聖書一日一章

4年目 7月
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1日 旧約エゼキエル一二章
 
エゼキエルは、さらなる捕囚の時が南王国ユダに近づいていることを強調するため、神の命令により、ある象徴的な行為に出る(七)。
 そのあとエゼキエルは、南王国ユダの君主ゼデキヤの運命について、詳細な預言をなす。ゼデキヤは、ひそかに逃亡するが、捕らえられ、バビロンへ移されて二度とエルサレムを見ることはない(一二)。
 これは、五年後の前五八六年に成就した。ゼデキヤはひそかに逃亡を企てたが捕らえられ、両眼をえぐられてバビロンに引いて行かれたのである(エレ五二・七〜一一)。このとき、ある人たちは、
 「日は延ばされ、すべての幻(神の啓示)は消え失せる」
 と言っていた。しかし、かえって「その日は近づき、すべての幻は実現する」(二二〜二三)。
 私たちも、聖書の預言はすべて成就する、と信じなければならない。
 ある人たちは、聖書にある終末預言のすべてを信じようとはしない。人類が誕生したのは数百万年も前のことであり、人類の終末も、はるか未来のことであるかのように思っている。しかし、聖書の御言葉はすべて成就する。みことばを信じよう。
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2日 旧約エゼキエル一三章
 バビロン捕囚がさらに本格化しようとしていた当時、エルサレムには、「自分の心のままに預言する」偽預言者たちが大勢いた(二)。
 彼らは、主がお語りになっていないのに「主の御告げ」と言って語り、人々を惑わしていた。
 平安がないのに「平安だ」と語り、バビロン捕囚が迫っているのに「それはない」と語っていた。彼らは思い込みで語って、「自分の霊に従う愚かな」者たちであった。偽りの希望を語る彼らに対する神の裁きは、厳しかった。
 今日も、偽りの預言者たちに気をつけなければならない。現代キリスト教の異端であるモルモン教は、「預言者」と自称するある人物によって始められた。ものみの塔(エホバの証人)も、自分たちを「預言者」と呼ぶ人々によって始められた。
 私たちの教会においても、牧師や宣教師、また私たち信者も、自分を「預言者」だと言い出さないように気をつけなければならない。そう言い出すことは大変危険である。
 牧師や宣教師、伝道者は、神の御言葉を聖書を通して語り告げる者だが、真の意味での「預言者」ではないからである。
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3日 新約・ヤコブ三章
 「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人は誰でしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい」(一三)。
 人に知恵があるか否かは、生き方に現われる。生き方を見れば、その人の知恵がわかる。
 世の中をみると、「頭のいい」人が、必ずしも良い生き方をしているわけではない。また「頭の回転の鈍い」人が、必ずしも悪い生き方をしているわけではない。
 しかし、良い生き方をしている人は、知恵ある人であり、悪い生き方をしている人は、知恵のない人なのである。本当の知恵は、良い生き方をすることである。
 本当の賢明さは、行動と生き方にあらわれる。フランスの哲人ベルクソンは、
 「思索人らしく行動し、行動人らしく思索せよ」
 と言った。私たちは、適切な行動と良い生き方のために、充分な思索をしよう。そして、知恵ある賢明な思索をするために、適切な行動と良い生き方をしよう。
 真の思索人は行動人であり、真の行動人は思索人なのである。
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4日 旧約・エゼキエル一四章
 ここに、「ノアとダニエルとヨブ」の三人が、義人の代表として登場している。
 ノアは、大洪水で世界が滅びたとき、神の御前に正しく歩んだ人である。
 ダニエルは、前六〇六年の第一次バビロン捕囚のときにバビロンに連れ去られた人で、のちにダニエル書を記した人である。
 またヨブは、前一〇〇〇年頃(?)の人と思われるが、激しい苦難にあい、のちに二倍の祝福を受けた人である。
 彼らに共通することは、三人とも、苦難あるいは激動の人生を、立派な信仰をもって貫いたということである。
 ノアは、世界が滅びるという時期を通りながら、神に従い通した。ダニエルは、祖国滅亡の時を通りながら、神に従い通した。ヨブは、家庭崩壊と自分の人生崩壊の時を通りながらも、神に従い通した。
 彼らは、何が起ころうと、神に従った。そのゆえに、のちに大きな祝福を受けたのである。
 たとえ死のかげの谷を歩もうとも、主と共に歩むなら、主は必ずやあなたを、緑の牧場にともなわれる。
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5日 旧約・エゼキエル一五章
 イスラエルは、ここで「ぶどうの木」にたとえられている。とくにエルサレムが、「ぶどうの木」と言われている。
 このぶどうの木は、実を結ばないため、やがて切り倒されて、薪として火の中に投げ入れられてしまう(八)。これは、不信に不信を重ねたイスラエル民族、またエルサレムへの裁きをさしている。
 しかし、のちに主イエスは、
 「わたしはまことのぶどうの木」
 と言われた(ヨハ一五・一)。これは主イエスが、真のイスラエルであられることを意味する。
 私たちは、第二のイスラエル民族でもある。主イエスは、真のイスラエルの幹であり、私たちはその枝である。
 私たちは、真のイスラエルである主イエスに、しっかりとつながっているならば、「実を結ぶ」ことができる。幹はしっかりしているから、枝である私たちは、幹からしっかりと養分を吸収し、幹の力を借りて実を結べばよいのである。
 「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」
 と主は言われた。主につながろう。
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6日 新約・使徒一五章
 「マルコとも呼ばれるヨハネ」は、かつてこの世の仕事のために、パウロたちの一行から離れていってしまったことがあった。
 そのときのヨハネ・マルコの態度を覚えているパウロは、もう一度伝道旅行に行こうとしたとき、彼を連れて行かないほうがよいと考えた。パウロは、精鋭主義者であった。しかし、バルナバはヨハネ・マルコを連れていく考えだったので、バルナバとパウロとの間に、激しい反目が生じた(三九)。
 つまり、ヨハネ・マルコの人物評価をめぐって意見の対立があり、その結果、パウロとバルナバは別行動をとるようになったのである。
 けれども、このことによって結果的に二つの伝道活動がなされ、神の福音は拡大していった。また、マルコもそのまま埋もれてしまわずに済んだ。
 ある人が言った。
 「牧師はみな、一人一人性格も違うし、賜物も違う。教団にもそれぞれ特色がある。ある牧師は、この教団では能力を一〇〇%出せるが、別の教団に行けばそうではないだろう。そう思ったとき、いろいろな教団があるから、かえって大きな伝道ができるのでは、と思いました」。
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7日 旧約・エゼキエル一六章
 ここでエルサレムは、擬人的表現で言い表されている。
 エルサレムは女性とされ、神は男性である。神はエルサレムと結婚するが、エルサレムはやがて、偶像崇拝という姦淫的行為に身をもちくずすようになる。
 やがてエルサレムは、自分の恥をさらし、報いを受ける。しかし神は、その後彼女を赦し、彼女との「契約を新たに」される(六二)。
 神は新しい契約を結んで、エルサレムを再び妻とされる。これは地上のエルサレムに関するものであるが、じつはそれがさらに究極的な形で成就したのが、「天のエルサレム」(ヘブ一二・二二)である。
 天のエルサレムは、天国の別名である。ガラテヤ四・二六に、
 「上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です」
 とある。天のエルサレムは、私たちの母であり、私たちの父は神、私たちはその父母のもとにいる娘たち――「シオンの娘たち」である。
 天のエルサレムは、神と一心同体であり、神との祝福された関係の中にある。
 それはやがて新天新地で、新エルサレムとも呼ばれるようになる。神の家族は、そこで至福に生きる。
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8日 旧約・エゼキエル一七章
 
