聖書一日一章

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1日 新約・ヨハネ五章
 
「善を行なった者は、よみがえって命を受け、悪を行なった者は、よみがえって裁きを受けるのです」(二九)。
 「善を行なった者」とは、神を信じ神の御旨を行なった者たちのことである。彼らは死後は、霊的な目に見えない天国に行っているが、世の終わりのキリスト再臨の日に「よみがえって命を受ける」。
 これは、彼らがキリスト再臨の日に復活して永遠の命の体(栄光の体)を受ける、ということである。それは目に見える身体に復活して初めて、「命」が完全に回復したと言えるからである。
 一方、「悪を行なった者は、よみがえって裁きを受ける」。
 悪を行なった者とは、神を否定し、神の御旨を行なわなかった者たちである。彼らは、死後すぐに地獄に行っているわけではない。もしすでに地獄に行っているのなら、よみがえりはしない。
 彼らは死後は「よみ」に行っている。彼らは世の終わりに「よみ」から出され、そこからよみがえって神の最後の審判の法廷に立つ(黙示二〇・一三)。そして裁きを受ける。地獄に行くべきと判定された者は、そのとき地獄に行くのである。
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2日 旧約・イザヤ書一五章
 
「モアブ」は、死海の東側の国である。死海の西側は南王国ユダであり、東側はモアブであった。
 じつは紀元前八世紀から六世紀の時代は、北王国イスラエルや南王国ユダだけでなく、その近隣諸国にも次々に神の裁きが下されていった時代であった。
 偶像崇拝の罪は、この地域全体に広く及んでいた。それで神は、アッシリヤ帝国やバビロン帝国をご自身の「怒りの杖」として用い、彼らに裁きを下されたのである。
 アッシリヤやバビロンは、聖者の国ではなく、不信者たちの野蛮でどう猛な国である。しかし神は彼らを用いて中東一帯に裁きを下された。そしてのちには、アッシリヤやバビロンに対しても裁きを下される。
 モアブがその筆頭にあげられているのは、彼らの罪が深かったからであろう。アッシリヤの軍隊は彼らの地を踏みにじり、のちにはバビロンの軍隊がこの地を蹂躙する。
 モアブの人々は破滅の声をあげ、その泣き声は遠くまで響く(八)。神を忘れた国の最期は悲惨である。
 一九四五年の日本も、このような状態であった。しかしその後立ち直ることができたのは、神の憐れみであることを知らなければならない。
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3日 旧約・イザヤ書一六章
 
