摂理 

摂理論2
終末世(キリスト教時代)〜現在まで


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終末世

 終末世とは、イエス・キリストの初来から、大患難迫害時代の前までである。
 聖書によると、イエス初来以後はすでに、「終わりのとき」あるいは「終わりの日」である。
 「キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終わりの時に至って、あなたがたのために現われたのである」(Tペテ一・二〇)
 イエス初来以後はすでに「終わりの時」であり、そこで本誌では、イエス初来以後の時代を「終末世」と呼んでいる。
 「終末世」は、次の六つの時代から成り立っている。
 (A)迫害時代
 (B)キリスト教王国形成時代
 (C)キリスト教王国時代
 (D)最暗黒時代
 (E)捕囚・災禍時代
 (F)最終末世準備時代
 読者は、図を参照しながら読み進んでいってほしい。
 (A)「迫害時代」から見てみよう。


(A)迫害時代

あらまし
 「迫害時代」は、終末世の最初の四百年間である。
 本誌では、紀元前四年のイエスのエジプト避難から、紀元三九二年のローマ帝国におけるキリスト教国教化の年まで、としている。この期間は、正確には三九六年間――およそ四〇〇年間におよぶ迫害の時代であった。
 紀元前四年に、イエスはお生まれになってすぐ、近隣の二歳以下の幼児とともに、悪名高いヘロデ大王に虐殺される危険にあった。それで両親ヨセフとマリヤに連れられて、南下し、エジプトへ避難された。
 この幼児虐殺事件は、キリスト教に対する最初の迫害事件であった。この事件をもって、キリスト教に対する「迫害時代」は始まった、と言ってよいであろう。
 イエスは三〇歳の頃に宣教を始め、約三年半にわたって福音を説かれた。その三年半に、イエスを信じる者たちは爆発的に増加していった。しかし一方では、そうした動きをねたみ、イエスに反対する者たちもいた。
 ついに彼らの手によって、イエスは十字架の刑に処せられた。しかしそれは同時に、神のくすしい預言の成就であって、また私たちの罪のための贖(あがな)いの御(み)わざでもあった。
 イエスは死後三日目に復活し、四〇日間地上で弟子たちを訓練し、そののち弟子たちの見ている中を昇天された。
 イエス昇天後一〇日目に、弟子たちは、神と救い主イエスから注がれた聖霊(神の霊)を受けた。弟子たちは、力と愛と聖潔(せいけつ)に満ち、大胆にキリストの福音を宣べ伝えていった。
 イエスを救い主として信じる人々は、爆発的に増加していった。しかし同時に、反対勢力による迫害も増していった。
 紀元六四年にローマ皇帝ネロは、自分でローマの都に火をつけ、それをクリスチャンたちのせいにして、キリスト教徒全体に迫害を加えた。
 ネロ以後、歴代のローマ皇帝は、クリスチャンたちに迫害を加えた。ローマ皇帝は民に「カイザルを主と告白する」ことを強要したのだが、クリスチャンたちはイエスのみを「主」と告白して、ローマ皇帝に対する礼拝を拒否したからである。
 九五年ローマ皇帝ドミティアヌスは、クリスチャンへの迫害を制度化した。また皇帝マルクス・アウレリウス(一六一〜一八〇年)は、ネロ以後最もひどい迫害を加え、そのやり方は残忍、野蛮さをきわめた。
 皇帝デキウス(二四九〜二五一年)は、キリスト教の絶滅を決意した。皇帝ヴァレリアヌス(二五三〜二六〇年)も、キリスト教の根絶を目指した。
 さらに皇帝ディオクレティアヌス(二八四〜三〇五年)も、キリスト教の名を地上から消し去ろうと、全土で組織的かつ残忍な迫害を行なった。
 しかしこうした激しい迫害にもかかわらず、四世紀にクリスチャンの数は、ローマ帝国の総人口の約半数にも達していた
 その後、皇帝コンスタンチヌスの時になって、大きな転機がおとずれた。このローマ皇帝は、劇的な回心を経験して、キリスト教に回宗したからである。
 コンスタンチヌスは三一三年に、「信教自由の勅令」を出した。彼は人々に、キリスト教や、他のいかなる宗教をも信じる自由を与えた。
 さらにその後、皇帝テオドシウスの時になって、キリスト教は「国教化」された。これは三九二年のことである。
 本誌では、このキリスト教国教化までの時代を、「迫害時代」と見ている。クリスチャンへの迫害は、実質的には「信教自由の勅令」によってほぼ終わったともいえるが、このキリスト教国教化の出来事は、次に続く「キリスト教王国形成時代」の始まる契機となったからである。
 これが、終末世「迫害時代」のあらましである。