バビロン帝国は、南王国ユダに来てそこを征服し、ユダ王国の「王族のひとり」ゼデキヤ王を、その王として立てた(一三)。
 すなわちゼデキヤは、バビロン王に任命された王なのである。こうして、ユダ王国はバビロンの属国となった。ユダの王ゼデキヤは、バビロンへの忠誠を誓った。
 しかし、ゼデキヤはやがて、エジプトに助けを求め、バビロンに反逆。けれどもそれは成功しなかった。なぜなら、ユダを一定期間バビロンの支配下におくことは、神のご計画だったからである。
 ゼデキヤがバビロンに反逆したのは、愛国心からだったに違いない。しかし、彼は預言者エレミヤなどから神の御計画について聞かされていながら、神に聞き従おうとはしなかった。そのため、ゼデキヤは神の裁きを受けたのである。
 神に聞き従うことは、愛国心にまさる。
 かつて太平洋戦争のとき、日本の多くの教会は、日本が戦争に勝つように祈り、そのために協力した。
 軍国主義と戦争に対し命をかけて反対する者は、まれだった。これは神に聞き従うことよりも、愛国心を優先させた例と言えるだろう。
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9日 新約・ヤコブ四章
 「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる」(六)。
 神は、高慢、傲慢、慢心の者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる。「へりくだる者」とは、
 「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう」(一五)
 という者である。私たちは、自分の欲望実現のために生きているのではなく、神のみこころ実現のために生きているのである。神のみこころ実現のために生きることこそ、神に喜びをもたらし、人には幸福をもたらす。
 私たちは、真のへりくだり、真の謙遜を身につけよう。神のためには、がむしゃらに働くが、すべての栄光は神にお返しするのである。
 自分のことが人々に知られ、認められ、人々に賞賛されることを求めるのではなく、神が自分を見て下さっているということ、そして、神ご自身がきっと祝福を下さる、という期待だけで満足する。
 神の喜びを自分の喜びとする――それが真のへり下りである。私たちは自分の栄光を求める必要はない。神の栄光が現わされることこそが、私たちの栄光である。
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10日 旧約・エゼキエル一八章
 当時、南王国ユダの人々は、
 「父が酢いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」(二)
 ということわざを取り上げて、今自分たちに裁きが下っているのは、先祖たちの罪の結果だ、と言って弁解していた。しかし、神は言われる。
 「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(四)
 と。今エルサレムに裁きが下っているのは、今そこに住んでいる者たちが、罪を犯しているからである。エルサレムに今住んでいる者たちが悔い改めるなら、たとえ先祖たちの度重なる罪があろうと、エルサレムへの裁きは、ただちになくなるであろう。
 「だから、悔い改めて、生きよ」
 と主は言われる(三二)。
 私たちは、過去の人々や、先祖たちの罪によって裁きを受けるのではない。自分の罪に応じて裁きを受けるのである。
 「わたしはあなたがたを、それぞれその態度に従って裁く」(三〇)
 と主は言われる。私たちは、過去に束縛されてはいない。今の、自分の態度――主に対する自分の態度によって、将来のすべてが決定される。
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11日 旧約・エゼキエル一九章
 