紀元前七〇一年に、アッシリヤ帝国の王セナケリブは、モアブ一帯を侵略する。この預言は、その三年前の紀元前七〇四年になされたものと思われる(一四)。
 このとき南王国ユダは、アッシリヤ帝国の侵略を何とかくい止める。しかし侵略された隣国モアブからは、大量の難民がユダに押し寄せてきた。これについてイザヤは言う。
 「あなたの中に、モアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者(アッシリヤ)から逃れて来る者の隠れ家となれ。しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消え失せるとき、一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者がダビデの天幕で、真実をもってそこにすわる」(四〜五)。
 すなわち、難民に対し親切をなすなら、神はユダの国に対し、大きな憐れみを施される。それは、ダビデの家系にメシヤが降誕し、その「王座が恵みによって堅く立てられる」からである。
 今日も、もし朝鮮半島で、あるいは他のアジア諸国で戦争が起きるようなことがあれば、大量の難民が日本列島に押し寄せてくるであろう。そのとき日本人は何をなすのか。
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4日 新約・Uテサロニケ三章
 「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さいますように」(五)。
 人生に必要なのは、まさにこの二つである。神の愛と、キリストの忍耐。
 私たちが神の愛を持ち、人を愛することができたとしても、もし忍耐がないなら、やがて行き詰まってしまうであろう。私たちは、あの主イエスの忍耐を思い起こしてみるべきである。
 イエスは、人々の無知、無謀、愚かさ、罪、非難、あざけり、迫害、そのほか多くの事柄を忍耐し続けられた。その中で人々を最期まで愛し通された。
 忍耐のない愛は、決して実を結ばない。本当の愛は、忍耐を知っている。忍耐は愛の一つのかたちである。
 人間関係の中で、忍耐が必要な場面は多い。親子の間で、夫婦の間で、友人との間で、会社の中で、近所づきあいの中で、あなたは忍耐を持たないばかりに失敗していることが多いのではないか。
 それはあなたの持久力の問題というより、愛の問題ではないだろうか。忍耐を知っている愛を持ちたいものである。
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5日 旧約・イザヤ書一七章
 「エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失う」(三)。
 エフライムとは北王国イスラエルである。エフライムは、北王国イスラエル一〇部族の主要民族であったので、その名は北王国イスラエルの代名詞としても使われている。
 一方ダマスコは、アラム王国の首都であり、アラム王国のことである。
 本章の預言は、北王国イスラエルとダマスコの滅亡を語る。両者は、アッシリヤ帝国によってたびたび侵略を受け、ついには滅びる。
 ダマスコは、現在のシリアの首都ダマスカスである。当時ダマスコは、アラム人の王国として栄えていたが、神の裁きを受けたのである。
 アラム人は、ヘブル人とは異なる。が、同じセムの子孫であり、イサクの妻リベカがアラム人だったこともあって(創世二五・二〇)、ヘブル人の兄弟民族とも言える人々であった。
 当時、北王国イスラエルは、このアラム人の国ダマスコと同盟を組んでいた。しかし、彼らはともに主なる神を忘れたので(一〇)、メシヤを来たらせる民に関する神のご計画からは、切り捨てられたのである。
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6日 旧約・イザヤ書一八章
 「クシュ」(一)はエチオピアとも訳されるが、当時のエチオピアは南部エジプトのことであった。その影響力は全エジプトに及んでいた。
 だから、エチオピアにとって南王国ユダは、ほとんど隣国とも言える所であった。もしアッシリヤが、北王国イスラエル征服に続き、さらに南下して南王国ユダをも侵略したとすれば、エチオピアも危ないことになる。
 しかし、アッシリヤ帝国の王セナケリブの率いる軍隊は、南王国を征服しようとした矢先、イザヤの祈りのもとに神の裁きを受けて全滅してしまう(三七・三六、U歴代三二・二〇〜二二))。
 こうして南王国ユダとエチオピアは、アッシリヤの脅威から救われたのである。エチオピアの人々は、そのためにエルサレムに、主への感謝の捧げ物を携えて来る(七、U歴代三二・二三)。
 二節の「すばやい使者よ。行け」は、エチオピアの使者が南王国ユダに行って、アッシリアに対する神の裁きを見よ、との言葉である。
 また四節の「わたし(神)は静まって、わたしの所からながめよう」とは、裁きの時をうかがう神の姿を描いている。
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7日 新約・ヨハネ六章
 「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠の命に至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです」(二七)。
 主イエスは私たちに、「永遠の命に至る食物のために働け」と言われる。「永遠の命に至る食物」とは、天からのマナ、すなわちイエス・キリストご自身のことである(三五)。
 彼のために働き、信仰し、生きるとき、私たちは彼の永遠の命を生きている。彼の愛のわざを実践するとき、あなたは彼の永遠の命を生きている。
 私たちは、日々の忙しさのために、しばしば「何のために生きているか」を忘れやすい。
 もちろん、今生きるためにしなければならないこともある。大人は、家族を養い育てるために働かなければならないだろうし、学生なら、将来のために勉強もしなければならない。
 そうした生活は必要である。しかし、その生活自体が、生きている目的なのではない。私たちはしばしば立ち止まって、「私は何のために生きているのか」「何のために生きるべきか」と問い直す必要がある。
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8日 旧約・イザヤ書一九章
 
