聖書一日一章

4年目 12月
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1日 旧約・ゼカリヤ書五章
 
預言者ゼカリヤはつぎに、第六と第七の啓示的幻を見せられる。これらの幻は、聖地から罪が除き去られることを教えるものであった。
 第六の幻は、″空飛ぶ巻き物〃であった。この巻き物には十戒と、それに違反した場合の罰が記されていたようである。十戒に違反した者は罰せられ、聖地から除き去られる。
 第七の幻は、エパ枡であった。
 エパ枡は物を量るかごである。その中に「女」が入れられる。「女」はイスラエルにまとう罪を表し、エパ枡の中に閉じこめられる。
 しかし、そこに別の「女」が二人現われる。「二人の女」は、イスラエルの罪を除去する者たちである。罪が「女」で象徴される一方、罪を除去する者もまた「女」である。
 これは、来たるべきメシヤが女から生まれることの暗示でもあるに違いない。
 「二人の女」は、罪の女を閉じこめたエパ枡を、「シヌアルの地」に移す。こうして罪はイスラエルの地より除去され、シヌアル、すなわちバビロンの地に運び去られる。
 これは、罪深いバビロンの再興を予告したものであろう。黙示録に言われているように、それは終末の「大バビロン」として現われる。
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2日 旧約・ゼカリヤ書六章
 
ゼカリヤは、四方向に出ていく戦車の啓示的幻を見た。
 それらは神の審判の使者である。とくに北方、すなわちバビロンの方向に行った戦車は、そこで神の裁きを下した。これによって神の怒りは静まる(八)。
 つぎの事柄は、イスラエルに関しての預言である。
 ゼカリヤは、神の命令を受けて、大祭司ヨシュアの頭に「冠」をかぶらせる(一一)。ゼカリヤは彼の前で預言して言う。やがて「若枝」と象徴的に呼ばれるメシヤが来る。メシヤは「主の神殿」を建て、尊厳を帯びて王座に着いて支配する、と。
 大祭司ヨシュアは、三章で見たように、来たるべきキリストの予型である。
 大祭司は、頭には帽子をかぶっているが「冠」はかぶっていない。しかし、大祭司ヨシュアに王冠がかぶせられたように、やがて大祭司であり、かつ王でもあるメシヤが来て君臨される。
 メシヤは王として支配するが、真の霊的神殿をも造り上げられる。「そのかたわらにひとりの祭司がいて……一致がある」(一三)というのは、メシヤによって政治と宗教が統一されることを示している。
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3日 新約・黙示録一九章
ここに「小羊の婚姻」(七)が示される。キリストは花婿となり、「大群衆」(六)は花嫁となる。「一四万四千人」とも象徴的に呼ばれたキリスト者たちは、ここでは本来の姿である「大群衆」と呼ばれている。
 「天にある軍勢は真っ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った」(一四)
 とは、このときすでに復活と携挙があって、彼らは天においてキリストと共にいることを示している。
 「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから」(七)。
 花嫁である教会に用意ができて、花婿を迎える日が、やがて来る。
 ヨハネは、この啓示的幻を見せてくれた御使いを拝もうとした。すると御使いはそれを拒否して、「神を拝みなさい」と言い、さらに言った。
 「イエスのあかしは預言の霊です」(一〇)
と。人間であれ御使いであれ、イエスを証しする者は預言の霊を持っている。新約時代においては、私たちがイエスを証しするとき、それは一種の預言活動でもある。
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4日 旧約・ゼカリヤ書七章
 
当時ユダヤ人は、律法の命じるほかに、エルサレムの滅亡を覚えて年四回の断食をしていた。
 ユダヤ暦四月にはエルサレムの陥落を覚えて、七月にはゲダルヤの殺されたことを覚えて、一〇月にはエルサレムの包囲を覚えて、そして「五月」には、神殿の焼かれたことを覚えて断食していた。
 バビロンに捕囚として滞在中、彼らはこの断食を守ってきたが、いまや本国に帰り、神殿再建を前にしてなお五月の断食を守るべきか、が問題になった。ベテルという人物は、この質問をゼカリヤに向けた。
 そのとき与えられた主の御言葉は、民は捕囚の七〇年間、儀式的に断食していたが、それは神のためではなかった、ということであった。
 神のお求めになっていたのは、断食や儀式ではなく、実生活の中で民が神の御教えと愛に生きることだったのである。
 もともと、民が神の御教えを行ない道徳的生活をしていたならば、神殿破壊はなく、断食も不要であった。
 それゆえ神は、神殿破壊に至った経緯を、もう一度民に語られる。そして、昔の預言者たちの言葉を思い起こして道徳的生活に立ち返るよう、勧められた(八〜一四)。
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5日 旧約・ゼカリヤ書八章
 前章において神は、過去のことを語って民に反省をうながされた。しかし本章においては、未来のことを語って民を励まされる。神は、
 「このごろ、わたしはエルサレムとユダの家とに幸いを下そうと考えている」(一五)
 と言われる。もし神の御教えを守り、真実と平和を愛するならば、民の日々の生活は喜びとなる、と神は語られる(一九)。
 そしてエルサレムは、人々のあこがれの的となるであろう。異邦人たちは、
 「さえ、行って主の恵みを請い、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こう」(二一)
 と言い、エルサレムに集まってくる。異邦人一〇人がひとりのユダヤ人のすそをつかみ、
 「私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたと共におられる、と聞いたからだ」
 と言うであろうという。これは最終的に、キリストの千年王国において成就するであろう。
 神の語られることは単純である。神に従うなら、祝福がある。それは、旧約のみならず新約時代の今も、変わらない真理である。
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6日 新約・黙示録二〇章
 
「彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいるところで、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける」(一〇)。
 世の終わりに、サタン(悪魔)は、「火と硫黄との池に投げ込まれ」る。つまり、地獄に投げ込まれ、そこで「永遠に……苦しみを受ける」。これは事実上、サタンの永遠の滅亡を意味する。
 聖書は、サタン滅亡の日を明らかにしている。神はいつまでもサタンの存在を許容しておられるわけではない。サタン滅亡の日は定められている。
 サタン滅亡に続き、「最後の審判」とも呼ばれる死者へのさばきがある。「さばき」とは裁判であって、単に刑罰を下すことではなく、最終的な処遇を決定することである。
 最後の審判という″裁判の法廷〃には、ハデスにいた人々が現われる(一三)。彼らは未信者として死んだ人々である。
 クリスチャンはみな千年王国の前に復活している。ここで復活して神の法廷に現われているのは、未信者として死んだ人々である。
 神はこの法廷で、彼らの最終的な行き先を決定される。
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7日 旧約・ゼカリヤ書九章
 これは、前五世紀以降、イスラエルの周辺諸国に起こっていくことの預言である。
 都市国家ツロの滅亡のことが記されているが(四)、これは前三三二年にギリシャのアレクサンドロス大王がパレスチナを侵略した時に成就した。
 そのときアレクサンドロスの軍隊は、ツロの城壁や家々を打ち壊して、その残骸を「海に」投げ入れ、そのあとを「火で」焼いた(四)。海に投げ入れられたその残骸は、今も海の中の堤道となって現存しており、観光名所となっている。
 こうしてイスラエルの周辺諸国には、しばらく激動の時代が続くだろう。けれども、イスラエルには希望がある。やがてエルサレムに、メシヤが来られるからである。
 メシヤは「ろばに乗って」エルサレムに来られる(九)。これは主イエスが、十字架死を遂げることになる週の初めの日曜日に、ろばに乗ってエルサレムに入城されたときに成就した。
 この方は「正しい方で、救いを賜り」(九)、「諸国の民に平和を告げ」、やがて「その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る」(一〇)。
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8日 旧約ゼカリヤ一〇章
 「後の雨の時に、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる」(一)。
 ゼカリヤの時代に、バビロン捕囚はすでに終わり、多くの民が祖国に帰還し始めていた。破壊された神殿も、再建されようとしていた。
 町は復興し、民は新しく生活を立て直そうとしてた。彼らに最も必要なのは神の祝福である。祖国での農業も再開して、収穫を得なければならない。
 パレスチナの雨期は年に二度、秋と春である。秋に種を蒔き、春に収穫する。種まきの時と、収穫の前に雨が必要である。秋の雨を「はじめの雨」、春の雨を「後の雨」という。
 「後の雨の時に、主に雨を求めよ」。
 神は、私たちの祈りと願いに応えて、収穫期の雨を降らせて下さる。
 これは、リバイバルを求める私たちにも当てはまる。
 キリスト教の歴史を見ると、初代教会の種まき期に、聖霊の雨の大きな注ぎがあった。「初めの雨」である。そして、キリストの再臨の近くなった現代において、私たちは聖霊の「後の雨」を必要としている。
 神はご計画により、私たちの祈りに応えて、それを降らせて下さる。
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9日 新約・黙示録二一章
 新天新地の中心は、新エルサレムである。そこには、神の王座がある。
 新エルサレムを中心に、神は人と共に住まわれる。これについて、イザヤ六五・一七〜一九の預言は、こう記している。
 「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。
 見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ」。
 その日、神は人を喜びとし、人は神を喜びとする。そうした相互の喜び、相互の幸福が実現する。
 親が子を喜び、子が親を喜ぶ姿は家庭の理想である。そのように″神が人を喜び、人が神を喜ぶ〃新天新地、また新エルサレムの光景は、神の永遠のご計画が完成した理想的世界なのである。
 そこでは、人間の創造目的が完全に回復している。
 人は何のために生きるのか――人生の目的は幸福にあり、その幸福は神と共に生きることにある。
 新天新地では、それが完成しているのである。
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10日 旧約ゼカリヤ一一章
 