エゼキエルは、イスラエルの君主たちのために「哀歌」を唱えた。
 哀歌を唱えたのは、エレミヤだけではなかった。エゼキエルも、また彼以外のすべての預言者たちも、その時代の罪と惨禍を思って、哀歌を唱えたのである。
 悲しみは、預言者たちの特徴であった。自分のために悲しむのではない。彼らは祖国と人々のために、常に悲しみを心に持ち続けた。
 「あなたの母である雌獅子」(二)とは、南王国ユダである。この国では、善王ヨシヤのあと、エホアハズ王が即位したが、エホアハズは侵略的であった(三)。彼は、エジプトの王ネコに追われ、エジプトに連れ去られた(四)。
 彼のあと、エホヤキム、またエホヤキンが王となったが、エホヤキンもまた、凶暴であった(六)。彼はバビロンに捕囚となった(九)。
 イスラエル民族とその地は、かつては「水のほとりに植えられたぶどうの木のようだった」(一〇)。しかし、その木は今や神の怒りを受けて、「引き抜かれる」。すなわちバビロンに捕囚となる。
 なんと痛々しい落ちぶれ方であろうか。まことに神の裁きは、峻厳である。
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12日 新約・使徒一六章
 
私たちが神のみこころを知る方法は、第一に御言葉、第二に摂理、第三に御霊である。
 パウロ一行は、初めてヨーロッパ伝道に向かった(一〇)。彼らはどうやってヨーロッパ伝道を、神のみこころと確信したか。
 第一に御言葉があった。「全世界に出ていって・・・・」(マコ一六・一五)という御言葉があった。
 第二に、摂理があった。彼らははじめアジヤ(現在のトルコあたり)のほうへ行こうとしたが行けず、またビテニヤのほうに行こうとしたが行けなくなった。何らかの事情で行けなくなったのである。
 それで海岸の都市トロアスまで下った。もはや前には海しかない。後ろは、行けなくなったアジアやビテニヤである。しかし、海の向こうにはマケドニヤ――現在のギリシャ、すなわちヨーロッパ――があった。
 第三は、御霊であった。パウロが見た夢を通し、聖霊は彼らに、マケドニヤ伝道が神のご計画と確信させた。パウロ以外の者たちも、その前の摂理もあって確信したのである。
 このように、神のみこころを知るために、外証(御言葉)、傍証(摂理)、内証(御霊の確信)の三つがそろう必要がある。
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13日 旧約エゼキエル二〇章
 