エジプトに関するこれらの預言は、イザヤが死んだ頃から、すべて成就していった。
 「きびしい主人」は、イザヤの死後すぐにエジプトを征服したエサル・ハドンである。彼はエジプトを多くの小政府に分割した。
 その政府のなしたことと言えば、民の殺害、略奪、強奪等であった。こうしてエジプトは崩壊し、衰微した(一〜一七)。しかしその後、エジプトは神の憐れみを受ける。
 「その日、エジプトの国には、カナン語を話し、万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こる」(一八)。
 「カナン語」とはヘブル語である。バビロン捕囚後に、ユダヤ人のある者たちはカナンに帰り、ある者たちはユーフラテス川流域にとどまったが、なかにはエジプトに行って定住した者たちもいた。
 イエス在世当時の世界第二の都、エジプトのアレキサンドリヤは、おもにユダヤ人の都市であった。旧約聖書の古代ギリシャ語訳「七〇人訳聖書」も、ここで作られたのである。
 また「太陽の町」と言われたへリオポリスには、エジプトに住むユダヤ人の礼拝の中心として、エルサレムの宮にかたどった宮が建設された(紀元前一四九年)。
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9日 旧約・イザヤ書二〇章
 一節に、アッシリヤの王「サルゴン」の名が出てくるが、一九世紀に至るまで多くの人々は、彼を実在の人物とは考えていなかった。
 しかし考古学的発掘により、彼が実際に古代アッシリヤ帝国における最大級の君主であったことが、明らかにされた(統治は前七二二〜七〇五年)。
 このアッシリヤ帝国の君主サルゴンから使わされたタルタン(最高司令官のこと)は、圧倒的な軍勢を率いて、紀元前七一二年、ペリシテの五大都市の一つアシュドデを攻め取った。
 アッシリヤ帝国の脅威は、南王国ユダの目と鼻の先まで迫っていた。ユダの人々は、南のエジプトやクシュ(エチオピア)に助けを求めようとした。
 しかし、イザヤはそれをやめさせようとしたのである。なぜならアッシリヤは、エジプトとクシュに対する侵略に成功し、そこを荒廃させてしまうからである。
 南王国ユダにとって、人間的な頼みの綱はすべて断ち切られた。彼らはただ神に拠り頼むべきであった。
 このように、イザヤが活動した時は、国家が絶体絶命の危機に瀕した時代だったのである。
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10日 新約・Tテモテ一章
 
「果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じて下さい。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません」(四)。
 かつて日本で、明治・大正時代にリバイバルが起きたが、その後急速にそのリバイバルの火が消えていったことがあった。
 それは迫害があったからではない。聖書の真実性を疑問視し、あれこれと論議を引き起こす新神学が教会に入ってきたからである(近代批評学)。その新神学にまどわされた人々は、急速に信仰を失っていった。
 今日も、こうした「新神学」や、「果てしのない空想話」「論議を引き起こすだけの話」に気をつけなければならない。
 今日ある人々は、誤解と間違った知識とに基づいて、あれこれとユダヤ人陰謀説やフリーメーソン陰謀説を説き、それらを教会にまで持ち込んでいる。また、不当な人間イエス論や、想像ばかりの終末論を説いたりしている。
 こうした論議や主張は、神のご計画を推進するものではない。私たちの説くべきは、神のみこころと、純粋な主イエスの福音なのである。
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11日 旧約・イザヤ書二一章
本章の前半は、バビロン帝国の滅亡に関する預言である。
 「裏切る者は裏切り、荒らす者は荒らす。エラムよ、上れ。メディアよ、囲め」(二)」
 「エラム」はかつてはバビロンと同盟を組んだが、バビロンを裏切り、アッシリヤに寝返った国である。バビロンはそれでもしばらくは存続したが、ついに紀元前五三八年、「メディア」国出身のクロス王によって滅ぼされる。
 「倒れた。バビロンは倒れた」(九)。
イザヤはこの預言的幻を見たとき、
 「私の腰は苦痛で満ちた。・・・・私の心は迷い、恐怖が私を震え上がらせた」(三〜四)。
 と述べている。彼は、南王国ユダを捕囚し苦しめる国バビロンの滅亡を見て、「いい気味だ」とは言わない。
 彼はむしろ、悲しみ、大いなる恐怖さえ覚えるのである。あのバビロンの壮麗な都が一瞬にして滅びるとは、神の裁きの峻厳さでなくて何であろう。
 神はやがて、現代世界をも裁かれるであろう。私たちはその峻厳な裁きの前に、神を畏れ、あがめるのである。
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12日 旧約・イザヤ書二二章
 
