当流の稽古の目指すところ
石舟斎宗厳師の『柳生家憲』は、当流の稽古における重要なガイドラインの一つです。
この柳生家憲の中に"昨日の我に今日は勝つべし"という一節があり、広く知られていると思います。
この一節は「一文(いちもん)は無文(むもん)の師、他流勝つべきに非ず。」という文章に続いて出てきます。これは前後の文脈も含めて意訳すると、"何かを知っている人は、何も知らない人には先生となる。だから、他流を打ち負かして勝つ事を目指すのではなく、自流に捉われずに他流の教えも研究して、真の剣の神髄を追求することを目指せ"、となるでしょう。
上泉流祖により「諸流・諸家の兵法をきわめ、特に(愛洲)移香斎から伝えられた陰流を本原(もと)として、その中から別に極意を抽き出して、新たに一流を編み出して」(厳長師『正傳新陰流』より)創始された当流は、時代に従い進化させてきた諸師範の方々によって、この剣の神髄を追求する方針によって、確立・発展してきたと言えます。私たちが当流を稽古して目指すのは、当流の稽古により当流の神髄を追求し、当流の神髄の追求を通して、剣の神髄の追求をすることと考えています。
"昨日の我に今日は勝つべし"とは、稽古は自分のペースで行えば良い、という意味に解釈されることが多い気がしますが、そうではなく、"一時の試合の勝ち、他流に勝つという低い目標ではなく、剣の神髄を目指す絶対的な高い目標を目指せ"という意味と言えるでしょう。
延春先生には、「自分を目標にするな。流祖を超えることを目指せ」、「一番を目指さない者は、二番にさえなれない」、と言われていました。
前出の「三摩之位」は、この高みを目指す稽古のやり方を示していると言えます。
また、よく耳にする「守破離」の語源と言われる千利休 百首のうちの「規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな」も、本質的に意味するところは「三摩之位」と共通と言えるでしょう。「三摩之位」は稽古のやり方のサイクルを示していますが、千利休の一首は、守り尽くし-破る-離るの稽古のサイクルの先の目指すところを常に意識せよという、上達すると慢心して忘れがちな稽古における重要なポイントを示していると考えます。
なお、"昨日の我に今日は勝つべし"の個所の全文は、「きのふの我に今日は勝つ可しと分別し、上手奇妙は、稽古鍛錬工夫成ると、古人師伝にも申しつたへらるる事なれば、刀にて腰をふさげたらん者、一世の間の意思、所存、其の身の覚悟を分別の仁、懇望執心においては、相伝ある可し。努々、表太刀以下を稽古無く、他流の是非を嘲弄し、仕相好き、慢心の人へは、家法相伝有る可からざる也。」(『正伝新陰流』より)となっています。
"ひたすら謙虚に稽古することによって上達しようとし、その覚悟を持って教えを請いに来て稽古している人に新陰流を伝えよ"という意味でしょう。
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