家事をするように、またポップスやロックを聞きながら何かをするように、クリスチャンは讃美の歌を聞き、あるいは歌いながら日常生活を送る。
 讃美の歌は、祈りでもある。それは美しい旋律に乗って神に運ばれる、魂の祈りなのである。
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7日 旧約・詩篇九七篇
 
「主を愛する者たち。悪を憎め」(一〇)
 と教えられている。私たちは、悪人ではなく、悪を憎むべきである。
 ある日、教会に、近所の大学の哲学研究サークルの学生たちが訪ねてきた。彼らは、キリスト教の牧師や伝道者に対し議論をふきかけるために、やって来たのである。
 リーダー格と思われる学生が、挑発するように言った。
 「キリスト教では、敵をも愛せよと教えているそうだが、あなたは悪魔=サタンさえも愛せるのか」。
 彼のうちで「敵を愛せよ」という聖書の教えが、どうして「サタンを愛する」という考えに結びついてしまったのかはわからないが、彼はどうも聖書の矛盾をついて、相手を論破しようとしたようである。
 しかし、聖書は矛盾していない。聖書は、サタンについては、私たちが愛するのではなく、むしろ憎み、攻撃するよう教えているのである。
 「神に従いなさい。そして悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコ四・七)。
 私たちはサタンと悪を、愛さないようにしなければならない。サタンにも悪にも親しんではならない。
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8日 新約・第二コリ一一章
 教会は、「キリストの花嫁」である。
 私たちクリスチャンはみな、男であっても女であっても、「清純な処女として」「キリストの花嫁」に定められた者たちである(二)。
 その結婚は、キリストの再臨の時に行なわれる。花婿と花嫁が結婚によって一心同体の者となるように、再臨のキリストと教会は、一心同体となる。
 そのときキリストの永遠の命は、全キリスト者に流れ込み、全キリスト者はキリストと同じ「栄光のからだ」に変えられる。
 また、私たちは父なる神から与えられる富を、キリストと共に相続する。ちょうど花嫁が、結婚した時から花婿の姓をもって呼ばれるように、私たちはキリストの御名をもって呼ばれる。
 私たちは今、正式な「結婚」状態に入る前の「婚約中の身」である。婚約中の二人は、新居をかまえる時のことを思いながら、準備し、行動を共にする。また、貞潔を守る。
 婚約中の私たちの心は、すでに花婿なるキリストと一つである。それはすでに結婚した時と同様に、幸福な時である。
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9日 旧約・詩篇九八篇
 「地の果て果てまでもが、みなわれらの神の救いを見ている」(三)。
 事実、イスラエルにおける神の救いの歴史は、遠く日本にまで聞こえている。今日私たちは、全世界に広まった聖書を通じ、イスラエルの神の救いについて聞いている。
 しかしそれだけでなく、神の御子イエス・キリストにより、神の救いの体験は、今日地の果て果てまでにも及んでいる。日本人である私たちも、単なるうわさ話に神の救いを聞くのではなく、自ら体験しているのである。まさに、
 「全地よ。主に喜び叫べ」(四)
 と言いたい。いずれ、全地が神の完全な支配下に入り、神の正義と平和と繁栄が世界をおおう時がやって来る。私たち、神の救いを体験した者たちは、その時が来ることを人々に証しする者たちである。
 全地は神のものである。日本も、アメリカも、ヨーロッパも、中国も、ロシアも、アフリカも、東南アジア諸国も、オセアニア諸国も、みな神のものである。神の国とその支配が全地にやって来るときは近い。
 一人でも多くの者たちが、その時を神への讃美をもって迎えるように、私たちは伝道していきたい。
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10日 旧約・詩篇九九篇
 「主は聖である」
 と、三度にわたって述べられている(三、五、九)。
 「聖」という言葉は、神が罪と不浄なものから隔絶したお方であり、質的に他のものから全く異なっているお方であることを意味している。
 預言者イザヤは、あるとき幻のうちに天に上げられ、神を見る経験をした。イザヤによれば、神の御座のまわりではセラフィムと呼ばれる御使いたちが、
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」(イザ六・三)
 と、神の「聖」を三度にわたって宣言していた。その聖なる臨在の前に、預言者イザヤは恐れおののいて言った。
 「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる」(六・五)。
 私たちは、神の聖を知るとき、自己の罪汚れの恐ろしさに身が震える。
 しかし、この神の聖を経験したあとから、イザヤは偉大な預言者として活動に入ることができた。私たちも、神の聖を心の底から知るとき、クリスチャンとしての祝福された人生を始めることができるのである。