イスラエルの長老たちは、預言者エゼキエルのもとに集まって来た。主の救いを願うためである。
 しかし、罪を捨てずに祈る祈りは、聞かれない。エゼキエルを通して長老たちに与えられた神の御言葉は、手厳しいものであった。
 けれどもその厳しい御言葉の中に、神は重要な真理を語られた。
 かつてイスラエル民族は、エジプトでも偶像崇拝をしていた。しかし、その時も神は、ただご自身の聖なる御名のために、彼らを救出された(九)。
 以来、神はただご自身の聖なる御名のために、彼らを取り扱っておられる。神が民を裁かれる時でも、民を滅ぼし尽くさないわけは、ご自身の聖なる御名にある。
 神はご自身の御名のために、民が神を知ることを、心より切望された。神を本当に知るように、強く望まれた。
 神が人を恵むのも、裁くのも、すべてそのためである。民が神を知るため、神は民を恵み、また裁かれる。だから、民が神を捨てて偶像を拝むのは、神にとっては最も大きな悲しみなのである。
 神のご心情を察し、神を愛する者となろう。
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14日 旧約エゼキエル二一章
 
神はエゼキエルに、異常なほどの嘆き悲しみを人々に見せるよう、命じられた。
 「人の子よ。嘆け。彼らが見ているところで、腰が砕けるほど激しく嘆け」(六)。
 この嘆きは、バビロン帝国の攻撃によるエルサレム滅亡の時(前五八六年)が間近に迫っていることを、人々に知らせ、彼らに悔改めをうながすためであった。
 「あなたのうちから、正しい者も悪者も断ち滅ぼす」(三)
 と神は言われた。「正しい者も悪者も」とは、人々の目に正しく見える者も、悪者と思われている者も、の意味であろう。
 実際には、神の目に「正しい」と見える者は、もはやエルサレムにはいなかった。「義人はいない。ひとりもいない」という状態だったのである。
 しかし、かつてアッシリヤ帝国の首都ニネベは、義人はいなかったが、「もうすぐニネベは滅ぼされる」と言った預言者ヨナの宣教によって、悔い改めた。そして結局滅ぼされなかった(ヨナ書)。神がエゼキエルを通して、「もうすぐユダの国は滅ぼされる」と語られるのも、民の悔改めを期待するからである。
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15日 新約・ヤコブ五章
 
「義人の祈りは働くと、大きな力があります」(一六)。
 たいがいの巡回伝道者は、伝道にいくとき、讃美の歌手を同伴していくのではないだろうか。しかし、一九世紀アメリカの大リバイバリスト=チャールズ・フィニーは、伝道にまわるとき、一人の祈りの人を同伴していた。
 フィニーの説教中、この祈りの人は隣の部屋へ行き、あるいは近くの森の中へ行き、両手に顔をうずめて魂の苦しみを味わい、涙を流しながら、うめくように祈るのだった。
 彼は、フィニーの説教が失われた魂を回心させることができるように、ひたすら祈っていた。フィニーのリバイバル運動の背景には、このような祈りの人がいたのである。
 では、このような祈りの人は、もともと祈りのための素晴らしい素質とか、霊的な高潔さを持っていたのであろうか。そうではない。霊的高潔さがあったから祈りの人になったというよりは、信仰をもって祈りの人になったから、霊的に高潔になったのである。
 人の義は信仰による。霊的な賜物も、人の生まれつきの素質によるのではない。ただ恵みを信じる信仰によるのである。
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16日 旧約エゼキエル二二章
 
