《柳生新陰流兵法の沿革》
戦国末期(約500年前)、上州の住人、上泉伊勢守藤原秀網は刀、槍の術にすぐれ、若くして諸流に達し、特に愛洲日向守移香斉について陰流の奥旨を究め、その中から「転」(まろばし)という道を工夫発明して、新陰流を創始した。
その後、永禄8年、流祖上泉師は大和の住人、柳生石舟斎宗厳に印可相伝をなし、これを正統第二世とした。石舟斎宗厳師はさらに研鑚を重ね、「無刀の位」を開悟して、流祖の教えを深めた。
石舟斎宗厳師は嫡孫兵庫助利厳の偉才を愛し、膝下に置いて、千鍛万錬流儀の玄妙の悉くを伝えた。
慶長10年、石舟斎宗厳師は利厳に印可を授け、これを正統第三世とした。
利厳師は元和元年に尾張藩主 徳川義直公の知遇を得て、その兵法師範となり、名古屋に移住した。
利厳師及び、その子連也厳包は太平の時代を迎え、流祖上泉師、石舟斎宗厳師以来の教えを発展、展開して、時勢に適応したより自由な「直立たる身」(つったったるみ)の位を主体とした兵法を確立して新陰流を大成した。
元和6年、利厳師は、義直公が一流の玄妙を了したるを喜び、道統を伝えて第四世とした。
義直公は、その後、連也厳包に正統を譲り、連也厳包師は尾張藩主第二代 徳川光友公に相伝した。
このように新陰流兵法の道統は尾張柳生家の代々と尾張藩主徳川家の兵法堪能なる方々によって伝えられて近代に至っている。
第十九世柳生厳周師範は大正2年、明治天皇の当流保存の御聖旨により、宮内省済寧館に出仕。
第二十世柳生厳長師範は近衛供奉将校団師範に任ぜられた。
戦後、昭和30年、柳生会を設立し、故石田和外先生(元全日本剣道連盟会長)、柏村信雄先生(元審察庁長官)を世話人として、東京月例会講道を始めた。昭和42年、第二十一世柳生延春厳道師範がこれを受け継ぎ、当流の純正なる弘流と護持に一身を挺してきた。平成18年に第二十二世柳生耕一厳信師範が道統を継承し現在に至っている。