これはエルサレムの滅亡に関する預言である。
 「幻の谷」(一)とはエルサレムである。ダビデが建てたエルサレムは、キデロンの谷沿いにあって三方が山になっていたし、またそこは神の啓示――神の幻の与えられる中心地であったから、「幻の谷」とも呼ばれた。
 アッシリヤ帝国が北王国イスラエルを征服し、のちにバビロン帝国が南王国ユダを侵略しようとしていたとき、そうした周辺の動きは、イスラエルの人々に悔い改めを迫るものだったはずである。それは神からの、
 「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ」(一二)
 という悔い改めの要求として臨んだ。ところがエルサレムの人々は、そんな危機の中にあってさえ、
 「飲めよ。食らえよ。どうせ明日は死ぬのだから」(一三)
 と無分別な快楽主義にふけっていた。そのためついにエルサレムは、紀元前五八六年にバビロン帝国によって滅亡させられる。
 この預言的幻は、イザヤにとっても大変なショックであった。彼は悲痛な叫びをあげ、
 「私は激しく泣きたいのだ」(四) と言って号泣したのである。
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13日 新約・ヨハネ七章
 
イエスは、「わたしの時はまだ来ていません」と言われた(六)。三〇節にも、「イエスの時がまだ来ていなかったからである」とある。
 「イエスの時」とは十字架の死の時である。それが「イエスの時」と呼ばれている。
 ノンクリスチャンは、キリストの死は単なる殉教の死だとか、偶発的な死だとかいう。「横死」(事故や災害による不慮の死)と言う人もいる。
 しかし、キリストの死は偶発的でも、不慮のものでもなかった。キリストの死には目的があった。
 キリストの死は、キリストの来臨の使命の終わりではなく、彼の使命の中心であった。キリストはそのためにこの世に来られたのである。
 イエスの十字架死は、ローマ兵の意志によって起きたのでも、ユダヤ人指導者たちの意志によって起きたのでもない。それらもあったが、その背後には、もっと大きな天の父なる神のご意志があった。
 そして何より、御子イエスご自身の意志によって起きたのである。それはまさに「イエスの時」であった。
 十字架の死は、イエスご自身の強い意志によって起こり、貫徹されたのである。
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14日 旧約・イザヤ書二三章
 「ツロ」は、北王国イスラエルの北方にある地中海沿岸の都市国家である。現在のレバノンにある。
 ツロは当時、強大な文明を誇り、世界貿易の中心として海上を支配し、地中海沿岸各地を巡って植民地を作っていた。本章は、そのツロの転覆、七〇年間の不振と、その回復に関する預言である。
 ツロは、かなり昔から繁栄していたが(七)、アッシリヤ帝国の興隆とともに没落した。アッシリヤはバビロンをふみにじった上(一三)、ツロをも荒らしたからである。
 しかし紀元前六〇六年に、バビロンは復興して、アッシリヤを倒し、世界支配権を手中にする。バビロンは続いてツロを征服。ツロの没落は決定づけられた。
 このツロの没落は、ツロを苦しめたバビロンが紀元前五三六年にペルシャ帝国によって滅ぼされるまで、「七〇年間」続いた(一五)。
 ペルシャは、征服した国々に対し、比較的寛大であった。それでツロも、しばし繁栄を回復する(一七)。
 イザヤの預言は一応ここで終わっているが、預言者エゼキエルはさらに、その後のツロを預言している(エゼ二六〜二八章)。ツロはその後、永久に没落に向かうのである。
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15日 旧約・イザヤ書二四章
 
紀元前九〜八世紀の時代は、イスラエル一二部族をはじめ、その周辺諸国でも多くの罪が行なわれた時代であった。人々は日夜、偶像崇拝と、そのほかの多くの罪、また快楽主義にふけった。
 そして、それに続く紀元前七〜六世紀の時代は、神の裁きの時代であった。神は、地と人々を荒廃に引き渡された。
 まず、残忍なアッシリヤ帝国が中東世界を席巻した。
 「地は荒れに荒れ、全くかすめ奪われる。地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える」(三〜四)。
 アッシリヤの軍隊は、周辺諸国に恐怖心を引き起こすため、征服した人々の皮膚をはいで見せしめとした。さらに、アッシリヤに続いて世界を支配したバビロン帝国も、残忍な手口を得意とした。この時代はまさに、恐怖の時代であった。
 アッシリアおよびバビロンは、国の内部に対しても、外部に対しても、恐怖政治を敷いた。この時代、中東に安住の地はなかった。
 やがて「患難時代」における世界も、そのようであろう。真の王を知っている者達だけが、その時代を乗り越えることができる。真の王とは我らの神ヤハウェである(二三)。
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16日 新約・Uテモテ二章
 