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11日 新約・マルコ一六章
 復活したイエスにお会いした、とある弟子たちが報告したとき、他の弟子たちはそれを信じようとしなかった(一三)。
 弟子たちは以前、イエスがナイン村の息子をよみがえらせたときの様子を見ていたし、ヤイロの娘や、ラザロの復活の様子も見ていた。にもかかわらず、まさかイエスご自身が復活するとは思いもかけなかったようである。
 これは、それだけイエスの死が確実だったということであろう。イエスの死は病死ではなかった。彼は十字架上で死んだのち、さらに槍でわき腹――おそらく心臓を突かれて、血液を多量に失っていたのである。
 そのような方が復活するとは、さしもの弟子達も想像だにしなかった。
 イエスの復活を信じない現代の学者達は、弟子達はイエスの復活を期待していたので、やがてイエスが復活したという信仰を抱くようになったのだ、というようなことを言う。
 しかし、福音書の記述はそうした説とは全く違う。弟子たちはイエスの復活を期待してはいなかった。しかし復活は事実起こり、弟子たちはそれによって初めて、目が開かれたのである。
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12日 旧約・詩篇一〇〇篇
 「知れ。主(ヤハウェ)こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」(三)。
 神は私たちの羊飼いであり、私たちはその牧場の羊である。羊飼いは羊のことを、いつも心に思う。そのように神も、私たちのことをいつも心に思っていて下さる。
 それは、神が私たちの創造者だからでもある。親は、自分の子供のことを気にかける。ましてや天地万物と人間の創造者である父なる神は、私たちのことを深く気にかけていてくださる。
 とくに、キリストによる贖いを信じてクリスチャンになった者たちのことを、神は忘れることができない。
 私たちは祈りの中で、
 「私の祈りは神に届いているだろうか。神に聞かれているだろうか。神は私の祈りに無関心なのではないだろうか」
 などと思う必要はない。神はあなたの祈りに、するどい聞き耳を立てておられる。神は魂の声に、深い関心を寄せておられる。
 そして、すぐにでもご自身の答えを、あなたに与えようとしておられるのである。
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13日 旧約・詩篇一〇一篇
 「陰で自分の隣人をそしる者」という言葉が、五節にある。陰口である。陰口は、罪の中でも大きなものの一つに数えられている。
 ある女子高校生のクリスチャンが語っていた。
 「学校で友達の間で話されることといえば、誰かの陰口がほとんど。もううんざりしました」。
 陰口は人を傷つける。そればかりか、陰口を語る本人の人格をもおとしめる。私たちは、陰口を言わない人間になれないのであろうか。
 福音書に、主イエスがザアカイという取税人の家に泊まられたという記事がある。そのとき人々は陰口を言って、
 「あの方は罪人のところに行って客となられた」(ルカ一九・七)
 とつぶやいた。しかしイエスは言われた。「この人もアブラハムの子なのですから」(一九・九)
 主イエスは、ザアカイの悪い面よりも、良い面を先に思われた。人間には必ず良い面と悪い面の両方がある。私たちは人の悪い面よりも、良い面を先に思うようにしよう。
 「この人も神の子なのだ」
 という思いを先に持つのである。
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14日 新約・第二コリ一二章
 「私は、高ぶることのないように、肉体に一つのとげを与えられました」(七)
 とパウロは語った。彼は永年にわたり、何かの持病を持っていたらしい(ガラ四・一三)。
 偏頭痛、眼病、あるいはてんかんや、マラリヤではないか、など様々な説があるが、はっきりしたことはわからない。けれども、病のいやしなど多くの奇跡をなし遂げた使徒パウロ自身が、肉体に病を持っていたのである。
 その病をいやしてくださるようにと、パウロは三度も主イエスに願ったという。しかし主は、
 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(九)
 と言って、病をなおしては下さらなかった。
 神は時に、私たちが高慢にならないため、また弱さを覚えて神に頼り、神からの力を得るために、私たちを病のうちに置かれることがある。
 私たちは自分の力に頼っているうちは、大きなことはできないのである。しかし弱さの中に置かれ、神の力に目覚めるときにこそ、本当に大きな働きができる。
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15日 旧約・詩篇一〇二篇
 「あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びるでしょう。
 しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それは変わってしまいます」(二五〜二六)。