"縦の対応関係"
 つぎに、この「迫害時代」における歴史の"縦の対応関係"を見てみよう。
 かつて父祖時代には、アブラハムの「不安な時期」があった。選民世にはイスラエル民族の「苦役(くえき)時代」があり、今見ている終末世には、キリスト者に対する「迫害時代」があった。
 「不安な時期」の期間は不明だが、「苦役時代」が約四〇〇年だったように、「迫害時代」も約四〇〇年間であった。
 アブラハムの「不安な時期」は、アブラハムの出エジプトをもって終わった。イスラエル民族の「苦役時代」は、モーセ指導下の出エジプトによって終わり、キリスト者への「迫害時代」は、キリスト教国教化という迫害からの脱出をもって終わった。
 また聖書によると、アブラハムの出エジプトの時、エジプトのパロ家(王家)に、災いが下った。
 「主(神)は、アブラム(アブラハム)の妻サライのことで、パロとその家に、災いを下された」(創世一二・一七)
 モーセによるイスラエル民族の出エジプトの際にも、エジプトに災いが下った。モーセはエジプトに「十の災い」を下し、イスラエル民族をエジプトから去らせるよう、パロ(王)に迫った。
 さらにキリスト教国教化のときには、キリスト教徒を苦しめたローマ帝国に、災いが下った。
 国教化の少し前、三七五年に、ゲルマン民族の大集団が帝国領に入ってきて、帝国は危機に立たされた。有名な「ゲルマン民族の大移動」である。
 三九五年になると、ローマ帝国は東西に分裂してしまった。西ローマ帝国と、東ローマ帝国とに分裂してしまったのである。
 そして四一〇年には、「永遠の都」と言われたローマ市が、東ゴート族によって略奪され、破壊された。
 これら一連の出来事について、当時のローマ人は、これはキリスト教に自由を与えたり、国教化したりしたからだ、と非難した。しかしアウグスチヌス(当時の偉大なクリスチャン)は、キリスト教を弁護して、これらローマへの災いは、ローマの罪に対する神のさばきである、とした。


