第一講・問題




1
次の文章ABを読んで、後ろの問いに答えよ。
A
 ある国の人々の生活や考え方を隅々まで支配している、その国の文化というものは、
そこに生まれ育った人々にとっては、空気の存在と同じく、元来自覚されにくいもので
ある。人々にとって、自分の国のすべてのことは、当り前であり、それ以外の在り方、
やり方などは、ある筈もないと思って大部分の人は一生を過すのである。
 もちろん今日のように、テレビ、新聞などの情報手段が発達し、外国旅行をする人も
増え、町中で外人を見かけることも珍しくなくなった時代では、一般の人といえども、
国が違えば風俗習慣が違い、人々の行動も異っている程度のことは知っている。
 しかし普通の人が気付く、いわゆる文化の相違とは、比較的目につきやすい、具体的
な現象に限られることが多いのである。一部の学者が、あらわな文化(overt culture)
と呼ぶ、文化の側面がこれである。
 食事の場合を再び例にとれば、日本では箸を使うが、欧米ではスプーン、ナイフとフ
ォークを用いるといったことがこれに当る。また日本人は生雲丹(うに)やなまこを賞
味するが、向うで、血のソーセージやひつじの脳味噌を出されたりすると閉口する。そ
してお互いに、外国人はよくもあんなものが食べられると思ったりするのも、あらわな
文化の項目の違いに関係している。
 この顕在的な文化に対して、目に見えにくい、それだけに、仲々気が付かない文化の
側面のことを、かくれた文化(covert culture )と呼ぶ。食器の例で言えば、現在で
は日本人も、スプーンやフォークなど、かなり使いなれて、殊に若い人などは、箸より
も上手に使うくらいである。
 ところが良く観察すると、西洋人と使い方が微妙に違うのである。たとえば日本人は、
スプーンでスープを飲むとき、スプーンを顔と平行になるような角度で、口に持って行
く。そこで必然的にスプーンの横に口をつけて飲む形になる。しかも吸い込むようにし
て、液体を口に入れる。「吸い物」の伝統が残るのである。
 ところが西洋人は、どちらかと言えば、スプーンを顔と直角になるように近づけ、ス
プーンの先端から飲む。そのとき、吸うのでなく流し込むようにするため、スプーンの
先が、口の中に相当入り込むことになる。
 そのほか、姿勢が違うとか、皿と口の距離の違いとか、細かにそのつもりで観察する
と、まだまだ相違はある。
 このように、文化の項目としては全く同一のスプーンを使いながら、日本人と西洋人
との間には、ちょっと人が気付かない構造的なちがいが見られる。文化というものは、
このような、当の本人が自覚していない、無数の細かい習慣の形式から成立しているよ
うなものであって、この、かくれた部分に気付くことこそ、異文化理解の鍵であり、ま
た外国語を学習することの重要な意義の一つはここにあると言えよう。
 近頃、学校で英語やフランス語を何年も勉強しても、一向に使い物にならないという
批難をよくきくが、本当は、実際の生活場面を離れ、しかも日本人の先生が相手で、会
話が上手になったり、手紙が巧く書ける筈もないし、またその必要もないのである。
 それよりも、ことばというものが、世界をいかに違った角度、方法で切りとるものか
というような問題を、学生が理解するようになることの方が、遥かに意義があり、しか
もどこでも、誰にでもできることなのである。ただ残念なことに、外国語の実際の教授
の場で、今迄はこの点が意外に省みられていなかったにすぎない。