 神は宇宙自然を、「衣」「着物」のように上に着ておられる。これはちょうど、人間が魂の上に肉体を「着ている」ことに似ている。
 もちろん神は肉体を持っておられないが、人間の魂が肉体を上に着ているように、神は宇宙自然を上に着ておられるのである。
 だから、宇宙自然の広大無辺であること、偉大さ、荘厳さは、神の偉大さを象徴している。
 神は私たちのすぐ近くにおられる。そして、私たちを大きく、大きく包みこんでおられる。
 神から逃れられる者はいないし、逆に、いかなる者も私たちを神から引き離すことができない。
 神の永遠性、無限性を思うとき、私たちはこのかたにのみ、私たちの救いがあり、私たちの拠り所があるという思いを新たにするのである。
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16日 旧約・詩篇一〇三篇
 アメリカのベティ・ホリヤーさんは、事故で背骨を痛めていたため、松葉杖なしでは歩けなかった。
 あるとき、牧師が彼女のために、詩篇一〇三篇の三〜五節を読んで祈ってくれた。「主は・・・・あなたのすべての病をいやし・・・・あなたの若さはわしのように新しくなる」。
 ──「どうしてそのようなことがあるだろう」と彼女は思った。実際、相変わらず、彼女はひどい痛みの中にあった。
 ところが、次の日のこと、彼女は主イエスの導きを受けたと感じて、自分はいやされたと病院の医者や看護婦らに告げた。看護婦は怒って、
 「それなら松葉杖なしで歩いてみなさいよ」
 と言った。彼女は立ち上がり、松葉杖なしで歩き出した。その日、彼女は松葉杖なしで家に帰った。
 家に帰ると、「今日私に起こったことは、真実のことで、あなたからのものですか」と祈った。彼女はその日の通読箇所を開いたが、そこにはこう書いてあった。「この人がなおって・・・・立っているのは・・・・キリストの御名による」(使徒四・一〇)。
 以来、彼女は子供たちとテニスをしたり、水泳を楽しむ若々しい生活をしている。
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17日 新約・ルカ一章
 
主イエスの初来を準備する者として、バプテスマのヨハネがいた。彼の父ザカリヤは、聖霊に満たされて預言して言った。
 「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである」(七六〜七七)。
 ヨハネは、イエスの初来に先立ち、その道を備えた。同様に、イエスの再来に先立ち、その道を備える者たちがいる。それは全世界のキリスト者たちである。
 彼らは「罪の赦しによる救いの知識を」人々に与えるために、神からこの世に遣わされている。
 「これは、われらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所から我らを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く」(七八〜七九)。
 ヨハネは常に、
 「私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ」(ヨハ一・三〇)
 と言っていた。私たちもヨハネのように、来たるべき方を宣べ伝える。
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18日 旧約・詩篇一〇四篇
 「主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています」(二四)。
 私たちの信仰生活は、神を喜ぶことにある。神はイザヤ書六五・一八において、
 「わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ」
 と言われた。私たちの人生には、ときに苦しみや、つらいこともあるが、それでも神は私たちの周囲に様々の良いものを置いて、私たちの心に慰めと楽しみを備えて下さっている。
 神が用意されたその良きものに気づくとき、私たちはたとえ同じ境遇にあっても、今までとは違う新たな希望を得るのである。
 単に自然界だけのことではない。神はあなたの人生に、知恵あるみわざをもって、新しい事柄を創造しようとしておられる。クリスチャンの人生は、神が創造されるその良きものを楽しむことにある。
 信仰生活は楽しい。
 神に期待しよう。神は、ご自身を愛する者に期待されればされるほど、それに応えようとして下さる。
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19日 旧約・詩篇一〇五篇
 「絶えず、御顔を慕い求めよ」(四)。
 私たちは、人の顔を見なければ、その人を本当に「見た」とは言えない。顔と顔を合わせて見るとき、本当にその人に「会った」、また「その人を見た」と言える。
 とくに、人は自分の愛している人と会いたいと願い、またその人の「顔」を見たいと思うであろう。同様に神を愛する人は、神に会いたいと願い、神の御顔を慕い求める。
 神には肉体はないが、人間の「顔」に相当するような、本質的・霊的部分を持っておられる。神の御顔は恵みに満ち、あわれみに満ちている。神の御顔は、恵みとあわれみの中心である。