(B)キリスト教 王国形成時代

 つぎに、時代は「キリスト教王国形成時代」に入る。この時代はキリスト教会が、しだいに国家権力と結びついていった時代である。
 その契機となったのが、キリスト教の「国教化」の出来事であった。しかしこれは同時に、その後のキリスト教会に、堕落と災厄をもたらす契機ともなった。
 「信教自由の勅令」は、キリスト教にとって最良の出来事だった。ところが「国教化」は、キリスト教にとって最悪の出来事となった。
 ローマ皇帝テオドシウスは、キリスト教を国教化することによって、強制的に国民をキリスト教徒とした。そのためキリスト教会は、新生経験のない人々で満たされた。
 そればかりか皇帝は、他のすべての宗教を禁止してしまい、その人々を迫害した。キリスト教は本来、人々を霊的・道徳的手段によって征服するものであるのに、国家が強制的にキリスト教を押しつけたのである。
 回心は、人々の自発的意思によらなければならない。しかし人々は、名目だけのクリスチャンになった。
 以後教会は、国家権力との結びつきを強くしていった。帝政ローマの権力志向が教会に入りこみ、教会の体質そのものが変わってしまった。
 「キリスト教王国形成時代」において、教会は組織や、制度をしだいに強化していった。「教皇」――すなわちローマ教会の長が、力をにぎるようになったのは、この時代からである。
 ローマ・カトリックの「教皇表」を見ると、最初の教皇は、キリストの使徒ペテロであるとされている。そして一世紀からの歴代教皇の名が記されている。
 しかしこれは作り事である。実際には、最初の五〇〇年間、ローマ教会の指導者は支配力は持っておらず、教皇ではなかった。五〇〇年頃になって、しだいに「教皇」(パパ、ポープ)の名がローマ教会の長に限定され始め、非常な力を持つようになった。
 教皇グレゴリウスT世(五九〇〜六〇四年)の時になると、実質的に強い権限が行使されるようになった。
 けれどもグレゴリウスT世は、私生活において非常に善良で、純潔な人物であった。彼は、圧迫されている者への公正な処置に、休みなく努力した。
 貧者への慈善にも、惜しむところがなかった。教会の清浄化のために倦(う)むことなく働き、怠慢な教会指導者や不適切な指導者を、その地位から退かせた。さらに聖職売買の行為を、熱烈に非難した。
 もし、その後のすべての教皇が彼のようであったなら、私たちの教皇制に対するイメージも、全く別のものになっていたに違いない。
 本誌では「キリスト教王国形成時代」を、フランク王国のピピンが教皇の支持を受けて王となった時(七五一年)まで、と考えている。
 そうするとこの期間は三五九年間であり、およそ四〇〇年間であったことになる。これは、選民世の「未統一時代」が約四〇〇年間だったことに対応するものである(上図参照)。


(C)キリスト教 王国時代

 七五一年にフランク族のピピンは、教皇ザカリアスの支持を受けて、フランク王国の王位についた。ここに初めて、教皇と世俗国家との提携が成立したのである。
 またピピンは王位についたあと、自分が征服したイタリアの大部分の領土を、教皇に与えた。これが「教皇領」、つまり教皇の"現世的領土"の始まりである。こうして教皇は、実質的に"地上の王"となった。
 ピピンのあとを継いでフランク王国の王となったチャールズ大帝(カール大帝、シャルルマーニュともいう)も、教皇との結びつきを、一層押し進めた。彼は教皇制を推し進め、教皇も彼を援助した。
 チャールズ大帝の時代に、フランク王国はヨーロッパの大部分を支配する、巨大な国となった。


フランク王国

 その領土は、現在のフランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ、チェコ、ハンガリー、スイス、オーストリア、イタリア、ユーゴなど、多くの地域に及んだ。これは、五世紀に滅びた西ローマ帝国の領土に匹敵する。
 チャールズ大帝は、イタリアの統治を教皇にゆだねた。一方教皇は、その返礼に「ローマ皇帝」の称号を、チャールズ大帝に与えた(八〇〇年)
 このようにフランク王国は、教皇との提携の上に立っていた国であって、実質的に「キリスト教王国」だったと言える。
 ここで歴史の"縦の対応関係"を見てみよう。かつてイスラエル統一王国は、政教(政治と宗教)一致の国であった。「族長アブラハムの盛期」も、政教一致の原始的形態だったと言える。
 そしてこのフランク王国の統治形態もまた、政教の協力関係の上に立ったものであり、私たちはここに"縦の対応関係"を見ることができる。
 またフランク王国という「キリスト教王国」において、王は
  ピピン→チャールズ大帝 →ルイ1世
 と三代交代した。かつてイスラエルの「統一王国時代」のときも、王は、
  サウル→ダビデ→ソロモン
 と三代だった。また「族長アブラハムの盛期」のときも、
  アブラハム→イサク→ヤコブ 
 と三代の人物を見ることができる。
 本誌では「キリスト教王国時代」は、フランク王国三代目の王ルイT世の死(八四三年)まで、と考えている。彼の死とともに、王国は分裂したからである。
 そうすると「キリスト教王国時代」は、九二年間――つまり約一〇〇年間であった。これは「族長アブラハムの盛期」の一〇〇年、またイスラエル「統一王国時代」の一〇〇年に、対応するものである。
 ここに述べられた教会史の事柄は、すべて高校の世界史の教科書にも載せられているような、一般的によく知られている事柄である。世界史をながめると、父祖時代や選民世におこった事柄に似た事柄が、終末世にも繰り返して起こっている事実を、私たちは見てとることができるわけである。


