同じように、今住んでいるこの地域にはどんな人々が住んでいただろう、どんな事に楽しみを
見いだし、どんな事に悩んだんだろうか、と考えたことはありませんか?
多くの方が同じように考えていることから、民話の記録のない所はない程です。
民話は代々の伝聞であり、また多くの庶民が日々見聞したことを自分達の言葉で伝えているものですから、
真実または真実に近い内容と思われ、また理解しやすいものになっています。
ここ多摩にも数多くの民話が残っています。次回から色々ご紹介できればと思っています。
皆さんの所のものと比べられたら如何ですか。似た話があったらどう考えたらいいんだろう、
とか想像が拡がること請け合いです。乞う、ご期待。
つまり「民話」とは作り事ではない、民衆の中から生まれる話であり、地方、地域、市、町、村に昔から伝わっているものです。 それらの話が長老、古老への探訪、採取を通じて明らかになったものですから、これからの話は、以下の文献の中から、興味深いものを紹介する方法でしたいと思います。
とんとんむかし、今日は嵯峨野の山寺に、学問の大好きな若い法師がすんでおった。法師は、たくさんの書物を、次々に読み修めていったそうじゃ。
ところが、いつの頃からか、法師が、一巻の書を読み修めると、法師の背丈が、ぐぐっと一尺伸びていった。そして、ついに、一万巻を修めたとき、法師は、一万尺もの大男になってしまった。
「万巻の書を修め、万丈の大男に」なったものである。
しかもなお、書物をはなさなかったので、さらに、大きく大きくなっていった。人びとは、この、雲をつく大男を、「でいだらぼっち、大太良法師」とよんだ。
さて・・・・・。
ある年のこと、都の宰相が、御殿の楼上から、今日の都を見わたして、
「いま、都は栄えて、まことにめでたい。天子さまは、おすこやかだし、御所も立派。御殿も、都大路も、家々も、神社仏閣も、みな立派。人々もゆたかに暮らし、山も美しく、水も清らか。春は花吹雪・・・・・、夏は緑の風・・・・・、秋は月の姿・・・・・、冬は雪化粧・・・・・。天和み、地和み、人和み、都には、欠けたるものはない。」
と、つぶやいた。すると、陰より老翁の声がして、いいきった。
「たしかに、都はいま、なに不足ない。しかし、あえて求めれば、日本一美しいという、富士の山が見られぬのが、唯一残念 ―。」
「ならば、富士の山とは、いずこに?」
「それならば、大太良法師に、たずねられるがよろしかろう。」
宰相は、さっそく、法師を、嵯峨野から呼び寄せて問いただした。
「なんじ、学問をつみ、大太良の法師となりしとか、ならば、知らぬことはあるまい。」
「はい、日本中のことならば、どのようなことも、知りつくしたつもりですが・・・・・。」
「では、日本一に美しいという、富士の山というのは、いずこにありや。」
「はい、富士の山は、蝦夷の地にございます。」
宰相は、大いによろこぶと、
「日本一、美しい富士の山を、都から眺められるようにしたい。大太良の法師ならば、蝦夷の地から、富士の山を運んでこられよう。すぐに担いでまいれ。」
と、きびしくいいつけた。
法師は、宰相の命令の、きびしさには驚いたが、自分の学問を、たしかめたくも思い、はるばると蝦夷の地に出かけた。
たしかに・・・・・、富士の山は、蝦夷の地の渡島というところにあって、美しい姿をしていた。
法師が、富士の山を持ち上げようとして、手をかけると、
「わしは、都などへは、いきたくない。」
と、富士の山が身ぶるいした。それでも、法師は、宰相からのきびしい命令なので、
「エーイ! ヤーッ!」
と、満身の力をこめて、富士の山を引っこぬいた。
そのあとが、ポッカリと、まるくぬけて、内浦の湾になったということじゃ。
法師が、富士の山を担ぐと、
「いきたくなーい、いきたくなーい。」
と、富士の山がぐずるので、法師は、桧山の蔦かずらを、何百本何千本と縒り合わせて帯にし、富士の山をおぶった。
富士の山を、なだめなだめ、帰り道を来たが、それでも、でっかい山が、ぐずるので三度、四度、足を踏みすべらせ、
"ずぼっ ずぼっこ"と、踏んごんでしまったということじゃ。
十和田、田沢、猪苗代、中禅寺などの湖は、そんとき、法師が、踏んごんだ足のあとだといわれておる。
さすがに、大男の法師も、帰り道の半ばに来て、疲れはててしまった。
「この辺りで、ひと休み。」
と、武蔵の国の、多摩の横山に腰をおろした。
多摩の横山は、蝦夷の地と京の都との、ちょうど、道半ばじゃった。
ひと休みしてから、法師は、
「さて・・・・・と。」
といって、立ちあがった。
そのとたん ─。
おぶった富士の山の重さが、いっぺんにかかって、"プッン!"と、帯にした縄が切れてしまった。
「あっ!」
富士の山は、ごろごろごろっと、ころげていき、甲斐の国と駿河の国の、国ざかいの窪に、うまく、どんとすわった。