 私たちは、神に会うために旅を続けている。やがて神の前に出たとき、その御顔の微笑みに包まれることを夢見る。
 やがて新天新地の新エルサレムで、私たちは神の御顔を仰ぎ見る。
 「(そこには)のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」(黙示二二・三〜四)。
 神の御顔を慕い求めよ。
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20日 新約・第二コリ一三章
 
「私たちは真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら何でもできる」(八)。
 この世では、「真理」という言葉をあまり聞かない。この世は真理を知らないからである。
 しかし、私たちは聖書を通して真理を知っている。また信仰を通して、真理を体験している。
 そして、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら何でもできるという事実も、つねに体験しているのである。
 真理に逆らうことには神の裁きがあり、真理のために行動することには神の力添えがある。真理に逆らうことは逆風を招き、真理のために働くことには追い風がある。
 真理のために働くことは、はじめ人間の目には、非常な困難に見えることがある。しかし私たちは、真理のために働く者を神が祝福し、導かれるという事実を忘れない。真理に従う者には自由がある。
 真理とは聖書の教えである。天地宇宙を造られた神の御教えである。
 私たちはその御教えを心にたくわえ、思いと行動に現わしていこう。世界は真理を体現する者を待ち望んでいる。祝福は真理と共にある。
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21日 旧約・詩篇一〇六篇
 ある人々は旧約聖書を読んで、旧約の神は怒りっぽい、と言って神を非難する。
 しかし、神の怒りを受けてきたイスラエルの民自身は、決して神を非難しない。彼らは、神が怒りっぽいのではなく、自分たちがあまりに罪深かったことを知っているからである。彼らが非難する相手は、自分たちである。
 「私たちは、先祖と同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行なった」(六)。
 イスラエルの民自身は、罪と裁きの繰り返しであった自らの歴史を思い起こしながらも、神に感謝し、讃美をささげる。
 「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで」(四八)。
 「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」(一)。
 本当に神を知っている者は、たとえ神の怒りを身に受けても、神を非難したりはしない。神の正しいことを良く知っているからである。
 神が裁きをされるとき、その裁きは正しく、神が恵みを施されるとき、その恵みはあわれみのゆえである。
主をほめたたえよ。
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22日 旧約・詩篇一〇七篇
 「この苦しみのとき、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された」(六)。
 神は、私たちが何もしないでも助け出して下さるのではない。神に向かって叫ぶなら、神は私たちを助け出してくださる。
 なぜなら、もし私たちが神に向かって叫ぶことなく助け出されてしまうなら、だれが助けてくれたのかわからない。だから私たちは、神に向かって叫ばなければならない。
 京都の同志社大学のある学生が、こんな証しをしていた。彼がまだ懐疑論者だったとき、母が大病にかかった。母は死のきわをさまよい歩いた。
 彼には、もはやどうしようもないことである。自分の無力さに打ちのめされた彼は、悩みの中から「神よ。いやしてください」と叫んだ。
 キリスト教の神でも、あるいはどこの宗教の神でもよい、とにかくいやして下さいと祈った。神を信じていない彼が、そう叫んだのである。しかし、以来、母の病は回復した。
 数年後のこと、今度は父が大病にかかった。今度は彼は、「イエス様。助けて下さい」と祈った。以来、やはり父も回復したのである。
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23日 新約・ルカ二章
 
キリストの出現を待ち望み、自分が死ぬ前にそれを見ることのできた人に、シメオンとアンナがいた。
 シメオンは、正しい敬虔な人で、キリストの出現を見るまでは「決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」(二六)。
 アンナも、いつも神に仕え、感謝を捧げている女預言者であった。彼らは、自分の死以前に救い主の出現を見ることができた。それは彼らが、非常に熱心に救い主の出現を待ち望んでいたので、神からの特別な恵みを受けたからに違いない。