(D)最暗黒時代

悪に染まった教皇の座
 ルイ一世の死とともに、フランク王国は三つに分裂した。
 この分裂の年――八四三年から、一三〇九年の"教皇のバビロン捕囚"までの期間を、本誌では「最暗黒時代」または「東西教会決定的分裂時代」と呼んでいる。
 「最暗黒時代」と呼ぶのは、この時代ほど、宗教の名のもとに多くの腐敗した事柄が行なわれた時代はないからである。
 たとえば教皇ニコラウス一世(八五八〜八六七年)は、教皇の世界統治権を助成するために、「イシドルス教令集」と呼ばれる"偽書"を用いた。これは故意に、歴史的な古文書を偽造、あるいは改作したものである。
 それが偽書であることを、ニコラウス一世自身が知っていたかどうかは定かではない。しかしいずれにしても彼は、この書が古代から教会の記録保管所に保存されていたと、偽って発表したのである。
 この偽書は教皇制を不可侵(ふかしん)のものとし、その後の教皇制の腐敗ぶりを、決定的なものにした。
 ニコラウス一世以後、教皇の座は贈賄(ぞうわい)、不正、不道徳、殺戮(さつりく)などの悪に染まり、最暗黒の時代となった。
 教皇セルギウス三世(九〇四〜九一一年)には、マロツィアという情婦がいた。この情婦マロツィアは、のちにヨハネス一〇世(九一四〜九二八年)を殺害し、レオ六世(九二八〜九二九年)や、ステファヌス七世(九二九〜九三一年)を教皇の座にすえ、さらに自分の不義の子ヨハネス一一世(九三一〜九三六年)も教皇の座にすえた。
 また情婦マロツィアの孫にあたる教皇ヨハネス一二世(九五五〜九六三年)は、あらゆる罪を犯し、教皇宮廷を売淫(ばいいん)の宿とした。彼は自分が姦淫しているとき、相手の女性の夫の怒り狂った手によって、殺された。
 教皇ボニファティウス七世(九八四〜九八五年)は、盗んだ金を惜しみなく使い、前任者・ヨハネス一四世を殺害して、教皇の座を獲得した。ベネティクトゥス八世(一〇一二〜二四年)も、白昼堂々と賄賂(わいろ)を使って、教皇の座を買い取った。
 教皇ベネディクトゥス九世(一〇三三〜一〇四五年)は、ローマに勢力のあった家族との取引きによって、一二歳で教皇に任ぜられた。彼は罪悪においてヨハネス一二世に劣らず、巡礼者たちから盗み、白昼、殺人や姦淫を行なった。
 他の教皇たちも、ほとんど同じ道を歩んだ。
 この時代に教皇の座は、悪人たちによって奪われ、極度に汚された。キリストの敵が、公然と教皇の座にいすわっていたのである。
 これは教皇自身が堕落したというより、堕落した人間が、教皇の座を奪ったことから来ていた。当時のドイツ皇帝は、賄賂を最も多くささげる者たちに、すべての聖職を売っていたからである。


