第二講・問題





次の文章を読んで、後ろの問いに答えよ。

 いろんな人の「生いたちの記」に、「子どものころ、からだが弱かった」というのが
よく出てくる。実際にまわりにもいたし、ぼく自身もたぶん、そうだった。戦争中で、
「からだの強い、よい少国民」でなければならない時代だったので、かなり迫害されも
した。
 しかし、そのころには、社会的迫害はあっても、内面的には「からだの弱い子」でお
れたような気がする。すくなくともぼくの場合は、社会的には「軟弱な非国民少年」と
されたにせよ、「不健康な少年」の生活を送るのに、それほどの不便はなかった。朝礼
のときは目がくらんでぶっ倒れるだけでよかったし、遠足の翌日は熱を出して寝ている
だけですんだ。
 そのころに比べると、このごろは社会的迫害はないはずなのだが、「不健康な少年」
として生きにくくなっているのではないだろうか。ひょっとすると、戦争中の「不健康
な少年」が、少数派の特権として、差別されながらも認められていたのが、いまでは多
数になって「社会化」しているのかもしれない。あるいは、「差別」はあってはいけな
いので、みんな「健康」であるべきなのだろうか。なんだかぼくには、「障害を持った
弱者」が問題にされるとともに、「健康」であることへの強迫が強まっているような気
さえする。
 ぼくには、人間の身体のあり方とか、生き方とかについては、できるだけ幅がひろい
ほうが、よいような気がする。人類全体の生存としても安全だろうし、人間文化として
もゆたかだろう。「標準」的な模範に単一化するのは、危険なことじゃないだろうか。
 たしかにぼくの子どものころだって、「健康な子ども」のイメージはあったらしく、
ぼくのように、遠足の弁当をほとんど残したり、夜は寝つきがひどく悪かったりするの
は、まさしく「弱い子」のイメージにぴったりだった。しかし、そうした「弱い子」の
イメージというのは、「不健康な子ども」のあり方のほうが、存在を主張できたことと
も言える。
 たぶん、おとなの世界のほうも、幅が狭くなっているのだろう。「健康」を求めるこ
とが、ほとんどビョーキのように、はびこってきている。高齢化がすすめばなおさら、
「健康」が気にされる、というのも奇妙な現象に思える。
 ほんとのところ、「健康」という概念が、ぼくにはあまり理解できていない。やせす
ぎず、ふとりすぎずとか、血圧は高からず、低からずとか、からだ中のあらゆる機能が、
すべてにわたって「正常」であるというのが、ひどく奇妙な気がするのだ。どちらかの
方向に逸脱しても、その形で生きていて、なぜ悪いのだろう。
 それに、「正常」というものが、「異常」を持たぬことでしか、定義できないような
気がする。これが、自分にはなにかの「異常」があるのではないかと、つねに気にかけ
ずにおれない、健康強迫症の構造ではないか。
 この構造は、みごとに「いじめの構造」と相同的である。集団のなかで、みんなが「
正常」であらねばならぬ。それは、「異常」を探して、「異常」を排除することで、達
成される。
 それゆえに、みんなが「正常なよい仲間」になろうとしたって、いじめは解決されない。
仲間のなかで「異常」であることが許される状態だけが、いじめの問題を解決する。「
いじめられっ子」としての、ぼく自身の体験からしても、みんなの仲間に入って「正常」
になろうとしたら、かえっていじめられるものだ。「異常」な地位を確保する以外に、
いじめられないようにする方法はなかった。それでぼくは、「みんな、なかよく」とい
うのは、いじめの解決どころか、いじめの原因になっているのではないかと考えている。
「みんな」のように「正常」でなくってもよい、そう思っているほうが安全である。「
いじめっ子」のほうだって、一種の正常強迫症が、彼をいじめに駆りたてているような
気がする。
 おとな社会のほうでも、「健康な家庭」などを、だれもが求めすぎるように思う。そ
してその一部として、「健康な子ども」を育てようとする。いじめ問題の原因とまでは
言わぬが、子どもに「健康」を強制しすぎるのにぼくは懐疑的である。
 ぼくの子どものころは、家ごとに、もっと病人がいたような気がする。薄暗い部屋に
腰の弱ったおばあさんが寝ていたり、そして、「からだの弱い子」がいたりした。胸を
病んで、青白い顔をしているお姉さんには、なんとなく憧れたものだ。
 実際に病気をすると、本人は苦しかったり、まわりは経済的にたいへんだったりする
のだが、小説のなかでは、病人のいる風景といったものが、いくらか好ましくえがかれ
ている。このことは、だれもが「健康」であるばかりでなく、病人のいる風景のほうが、
人間のよいあり方であることを意味しないだろうか。だれもが病人にならないようにす
ることより、病人であっても、その風景のなかで、あまり苦しまずに生きられるという
のが、人間の風景と思うのだ。
 まして、病気というほどでもない、疲れやすいとか、しばらく立っていると貧血する
とか、そうした「不健康」の程度が、なぜいけないのだろう。ぼく自身は、子どものこ
ろから、それに加えて、食事や睡眠がひどく不規則であって、これもまた、「不健康」
なことであった。いまだに、昼になったから食事をしなければならぬとか、夜になった
から寝なければならぬとか、そうした強迫がまったくない。ところが、これもまた一種
の強味であって、ぼくは「不健康な生活」にひどく適応性がある。「健康」な人は、ど
うやら、ぼくのように「不健康」なことができないらしい。
 たとえば、子どものころから、「子どもは元気で乗り物のなかでは立っていろ」とい
うのが、どうにもだめだった。今でも、帰りのバスが混みそうだと、ゆっくりとお茶な
ど飲んで、すくのを待つことがある。バス停のいすに腰かけてでも、すいたのが来るま
で、まあこうした原稿のことなど考えながら、小一時間も待てばたいてい座れる。これ
も、たぶん「健康」ではないだろう。でも、そうした「不健康」な人もいるのが、町の
風景ではないか。
 たしかに、世間の人がみな「不健康」だと、この社会がまわらないかもしれない。社
会を動かしているのが、「健康」な人たちだというのも、ある程度は正しいかもしれな
い。しかしながら、この社会というものが、「不健康」をも包みこむことで、よく生き
てるのも事実である。社会が「健康」な人ばかりになったら、それは社会がやせている
ことでもある。
 だからぼくは、「子どもは元気に、健康で」などと、強制すべきではないと思う。「
不健康」なら、それなりに生きていけばよい。
 そして、学校のなかでも、あるいは町かどでも、いくらか不健康な子どもも見うけら
れる風景のほうを、好ましく思うのだ。
                       (森毅『はみ出し数学のすすめ』より)


【問題】
 課題文の内容をふまえ、現在の学校教育の問題点について具体例を挙げて述べよ。
(800字以内)ただし次の言葉を必ず一回以上使うこと。

平均化 個性 管理 多様性


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