倭京

−やまとのみやこ−

難波長柄豊碕宮から飛鳥河辺行宮に還った中大兄皇子(天智天皇)は、白村江の戦いに敗れ、667年、大津京(近江)に遷都した。このあと、壬申の乱に勝利した大海人皇子(天武天皇)は、672年、飛鳥浄御原宮に凱旋した。

飛鳥浄御原宮、飛鳥板蓋宮、飛鳥岡本宮、飛鳥小墾田宮、・・・。藤原京、平城京の古代貴族は、飛鳥をふるさととなつかしみ倭京とよんだ。

明日香宮より藤原宮に遷居りし後、志貴皇子の御歌

采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く

(万葉集;巻1−51)
飛鳥の春の額田王

天武・持統両天皇を合葬した檜前大内陵は、藤原京の南正面、つまり京中央大路(朱雀大路)のほぼ真南への延長線上に位置する。また、その北にある菖蒲池古墳や、同じく南にある中尾山古墳・文武天皇陵などもほぼ同じ線上に位置するという注目すべき事実も明らかになった(岸俊男氏)。直木孝次郎氏は、この岸氏の説をうけて、高松塚古墳も、この「聖なる線」の上にあり、その被葬者は、天武・持統天皇の近親者ではないかと考える(梅原猛著「黄泉の王−私見・高松塚−」)。

橿原考古学研究所の河上邦彦氏は、さらに一歩すすめて天武陵を東北隅とする「聖なるゾーン」ととらえ「天武陵園」を提唱している。

弓削皇子、吉野に遊しし時の御歌一首

瀧の上の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに

(万葉集;巻3−242)
高松塚古墳 西壁女子像 東壁男子像