中世の教皇

 しかしこの暗黒の時代にも、真のクリスチャンは、とだえることなく存在していた。
 かつてイスラエルの「最暗黒時代」にも、「残りの民(レムナント)と呼ばれる、偶像に仕えず、まことの神を拝する人々がいた(T列王一九・一八)。同様にこの最暗黒時代にも、まことの神を拝し、聖書の教えを実行する人々がいた。
 たとえば当時、オルレアンのクリスチャン指導者は、教皇たちについて、
 「血と汚(けが)れに染まった悪の化身(けしん)、神の宮に座したキリストの敵」
 と非難した。またフランシスコ、ドミニクスなどの改革者が、民衆の間に彗星のごとく現われ、まことの聖書の教えを実行しようと努力し、闇夜に光を放った。
 そのほか修道院の人々の中にも、そうした人々が数多くあらわれた。
 教皇の中にも、悪と戦った人が現われた。教皇グレゴリウス七世(ヒルデブラント、一〇七三〜八五年)は、教皇の座に巣食っていた不道徳と聖職売買の悪に対して、力強い改革を実施した。
 いつの時代にも「残りの民」(レムナント)はいたのである。しかしこの時代は、やはり全体的に見れば、悪の力が勢力をふるっていた。
 私たち人類の始祖アダムとエバは、「善悪」を知った。この時代はそのうちの「悪」が、とくに強く現われた時代だったのである。


傲慢な教皇たち
 そのためグレゴリウス七世以後も、教皇の座から、悪が完全に消え去ったわけではなかった。
 教皇ウルバヌス二世(一〇八八〜九九年)は、十字軍運動の指導者となり、教会に戦争を持ち込んだ。アレキサンデル三世(一一五九〜八一年)は、ドイツ軍との間に何度も戦闘を重ね、無残な殺戮を行なった。
 インノケンティウス三世(一一九八〜一二一六年)は、権力を欲しいままにし、「教皇無謬(むびゅう)説」(教皇には間違いが一切ないという説)を唱えた。また、
 「天上、地上、また地獄の一切のものは教皇の臣下である」
 と豪語し、ラテン語以外で聖書を読むことを禁じて、庶民から聖書の教えを遠ざけた。
 彼は宗教裁判所を設置し、異端者の根絶を命じた。アルビ派の大殺害を命じたのも、彼である。
 異端者の密告の風習が広がり、人々は恐怖政治のもとに置かれた。この傲慢(ごうまん)な教皇のもとで、多くの血が流された。人々は彼を、野獣ネロが小羊の衣を着てよみがえったのかと、思ったほどであった。
 また教皇ボニファティウス八世(一二九四〜一三〇三年)は、
 「救われるためには、教皇に従わなければならない」
 と説く一方で、彼自身の生活はひどく堕落していた。そこでこの時代にローマを訪れたダンテ(『神曲』の作者)は、ヴァチカンを「悪徳の下水溝」と呼んだ。
 『神曲』の中でダンテは、ボニファティウス八世をニコラウス三世やクレメンス五世と共に、地獄の最下部に置いた。このように、この時代は約四〇〇年以上にわたって、最暗黒の時代が続いたのである。
 しかしこの期間が四六六年と半端なのは、この期間が神のご計画によるものではないことを示している。
 この時代はまた、単に「最暗黒時代」であっただけでなく、「東西教会決定的分裂時代」でもあった。
 八四三年にフランク王国が分裂した頃から、東西両教会も、対立を激化し始めていた。
 ついに東方教会(コンスタンチノープル)と西方教会(ローマ・カトリック)は、八六九年以来、別々の教会会議を持つようになった。
 分裂はさらに進んでいき、一〇五四年になると、両教会は名実ともに絶縁した。「最暗黒時代」は、東西教会の決定的な分裂時代ともなったのである。
 罪と対立は、同時進行するものであるようである。かつて父祖時代にも、「罪と対立の時期」があった。また選民世にも「最暗黒時代」があり、それは同時に「南北王国分裂時代」でもあった。
 同様に終末世における「最暗黒時代」は、同時に、「東西教会決定的分裂時代」でもあったのである。