ゼカリヤは、「羊の商人」たちのために、ほふられる「羊」の群を飼った(七)。これは神の命令による。
 ゼカリヤは、自分のもとに「牧者」たちを雇い、その牧者たちに羊の世話をさせた。これは神が、イスラエルの指導者たちを通して民を治められたことと同じである。
 神は民を、「慈愛」と「結合」とによって治めてこられたのである。
 しかし彼ら牧者たちは、ゼカリヤと心を一つにしなかった。そのためゼカリヤは彼らを解雇した。神も、イスラエルの指導者たちを快く思わず、彼らに裁きを下された。
 一方、羊の商人たちは、ゼカリヤに賃金として、銀三〇シェケルを払った。これは、奴隷一人の値段にすぎない(出エ二一・三二)。このとき神は言われた。
 「彼らによって、わたしが値積もりされた尊い値を、陶器師に投げ与えよ」(一三)。
 神は、銀三〇シェケルは″ご自身の価値を値積もったもの〃だと言われたのである。主イエスも、イスカリオテのユダの行為により、銀三〇シェケルの値積もりで売られた。
 つまり、ゼカリヤの銀三〇シェケルの出来事は、予言というよりは予型だったと言えるであろう。
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11日 旧約ゼカリヤ一二章
 本章から、ゼカリヤ書は終末の時代の預言に入る。
 終末の時代に、エルサレムは世界のかなめ、注目の的となるであろう。
 「その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう」(三)。
 終末の時代に、多くの国々はエルサレム侵略のために集まってくるであろう。彼らはイスラエル北方の地ハルマゲドンに集結する。
 しかし、そこにイエス・キリストが再臨される。そのとき、彼の姿を見るユダヤ人たちに、大きな悔い改めと嘆きが起きるであろう。
 「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く」(一〇)。
 ユダヤ人は、二千年前に十字架上でわき腹に槍の「突き刺し」傷を受けたあのお方こそメシヤであった、と知って、激しく泣いて悔い改めるのである。
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12日 新約・黙示録二二章
 
四年間、聖書通読をしてきたが、新約聖書は今日が最後になる。
 「神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」(三、四)。
 来たるべき世では、私たちは顔と顔とを合わせて、「神の御顔を仰ぎ見る」。
 「いまだかつて神を見た者はいない」(ヨハ一・一八)。しかし、そのとき私たちは神を見る。一瞬ではない。子どもが親の顔を見るときのように、いつでも神の御顔を仰ぎ見ることができる。
 旧約時代に、天使を見た者はいる。アブラハムは、神の御言葉を代言する天使と語った(創世一八・二、三三、一九・一)。
 また、神の栄光を仰ぎ見た者はいる。モーセは神の「うしろ」姿を見たが、御顔は見なかった(出エ三三・二三)。イスラエルの長老たちは、神の栄光の姿を遠くにおぼろげに見たが、御顔は見なかった(出エ二四・一一)。
 神の御顔を見るとは、神の最も本質的なものにふれ、何の妨げもなく神と対面し、交わるということである。
 私たちはまだ神を明確には知らない。しかしその日、明確に知る。
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13日 旧約ゼカリヤ一三章
 終末の患難時代に、人類の三分の二は死に絶え、生き残るのは三分の一だけであろう。
 「全地はこうなる。──主の御告げ。──その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る」(八)。
 黙示録によれば、「火と煙と硫黄」の災害により、人類の三分の一は死に絶える(九・一八)。また、もう三分の一が、他の災害や、ハルマゲドンの戦いで死ぬのであろう。
 しかし残りの三分の一は、火の中をくぐるようにして助かる。彼らはクリスチャンである。
 「わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う」(九)。
つまり、クリスチャンたちは「火」のような患難時代を、地上で通過するであろう。キリスト者の携挙は患難時代の直前ではなく、患難時代の終わり頃と思われる。
 しかし、患難のただ中を通過しながらも、キリスト者は生き残る。彼らは金のように精錬されて、そこから出てくるであろう。
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14日 旧約ゼカリヤ一四章
 終末の時代に、エルサレムは異邦人によって踏みにじられる(二、黙示一一章)。
 また多くの国々が、エルサレムを攻めるために、ハルマゲドンの地に集結する。しかし、そのとき「主が出てこられる」(三)。
 主イエスが再臨し、父なる神ヤハウェは御子イエスにおいて、地上に来られる。その日「主の足は……オリーブ山の上に立つ」(四)。
 「オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け」、そこに「大きな谷」ができる。
 主はそののち地上の悪を一掃し、地球上に、ご自身の義と愛による千年王国を樹立される。
 「主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる」(九)。
 宗教はただ一つ、キリスト教だけになる。教派もなくなり、真のキリスト教だけになる。
 千年王国では、毎年「仮庵の祭り」が行なわれるであろう(一六)。仮庵の祭りとは、出エジプトの時の荒野放浪時代の天幕生活をおぼえる祭りである。しかし千年王国の仮庵の祭りはさらに、教会時代という一種の荒野放浪時代を覚えるものとなるであろう。
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15日 旧約・マラキ書一章
 私たちの聖書通読は、いよいよ最後の書・マラキ書に入る。
 マラキは、旧約時代最後の預言者である。ハガイやゼカリヤよりさらに約一〇〇年あと、前四〇〇年頃の人物である。
 かつてエズラ、ネヘミヤらによる宗教改革が行なわれたとき、民の信仰は一時は復興した。しかし、マラキの頃になって、人々の信仰は偽善と不敬虔なものに陥っていた。神は、
 「どこに、わたしへの尊敬があるのか。……どこに、わたしへの恐れがあるのか」(六)
 と嘆かれる。
 人々は神を父と呼び、また「主よ」と祈ってはいたが、その心には畏敬の念がなかった。彼らは、律法に禁じてある不具の家畜を犠牲として捧げたり、傷のあるものを犠牲として捧げていた(八)。
 「口先ではわたしを敬うが、その心は、わたし(神)から遠く離れている」(マタ一五・八)者となっていた。そのような礼拝が、どうして神に受け入れられるだろうか。
 そのようないい加減な捧げ物をして、どうして神は願い事を聞いて下さるだろうか。私たちは、神に顧みられない捧げ物をしたカインと同じ過ちを犯してはいけない。
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16日 旧約・マラキ書二章
 