神は、ユダ王国への裁きに関して言われた。
 「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行ないを返した」(三〇〜三一)。
 神は、ご自身に向かって民のためにとりなす者を、地上に捜し求めたが、見つからなかったのだと言われる。もし、ひとりでも真剣に、真実に神に向かってとりなす者がいたならば、神は御怒りをやわらげられたかも知れない。
 しかし、神と人の間のその「破れ口」に立って、とりなす者は、一人もいなかった。それで神は裁きを下された。
 かつて、モーセがとりなしたとき、神は御怒りをやわらげられた。またアロンがとりなしたとき、神は御怒りをやわらげられた。しかし、このときは、そのような者を見いだすことはできなかった。
 神は、御自身に向かって民のために真剣にとりなす者を、捜し求めておられる。
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17日 旧約エゼキエル二三章
 「同じ母の娘である二人の女」(二)とは、北王国イスラエル(首都サマリヤ)と、南王国ユダ(首都エルサレム)のことである。
 本章では、イスラエル民族が異邦の国の偶像を恋い慕った行為が、二人の女のなした「姦淫」として描かれている。
 姉であった北王国イスラエルは、この姦淫をして、すでに裁かれた。しかし、妹である南王国ユダは、この姉の姿を見ながらも、姦淫をやめようとしない。だから、彼女にも同じ審判が下るであろう。
 「これらのことがなされるのは、あなたが異邦の民を慕って姦淫をし、彼らの偶像であなたの身を汚したからである」(三〇)。
 神は、イスラエル民族が異邦の偶像文化を恋い慕ったことを、責めておられるのである。
 私たちは、たとえ外国に行っても、そこの文化の良い面と悪い面を、はっきりと見極めなければならない。神の御言葉を土台として、それらを区別するのである。文化の良い面は取り入れればよいが、悪い面を取り入れてはならない。
 友人との交流においてもそうである。神の御言葉に基づいて、善悪を判断する力を養おう。
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18日 新約・使徒の働き一七章
 
パウロは、ギリシャに行ったとき、そこで多くの偶像を見たが、そのとき、
 「あなたがたのしているのは偶像崇拝だ」
 と言って、人々を責め立てたのではなかった。むしろ彼は言った。
 「あなたがたが知らずに拝んでいるものを教えましょう」(二三)
 と。パウロは、天地を造られた神様、聖書の神様こそが、あなたがたの知らずに拝んできたおかたなのですよ、と教え諭したのである。
 私たちは、日本人がこれまで知らずに拝んできたおかたについて、人々に語らなければならない。
 日本には古来、「神道」と呼ばれる宗教が存在してきた。この神道に見られる様々な古来からの風習、祭り、神社の構造や、神主の儀式等、中心的なものの多くは、古代イスラエル宗教をルーツとするものであることが、多くの学者によって証明されつつある。
 日本人が知らずに拝んできたおかたは、じつはイスラエルを造ったと同じ聖書の神様なのである。私たちは、聖書の教える父なる神様ヤハウェ、またその御子イエス・キリストに立ち返るとき、本当の神道をきわめることができる。
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19日 旧約エゼキエル二四章
 エゼキエルは、「なべ」のたとえをもってエルサレム滅亡の預言を語った。それを語った日の夕方、エゼキエルの愛する妻が死んだ(一八)。
 しかし、神はエゼキエルに、悲しんでも声をたてないよう命じておられた。エゼキエルは泣かず、嘆かず、涙も見せなかった。
 悲しみの表現である「頭に布を巻き付ける」こともせず、普通の日のように足にサンダルをはき、また哀悼の意である「口ひげをおおう」こともせず、普段通りにしていた。人々から哀悼のパンを受けて食べることもなかった(一七)。
 彼は神の命令でそうしたのである。彼のこの行為は、じつはエルサレムに対する預言活動であった。
 エルサレムには、今まさに裁きが下ろうとしていた。人々は、自分の愛する者たちの死を見ることになるだろう。
 しかし、エゼキエルと同様、人々はもはや嘆いたり泣いたりはしないようになる。死があまりに多くなるので、もはや哀悼の涙も枯れてしまうのである。
 エゼキエルは、単に言葉によって預言したのではない。彼の存在自体が預言であった。すさまじいばかりの預言活動である。
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20日 旧約エゼキエル二五章
 