「おおっ、ここは、すわりごごちがよい。もう、これ以上は動かんぞ。」>BR>
富士の山は、がんとして、動かなくなってしまったそうじゃ。
「京の都へは、もう道半ばじゃから、どうぞ、どうぞ、きげんをなおして、行っておくれ。」
法師は、ことばを尽くして富士の山にたのんでは、手をかけて、五度も持ちあげようとした。けれども、全く、だめだったということじゃった。
富士の五つの湖は、そのとき、法師が、力をこめて踏んだ、踏ん張ったあとに、できたもんだそうじゃ。
さて・・・・・。
切れた縄じゃが・・・・・、長い、ながい歳月に、土に覆われて山となった。
これが、山入川に沿って、東の方へ続いておる、多摩郡山入村の縄切山、なきれの山じゃ。
縄切山は、いまも、そこだけきれて、山が分かれておる。
ところで・・・・・。大太良法師は、どうなったか・・・・・。
富士の山を、担いでいかなければ、都には帰られず・・・・・。
富士の山は、「もう動かんぞ。」と、がんばっておるし・・・・・。
しかたなく、富士の山が、動いてくれる気になるまでと、かたわらに、気ながに居住まったということじゃ。
富士の山の、ごきげんをとりながら、横になって、居住まって、居住まって、とうとう山になってしまった。
それが、伊豆の山ということじゃ。
でっかい話は、これで、へい しまい。
”やぼてん”由来記
『俗語辞典』をひらいてみると、「やぼ」という項に、
―やぼとは、世情に通じないもの、武骨、不粋、粗俗下品なるものを言う。 と書いてある。それから、『広辞苑』(第二版)には、もっと具体的に、
―やぼてん(野暮天)谷保天神の神像から出た語という。きわめて野暮なこと。 また、その人。やぼすけ。 云々と解説されていて、ここでは、あろうことか、谷保天神の名が例々しくとりあげられているのである。
では、どうして、谷保天神が、天下の大辞典にまで採録されて、武骨、不粋、やぼすけ、などと言われる”やぼてん”の代名詞になったのか。
昔、江戸の目白で、谷保天満宮のお開帳(神体公開)が行われたことがある。 多摩の一寒村であった谷保の天神さまが、何ゆえに目白くんだりまで行って、お開帳などすることになったのか。これには、わけがあった。
当時の神社の経営は、氏子の寄進を主としていたので、らくではなかった。お賽銭にしたところで、わずかなものであった。ことに、飢饉の年などは、ひどかった。
そこで、宮司と氏子総代が鳩首して決めたのが、ご神体を江戸のさかり場に持っていって、御開帳をし、賽銭を集めて神社経営の足しにしよう、ということだった。これを、出開帳という。
時は、秋の十月で、神無月に当たっていた。天満宮の本殿から、一時御神体を持ち出したところで、神霊は出雲大社に行っていてぬけがらみたいなものだから、罰も当たるまい、というわけだ。
江戸のさかり場、目白のさる神社を借りて御開帳をしたところ、物見高い江戸の町民が大勢集まってきて、お賽銭もたんまり上るし、このくわだては、いちおう成功したかにみえた。 ところが、そこへ通りかかった人が、まずかった。狂歌師として有名な、蜀山人こと大田南畝先生だ。彼は、このお開帳を眼にすると、にやりと笑って矢立をとり出し、即座に、得意の狂歌を一首ものにした。
―上谷保村(註・当時この村は、上と下の二つに分れていた)に天神あり。祭 礼八月二十五日なり。それは谷保天神と言える像にして、神体はなはだ稚拙な り。故に、やぼてんと言える俗語も、これによりて起るという。 もう、こうなると、やぼてん語源の元凶は谷保天神なり、と断定されたようなものである。さしずめ、谷保天神の氏子なら、おらが鎮守さまだけよりによって、なぜにやぼてんの生みの親にしなければならないのか、と開きなおりたくなるところだろう。
だが、ここでいちゃもんなどつけてしまっては、それこそ、そういうお前さんたちこそ”やぼすけ”だ、と言われかねない。そこで関係者は、これは、しゃれだよ、ユーモアだよ、とものわかりの良い顔をみせて、じっと堪えに堪えたという次第。
それはそれとして、菅原道真という人が、当代まれなる博学達識の士であって、やぼてんどころか、学問の神として、いま世の教育ママたちからスター扱いされていることは、周知のとおりである。おまけに、なかなかの美男だったらしいことは、現存する野暮天満宮御神体の顔容が立証している。
大正末期のこと、民謡詩人野口雨情が小唄を作るために府中の町へやってきた。そして、まず真っ先に取り上げたのが、六所明神こと大国魂神社の闇祭りであった。俗に「くらやみまつり」と呼ばれていて、関東の奇祭として名高く、歳事記にも見えているほどの祭典だ。
大化の改新のあと、日本各地に国府がおかれ、初めて、この国の神社行政が確立した。府中大国魂神社は、当地に国府がおかれた関係で、武蔵一郡一郷の守護のために創設されたものだという。