当時イスラエルの民の中には、異教の女と結婚するために、自分の妻と離婚した者までいたようである。
 このような人々に対し、マラキは、
 「神は人を一体に造られたのではないか」(一五)
 と叫ばなければならなかった。人は夫婦となって一心同体になる。夫は妻を、妻は夫を裏切ってはならない。
 結婚は、神と人の間の関係の影である。だから神の前に、結婚は神聖なものとされる。人は結婚を汚してはいけない。「わたしは離婚を憎む」(一六)と神は言われる。
 しかし、過去に離婚経験があれば、その人はもう救われないのか。
 そうではない。たとえ離婚経験があっても、神の憐れみを求める者に、神は豊かな憐れみを示して下さる。
 ヨハネ四章のあのサマリヤの女は、五度も離婚経験のある女だったが、主イエスは彼女に豊かな憐れみと恵みを示して下さった。
 そのイエスの憐れみに満ちた目が、私たちにも同じく注がれていることを覚えよう。
 それは単に御子キリストの目であるだけでなく、父なる神の御目も同じである。罪の増し加わったところには、神の憐れみも増し加わった。
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17日 旧約・マラキ書三章
 「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える」(一)
 との預言は、パプテスマのヨハネにおいて成就した。また、
 「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る」(二)
 とは、キリストのことである。
 マラキはさらに、民が真の宗教に立ち帰るよう呼びかける。
 人々は、モーセの律法を忘れていた。畑などの収穫の中から十分の一を聖別して捧げることは、古くから行なわれ(創世一四・二〇、二八・二二)、モーセの律法の中でも命じられたことだった。
 しかしマラキの時代に、人々は十分の一を神のものとして捧げることをしていなかった。それは神のものを「盗む」に等しいとされた(九)。だから神は言われる。
 「十分の一をことごとく、宝物倉に携えてきて、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。……わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ」(一〇)。
 神を試してよい、と言われているのは、聖書中ここだけである。十分の一献金は、祝福の基礎である。
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18日 旧約・マラキ書四章
 「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら」(一)
 とは、終末の火による大審判を言った言葉である。使徒ペテロも、
 「今の天と地は……火で焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです」(・ペテ三・七)
 と言っている。やがて宇宙は、火と共に過ぎ去ってしまうであろう。しかし、それは″人類絶滅の日〃だろうか。そうではない。神の民は生き残る。そして新天新地を継ぐ。
 「わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある」(二)。
 大いなるその日が来る。神はその日の前に、「預言者エリヤを遣わす」と言われる(五)。
 じつは「終末」の時代は、広い意味ではキリストの初臨から始まっている。初臨の前に道を備えたバプテスマのヨハネは、エリヤの再来であった(マタ一一・一四)。
 また、キリストの再臨の道備えをするために患難時代に二人の預言者が現われるが(黙示一一・三)、そのうち一人は、やはりエリヤの再来であろうと言われる。私たちはエリヤと共に言おう。
 「主イエスよ。来たりませ」。
           完
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