前章まではエルサレムに関する預言だったが、本章から三二章まで、近隣諸国に関する預言が続く。
 バビロン帝国は、南王国ユダだけを征服するのではない。アモン人の国も、モアブも、エドム(セイル)ペリシテ人(ケレテ人)も、バビロンが征服するであろう。
 アモン人とは、アブラハムの甥ロトの子孫である。彼らはヨルダン川の東側地域に住んでいた。
 アモン人は、ユダが捕囚となったのを見て、「あはは、と言ってあざけった」(三)。モアブやセイル、ペリシテ人も、ユダの滅亡を見て、いい気味だ、と言ってあざけった(八、一五)。
 しかし、人の刑罰を喜ぶ者もまた、刑罰を受ける。
 彼らの国々はみな、エルサレム滅亡の五年後に滅亡した。そして以後、再建されることはなかった。
 一方、南王国ユダは、滅亡したが、そののち再建された。イスラエル民族は今なお存在している。イスラエル民族は、神のあわれみを受けたのである。
 私たちは、人が神の刑罰を受けるのを見て、喜ぶことがあってはならない。そうすることは、自分の身にも神の怒りを招くことである。
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21日 新約・Tペテロ一章
 「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです」(五)。
 救いは、現在のことでもあるが、未来のことでもある。
 現在における救いとは、罪の赦し、義認、魂の新生、また人生への祝福や導き、神癒、等である。一方、未来における救いとは、体の復活、永遠の命の体を得ること、千年王国また新天新地での至福の生活である。
 これら現在の救いと未来の救いは、互いに密接にかかわっている。現在の救いは種子であり、未来の救いはその花実である。
 クリスチャンは、すでに救われた者だが、救われつつある者でもあり、やがて救いを完成される者である。
 だから私たちは、現在の時をしっかり踏まえながらも、なお未来に望みを抱き、「地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごす」(一七)者でありたい。
 私たちは今やゴールに向かっている。ゴールに着くまで、マイペースでよいから、コースをはずれることなく、しっかりとした歩みをし続けようではないか。
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22日 旧約エゼキエル二六章
 ツロの滅亡に関するこの預言は、たいへん興味深い形で成就した。
 ツロはバビロン帝国により、また後のアレキサンダー大王のギリシャ帝国の攻撃により、ついに没落が決定的となる。
 じつは地中海に面した都市国家ツロの町のすぐ前には、島があった。アレキサンダー大王が攻めてきたとき、ツロの人々は家財その他一式をすべて島に運び、そこに要塞と新ツロの町を建設していた。
 アレキサンダーは、島の要塞を落とすため、沿岸の旧ツロの町から、岩や建物の残骸をみな取ってきて海に投げ込み、その島に向けて、なんと海の中に長さ八〇〇メートル、幅六〇メートル、水深三〇センチ程度の提道を造り上げたのである。
 アレキサンダーの軍隊は、その提道を歩いて島に攻め寄せ、ついにツロを陥落させた。この提道建設により、ツロの町には何もなくなってしまった。「そのちりを払い去って、そこを裸岩にする」(四)という聖書の預言が成就したのである。この提道は現存し、レバノン国内の有名な観光地になっている。
 また「ツロは海の中の網を引く場所となる」(五)の預言通り、そこは今も小さな漁師の町にすぎない。
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23日 旧約エゼキエル二七章
 
ツロは、現在はレバノン国内に位置する町である。
 古代におけるツロは、地中海沿岸を拠点に活躍する、最大級の海運商業都市であった。それはフェニキヤ人のつくった都市国家であり、地中海周辺の貿易を牛耳っていた。
 強大な海軍力も持ち、前一二〜六世紀には、アフリカの北西海岸や、スペイン、イギリス方面に、植民地を持っていた。
 のちにローマ帝国の強敵となった有名なカルタゴなども、ツロからの植民によって建てられた都市国家である。
 本章に出てくる「キティムの島々」とはキプロス島、「タルシシュ」はスペイン南端の港、「ヤワン」はイオニヤ人、「トバル」「メシェク」は小アジア地方の民族、「ベテ・トガルマ」はアルメニヤ人、「デダン」はアラビヤの町である。
 ツロは、このほかにも多くの町々と交易していた。いかに強大な国家であったか、想像できるであろう。
 しかしそのツロも、エルサレムの壊滅をあざ笑って高ぶったために(二六・二)、神に滅ぼされてしまう。「だれかツロのように海の真ん中で滅ぼされたものがあろうか」(三二)。
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24日 新約・使徒一八章
 アポロは、霊に燃えている、熱心で、優れた伝道者だった(二五)。
 主イエスの福音に関する教えを受けたとき、アポロはイエスを救い主として信じ、人々にもイエスのことを正確に語っていた。彼は旧約聖書を用いて、「イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人を論破した」。
 つまり、このときすでに、アポロは立派な伝道者だった。
 しかし、アポロのキリスト教は、それでもまだ不完全だった。彼は「ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」(二五)のである。
 「主イエスの御名によるバプテスマ」(一九・五)を知らなかった彼は、人々にまだ、イエスの御名によるバプテスマを授けていなかった。
 そのため、アポロの伝道によって、人々は悔改めとイエスに対する信仰を持ったにもかかわらず、聖霊の満たしを受けるには至っていなかった。
 これは、伝道者のバプテスマ理解や、聖霊理解が不完全で説教がかたよると、聴衆がたとえ信仰を持つようになったとしても、聖霊に満たされた生活に人々が入れないことがある、ということを示している。
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25日 旧約エゼキエル二八章
 