造営されたのは寛文七年(1667)というから、それほど古い昔ではない。後西天皇、徳川四代将軍家綱治世の時代だ。大国魂神社は、はじめは「武蔵総社六所宮」と称し、祭神は加夫呂伎熊野大神 - 櫛気野命(素戔嗚尊 - すさのおのみこと)と大穴持命を主柱として、ほかに数基の神々を総合奉斎してある。大国魂神社と称するようになったのは、明治十八年のことである。このとき、官幣小社に昇格している。
それまでは、一般的に「六社さま」あるいは、「六所明神」と呼ばれていた。六所(社)とは、関東大地に点在していた一の宮から六の宮までの六つの社が、大国魂大神、御霊宮、国内諸神(総社)を中心に、一棟三扉の社殿に奉祀されたことからそうとなえられるようになったのである。
京王線府中駅の南方、甲州街道(国道20号線)に沿った南側の平地に鎮座する神社がそれである。
くらやみまつりとは、数基の神輿の渡御が真夜中のくらやみの中で行われるところから名づけられたものだ。五日の夜、十二時を迎えると、五月闇の夜空にこだまして数発の花火が打ち上げられる。これを合図に、本殿前に整列した神輿が、氏子若衆によって、一の宮から順にかつぎ出される。かつぎ手の主流は烏帽子白丁の神丁姿だが、これに、シャツ、猿股、あるいは半裸に六尺ふんどし姿の若者が加わり、わっしょいわっしょいのかけ声も勇ましく、境内から町の中にくり出していく。神輿は、最後には本社西方にある仮屋の「お旅所」に渡御して落ちつくのだが、これがまた容易にお旅所まで到着しない。かつぎ手がそうさせないのだ。このとき、全町いっせいに灯火が消されて、境内は申すまでもなく、町一帯が黒暗々のまっくら闇となる。たまたま家々から灯りが洩れていたりすると、投石されたり酒に酔った無頼の若者にどなりこまれたりするので、商店も民家も、境内に店を張っている数百の縁日商人も、掛け小屋の見世物も、すべて灯火を消してしまう。この暗闇は六日の暁け方までつづく。灯りといえば、神輿渡御をとりまく氏子講中の者が手に手に持っている高張提灯と細提灯の灯だけだ。それが、神輿のもみ合いを中に、絢爛豪華な火の渦となって移動していく。神輿と神輿の間には大太鼓がはさまり、これが、腕自慢の若者たちによって力の限り打ちな らされるので、神輿かつぎの喧噪と相混って、もう耳を聾するばかりである。
この祭りには、喧嘩がつきものだ。なにしろ、近郷近在から神輿講中の若者たちが集まってきて、それが祭り酒に酔っているので、ささいのことから争いが起こる。また、神輿と神輿をぶつかり合わせて、ものすごい修羅場を現出する。そのために、毎年多数のけが人が出て、時には何人かの死者さえ出したことがある。一名けんかまつりといわれるゆえんだ。もう一つ、出会いまつりという異名がある。祭りの夜のくらやみを利用して、若い男女が恋を語り合うからだ。それも、前からしめし合わせて・・・・・ということよりも、その場だけの行き当たりばったり、始めてどうしの安直なカップルが意気投合して、神社の裏や近くの杜の中へ入っていって二人だけのおまつりをする。
戦前、この地方は特に養蚕がさかんだった。ちょうど、くらやみまつり前後に春蚕の掃き立てが行われるが、農家では、娘が府中の闇祭へ行ってどこかの男と性のおまつりをしてくると、やれやれ、おらが娘も前(繭)が当たった、と言ってその親たちまで喜んだものだという。そういう意味で、性の祭典でもあり、なかば公認された自由恋愛の場でもあった。
この奇祭も、太平洋戦争を境いにその様相を一変してしまった。祭礼の夜全町いっせいに灯火を消す、となると、そこにさまざまの弊害が生じることは当然である。封建時代ならいざ知らず、民主主義社会を迎えた現代では、たとえ神社の祭典にしても、このような、一種の無警察状態など許されるはずがない。しかも、都心まで電車で四十分というところなのだ。その筋からの達しもあり、関係者協議の末、深夜の消灯を廃し、神輿の渡御は昼間にすることと改められて、府中大国魂神社の闇祭りは昔語りとなったのである。
だが、府中の六社祭は闇まつりなればこそ奇祭ともいえるし、その特異性もあったわけで、真っ昼間神輿が町を練り歩いたところで、よその祭礼と大差はなく、何の変哲もない。かってのくらやみまつりを知る者にとっては、気の抜けたビールに似た感なくもない、というのが年輩者たちのいつわらぬ心情のようである。
(「武蔵野の民話と伝説」より)
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1.あきる野市:石器時代遺跡
・住居跡の石畳しか残っていないが、多摩川の中流まで海進があった頃のこと、
・このすぐ下まで海が来ていたらしい。
・網代、引田、油平、雨間など古代語と関わりのある地名が近くにある。
・こらは偶然ではなく、まさに遺跡である。
2.あきる野市:大塚古墳
1.八王子郷土資料館
2.府中郷土の森博物館
3.五日市郷土館