この世の王や支配者たちのために、キリスト者が神に祈りやとりなしを捧げることは良いことだ、と使徒パウロは述べている(一)。私たちも、日本の天皇や政治家のために祈るべきではないか。
 大阪で牧師をしている小林隆利師は、明治天皇の孫の一人である。師の母すなわち明治天皇の娘(しのぶ)は、あるとき明治天皇から「子どもの一人は牧師にしなさい」と言われたという。実際彼は牧師になった。
 また、戦争で負けた国の元首は亡命し、夜逃げするのが普通であるのに、かつて昭和天皇は敗戦に際しマッカーサー元帥の前に進み出て、
 「私はどうなってもかまいません。私を処刑して下さい。しかし、どうか国民を助けて下さい!」
 と涙ながらに懇願したという。その真摯な姿に胸を打たれたマッカーサーは、以後、天皇処刑論に反対し、昭和天皇をMajesty(陛下)と呼んで尊敬した。
 昭和天皇のこの言動の背景には、強いキリスト教の影響があったと言われる。昭和天皇のもとで侍従長を務めていた寺崎英成氏も、クリスチャンだった。
 キリスト教は陰で日本の国家の行方を大きく左右してきたのである。
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17日 旧約・イザヤ書二五章
 
当時の諸民族に対する神の裁きの数々を預言的幻のうちに見てきたイザヤは、ここでひれ伏して、主なる神をあがめる。
 「主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます」(一)。
 イザヤは、今後歴史上に起きていくであろう事柄を心に留める。神からの預言に示された通り、多くの出来事と裁きが繰り広げられていくことだろう。歴史は、神の導きとご介入によって進んでいく。
 では、その歴史の終極は何か。それは、神による「万民のための救い」である。
 六節の「万民のための・・・・宴会」は、キリスト再臨時に持たれる花婿キリストと花嫁なる教会の結婚の祝宴である。そのとき、神はシオンの山で、
 「万民の上をおおっている顔おおいと、万民の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる」(七)。
 神が最後に滅ぼされるのは、「死」そのものである。それは人々の「顔おおい」となっている罪咎を完全に取り除くとき――私たちの体が「栄光の体」に変えられるときに、成就する。
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18日 旧約・イザヤ書二六章
 
「その日、ユダの国でこの歌が歌われる」(一)。
 「その日」とは終末の日である。そのときエルサレムを中心に集められた神の民は、感謝と讃美の歌を神に捧げるであろう。また、
 「あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります」(一九)
 とは終末の神の民の復活をさす。
 「さあ、わが民よ。あなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく身を隠せ。見よ。主はご自分の住まいから出てきて、地に住む者の罪を罰せられるからだ」(二〇〜二一)。
 かつて、ノアの箱舟の「うしろの戸」が閉ざされたとき、大洪水の裁きが始まった(創世七・一六)。
 またかつてエジプトで、家のかもいと門柱に小羊の血が塗られ、戸口が閉められたとき、戸口の外では神の裁きが繰り広げられていった。同様に終末の日にも、キリストの血潮が塗られていない不信者の世界においては、神の裁きが進行していくであろう。
 その「ほんのしばらく」の間、私たちは「うしろの戸」を閉じ、不信者の悲惨な運命に心を痛めながら、神の裁きが通り過ぎていくのをただじっと耐えねばならないだろう。
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19日 新約・ヨハネ八章
 
この世の多くの人は、クリスチャンになると戒律に縛られて不自由になる、と思っている。そして、「わたしはまだ自由に暮らしたいから、クリスチャンにはなれないよ」と言うのである。
 しかし、クリスチャンになることは不自由になることではなく、むしろ本当の自由を得ることである。
 ある女性が寺で、不運を断ち切るには住職による祈祷を六〇〇回捧げる必要があると言われ、一回一〇〇〇円で、六〇〇回だから六〇万円を前金で支払わされたという。
 しかしあとで、やはり六〇万円は高すぎるから、返してくれと言ったが、祈祷は始まっているので返せない、またそんなことを言うと、かえって悪運がついてもっとひどいことになる、と脅されたという。
 このようにして騙される人々は、あとを絶たない。これは人々が迷信によって不自由な身となっているからである。本当の自由は、まず迷信からの自由でなければならない。
 また本当の自由は死の恐れからの自由、罪からの自由、様々なしがらみからの自由でなければならない。
 「あなたがたが、わたしの言葉にとどまるなら、・・・・真理はあなたがたを自由にします」(三一〜三二)。
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20日 旧約・イザヤ書二七章
 