(E)捕囚・災禍時代

 しかし、このような悪徳の栄えを、神がいつまでも放任しておかれるはずがない。
 一三〇九年になって、「教皇のバビロン捕囚」(アビニヨン捕囚)と呼ばれる出来事が置きた。教皇庁が、イタリアから南フランスのアビニヨンに移されたのである。教皇は、フランス王の支配下に置かれた。
 この出来事が「バビロン捕囚」と呼ばれるのは、かつてイスラエルのバビロン捕囚(の第一次捕囚から第一次帰還まで)七〇年だったように、この「教皇の捕囚」もほぼ七〇年間だったからである。そこで教皇がアビニヨンに移されたこの事件を、「教皇のバビロン捕囚」とも呼ぶのである。
 この出来事は、教皇の傲慢に対する一撃となった。かつてヤコブがハランに行かねばならなかったように、またイスラエル民族が自らの罪のためにバビロン捕囚にあったように、教皇もバビロン捕囚にあったのである。
 この出来事以降の約二〇〇年間を、本誌では「捕囚・災禍(さいか)時代」と呼んでいる。この時代は、カトリック主義と民の堕落に対する神の審判が、次々となされていった時代だからである。
 教皇のバビロン捕囚の後、いわゆる「教会分裂」(シスマ)がおきた。一三七八年から一四一七年にかけて、二組の教皇が存在し、互いに非難し合ったのである。
 教皇制のこの分裂はやがて終わりを告げたが、このために教皇制は、取り返しのつかないほど混乱した。教皇は威厳を失い、教皇制は没落した
 またこの時代のヨーロッパは、二つの恐ろしい脅威にさらされた
 ペストと、トルコ人である。この二つは、一四世紀中葉に突如として現われ、当時の大衆説教家によって、カトリック主義の堕落に対する神の裁きであると語られた。
 「黒死病」とも呼ばれる腺(せん)ペストは、まず一三四七年にヨーロッパをおそい、多くの死者を出した。歴史家デュラントは、こう述べている。
 「一四世紀には三二年間、一五世紀には四一年間、一六世紀には三〇年間にわたって、ペストはヨーロッパ大陸を荒らしまわっている」。
 「伝えられるところでは、ナルボンヌではこのペストで三万人の死者を出し、パリでは五万人が死に、ヨーロッパ全体では二五〇〇万人の死者が出たという。『文明社会の総人口の四分の一が、このペストで死滅した』と言われている」(デュラント『世界の歴史』より)
 まさにこれは、
 「多くの災害の中でも・・・・おそらく有史以来、もっともひどい被害をもたらしたと言ってよい」(同著)
 ものであった。


ペストはヨーロッパ世界を荒らし回った――
捕囚・災禍時代(ブリューゲル「死の勝利」)

 また、この時代のもう一つの脅威であったトルコ軍は、ヨーロッパ侵攻を進め、次々に町々を征服し、一四五三年にはコンスタンチノープルが陥落、一四八〇年にはイタリヤ半島にも上陸した。
 このようにペストとトルコ人は、ヨーロッパ社会に大きな災禍をもたらした。歴史家フィリップ・マクネアは、
 「一五世紀のヨーロッパは、一種の死に直面した社会ということができよう」
 と言っている。
 ここで再び、歴史の"縦の対応関係"に着目してみよう。
 かつて父祖時代において、「罪と対立の時期」におけるヤコブの行動に対する報いとして、続いて「ハランでの労役の時期」があった。また選民世においては、「最暗黒時代」におけるイスラエル民族の堕落に対する報いとして、続いて「捕囚・審判時代」があった。
 そして終末世においては、「最暗黒時代」における制度的教会の堕落に対する報いとして、続いてこの「捕囚・災禍時代」があったのである。
 また父祖時代の「ハランでの労役の時期」が二〇年、選民世の「捕囚・審判時代」が約二〇〇年であったように、終末世の「捕囚・災禍時代」も、やはり約二〇〇年間であった。これは神の審判の時代は、いつまでも続けられるものではなく、神によって定められた期間であることを、よく示している。