本章の前半は、都市国家ツロへの裁きの預言、後半は都市国家シドンへの裁きの預言である。
 一二〜二〇節も、「ツロの王」に関する預言とされているが、この箇所はとくに興味深い。ツロの王の堕落が描かれているのだが、その描き方はあたかも天使の堕落――堕落天使といった感じである。
 多くの聖書学者は、これらの句は単にツロに関して述べたものではなく、サタンの堕落のことが、その背景に二重写しに描かれているのではないか、と考えている。
 一四節の言葉は、原語の直訳では、「あなたは油そそがれたケルブ。わたしはあなたに与えた。あなたは神の山にいて、火の石の間を歩いていた」である(新改訳欄外注参照)。
 この句の背景にサタンの堕落のことがあるならば、サタンはかつては天使ケルブであった、ということである。サタンはもとは良い天使として、エデンの園を守る役にあった。
 しかし天使も自由意志を持っている。サタンは高慢になって堕落し、悪の霊的存在者となった。
 けれどもそのサタンも、ツロと同様に、定められた時が来れば、神の裁きを受けて滅び失せてしまうであろう(黙示二〇・一〇)。
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26日 旧約エゼキエル二九章
 
本章は、エジプトの四〇年間にわたる荒廃、および、そののち二等国に転落するとの預言である。
 この預言は、前五八六年に主から与えられた(一)。その後しばらくして、前五七二年と前五六八年の二回にわたり、バビロン軍はエジプトに侵入。エジプトの町々を略奪する。
 エジプト人はバビロン軍の捕囚となり、あるいはバビロン軍を恐れて逃げ、諸国の民の間に離散する。そのため、エジプトには「四〇年の間だれも住まなくなる」(一一)。この「四〇年」とは、バビロン軍第一回侵入の前五七二年から、バビロン帝国の滅亡した前五三六年までの、約四〇年間であろう。
 バビロンを滅ぼしたペルシャ帝国は、すべての民に対して寛大で、祖国帰還を許した。そのため、ペルシャの治世になると、エジプト人たちも祖国に帰ってくる(一三〜一四)。しかし、その後のエジプトは、二度と昔日の栄光を回復することはなかった。かつては古代の一等国家であったエジプトは、以後は二等国に転落したのである(一五)。
 「(エジプトは)二度と諸国の民の上にぬきんでることはない」(一五)と預言されているが、これは二〇世紀の今もそうである。
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27日 新約・Tペテロ二章
 
キリストの十字架の犠牲は、父なる神のご計画であり、父なる神のご意志であったが、それはまた、キリスト御自身が志願されたことでもあった。
 「キリストは・・・・自分から、十字架の上で私たちの罪をその身に負われました」(二四)。
 キリストは、罪の犠牲としてのあの十字架の苦難を、「自分から」負われた。それによって、私たちのための罪の贖いが全うされた。
 もちろん、そのあまりの苦しみを思って、ゲッセマネの園では血の汗を流して祈られた。しかし、自分の思いではなく、みこころが成りますようにと言って、結局すべてを父なる神の御手にゆだねられた。
 私たちの人生においても、最終的にはこのような信仰が必要である。たとえどんなに辛いことでも、みこころならば甘んじて受けます、従います、という信仰である。
 主イエスがゲッセマネの園で、また十字架上で見せて下さった父なる神へのあの真実な信仰は、キリスト者の持つべき信仰の最高の模範なのである。
 主イエスは、私たちの信仰の対象であるだけでなく、信仰の最高の模範でもあられる。
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28日 旧約エゼキエル三〇章
 「クシュ」は、エジプトの隣国で現在のエチオピアあたり、プテはリビヤ地方、ルデは小アジアのルデヤ地方である。
 彼らはいずれもエジプトの同盟国であったが、エジプトがバビロン帝国によって侵略されたとき、共に剣に倒れた(五)。
 古代エジプトの高度な文明は、現代人の誰もが伝え聞いていることであろう。エジプトは高度な文明によって栄え、巨大なピラミッドを幾つも造り、諸国を従えて多くの国々と貿易を行なった。しかしそのエジプトも、廃墟となる。
 「エジプトは、荒れ果てた国々の間で荒れ果て、その町々も、廃墟となった町々の間にあって荒れ果てる」(八)。
 エジプトはバビロンによって滅ぼされて以後、どんどん荒廃の道をたどることになる。とくに、キリスト降誕後五百年ほどして、回教徒がこの土地を荒らし回ってからは、ただ廃墟の名所となった。
 有名なスフィンクスも、今は観光のために足もとまで見えているが、一〇〇年ほど前に撮られた写真を見ると、首まで砂に埋もれていたことがわかる。
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29日 旧約エゼキエル三一章
 
