新益京

−あらましのみやこ−

天武天皇は、律令国家の建設をめざし藤原京への遷都を考えていたらしいが、志なかばで、686年に没する。天武天皇のあとをついだ持統天皇は、694年、都を藤原京に遷した。藤原京は、耳成・畝傍・香具の三山にとり囲まれ、浄御原宮の西北方に拡大された地域を占めるので、新たに益された京(新益京)とよばれた。唐の長安城をモデルにしたと考えられており、それまでの都の規模をはるかに凌ぐ、最初の中国風の都城であった。

壬申の年の乱の平定しぬる以後の歌二首

大君は神にし座せば赤駒の匍匐ふ田井を都となしつ

(万葉集;巻19−4260)

大君は神にし座せば水鳥の多集く水沼を都となしつ

(万葉集;巻19−4261)

710年の平城京遷都までのわずか16年間(持統・文武・元明三代)の宮都であったが、大宝律令完成(701年)、遣唐使再開(702年)、和銅開珎鋳造(708年)など、藤原京は、律令国家の完成を象徴する都であった。

大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時
大来皇女の哀しび傷む御作歌

うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世とわが見む

(万葉集;巻2−165)
藤原京跡出土の瓦

和銅三年庚戌の春二月、藤原宮より寧楽宮に遷りましし時に、
御輿を長屋の原に停めて迥かに古郷を望みて作る歌

飛鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ

(万葉集;巻1−78)
藤原京創都1300年記念