(F)最終末世準備時代

 一五一七年になって、ルターやカルヴァンらによる宗教改革がおきた。彼らは腐敗したカトリック主義に反対し、「聖書に帰れ」と叫んだ。
 かつてイスラエル民族は、第一次バビロン捕囚の約二〇〇年後に、宗教改革を行なった。同様に、「教皇のバビロン捕囚」の約二〇〇年後に、やはり宗教改革が起きたのである。
 一五一七年以前も、腐敗したカトリック主義を批判する改革者はいた。しかし一五一七年にマルチン・ルターが、ウィッテンベルクの城教会の扉に「九五か条の提題」をかかげた時から、宗教改革の炎は、全ヨーロッパ的な運動となって広がっていった。
 この宗教改革の流れをくんでいるのが、いわゆるキリスト教プロテスタント(新教)である。プロテスタント教会は、それ以前のローマ・カトリック教会から、分かれ出たものなのである。
 本誌も、このプロテスタントの流れをくんでいる。
 またこののち、ローマ・カトリック教会の中でも、自主改革運動が起きた。カトリック教会はこの自主改革運動を経て、今日に至っている。
 だから今日のカトリック教会は、中世のような教会とは、全く違っている。いずれにしても宗教改革以降、カトリック教会とプロテスタント教会は、キリスト教会内の二つの大きな流れとなった[もう一つ、東ローマ帝国のキリスト教の流れを汲む「オーソドックス」(正教)を加えて、これらをキリスト教の三大区分という]。
 宗教改革によって、人々の間に、生きた真の信仰が回復していった。本誌ではこの改革以後の時代を、「最終末世準備時代」と呼んでいる。
 最終末世準備時代は、最終末世の「大患難迫害時代」が始まる時までである。
 最終末世準備時代は、聖書の基本的な教えが回復し、さらに世界各地にリバイバル(信仰復興)の炎が広がっていく時代である。
 たとえば一八世紀には、ジョナサン・エドワーズ、ジョージ・ホィットフィールド、ジョン・ウェスレー、一九世紀にはチャールズ・フィニー、ドワイト・ムーディ、C.H.スポルジョン等のリバイバリストが現われ、また二〇世紀に入っても、次々と偉大な伝道者が現われている。
 こうして大衆の信仰は覚醒され、聖書の教えが広まっていっている。
 またこうしたリバイバルによって、キリストの愛に押し出されたクリスチャンたちは、全世界に伝道しようと、命がけで海外に出ていった。こうして「世界宣教」の時代が到来したのである。
 アジア、南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニア等、世界各地に福音が伝えられている。共産圏でもリバイバルがおき、イスラム教圏にも福音が浸透しつつある。
 いまや宣教師が全く入っていない地域は、ほとんどないであろう。最後の共産主義大国・中国にいるクリスチャンの数は、五〇〇〇万人以上にのぼる、との報告が入ってきている(ほとんどは政府公認の教会には属さない、いわゆる「家の教会」のクリスチャンたち)
 アフリカや、南米、東欧諸国、ソ連、東南アジアなどで、クリスチャンの数が急速に増加している。アルゼンチンでは、毎日決心者が八〇〇〇名あるという。
 二〇世紀になって、全世界の総人口に対するクリスチャンの数の比率は、増大しつつある。聖書の翻訳も、今では世界中の二〇〇〇以上の言語(全訳、部分訳を含め)に訳されている。
 また、人々の福音理解も整えられつつある。
 かつて一六世紀のルターやカルヴァンらの宗教改革では、キリスト教の根本教理である「義認」や「新生」の福音が回復した。一八世紀のジョン・ウェスレーらのリバイバルでは、「聖潔」(聖化)の福音が回復した。
 さらに二〇世紀に入って、「神癒(しんゆ)」や、「祝福」(マタ六・三三)、「再臨」(キリスト再来)の福音が回復してきている。こうして全き福音が回復し、今や教会全体に、聖霊(神の霊)の新しい動きも見られるようになっている。
 これらすべてのことは、主イエス・キリストの次の言葉が成就するためなのである。
 「御国(みくに)の福音は、全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりが来ます(マタ二四・一四)
 すなわち「最終末世準備時代」におけるリバイバルや、世界宣教、また全き福音の回復は、本誌の次号で述べる「最終末世」の到来を、準備するものにほかならないのである。

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