「逃げまどう蛇」「曲がりくねる蛇」「海にいる竜」(一)は、当時のアッシリヤ、バビロン、エジプトをさすと思われる。
 あるいはこの世の悪の勢力をさすのであろう。主はそれらを殺される。
 悪の勢力が断ち切られるとき、イスラエルは回復し、大きく実を結ぶ。
 「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」(六)。
 これは終末におけるイスラエルの回復が、地球的規模で大きな実をもたらし、祝福となることを示しているように思われる。
 神はかつて、無から大自然を創造し、そこに多くの花々や果実をつくられた。そうであれば、その神には、索漠とした現在の世界を肥沃な乳と蜜の流れる地に変え、愛と美の花々の咲き乱れる地、また善の果実のなる地に変えることも、同様にお出来になる。
 神が破壊されるとき、それは建設的破壊である。新しい家を建てるために、古い家をこわす。神は新しいぶどう酒を、新しい皮袋に入れられる。
 私たちは古い世界に固執してはいけない。神はやがて新しい世界を創造される。
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21日 旧約・イザヤ書二八章
 本章は、エルサレムの指導者たちに対する裁きの言葉である。
 一節の「酔いどれ」(一)は、毎日酒を飲んでは宴会に明け暮れていたエフライム(北王国イスラエル)の指導者たちや、貴族たちである。神は彼らを、雹や豪雨のように襲って滅ぼされた。
 ところが、このとき南王国ユダのエルサレムの指導者たちは、隣国・北王国へのこの裁きを見ながら、「どこ吹く風」といった態度であった。彼らは「うちは大丈夫だよ」と言っていた(一五)。
 しかし、彼らにも裁きが臨むであろう。彼らが「死と(不可侵)契約を結び」「よみと同盟する」ことはできない(一八)。彼らは死とよみに征服され、飲み込まれる。
 そんなエルサレムではあるが、神はその後、そこに人々のための救いの基礎を築かれる。
 「見よ。わたしはシオンに、一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない」(一六)。
 この「礎の石」は、エルサレムで死んで復活し、教会のかしら石となられた主イエスのことである(Tペテ二・六)。
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22日 新約・Uテモテ三章
 「監督」(一)は、聖書の他の箇所の「長老」と同じであるが(テト一・五、七)、その働きは今日の牧師と同じであった。
 監督は、みことばを教え(Tテモ五・一七)、信者を励まし、戒め、教会の財政を監督し(Tテモ三・三、使徒一一・三〇)、牧会した(使徒二〇・二八)。
 監督になるには、
 「非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、充分な威厳をもって子どもを従わせている人」(二〜四)
 であることが求められた。
 「執事」、すなわち監督を補佐する教会役員らにも、同様のことが求められた。
 現在の日本においても、優れた教会には、必ず優れた牧師だけでなく、優れた役員さんがいる。彼らは、目立たなくても陰で立派な働きをして、教会に仕えている。
 人の目に目立つか、目立たないかが重要なのではない。教会と福音の前進は、その多くが陰の活躍者たちによっているのである。
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23日 旧約・イザヤ書二九章
 「アリエル」(一)は、エルサレムのことで、その意味は「祭壇の炉」である。
 神は、エルサレムに裁きを下されるであろう。それで「うめきと嘆きが起こり、そこは・・・・祭壇の炉のようになる」(二)。祭壇でいけにえがほふられるように、エルサレムの住民の血が流される。
 それは彼らが「口先で近づき、くちびるでわたし(神)をあがめるが、その心はわたしから遠く離れている」(一三)からである。
 しかし、神はエルサレムを裁くだけでなく、エルサレムに敵対するアッシリヤをも裁かれる。
 「あなたの敵の群れも、細かいほこりのようになり・・・・」(五)。
 神はアッシリヤへのこの裁きを、不思議な奇跡としてなされるであろう。
 「見よ。わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする」(一四)。
 これは、アッシリヤ軍による侵略からエルサレムが奇跡的に救われた出来事をさしているように思える。アッシリヤ軍はエルサレム攻撃を前にして、突如、致命的打撃をこうむり、撤退してしまうのである(三七・三六)。
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24日 旧約・イザヤ書三〇章
 