 もしシメオンやアンナの人生がもっと詳しく記されていたら、そこにはきっと、非常に感動的な物語があったことであろう。とくにシメオンが「キリストを見るまでは決して死なない」というお告げを受けた背景には、何か特別な理由があったとも思える。
 シメオンは、幼子イエスを腕に抱いたとき、
 「私の目があなた(神)の御救いを見た」(三〇)
 と言った。彼は「救い主を見た」ではなく、「救いを見た」と言った。彼の霊的な目には、イエスご自身が「救い」そのものであられることがわかっていたのである。
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24日 旧約・詩篇一〇八篇
 神を知らない者は、浮き草のように、この世の風潮に流される。しかし神を知り、神を愛する者は、かたく真理に立つ。
 「神よ。私の心はゆるぎません」(一)
 とダビデがうたったように、クリスチャンの心もまた、たとえ環境がどう変わろうと、ゆるぐことはない。
 それは、クリスチャンは真理を知っているからである。その心が、不動のものに根ざしているからである。
 クリスチャンは、神と真理を愛するがゆえに、神が第一にあがめられることを願う。
 「神よ。あなたが天であがめられ、あなたの栄光が全世界であがめられますように」(五)。
 私たちは、自分の目を天の神に向ければ向けるほど、めまぐるしく変転するこの世にあっても堅く立つことができる。
 それはちょうど、探検家や旅行者が、自分の進む方角を夜空に見える北極星の位置を手がかりに知るのと同様である。
 私たちは、この地上だけを見ていると迷う。しかし上を見上げるなら、そこには人生の行くべき方角が、はっきりと示されているのである。
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25日 旧約・詩篇一〇九篇
 
「彼らはのろいましょう。しかし、あなたは祝福してくださいます」(二八)。
 松本サリン事件、地下鉄サリン事件などの犯罪を犯したオウム真理教の信者が、犯人として捕らえられたとき、オウム真理教の幹部で弁護士資格を持つ人物が、その弁護士となった。オウムの弁護士は犯人に対し、
 「もしオウムに不利なことをしゃべったら、お前は地獄に落ちるぞ」
 と、おどしたという。世には、人をおどし人をのろう者がいる。しかし私たちは、たとえそんなおどしや、のろいを受けることがあったとしても、全く気にする必要はない。神は、正しいことをしようとする者を、必ずや祝福してくださる。
 たとえ、それまで悪いことをしていた人間であっても、もし心を改めて、真理に立ち、正しいことをする決心をするなら、誰がどんな邪魔をしようと神はあなたを祝福される。
 人間の心は、霊の世界に強く結びついている。悪い思いは一瞬にしてサタンに結びつき、良い思いは一瞬にして神に結びつく。一念は、ただちに霊の世界に通ずる。一念が霊の世界を呼び寄せる。あなたの人生を支配するのは、あなたの内なる思いである。
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26日 新約・ガラテヤ一章
 
「(神が)御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき・・・・」(一六)。
 人間として、またクリスチャンとして達しうる最高の境涯は、神の御子キリストのかたちが自分のうちに形成されることである。
 すなわち、今までの「アダムのかたち」にかわって「キリストのかたち」が魂を支配する。それは、
 「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(二・二〇)
 という境涯でもある。
 神のみこころを実現する多くの働きをなした聖徒たちは、みなこのことを語っている。彼らは自分の人生を振り返ってみたとき、自分自身が働いてきたというよりも、むしろ自分の内にあってキリストが働いて下さった、と感じるのである。
 自分を通してキリストが働いて下さる──クリスチャンにとって、これ以上の光栄があるだろうか。
 ほかのクリスチャンを通してキリストが働かれることも素晴らしいが、「私」を通してもキリストが働いて下さるなら、それは大きな幸福となるであろう。
 キリストが働いて下さるのに適した自分となるよう、祈ろう。
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27日 旧約・詩篇一一〇篇
 これは有名な預言詩──メシヤ詩篇である。
 ダビデは、王であり、また預言者でもあった(使徒二・三〇)。彼はキリストの主権について預言して言った。
 「主は、私の主に仰せられる」(一)。
 最初の「主」は、新改訳では太文字で記されているが、これは原語で神名ヤハウェ──神聖四字の記されているところである。最初の「主」は父なる神ヤハウェであって、一方、二番目の「主」はキリストである。すなわち、
 「ヤハウェは、私ダビデの主=キリストに仰せられる」
 という意味である。この言葉については、キリストご自身も引用して解説を施しておられる(マタ二二・四三〜四五)。
 この詩篇は、キリストが父なる神から全権を委任された王であり、また大祭司であることを言っている。六節に、
 「主(キリスト)は国々の間をさばき・・・・」