B
 外国のことばを理解する場合に、自国の文化や言語の持つ、かくれた構造がいかに邪
魔をするものかを説明しよう。日本の学校で、折にふれて学ぶ英語の諺の中に、It never
 rains but it pours.というのがある。私はつい数年前まで、この諺の意味は、「不幸
は重なるもの」とか、「災難は一時に続いて起るもの」といったことで、ちょうど日本
の「泣き面に蜂」や「ふんだりけったり」に当るものだと思い込んでいた。何故かと言
えば、日本で出ている英和辞典の、どれを見ても同工異曲の説明がついているからだ。
 ところが、ふとしたことで、私はHarrapのStandard English and French Dictionary
という、普段あまり利用していない英仏辞典で、この諺はフランス語ではなんというの
かを調べてみた。すると驚いたことに、次のような説明があるではないか。〔rainの項〕。
  un malheur, un bonheur,ne vient jamais seul;jamais deux sans trois;quand 
    on recoit une visite,une lettre ,on en recoit dix.
    <不幸や幸運は、決して単独ではやって来ないものだ。二度あることは三度。お客
    が一人来たり、手紙が一通来ると、どっと十人(十通)も来るものだ。>
 私はその時まで、日本の多くの辞書のおかげで、この諺は、悪いことの連続にしか使
えないと思っていたのに、「幸運」でもかまわないというのだから、肝をつぶした。
 そこで、あわてて、英国のオックスフォード系の辞典を引いて見たが、再びここでも
ショックを受けたのである。
 どれも「特に不幸が」とは書いてあるが、喜ばしいことや、幸運の連続を、はっきり
と排除しているわけではない。オックスフォード系の辞典と言えば、世界の辞典の王者
格であり、とりわけOEDは、英語の研究者にとっては、英語に関する知識の最終的な
よりどころとされているものである。
 日本の歴代の辞典製作者たちが、オックスフォード系の辞典のどれをも参照しなかっ
たとは考えられない。
 すっかり度を失った私は、それではと、もう一つ定評のある英国の辞典 Universal
 English Dictionaryを調べてみた。
  things,events,never happen or come singly but always in numbers together.
    〔rainの項〕
 ここでは、不幸と幸運の区別さえ、つけておらず、ただ単に「ものごと、出来事」と
一般的に述べてあるだけだ。
 この話は前に或る語学教育の研究所の機関誌に書いたものだが、今度再び調べてみて、
さらに面白いことを発見した。それは、Concise Oxford Dictionary だけが、同じ諺を
pourの項のみならず、rainの項でも出しており、しかも説明が少し違うのである(三版
四版とも)。
  COD:events usu.happen several together.
 つまりオックスフォード系の辞典の中に、すでに、幸不幸を全く区別しない解釈も出
ていたわけである。
 さてこうして見ると、It never rains but it pours.は「不幸は重なる」「泣き面に
蜂」式の諺ではなく、日本語の「二度あることは三度」が一番ぴったりする。つまり英
語の
Never twice without three times.と同じ意味なのである。
 この諺を、日本の辞典のすべてが、偏って解釈してしまった原因は、はたして何であ
ろう。日本における初期の英和辞典製作者の誰かが、早のみこみをして、この諺の意味
を取り違えたのを、代々の辞典編纂者たちが、鵜呑みにして現在に至っているのだとい
う意地悪い解釈も可能かも知れない。
 しかし、どこかで、誰か一人でも、自分で英国の辞典に直接当っていれば、この誤り
に気付く筈である。これが全く無かったとは考えにくい。
 私はむしろ、雨、ことにどしゃぶりということばに対する、日本人が持っている潜在
的な受け取り方が、この諺の解釈を、好ましくない方に限定させたのではないかと思っ
ている。日本語には、「旱天の慈雨」のような雨を歓迎する表現もあるが、しかし「雨
に降られる」、まして「どしゃ降りに会う」というイメージは、一般に暗くていやなも
のである。雨に降られることに対する日本人の否定的な評価が、この不思議な誤解を生
み出したと考えることはできないだろうか。
                    (鈴木孝夫「ことばと文化」による)

問題
 文章A、Bを参考にして、われわれがどのような姿勢で外国語を学ぶことが望ましい
かを考え、800字以内で述べよ。ただし、文章Aの「あらわな文化」と「かくれた文
化」の違いに配慮すること。


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