かつてアッシリヤ帝国が、高慢のために神に滅ぼされたように、今やエジプトも、神の裁きによって滅ぼされる(一八)。
 アッシリヤ帝国、またエジプトの横暴により、今まで多くの人々が、苦しみのうちに死んで「よみ」に下った。しかし、死んだ彼らは、今やアッシリヤが、さらにエジプトが滅ぼされるのを見て、「地下の国」すなわち「よみ」で「慰められる」であろう(一六)。
 ここでも、私たちは、「よみ」がすべての死者の行く場所として描かれていることに、注意しよう。
 「よみ」は、ヘブル語でシェオルといい、ギリシャ語でハデスという。旧約時代、すべての人は死後「よみ」に下った。それは地獄(ゲヘナ)とは区別される世界なのである。
 「よみ」は、地獄のような最終的刑罰の場所ではなく、世の終わりの最後の審判の法廷の時まで、死者が一時的に留め置かれる場所である。
 旧約の聖徒たちも、死後よみに行ったが(創世三七・三五)、キリストの昇天の時になって、キリストと共に天国に入った(エペ四・八)。そして、以後のクリスチャンたちは、死後よみではなく、直接天国に入っている。
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30日 新約・使徒一九章
 パウロが伝道したとき、多くの魔術師たちさえもが、信仰に入った。彼らは、自分たちの商売道具であった書物をみなの前に持ってきて、それらを全部焼き捨てた(一九)。
 また、ギリシャの女神アルテミスの信者たちの間にも、福音が広がっていった。
 「こうして主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなっていった」(二〇)。
 大教あらわれて、邪教すたる。ちょうど、太陽が現われて星が見えなくなるように、偉大な教えが現われれば、邪教邪説はすたれる。
 当時のギリシャは、今日の日本にたいへんよく似ていた。ギリシャ人は、日本人と同じく教育程度が高い。ギリシャには、至るところに学校があり、充実していた。
 またこの国は、今日の日本のように、多くの宗教や、新興宗教、哲学や、様々の思想が入り乱れていた。しかし、パウロが果敢に伝道すると、回心者が次々に起こされた。
 「日本は伝道の困難な国」と言う者はだれか。もし日本での伝道が困難なら、パウロの時代のギリシャは、もっとそうだった。いま日本に必要なのは、パウロのように果敢に伝道する人々である。
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31日 旧約・エゼキエル三二章
 これは、エジプト滅亡に関する哀歌である。
 エジプトは強大な国だから、滅びることはない、と多くのエジプト人が考えていた。周辺諸国もそう思っていた。しかし、そのエジプトも、バビロン帝国の力によって滅ぼされる。
 かつてエジプトの「パロ」(ファラオともいう)――エジプトの王は、誰に対しても恐怖を起こさせる力ある存在であった。しかし、そのパロも殺されるであろう。そして「地下の国」――よみの住人となる。
 よみでは、パロも他の凡人と同じく、あわれな状態にある。かつて彼が持っていた権勢も消え失せる。よみでは、パロも凡人と全く同じだ。
 すなわち、たとえ「生ける者の地」――地上の国で権勢を誇っても、死者の国である「よみ」に下れば、みな同じである。かつて日本で権勢を誇った豊臣秀吉も、徳川家康も、今はよみにいて凡人と同じ境遇にある。
 地上の権勢は、夢、幻、蜃気楼のようなものにすぎない。むなしく過ぎ去るだけのものである。
 しかし、神のみこころを行なう者のなした行為は、永遠に残るのである。
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