 とあるが、これはキリストの再臨の時に成就するであろう。
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28日 旧約・詩篇一一一篇
 
「主は・・・・主を恐れる者に食べ物を与え、その契約をとこしえに覚えておられる」(五)。
 私たち日本人には、「契約」という概念はあまり親しみがないかも知れない。しかし、これは聖書ではきわめて重要な教えである。
 神は人との間に契約を結ばれた。それは簡単に言えば、私たちが神の御教えを守るならば、私たちは祝福される、という約束である。
 私たちは、救い主イエスを受け入れるなら、罪の赦しと天国の国民としての資格を得る。もちろん、これだけでも素晴らしいことである。
 しかし、私たちにはさらに素晴らしい約束が与えられている。それは神とイエスの御教えを守るならば、祝福された、きわめて幸福な人生を得るということである。
 単に神とイエスの御名を信じるクリスチャンと、その御教えを守るクリスチャンとは、別のものである。御教えを単に学ぶだけのクリスチャンと、それを実行するクリスチャンとは、別のものである。
 神とイエスの教えを守り、実行するクリスチャンは、単に学ぶだけのクリスチャンよりも、はるかに大きな祝福を得る。きょう、一つでも具体的に御教えを実行しよう。
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29日 新約・ルカ三章
 イエスが、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったとき、「天が開け、聖霊が鳩のような形をして自分の上に下られるのを、ご覧になった。また天から声がした。『あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ』」(二二)。
 天からのこの父なる神の御言葉は、詩篇二・七、およびイザヤ四二・一に関連している。天からのこの御声は、イエスがメシヤであることを確証する。
 また、聖霊が鳩のようにイエスに下られたことによって、ここに三位一体の全位格──御父・御子・御霊が、イエスのバプテスマにおいて現臨された事実を見る。イエスの公生涯は、御父・御子・御霊の三者による共同事業であった。
 聖霊は、イエスの内にあって、イエスの公生涯、十字架の死、復活、昇天等、イエスのすべての出来事を体験された。その聖霊が、イエスを通して、今私たちに注がれている。
 だから、私たちが聖霊によって歩んで行くなら、イエスの死・復活・昇天の事実、またその愛の事実は、そのまま私たちの魂の事実となる。
 また、私たちの人生は聖霊によって、イエスのご生涯に似たものとなるのである。
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30日 旧約・詩篇一一二篇
 「悪者の願いは滅びうせる」(一〇)。
 人間を支配するものは、願いである。ちょうどエンジンが車を動かすように、願いは人間を動かす。
 私たちの人生は、どんな願いを持つかで大きく変わってくる。願いは、人生を推進させる原動力である。
 悪い願いを持てば、その人は悪い人となり、良い願いを持てば、その人は良い人となる。
 私たちが教会で唱える「主の祈り」が、六つの願いだけから成っていることを思い起こすとよい。
 主は、願いが私たち人間を形成することを、よく知っておられたのである。私たちの願いが、神の栄光を第一に願う聖なるものとなり、また愛に基づくものとなるならば、私たちは根底から変えられる。
 祝福された人生を歩みたいと思うなら、あなたの願いを変えることである。あなたの願いを聖なるものとし、愛に満たされたものとし、それを非常に強い願いとするなら、それは強力な磁石となって、神の祝福を引き寄せる。
 「ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は」(一)。
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31日 旧約・詩篇一一三篇
 
日本には、様々な「神」が現われる。神道の「八百万の神」だけではない。徳川家康も太閤秀吉も祭られて「神」と呼ばれているし、新興宗教の教祖たちも、自らを「神」と豪語している。
 しかし、そうした「神々」は、まことに情けないような者たちばかりである。ただの人間に過ぎないこうした「神」をあがめることを、いつになったら日本人はやめるのだろうか。
 しかし、私たちの信じている神は、人間を造り、世界を造られた創造主であられる。
 「主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、身を低くして天と地をご覧になる」(四〜五)。
 真の神を知っていれば、ほかの「神々」は神ではない。
 多くの人々の不幸は、真の神を知らないことにある。しかし、私たちは真の神を知る恵みを得た。
 この恵みは同時に「義務」ではないだろうか。神を知った者には、神を知らない多くの人に、神の福音を伝える義務があるのである。
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