INFORMATION whatYAYOI CONCERT HISTORY MEMBER FORUM LINK MEMBER ONLY 練習予定


弥生室内管弦楽団第28回演奏会
伊福部 昭:シンフォニア・タプカーラ

27th

 伊福部昭氏は1914年北海道生まれ、少年時代を北海道の寒村で過こしました。特別な音楽教育を受けたわけではなかったのですが、やがてギター、ヴァイオリン、ピアノといった楽器をたしなむようになります。旧制札幌二中時代には、札幌の音楽喫茶でストラヴィンスキーやファリャなど当時最先端の音楽を新譜の輸入盤で聴き漁ったりしています。そして北海道帝国大学農学部林学科へと進んだのですが、北大では学生オケのコンサートマスターを務めます。卒業後は林務官として厚岸で勤務するかたわら、作曲活動を行うようになりました。そこで書かれた「日本狂詩曲」とか「土俗的三連画」といった作品が、ロシア人作曲家のチェレプニンの目に留まるところとなり、国際的に紹介されて注目を集めます。それはまだ戦前のこと。これらの作品は、日本の民謡はもちろんのこと、子供の頃から聴き親しんだアイヌの民謡もふんだんに採り入れ、土着の血が騒ぐような作風を持っていますが、さすが最先端の音楽を聴いていただけあってオーケストラの使い方は非常に近代的です。
 しかしながら、国内ではその「土俗性」みたいなものが忌み嫌われたためか、あまり評価されませんでした。当時の日本の楽界は、日本の民謡などには見向きもせず、西洋音楽を吸収することに一生懸命の時代で、ドイツ系「正統派」のべートーヴェンやモーツァルトの音楽が主流、新しくてもせいぜいブラームスどまりで、ストラヴィンスキーなどを受け入れるまでには至っていませんでした。そこへ、最先端の作曲技法を独学で身に付けた辺境地出身の作曲家が、土俗的な民族性丸出しの作品で世界に打って出たわけです。バイエルやツェルニーでお行儀良くレッスンをしているところに、ねじり鉢巻で乱入してチャンチキ踊りをするようなものです。これが、日本の「正統派」の音楽家達にとって面白いはずがありません。ちなみに、伊福部氏を見出したチェレプニンは「民族的なことは世界的なことである」という信念を持っていたそうですから、国際的な評価は正反対だったわけです。ところが、戦後になって東京音楽学校(今の藝大)の人事が一掃され、それまでの「正統派」に代わって、国際的な実績のある伊福部氏に作曲科講師として声がかかることになります。そして、その門下からは芥川也寸志や黛敏郎(ともに故人)をはじめ、戦後の日本を代表する作曲家を何人も輩出することになり、日本の作曲界の大きな流れの一つを作ることになったのです。しかし、東京音楽学校が東京藝術大学になり、カリキュラムも変わると、大人数のレッスンでは十分な講義ができないとして昭和28年に藝大を辞職し、作曲に専念するようになります。
 「シンフォニア・タプカーラ」は、そのような時期に作曲された極めて密度の濃い作品です。戦前には制約の多かったオーケストラの編成も、ここでは3管編成に拡張され、多彩な音に支えられて作曲者の作風がより強力に貫かれます。この作品と同じ頃、伊福部氏は怪獣映画「ゴジラ」の音楽も担当していますが、ヘヴィーな作風は共通しています。タイトルの「タプカーラ」とは、アイヌ語で「立って踊る」というような意味あるいはその踊り自体を指すようで、タイトル通りアイヌの音楽を色濃く反映させた作品ですが、音楽公用語のイタリア語で細かい指示が書き込まれた譜面は国際規格です。伊福部氏の札幌二中時代からの親友で音楽評論家の三浦淳史氏(故人)に対して献呈され、初演は1955年フェビアン・セヴィツキーの指揮で米国インディアナポリス交響楽団により行われましたが、日本初演はそれより25年も経った1980年、芥川也寸志指揮の新交響楽団によってです。日本初演の際には改訂が加えられ、それが現在の版となっています。

・・・・・・・



Return