これは、南王国ユダの政治的指導者たちへの警告である。
 南王国の指導者たちは、神にたよろうとせず、エジプトと同盟を結んで、アッシリヤやバビロン帝国の侵略に備えようとした。彼らは神の御守りに頼ろうとしなかった(一)。
 彼らは、エジプトへ贈り物を持っていくために、野獣の出没する南方のネゲブ砂漠を下っていく(六)。しかし、エジプトは何の役にも立たない。
 南王国ユダはこのために、やがて滅びるであろう。彼らの国は破壊され、民は捕囚となる。このことがあらかじめ預言されていたことを後世の人が知るために、神はイザヤに対し、これを書物に書き記すよう命じられる。
 「今、行って、これを彼らの前で板に書き、書物にこれを書き記し、後の日のためとせよ」(八)。
 ユダの人々のなすべきだったことは、人間的な考えでエジプトに頼ることではなかった。彼らは悔い改めて神に信頼し、神の救いを待ち望むべきであった。神は言われる。
 「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(一五)。
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25日 新約・ヨハネ九章
 この生まれつきの盲人は、「シロアムの池」に行って目が見えるようになった(七)。
「シロアム」は「遣わされた者」の意味である。盲人がシロアムの池に行った出来事は、じつに彼が「神から遣わされた者イエス」のところに行ったことを、象徴していた。
盲人は、イエスによってまず肉体の目を開けられ、つぎに霊的な目を開けられた。彼がイエスを拝して、
 「主よ。私は信じます」(三八)
 と言ったとき、彼の霊的な目が開いたのである。
 一方、パリサイ人たちの目は、これとは全く違っていた。彼らの肉体的な目は以前から開いていたのに、彼らは霊的に盲目のままであった。主イエスはパリサイ人たちに言われた。
 「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(四一 口語訳)。
 イエスは、彼らが霊的な盲目であると言われたのである。
 このように本章の奇跡は、人々が「神から遣わされた者キリスト」のもとに来るべきこと、そしてそれによって霊的な目が開かれることを人々に教える、という目的でなされたのである。
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26日 旧約・イザヤ書三一章
 本章も、神に頼らずにエジプトに頼っている南王国ユダの指導者たちに対する警告である。
 「ああ、助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは(エジプトの)馬に頼り、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない」(一)。
 「イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方のもとへ帰れ」(六)。
 私たちの信仰も、試練と困難の中で試される。試練や困難にあったとき、あなたは一体どこに助けを求めているだろうか。私たちはとかく人間的なものに頼り、主を求めるのを忘れてはいないか。
 これはよくよく考えてみるべきことである。いたずらに心を騒がせたり、祈らずに安易に事を決めたりすると、かえって災いを招く。
 困難や試練にあったとき、自分の目に良いと見える方策が、ふとあなたの心に浮かぶかも知れない。しかし、あなたはそれを始める前に、祈らなければならない。
 まずあなたが求めるべきは、主ご自身である。主が共におられれば、主は解決の方策をご自身で示して下さる。
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27日 旧約・イザヤ書三二章
 
「のんきな女たちよ」と言って、イザヤはやがて来ようとしている裁きについて語る。
 「一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。・・・・宮殿は見捨てられ、町の騒ぎもさびれ、オフェルと見張りの塔はいつまでも荒れ地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となる」(一〇、一四)。
 しかし、イザヤはこうして彼の時代に対する裁きを語りながらも、そのはるか向こうに、遠い将来に現われるメシヤと、その至福の時代の幻を見る。
 「見よ。ひとりの王が正義によって治め・・・・」(一)。
 「ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。・・・・わたしの民は平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む」(一五〜一八)。
 これは来たるべきメシヤの到来、聖霊降臨、また終末の時代の至福の千年王国の絵であると思える。
 裁きも、終末のこの至福の時代に至るためのプロセスの一つにすぎない。人生の試練の時も、幸福な来世へのプロセスの一つである。
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28日 新約・Tテモテ四章
 
