天武天皇は、律令国家の建設をめざし藤原京への遷都を考えていたらしいが、志なかばで、686年に没する。天武天皇のあとをついだ持統天皇は、694年、都を藤原京に遷した。藤原京は、耳成・畝傍・香具の三山にとり囲まれ、浄御原宮の西北方に拡大された地域を占めるので、新たに益された京(新益京)とよばれた。唐の長安城をモデルにしたと考えられており、それまでの都の規模をはるかに凌ぐ、最初の中国風の都城であった。
710年の平城京遷都までのわずか16年間(持統・文武・元明三代)の宮都であったが、大宝律令完成(701年)、遣唐使再開(702年)、和銅開珎鋳造(708年)など、藤原京は、律令国家の完成を象徴する都であった。