「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今の命と未来の命が約束されている敬虔は、すべてに有益です」(八)。
 聖書は、肉体の鍛錬は全く意味がないとは言わない。体をきたえ、スポーツをすることは有益である。
 また、聖書は肉体は悪だとも言わない。それは神がお造りになったものであって、本来良いものである。
 しかし、肉体的鍛錬がこの世だけのものであるのに対し、敬虔は、「今の命と未来の命」の双方を約束するものである。敬虔はすべてにわたって有益である。
 敬虔は、単に教会に通うことでも、単に聖書の知識を得ることでもない。それらがあれば敬虔というわけではない。
 敬虔とは、モーセがあの「燃えているのに焼け尽きない柴」の前で、裸足になってひれ伏し、永遠者の御旨に従った時の心を、私たちが常に持ち続けることである(出エ三・五)。
 敬虔とは、神への畏れと愛、キリストへの愛と服従、また人々への愛と思いやりである。私たちは敬虔に神に従うことにより、人生を力強く切り開いていく。
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29日 旧約・イザヤ書三三章
 
イザヤは再び裁きを語り、さらに、その後に来る回復をも語る。
 「あなたの目は、麗しい王(メシヤ)を見、遠く広がった国を見る。・・・・あなたはもう横柄な民を見ない。・・・・(エルサレム)には、威厳のある主が私たちと共におられる。
 そこには多くの川があり、広々とした川がある。・・・・そこに住む者は誰も、『わたしは病気だ』とは言わず、そこに住む民の罪は赦される」(一七〜二四)。
 これが文字通り成就するのは、来たるべきキリストの再臨後の千年王国、またその後の新天新地の新エルサレムにおいてである。
 そのとき、一切の悪は地上から一掃される。また罪も病もなくなり、人々は、共におられる神のもとで真の平和と繁栄と幸福を享受する。
 イザヤは、この後の章でも、千年王国、また新天新地の至福をはっきり見ている。章を追うごとに、彼の預言的幻は、ますます明確になっていく。
 イスラエル史上、最暗黒と言われた時代に生きたイザヤという孤高の預言者の存在は、まことに驚異である。彼は、あの暗黒の時代において、来たるべき栄光の御国をしっかり見据えて生きた。
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30日 旧約・イザヤ書三四章
 
イザヤは、これまで彼の時代への裁きを語ってきた。しかし、ここに至ってさらに、終末の時代に行なわれる全世界的審判の預言的幻をも、見ているようである。
 「主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ。・・・・
 天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は朽ち果てる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように」(四)。
 これらの言葉は、ヨハネ黙示録に記された終末の時代のハルマゲドンの裁き、また万物更新の時のことであろう。
 なぜイザヤは、終末の時代の全世界的審判について語るのか。それは、イザヤの時代に繰り広げられた一連の裁きは、じつは、来たるべき終末の全世界的審判を予表する絵にほかならないからである。
 聖書をよく知らないある人々は、
 「旧約聖書はいらない。新約聖書だけでいい」
 という。しかしこれは誤解である。旧約聖書は過去の遺物ではない。それは、現代社会と未来に大いに関係する神の書物なのである(一六)。
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31日 新約・ヨハネ一〇章
 
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(二八)。
 私たちクリスチャンは、必ずしも全員が「立派な」クリスチャンというわけではない。皆がパウロやペテロのような力強いクリスチャンというわけではない。
 しかしそれでも、私たちが羊飼いなるキリストの御声を聞き分け、彼について行くなら、主は私たち全員に「永遠のいのち」を授けて下さる。
 私たちはときに、心の弱さを感じる。辛いことや苦しいことが重なると、「もうダメだ」「耐えきれない」と思うことがある。
 しかし、キリストに連なっているなら、私たちは誰一人として「決して滅びることがない」。つぶされることはないし、また永遠のいのちから落ちることもない。
 私たちの現在の生は、永遠の命の生の前段階にほかならない。今はチョウになる前の、さなぎである。または、母の体から生まれ出る前の胎児のようである。
 私たちには「次の生」「次の世」がある。それに入るために、私たちはいま訓練を受けている。
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